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トイトブルクの森でゲルマン人について探る④ リッぺ州立博物館

ヘルマン記念碑を見に行って、「ゲルマン人」という概念が、かつて民族アイデンティティとして祭り上げられたことはよくわかった。しかし、私が知りたいのは「他民族の支配に屈しない、強靭なゲルマン人」などという概念ではなく、実際にゲルマン民族がどのような文化的特徴を持っていたかということ。それがさっぱりわからない。そこで、デトモルト中心部にあるリッぺ州立博物館へ行ってみることにした。トイトブルクの森を含むリッぺ地方に関する総合博物館で、郷土博物館と考古学博物館の要素を併せ持っている。 リッぺ地方の先史時代から中世初期まで幅広く扱っている。展示されている出土品のうち、「ゲルマン人」のものとされるものはわずかだが、文章によるパネルがたくさんあって、「ゲルマン人の大移動」や「ゲルマン人と古代ローマとの衝突」「考古学調査からわかったゲルマン人の生活文化」などについて説明されている。 ゲルマン人の集落は、通常、数軒の散在する農家から成り、敷地には住居の他に倉庫や掘立て小屋などがあった。人々は原始的な農耕(エンマーコムギ、ライ麦、オート麦、キビ、アマなどの栽培)を営んでいたが、肥料が乏しかったため、土地がすぐに痩せてしまい、定期的に移住する必要があった。 収穫した作物は、貯蔵穴に空気を通して保管したり、陶器の容器に入れて倉庫に保管していた。主食は穀物のお粥で、パンを焼くのは特別なときだけ。家畜は飼っていたが、主に乳や毛を取るためで、食生活における動物性食品の割合は低かったとのこと。ゲルマン人には焚き火で肉を焼いて食べているイメージがあったけれど、どうやら勝手な想像だったようだ。 人々の服装には時代ごとに流行があり、多様で色鮮やかな服を身につけていた、とある。ほとんどの衣類は羊毛と亜麻から作られた。 埋葬についても記述があった。リッぺ地方ではすでに紀元前1200〜700年の青銅器時代には遺体は火葬されていた。居住地の近くに集団墓地が作られた。埋葬法には壷に入れて土に埋める、皮袋に入れて埋める、灰を墓穴に直接入れるなど、時代によっていろいろな形式があったようだ。 伝説「トイトブルクの森の戦い」が語るように、紀元1〜4世紀、この地方では古代ローマとゲルマン人が衝突を繰り返していた。使っていた陶器のかたちから、ドイツのゲルマン人は大きく「エルベ・ゲルマン集団」、「北海・ヴェーザー・ゲルマン集団」「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に分けられる。トイトブルクの森の戦いでローマ軍を打ち破ったアルミニウス(ヘルマン)はケルスカ族の族長だったが、ケルスカ族は「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に属していた。 ローマとの接触によって、政治的、軍事的、経済的にさまざまな影響を受けたものの、リッペ地方のゲルマン人は生活様式や伝統は概ね保持し続けたとのこと。 ゲルマン人が生活に使っていた陶器はシンプルで、大部分はろくろを使わず手で形成したものだったので、表面は粗く、指の跡がついているものも多い。ローマ人との接触が多くなるにつれ、ローマの陶器の影響が見られるようになった。 展示室にはゲルマン人のものよりもローマの出土品の方が多い。ゲルマン人の生活はシンプルで、豪華な埋葬品などは少なく、布や木などの有機物は残っていないから、ローマのものほど展示するものがないらしい。また、文字を持たない口頭文化だったので、文書による記録はローマ側からの記述に限られる。ローマはライン川以東に住む全ての部族を一括りにゲルマン人と呼んでいたけれど、実際には地域ごとに文化は異なっていた。さらに、北西ドイツにはゲルマン系だけでなくケルト系の民族も住んでいて、両者はモザイク状に分布していた。なので、「これがゲルマン文化です」とはっきり言い切るのは難しいようだ。   リッぺ博物館には、トイトブルクの森の戦いに関する展示もある。 ローマ帝国の歴史家タキトゥスは著作『ゲルマニア』や『年代記』でこの戦いについて記述していたが、中世にはこの英雄の物語はほとんど忘れ去られていた。ルネサンス期に再発見されて、ドイツ人の「自分たちはゲルマン人の末裔である」というアイデンティティを形成することになる。 さらに時が経ち、フランス宮廷文化が模範とされ、小国の乱立するドイツは文化的に遅れているとみなされていた17〜18世紀。オレたちドイツ人の国を作ろう!というナショナリズムが高まる中で、ヘルマン(アルミニウス)は統一国家の希望の象徴とみなされるようになった。そうして、トイトブルクの森の戦いを題材とする芸術作品が次々と生まれた。 デトモルトのヘルマン記念碑は、このような盛り上がりの中で作られた。この「ドイツの偉大なる父ヘルマン」信仰はドイツ国内にとどまらなかった。米国に移住したドイツ人の間でも温め続けられ、結成された市民団体「Sons…
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トイトブルクの森でゲルマン人について探る③ ヘルマン記念碑

前の記事に書いたように、エアリンクハウゼンの野外考古学博物館は考古学的にとても興味深かったが、ゲルマン人についての私のイメージは、相変わらずもやっとしている。何か別の手がかりはないものか。 デトモルト(Detmolt)にあるヘルマン記念碑(Hermannsdenkmal)を見に行くことにした。ヘルマン記念碑とは、紀元9年に「トイトブルクの戦い」でローマ軍を打ち破ったとされるゲルマンの英雄ヘルマン(本名のラテン名アルミニウスをドイツ化した名前)を讃えてつくられた記念碑である。こちらの過去記事に書いた通り、「トイトブルクの戦い」の現場は実はトイトブルクの森ではなく、オスナブリュック近郊だったことが明らかになっているが、かつてはヘルマンが勝利したのはデトモルトらへんだと思われていたのである。 記念碑はデトモルトの南西にあるグローテンブルクの丘の上に立つ。 デトモルトに宿泊し、あさイチでグローテンブルクへ。駐車場から森の中を歩いて丘を上ると、すぐに記念碑が見えて来る。 19世紀初頭、フランス革命によってヨーロッパ中に広まった「国民国家」「人民主権」という概念がドイツでも芽生え始めていた。それまでのドイツは、神聖ローマ帝国という括りはあっても、実情は小国の集まりで、共通意識は薄かった。しかし、ナポレオンが支配域を広げ、ドイツの小国を次々に制圧すると、屈辱を味わった民衆の間で「ドイツ人として団結すべきだ」という気持ちがメラメラと燃え上がり、ドイツ統一の気運が高まった。そうしたナショナリズムの勃興の中で、かつてローマ軍を打ち破ったとされるケルスキ族(Cherusker)のリーダー、ヘルマンが、ゲルマン民族の解放と統一のシンボルとして崇められていた。 ヘルマンの記念碑を建てようぜ!と言い出したのは、ドイツ民族の統一と自由の象徴を作りたいという強い理想に燃えていた彫刻家、エルンスト・フォン・バンデル(Ernst…
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トイトブルクの森でゲルマン人について探る② エアリンクハウゼン考古学野外博物館

トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅。最初に向かったのは、エアリンクハウゼンにある考古学野外博物館(Aechäologisches Freilichtmuseum Oerlinghausen)だ。ノルトライン=ヴェストファーレン州最大の自然保護区の縁に位置するこの野外博物館では、考古学調査に基づいて、旧石器時代から中世初期までの人々の暮らしが時代ごとに再現されている。 博物館の全体はこんな感じ。順路に沿って見て歩いて、小一時間といったところ。 最初に目にするのは、旧石器時代の住まい。最終氷期の紀元前1万5500年…
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トイトブルクの森でゲルマン人について探る①

私が現在住んでいるドイツ東部には、かつてスラブ系の人々が住んでいたため、スラブ民族に関する史跡や博物館がいくつもある。スラブ民族とはどのような民族なのかに興味があり、これまでにそうしたスポットを訪れて来た。 直近では、メクレンブルク=フォアポンメルン州にあるスラブ人の集落を再現した考古学博物館へ行った。 https://chikatravel.com/2025/04/11/gros-raden/ 展示は、とても興味深かったが、同時に新しい問いが生まれた。「スラブ人がどのような自然観を持っていたのか、どのような暮らしをしていたのかはなんとなくわかった。では、ゲルマン人はどうだったのだろう?」 ドイツの国名が英語で「Germany」であるように、ゲルマン人はドイツ人のルーツだとごく一般的には思われている。いや、実際には、ドイツ人の祖先はゲルマン人だけではなく、ケルト人や古代ローマ人、スラブ人など、異なる民族が混じり合ったモザイク集団だった。だから、ドイツ人=ゲルマン人は誤りで、ゲルマン人はドイツ人のルーツの一つでしかない。 そもそも、「ゲルマン人」という言葉は、紀元前1世紀、古代ローマ人がライン川の東に住んでいた部族をまとめて「ゲルマニ」と呼んだのが始まりで、呼ばれた方は自分たちを「ゲルマン人」だと思っていたわけではなかった。無数の部族が、それぞれの文化習慣に従い、生活を営んでいた。「ゲルマン人」というのは他者によるラベルに過ぎない。 とはいえ、現代ドイツ人の多くが、もとを辿ればゲルマン系の言語を話すいずれかの部族にルーツを持つことは事実だろう。しかし、私はゲルマン人についてほとんど何も知らない。「森に住んで、体が大きく、戦闘的な人たちだった」「古代ローマ人からは野蛮な人間だとみなされていた」というくらいのあまりに大雑把すぎるイメージしか持っていない。スラブ人とその文化については積極的に知ろうとするのに、そのスラブ人の多くが吸収されていったゲルマン文化について無知なのは、バランス的におかしい気がする。それに、スラブ人の文化の特徴は、ゲルマン人のそれと比較することで輪郭がよりハッキリするのではないだろうか。 そう思って、「よし!それじゃ今度はゲルマン人を知る旅に出よう!」と思い立ったのだ。 ところが、、、、ことはそう簡単ではなかった。 リサーチ段階でまず躓いた。なかなか見つからないのだ、ゲルマン人の文化を紹介する博物館が。かつて古代ローマの植民地であったケルン市には「ローマ・ゲルマン博物館(Römisches-Germanisches-Museum)」があり、何度か行ったことがあるが、そこで展示されているのは主にローマ時代の発掘物で、「ゲルマン民族とは?」「ゲルマン人の文化とは?」を伝える博物館ではない。では、どこへ行ったらキリスト教化される以前のゲルマン人の宗教や儀式、暮らしなどについて知ることができるのだろう? そこで思い出したのが、カルクリーゼ(Kalkrise)にある、考古学博物館である。 https://chikatravel.com/2020/09/26/varusschlacht/ カルクリーゼは、ゲルマン部族が一致団結してローマ軍を倒した戦いの現場であることが、考古学調査の結果、わかっている。戦いの詳細については上の記事に書いているので、ここでは繰り返さないが、この戦いはかつて「トイトブルクの森の戦い」と呼ばれていた。トイトブルクの森とは、ドイツ北西部、ノルトライン=ヴェストファーレン州レーネ(Löhne)付近からニーダーザクセン州のホルツミンデン(Holzminden)のあたりまで広がる丘陵地帯だ。戦いの現場は、トイトブルクの森のどこかだと長らく考えられていたのだ。その中心地、デトモルト(Detmold)…
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庭で野鳥の営巣観察2025 喜びと悲しみと (注意:ショッキングな映像が含まれます)

すっかり春の恒例となった、庭の巣箱での野鳥の営巣観察、シーズンがほぼ終わったようなので、まとめておこう。 今年は3つの巣箱のうち、一つでシジュウカラが、もう一つ…

ドイツの運河探検 その5 ドルトムント・エムス運河 〜 ヘンリーヒェンブルク船舶昇降機

ドイツの運河探検はひとまずこれが最終回。今回取り上げるのは1899年に完成したドルトムント・エムス運河。ルール地方のドルトムント港を起点とするこの運河は、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の造船都市パーペンブルクを通過し、エムス川と合流して北海へと流れ込む。ドイツの工業化を支えて来た超重要インフラの一つである。 この運河建設は、ドイツ帝国初の国家による大運河プロジェクトであった。19世紀末、ルール地方の石炭・鉄鋼産業が急拡大し、鉄道輸送だけでは追いつかないほどの物流量になったため、重工業地帯ドルトムントと輸出入拠点である北海の港を水路で直接つなぐ大計画がスタートした。 ドルトムント・エムス運河における見どころは、なんといってもドルトムント郊外のヴァルトロプ(Waltrop)にある船舶昇降機、Schiffshebewerk…