夜行フェリーでパレルモ港から出発することにしたので、あと丸一日ある。シチリア島の西海岸、トラパニ(Trapani)からマルサラ(Marsala)にかけて広がる天日塩田を見てから帰ることにした。西シチリアの沿岸部には3000年に渡る採塩の伝統がある。交易の民フェニキア人がシチリアに入植した時代から、塩は「白い金」と呼ばれて珍重されていた。近代以降の都市化に伴う環境破壊や1965年にこの地方を襲った大洪水によって塩田が被害を受けたことなどにより採算が取れなくなり、今では大規模な採塩産業は廃れてしまったが、塩沼は自然保護区に指定されていて、小規模ながら伝統的な塩づくりが続いているという。保護区の一つ、 Naturreservats Salinen von Trapani und Pacecoにある塩博物館(Museo del sale)に立ち寄ってみることにした。
公園内には考古学博物館もあって見るべきものが盛り沢山なのだが、今回のシチリア島・エオリエ諸島旅行はこの時点ですでに3週間近くに及んでいたので、すでにかなりの情報過多でとてもじゃないが処理しきれない。もうちょっとよく地中海の歴史を勉強してから出直した方が良さそうだ。それにしても、シチリアの歴史的・文化的コンテンツの驚くべき豊かさよ。もっと知りたいけど、沼にはまりそうでちょっと怖い。そんなことを考えながら神殿の谷を散策した後はレアルモンテ(Realmonte)海岸の白い崖、スカーラ・デイ・トゥルキ(Scala dei Turchi)の見える宿に泊まった。
石切場の奥には「ディオニシオスの耳(Orecchio di Dioniso)」と呼ばれる、これまた巨大な石窟がある。高さ23メートル、奥行きは65メートル。中は真っ暗で湾曲している。この洞窟の中ではほんの小さな音でも増幅されて大きく聞こえる。古代ギリシアの植民都市であったシラクーザの僭主ディオニシオスは疑り深い性格で、捕虜たちのヒソヒソ話を聴くためにこの洞窟に彼らを閉じ込めたという言い伝えがあるらしい。洞窟のかたちもまるで耳のようだから、「ディオニシオスの耳」とは上手い呼び名をつけたものだなと思う。
次に向かったのはパンタリカの岩壁墓地遺跡(Necropoli di Pantalica)。パンタリカはカターニアの南のイブレイ山地に位置する。アナポ川やカルチナラ川が刻む渓谷の間にある台地である。そのパンタリカには大規模な古代墓地遺跡(ネクロポリス)があるという。リーパリ島で見たギリシア・ローマ時代のネクロポリスもとても興味深かったが、パンタリカの古代墓地はさらに古く、岩壁に紀元前13世紀から紀元前7世紀まで使われたと考えられる墓穴がなんと5000以上も残っているという。それは是非とも見に行きたい。
最寄りのビーチは上の地図の緑アイコンのSpiaggia Valle Muriaというビーチである。「坂を降りればビーチ」と管理人はこともなげに言ったが、そんなに楽な話ではなかった。坂道というか、崖のようなところを15分くらい降りると海岸に着く。行きはまだいいけれど、帰りはその崖をまたよじ登って来なければならないのだ。ちょっとひと泳ぎするだけでやたらと疲れる。これがハードモードなエオリエ諸島滞在の始まりであった。
ドイツから4日かけてシチリア島へやって来た。カラブリア州のメッシーナ海峡をフェリーで渡るのだが、ヴィラ・サンジョヴァンニ(Villa San Giovanni)から対岸のメッシーナ(Messina)は目と鼻の先で、20分ほどで着く。陽光にきらめく青い海の向こうに雄大なエトナ火山のそびえるシチリア島が近づくのを船上から眺めるのが楽しみだ。
自宅からオーストリアを抜けてイタリア本島を南下し、カラブリア州ヴィラ・サンジョヴァンニ(Villa San Giovanni)の港から車ごとフェリーでシチリア島のメッシーナ(Messina)に渡り、帰りはパレルモ(Palermo)から夜行フェリーでナポリ(Napoli)へ移動、そこから北上して帰って来た。シチリアへ到着してからの移動ルートは以下のマップの通りである。エオリエ諸島のリパリ島へも車ごとフェリーで渡り、その他の島へは小型ボートで移動した。
特に紹介したかったのはプラッテンバウの聖地ともいえるベルリン北東部のマルツァーン地区の巨大団地だが、それらしい写真を撮るのにちょっと苦労した。というのは、地上から撮影したのではなかなかその規模の大きさを伝えられない。そこで、マルツァーン地区にある園芸博覧会跡地の広大な公園、”Gärten der Welt“の上を走るケーブルカーに乗り、その中から団地の景色を撮影することにした。ところが、乗ってみたらケーブルカーのガラスは黒っぽい遮光ガラスでガックリ。あ〜、これじゃまともな写真撮れないよ〜。しかし、乗った以上は引き返すこともできない。仕方なくそのまま乗っていたら頂上駅の横に大きな展望台があるのに気づいた。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その13 ガストアルバイターの故郷、トラッペト村の50年後
3週間に及ぶシチリア島とエオリエ諸島の旅を終えて帰路につく前に、最後に寄りたかった場所がある。それはトラパニとパレルモの真ん中あたりにある小さな海辺の村、トラッぺト(Trappeto)村。観光地として知られている場所ではない。人口3000人ほどの小さな自治体だ。なぜ、そんな村に寄りたかったのかというと、50年前に夫が両親とともに一夏を過ごした場所だから。
夫の両親は東ドイツ出身で、ベルリンの壁ができる少し前に西ドイツへ逃亡した。着の身着のまま東ドイツを脱出したため、最初のうちは経済的に大変苦労したそうだ。金属加工職人としてのスキルを持っていた義父は、やがて刃物生産で有名なゾーリンゲン市の刃物工場に職を得、安定した生活ができるようになったが、東ドイツに残った親や兄弟に西側の物資をせっせと送る日々が続き、経済的に余裕があるとは言えない状態だった。高度成長期にあった西ドイツでは海外で休暇を過ごすことが一般的になりつつあり、太陽を求めて遠くスペインやイタリア、ギリシアまで出かけて行く人が増える中、義両親はどこへも出かけたことがなかった。
義父の勤めていた工場にはシチリア島から出稼ぎに来ている男性たちがおり、義父はその一人、サルヴァトーレという名の男性と特に親しくしていた。ある日、「あーあ、自分もイタリアやスペインに休暇に行きたいもんだよ」と義父が呟くと、サルヴァトーレ氏が「だったらシチリア島へ行ったらいい。僕の家を使っていいよ」と気前よくシチリア島のトラッぺト村にある自宅の鍵を貸してくれたのである。そこで、義父は取れるだけの休暇をまとめて取り、妻と当時5歳の息子を連れてシチリアへ出発した。まだ自家用車を持っていなかった頃のこと、ゾーリンゲンから電車やバスに揺られて行ったという。
トラッぺト村は貧しい漁村だったが、村の人たちは義両親と夫を「サルヴァトーレのドイツでの同僚一家」として大変歓待してくれたという。3人はサルヴァトーレ氏の家でのんびりとした、とても楽しい夏を過ごしたらしい。義母によると夫も村の子どもたちと毎日遊び回っていたそうだ。
質素ではあったけれど、太陽と青い海を満喫した6週間。素晴らしい思い出だと義両親は今でもとても懐かしがっている。夫は50年前のその夏のことをほとんど何も覚えていないが、両親と旅行に出かけたのはそのたった一度のシチリア休暇だけなので、シチリア島は夫にとって特別な存在であるらしかった。だから、今回、シチリア島へせっかく来たのなら、是非ともトラッペト村を見てみたいと思ったのである。
トラッペト村の小さな港。着いたのがお昼過ぎでシエスタの時間だったからか、村は静まりかえっていた。
夫は感慨深げな表情であたりの景色を眺めている。「少し思い出した気がする、、、」
50年前に夫が両親とともにこの海で遊んだ後しばらくして、サルヴァトーレ氏は結婚し、ゾーリンゲンを離れた。義両親もまた引っ越したのでそのまま疎遠になってしまい、現在、サルヴァトーレ氏がどこで何をしているのかはわからないそうだ。もしかしたら、この小さな村のどこかに今、サルヴァトーレ氏がいるのかもしれない。探してみようか?と夫に言ってみた。今はサルヴァトーレ氏も高齢になっている。「自分のことを忘れてはいないかもしれないが、お互いに顔もわからないからなあ」と夫は首を横に振った。
港にレストランがあった。近づくと何やら看板のようなものがかかっている。その文字を読んでびっくり!

「ゾーリンゲン市トラッペト地区」と書いてあるのだ。これは一体どういうことだ?この黄色い看板はドイツの地名標識にそっくりである。でも、なぜゾーリンゲンの標識がシチリア島に?それに、トラッペトはもちろんゾーリンゲン市の一地区などではない。
気になって調べたところ、興味深いことがわかった。西ドイツは第二次世界大戦後、「ガストアルバイター(ゲスト労働者)」という名で外国から多数の出稼ぎ労働者を受け入れたが、その初期はイタリアからの移住者が多かった。トラッペト村は最初にガストアルバイターを送り出した村の一つで、男性たちは集団でゾーリンゲン市に渡っていたのだった。
現在、当時のドイツのガストアルバイター政策はその後、社会問題を生み出したと否定的に語られることが多い。その是非についてここで論じるつもりはないが、良いことばかりでなかったことは想像できる。しかし、「トラッペト村からのガストアルバイター達は真面目な働き者で、職場での関係は良好だった」と義父は常々言っていて、個人レベルでは義父とサルヴァトーレ氏の間のような心温まる交流もあったのだ。そして、この黄色い地名標識がそれから50年経った今もここに置かれているということは、トラッペト村の元ガストアルバイターにとってもゾーリンゲンでの日々はきっと悪い思い出ではないのだろうと思わされ、関係ない私もなんだかちょっと嬉しかった。
夫が義両親に「今、トラッペト村にいるよ」と電話したら、義母が「村に入ってすぐのところ、右側に食料品店があるでしょう?」と言うのだが、それらしきものは見当たらなかったが、小さなカフェがあった。
記念にカフェで取った軽食。コーヒー味の冷たい飲み物があまーくて、独特の味だった。この味が私に取ってのトラッペト村の思い出になるのかもしれない。
高齢となった義両親はもう旅行に行くことはできない。彼らの代わりにここへ来ることができて良かった。さあ、ドイツへ帰ろう。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その12 トラパニの塩田を訪れる
ドイツを出発して車でイタリア半島を南下し、シチリア島に渡ってそこからエオリエ諸島へ行き、再びシチリア島に戻って海岸地域を時計回りに移動しながら南西のレアルモンテ海岸までやって来た。帰る日は決めておらず、疲れたら帰路につくつもりだった。3週間が経過し、毎日かなりの距離を動き回ったのでそろそろ体力の限界に近づいている。スカーラ・ディ•トゥルキの白い崖を眺めながら泳ぎ、「明日はドイツに帰ろう」と決めた。
夜行フェリーでパレルモ港から出発することにしたので、あと丸一日ある。シチリア島の西海岸、トラパニ(Trapani)からマルサラ(Marsala)にかけて広がる天日塩田を見てから帰ることにした。西シチリアの沿岸部には3000年に渡る採塩の伝統がある。交易の民フェニキア人がシチリアに入植した時代から、塩は「白い金」と呼ばれて珍重されていた。近代以降の都市化に伴う環境破壊や1965年にこの地方を襲った大洪水によって塩田が被害を受けたことなどにより採算が取れなくなり、今では大規模な採塩産業は廃れてしまったが、塩沼は自然保護区に指定されていて、小規模ながら伝統的な塩づくりが続いているという。保護区の一つ、 Naturreservats Salinen von Trapani und Pacecoにある塩博物館(Museo del sale)に立ち寄ってみることにした。
風車のある建物の内部が塩博物館で、伝統的な天日採塩についての展示や道具などを見ることができる。
塩田という言葉は知っていたけれど実際に見るのは初めて。
海岸沿いに四角く区切られた深さの違う池が並んでいる。
海水は「アルキメディアン・スクリュー」と呼ばれるポンプを使って陸に引き入れる。
博物館内のモデル。風力でスクリューを回転させる。
それぞれの池は水路で繋がっており、大きくて深い池からより小さく浅い池へと順に海水を移動し、太陽熱で水分を蒸発させて塩分を濃縮していく。太陽に恵まれ、アフリカからの熱風が吹くシチリアの気候だからこその採塩法だ。
池の一つは水がピンクっぽい色をしていた。ハロバクテリアという高塩環境下で生育する細菌が原因らしい。
最後に結晶池で結晶化させた塩を収穫する。今まで天然塩にあまりこだわったことがなかったけれど、見学して面白かったのでお土産も兼ねて塩を買った。普段食べている精製塩との味の違い、わかるかな?(自信ない)
トラパニ近郊の塩田風景はなかなか印象的だった。ここからパレルモ港へ向かうが、フェリーの出港までにはまだ時間がある。シチリアを離れる前にあと1箇所だけ是非とも寄りたい場所があった。それは、パレルモ近郊のトラペット(Trapetto)という村だ。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その11 アグリジェントの「神殿の谷」
パンタリカのアグリツーリズモで3日間を過ごした後、今度はシチリア島南東部のオリエンタタ・オアジ・ファウニスティカ・ディ・ヴェンディカリ自然保護区(Riserva naturale orientata Oasi Faunistica di Vendicari)のアグリツーリズモに移った。
私が住んでいるドイツ東部のブランデンブルク州には自然保護区がたくさんあり、いろんな野生動物が見られるので気に入っている。ドイツとは気候の違うシチリア島で自然保護区巡りをすれば、ドイツでは見られない生き物が見られるのではないかと密かに楽しみにしていた。ヴェンディカリ自然保護区は特に野鳥が多いと読んだので是非行ってみたかったのだ。
しかし、結論から言うと、いくつか回ったシチリア島の自然保護区はそれほど積極的な保護活動がおこなわれているようには見えなかった。これはあくまで個人的な印象だし、雨が多く緑豊かなドイツと乾燥したシチリア島を同列に見るのはフェアではないかもしれないが、いろんなカナヘビを見た以外は期待したほど多くの生き物を目にしなかった。
でも、ヴェンディカリ自然保護区では少なくともフラミンゴの群れが飛んでいくのを目撃できたし、アグリツーリズモの食事が素晴らしかったので、まあ満足かな。
さて、シチリア島南端から海岸に沿って北西に移動し、次に目指すはアグリジェント(Agrigento)の考古学地区、「神殿の谷(Valle dei Templi) 」だ。
アグリジェントはかつてアクラガスと呼ばれる古代ギリシアの植民都市だった。南東に70kmほど離れた都市ジェーラ(Gela)とロードス島からの移住者によって紀元前581年に建設されたアクラガスは、競馬の飼育で知られる富める町だった。僭主テロンが支配した最盛期(紀元前488〜472年)には人口20万人にも及ぶ大都市に発展していた(現在のアグリジェントの人口は6万人弱)。この町に生まれた哲学者エンペドクレスは、アクラガス市民は「まるで明日死ぬかのように食べ、永久に生きるかのような家を建てていた」と描写したという。紀元前406年にカルタゴ軍によって破壊されるまでは、市民は相当にゴージャスな暮らしぶりだったらしい。アグリジェント市の南部にはそうした古代都市アクラガスの栄華を感じさせるギリシア神殿群が残る。
考古学地区から眺めるアグリジェントの町
1984年にUNESCO世界遺産に登録されたこの「神殿の谷」、これまた広大で圧倒的!
右に見えるのはカストレ•ポルーチェ神殿
神殿の谷で最も古い(紀元前6世紀に建設)ヘラクレス神殿
コンコルディア神殿。ドーリス式神殿の中で最も保存状態の良い神殿 の一つ。1748年に復元された。
崖の上にそびえるユノ・ラキニア神殿
考古学公園の南側、眼科広がる景色を眺めていたら、なぜだかふとエジプトへ行ったときのことを思い出した。ここまで来ると、アフリカが近いと感じる。
公園内には考古学博物館もあって見るべきものが盛り沢山なのだが、今回のシチリア島・エオリエ諸島旅行はこの時点ですでに3週間近くに及んでいたので、すでにかなりの情報過多でとてもじゃないが処理しきれない。もうちょっとよく地中海の歴史を勉強してから出直した方が良さそうだ。それにしても、シチリアの歴史的・文化的コンテンツの驚くべき豊かさよ。もっと知りたいけど、沼にはまりそうでちょっと怖い。そんなことを考えながら神殿の谷を散策した後はレアルモンテ(Realmonte)海岸の白い崖、スカーラ・デイ・トゥルキ(Scala dei Turchi)の見える宿に泊まった。
この崖は、鮮新世ザンクリアン期に起こった洪水で堆積した有孔虫の化石を含む泥灰土でできている。スカーラ・デイ・トゥルキというのは「トルコ人の階段」の意味。トルコからやって来た海賊がこの崖を登って攻めて来たことに由来するそうだ。トルコにもパムッカレという同じような石灰棚の名所があるのを思い出した。
そろそろシチリア旅行も終わりに近づいている。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その10 シラクーザの考古学公園
まだまだ続くシチリア島旅行。パンタリカのアグリツーリズモに宿を取っていた私たちは、パンタリカの岩壁墓地遺跡を見た翌日、シラクーザを訪れることにした。宿で一緒になった旅行者夫婦に「シラクーザの観光名所の多くはオルティージャ島に集中している。特にドゥオモ広場は必見だ」と強く勧められていた。オルティージャ島海に突き出たシラクーザの発祥地でとても美しく、ドゥオモ広場の他にもアポロン神殿やマニアケス城など見どころが多い。
でも、私にとってはオルティージャ島よりもネアポリス地区(「新市街」の意)にある考古学公園(Parco Archeologico)の方が面白かった。
行ってみて仰天。この公園、凄すぎる!市街地にギリシアやローマ時代の遺跡がどーん!と、まとまって存在している。
まず、「天国の石切場(Latomia del Paradiso)」と呼ばれる古代の石切場に度肝を抜かれた。町の真ん中なのに、石灰岩質の岩盤が剥き出しになっている。紀元前6世紀から神殿などの大規模建造物のためにここで石が切り出されていた。
石切場の中はヘルメットを装着して見学する。歩いているの私の大きさからそのスケールが想像できることだろう。良質の石は地表付近ではなく深いところから切り出す必要があった。作業に従事したのはカルタゴ軍やアッティカ軍からの捕虜だった。現在、石切場跡の周辺には草木が生い茂り、まるで楽園のようだから「天国の石切場」と呼ばれるようになったらしいが、当時は天国どころか地獄だっただろう。トンネルの中はじめっとしていて、岩肌にはところどころ苔が生えている。
石切場の奥には「ディオニシオスの耳(Orecchio di Dioniso)」と呼ばれる、これまた巨大な石窟がある。高さ23メートル、奥行きは65メートル。中は真っ暗で湾曲している。この洞窟の中ではほんの小さな音でも増幅されて大きく聞こえる。古代ギリシアの植民都市であったシラクーザの僭主ディオニシオスは疑り深い性格で、捕虜たちのヒソヒソ話を聴くためにこの洞窟に彼らを閉じ込めたという言い伝えがあるらしい。洞窟のかたちもまるで耳のようだから、「ディオニシオスの耳」とは上手い呼び名をつけたものだなと思う。
こちらは公園内のギリシア劇場。直径138m、推定観客席総数は1万5000席。紀元前5世紀からここで喜劇や悲劇が上演されたが、ローマ時代には演劇は流行らなかったので、剣闘士の闘技会場に作り変えられて使われていたそうだ。
こちらはローマ時代の円形競技場。アレーナの中心部には特殊効果のための地下装置を設置したとされる穴が開いている。古代のイベントの特殊効果って?まさか、光のショーなんてやっていたわけはないし、どんなものだったんだろう?シラクーザといえばギリシアの科学者アルキメデスの故郷。当時から技術が発達していたというから、いろんなカッコいい仕掛けが観客の目を楽しませていたのだろうね。
考古学公園は広大なので、隅から隅まで歩こうとすると大変である。暑いし、石の坂道を登ったり降りたりしてヘトヘト。シチリア島はどこへ行っても坂道で、しかも地面が硬いので、連日歩き回っているとだんだん腰がバキバキに硬直して来る。土地柄、深々としたソファーに座れるような場所もほとんどなく、カフェやレストランの椅子も硬くてなかなか辛いものがある。公園内にはまだまだ他の見所もあるのだが、先にオルティージャ島も歩いた後だから、もうギブアップ。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その9 パンタリカの岩壁墓地遺跡までハイキング
タオルミーナ(Taormina)からエトナ山公園周辺をドライブしながら火山による地形を見て回った後、一足先にドイツに戻らなければならない娘をカターニア空港へ送り届け、私と夫はさらにシチリア島ロードトリップを続けることにした。
次に向かったのはパンタリカの岩壁墓地遺跡(Necropoli di Pantalica)。パンタリカはカターニアの南のイブレイ山地に位置する。アナポ川やカルチナラ川が刻む渓谷の間にある台地である。そのパンタリカには大規模な古代墓地遺跡(ネクロポリス)があるという。リーパリ島で見たギリシア・ローマ時代のネクロポリスもとても興味深かったが、パンタリカの古代墓地はさらに古く、岩壁に紀元前13世紀から紀元前7世紀まで使われたと考えられる墓穴がなんと5000以上も残っているという。それは是非とも見に行きたい。
パンタリカでは、アグリツーリズモ(Agriturismo)と呼ばれる農家の宿に泊まった。今回のシチリア・エオリエ諸島旅行では、アパートメントタイプの宿、B&B、アグリツーリズモといろいろなタイプの宿泊施設を利用してみたが、その中でダントツ気に入ったアグリツーリズモ。コロナ禍のこともあり、なるべく田舎の空いているところがよかったので利用したのだが、景色のいい静かな場所で広々とした部屋に泊まれる上に、そこで育てている新鮮な野菜を使った美味しい料理を出してくれるのがいい。アグリツーリズモにもいろいろあって設備やサービスはまちまちのようだけれど、少なくとも私たちが今回利用したところはどこもとてもよかった。プールがあったり、馬やロバに乗れたり、アクティビティが充実しているアグリツーリズモも少なくないようだ。コンセプトがすごく気に入ったので、今後、イタリアを旅行する際はいろんなアグリツーリズモを泊まり歩きたい。
さて、パンタリカの岩壁墓地遺跡はかなり広範囲に散らばっていて、行き方は何通りかあるが、基本的には渓谷の小道を長時間ハイキングすることになる。私たちは東側からアナポ川沿いを往復15kmほど歩いた。
アナポ川
ゴツゴツした石灰岩に開けられたトンネルをくぐり抜けて進む。中は真っ暗なので懐中電灯が必要
一帯は自然保護区に指定されている。いろんなカナヘビがいて楽しい
しっぽが切れてるのも
茶色く見えるのは紅葉ではなく、山火事で焼けた跡
絶壁に圧倒されながら2時間ほど歩いた。
そしてついに岩壁に開いた墓穴が見つかった!
シチリア島の先住民族は、もともとは海岸付近に集落を作って生活していたが、外部から人が侵入するようになると、海辺の集落を捨て、内陸部の山の中へ避難して住むようになった。パンタリカに形成された集落は規模が特に大きいものだったと考えられているが、この古代墓地(ネクロポリス)と関連のある集落の跡はまだ見つかっていないらしい。しかし、ネクロポリスからはギリシアのミケーネ文化の影響が見られる陶器や装飾品などの副葬品が出土しており、それらは50kmほど離れたシラクーザの考古学博物館に展示されている。
それにしても、あのような崖の上の、一体どうやってアクセスしたのかわからないような場所にわざわざ穴を掘って死者を埋葬したのには、どういう意味があったんだろう?パンタリカの岩壁墓地遺跡はシラクーザとともにユネスコ世界遺産に登録されている。でも、そのわりにはパンタリカのネクロポリスに関する詳しい情報が少なくて、なんだかよくわからない。後日、もう少し良くわかったら書き足すことにしよう。
2時間半ほどアナポ・バレーを歩いたら、パンタリカ・ネクロポリス駅に着いた。といっても、これはかつてこの谷を列車が走っていた頃の名残である。小道はまだずっと先まで続いていたけれど、見たかった墓穴も見られたことだし、ここから来た道を引き返して宿に戻った。
この日もよく歩いたなあ。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その8 アルカンタラの溶岩渓谷を歩く
約1週間滞在したエオリエ諸島。堪能したので再びフェリーでシチリア島に戻り、タオルミーナ(Taormina)へ移動した。
タオルミーナの町は海沿いでありながら、タウロ山という山の中腹、およそ標高200mにある。ピークシーズンを過ぎていたのでそこまで人が多くはなかったが、メインストリートにはブランドショップが立ち並び、緑の多い、小綺麗でお洒落な雰囲気で、シチリア島きっての観光地である。
ドゥオモ広場
が、私たちはエオリエ諸島で坂道ばかり歩いていたので、すでに坂道に疲れていた。それに、1週間分の洗濯物が溜まっていて早く洗いたい。コインランドリーの場所を調べたら、アパートメントから山を20分くらい登った先だと気づき、ゲッソリである。道が狭くて車で移動するのも簡単ではないので、娘と洗濯物を入れたエコバックを肩から下げてノロノロと坂道を歩き、町外れのコインランドリーでやっと洗濯を済ませてホッとした。そんなわけでタオルミーナでは休憩モードで、あまり積極的に観光しなかった。ロープウェイで海岸に降り、ベッラ島(Isola Bella)でスノーケリングしたり、アパートのプールで泳いだりして過ごした。
タオルミーナについてはそれほど記録することがないが、一つだけ書いておきたいのはこのギリシア劇場についてだ。この劇場にはギリシア時代のオリジナル部分はほとんど残っておらず、大部分がレンガで修復されている。その点ではシチリア島の他のギリシア劇場ほど古くないが、海を見下ろし、同時にエトナ山を仰ぎ見ることのできるこの立地はやはり特別だ。
シチリア島の多くのギリシア劇場同様、この劇場でもよくコンサートが開催されているようだ。エトナ山を背景に古代の劇場の観客席に座ってパフォーマンスを鑑賞するなんて、想像しただけで素敵だなあ。もしまたここに来ることがあれば、そのときには観劇したいものだ。観劇中に噴火が見えたらダブルパフォーマンスだね、と冗談を言いながらエトナ山の方を眺めていたのだが、
さて、前置きはここまでにして、本題に進もう。書きたいのは、タオルミーナから国道185号線を北西に車で30分弱のところにあるアルカンタラ渓谷(Gole del’Alcantara)についてである。
柱状節理が見たくてこのジオパークへ行ったのだが、想像以上にすごい!この玄武岩の岩はエトナの北にあるネブロディ山脈からアルカンタラ川が流れる谷へエトナ山の噴火による溶岩流が流れ込んでできた。1万5000年前から4000年前の間に少なくとも3つの溶岩流が谷を流れ、それらが重なった場所では50mもの厚みの岩体となった。柱状節理は溶岩が冷えて縮むときに割れ目ができることで形成されるが、この深い渓谷も、冷えて固まった溶岩表面の亀裂に川の水が入り込み、長い年月をかけてゆっくりと亀裂を押し広げてできたものであるらしい(どうやってできたのか知りたくて、このイタリア語動画を日本語とドイツ語に自動翻訳して見ながら一生懸命考えたけれど、翻訳が不完全なので理解が間違っているかも)。これもまた、シチリア島の母なる火山、エトナ山の噴火活動が生み出した景色なんだなあ。
ほぼ垂直の岩壁の高さはおよそ25メートル、幅は狭いところで2メートルくらいかな。ガイドツアーの参加者らがヘルメットを被り、長靴を履いてざぶざぶと水の中を歩き、奥へ入っていく。ツアーに参加しなくても歩くことはできるけれど、水がすごく冷たいので、素足だと結構つらい〜。
アルカンタラ渓谷を歩いた後は、そこからエトナ公園の周りを西周りにぐるっとドライブすることにした。
アルカンタ川の別の地点、Cascate Alcantaraの景色。水がない川底を見るのも面白い。
さらにドライブ。1981年のエトナ山の噴火時にはエトナ山公園の北の郊外にあるランダッツォの町まで溶岩流が到達した。
ランダッツォに流れ着いた溶岩流の跡
この溶岩流でランダッツォのワイン畑は壊滅的な被害を被った。溶岩流はアルカンタラ川の岸辺にまで迫り、もし川に流れ混んで水と接触すれば大爆発を起こす危険があったが、幸いなことにその一歩手前で止まったそうだ。
火山周辺地域での危険と隣り合わせの生活をこうして目にすると、日本のことも思わずにはいられない。
さて、エトナ山公園の周りを1周することで、いろんな角度からエトナ山を見ることができた。ロープウェイで登り、タオルミーナの劇場から眺め、噴火が生み出した様々な景色を歩き、、、、。たっぷりとエトナ火山を観察することができた。火山探検はこの辺でそろそろ終了して、ここから先はシチリア島の他の魅力を味わうことにしよう。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その7 リーパリ島の古代墓地
今回の旅行のテーマは火山だったので、エオリエ諸島滞在中は火山にばかり注目していたが、シチリア島の北に連なるエオリエ諸島にあるのは火山だけではない。リーパリの町を歩いていたら、グリェルモ・マルコーニ通り(Via Guliermo Marconi)脇の空き地のようなところに、なにやら気になるものが並んでいる。
後で知ったことには、この空き地のような緑地はディアナ考古学公園(Parco Archeologico di Diana)という公園の一部である。リーパリ島では1948年からシステマチックな考古学調査がおこなわれている。この公園のあるディアナ地区で古代墓地(ネクロポリス)が発見された。上の写真の左奥に見える石の壁は、4世紀にギリシア人入植者によって建設された市壁の一部らしい。1954年から約20年間、発掘調査を率いた考古学者ルイジ・ベルナボ・ブレアとマドリン・キャバリエが、1971年にこの考古学公園と旧市街中心部、リーパリ城内のエオリエ考古学博物館(Museo Archäologico Regionale Eoliano)を設立した。 ディアナ考古学公園という名称は、ネクロポリスが建設された当時エオリエ諸島で栄えていた文化、ディアナ文化にちなむ。
ネクロポリスからは整然と並ぶ2600を超える墓が発掘されている。古い時代の墓の上に新しい時代のものが重ねられた状態で見つかったらしい。見つかった棺の一部がこの公園に展示(?)されているということなのだろうか。
気になって、エオリエ考古学博物館へも行ってみた。
考古学博物館入り口
エオリエ城の敷地はなかなか広くて、要塞や大聖堂など見どころがたくさんある。考古学博物館もいくつかの建物に分かれてい流。小さな島の博物館なのに規模が大きくて驚く。ここには先史時代からのエオリエ諸島の歴史が詰まっているのだ。地中海の考古学研究においても重要な博物館であるらしい。エオリエ諸島は平地がほとんどなく、ゴツゴツとした岩ばかりで人が住むのに適しているようにはあまり思えないのだが、紀元前5500年頃から人が定住していたことがわかっている。特にリーパリ島は黒曜石が豊富に採れることから、新石器時代にはその交易で栄えた。その後、ギリシアの植民地となり、古代ローマに征服され、838年からは150年間にわたり、サラセン人の支配下に置かれる。1082年にはノルマン人に支配され、イタリアのファシスト党時代には反体制活動家の流刑地となっていた。現在の人口は1万3000人に満たない小島なのに、なんと劇的な歴史なのだろう。
考古学博物館の敷地内にある青銅器時代の集落の跡
博物館を全部回る時間がなかったので、気になっているネクロポリスに関する展示と地質学のセクションのみを見た。
敷地の奥にディアナ考古学公園とは別の考古学公園があり、そこにも棺が並んでいる。
こちらの公園では、半円を描くように棺が配置されている。
博物館内に展示されているリーパリ島のネクロポリスから出土した紀元前6〜4世紀の土器の棺
なるほど、石の棺桶だと思ったものは土器の棺を入れる容器だったのだな。岩だらけのエオリエ諸島では地面に穴を掘って棺を埋めるのは大変だから、頑丈な石の入れ物に入れて地上に置いておいたのだろうか?
ギリシア時代の墓石
水中考古学のセクションに展示されている160個のアンフォラ
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その6 ストロンボリ火山に登って夜の噴火を眺める
とうとう、エオリエ諸島滞在のハイライトとなるイベントとなるストロンボリ島へ行く日がやって来た。
ストロンボリ島は火口からひっきりなしに真っ赤なマグマのしぶきを吹き上げる「ストロンボリ式噴火」で知られる火山島である。夜間は闇の中で山頂が明るく光るので、「地中海の灯台」とも呼ばれている。そのストロンボリ火山に登る計画だった。
ストロンボリに登ろう!と言い出したのは夫で、私もそれに同意したものの、実は不安があった。「ストロンボリ火山に登る」というフレーズにはなぜかすごくハードな響きがあって、自分にできるようなことではないのでは?という気がしていたのだ。リーパリ島からストロンボリ島へは多数のツアーが出ているが、登山ツアーを提供しているのはMagmatrek 一社だけで、他のツアーはボートで島の近くへ行くだけである。そう聞くと、なんだかますますハードコアなイメージである。Magmatrek社のオフィスで「誰でも登れますか?」と聞いたら、「山に登り慣れている人なら」という返事が返ってきた。歩き慣れているとは自信を持って言えるが、山登りの習慣はない。うーん、大丈夫かな。
ストロンボリ火山は標高約900m。しかし、危険防止のため、観光客は標高400mのところにある展望台までしか登れなくなっている。それを聞いてちょっと安堵。400mならヴルカーノ島のフォッサ火山と変わらないのでいけるかな。
しかし、「夕方から登り始め、展望台で暗くなるのを待って噴火を見てから下山します。帰りは暗いのでヘッドランプか懐中電灯を持参してください」との説明にふたたび自信がなくなった。闇の中の下山なんて、経験したことないよ。やっぱり相当ハードなツアーなんじゃ?
「何をゴチャゴチャ言ってるの。大丈夫だって。行ってみてダメそうと思ったら、その時点でやめればいいだけ。予約するよ!」と夫がツアー参加を申し込んだので、ヴルカーノ島での登山の2日後にストロンボリ火山に登ることになった。
お昼頃、リーパリ港から少数の他のツアー客とともに小さなボートでストロンボリ島へ向けて出発。このボートが結構、揺れる。
1時間ほどでリーパリ島とストロンボリ島の間にあるパナレーア島に着いた。ここで休憩。パナレーアの美しいビーチでしばし泳ぐ時間がある。真っ青な海。普段なら喜んで水に飛び込むところだが、私は泳ぐのはパスしよう。ここで無駄に体力を使ってはならないのだ。ストロンボリに登れなくなる!それに、泳いだ後、シャワーは浴びられないのだから、塩でベタベタの体で登山することになってしまうではないか。不快要因は一つでも取り除いておきたかった。
その後、ボートはパナレーア島の港へ回った。レストランで腹ごしらえするために上陸する。でも、どの程度食べたらいいものか。何も食べなければ力が出なくて登山できないし、かといって食べ過ぎても体が重いだろう。この時点でもまだ「ストロンボリ火山に登る=ビッグチャレンジ」という先入観で頭がいっぱいの私である。
このパナレーア島は面積わずか3.4km2ほどの小さな島だが、近頃、とても人気があり、ミリオネアの別荘地になっているとか。うーむ、確かに綺麗な島だけど、このような孤島に住んで何をして過ごすのだろう?とちょっと不思議に思わないでもない。
ああ、そうか。ストロンボリ島を眺めながら遊べるっていうのがポイントなのか。確かに特別なロケーションではある。お昼ご飯を食べた後、私たちは再びボートに乗り、ストロンボリ島へ向かった。パナレーア島付近には海底からブクブクと火山ガスが噴き上がっているのを見られる場所があった。すごい!
さらにボートに揺られること30分。ストロンボリ島が近づいて来た。
あれに登るのか?本当に?(まだ疑ってる)

険しい姿に圧倒される。港に到着し、ボートを降りるとMagmatrek社のスタッフに「教会の前で登山ガイドが皆さんを待っているので、行ってください」と言われたので、指さされた方に向かって皆で歩き出す。すでに坂道だった。「これって、もう登山始まってるのかね?」などと言いながら15分ほど坂を登ったところに教会があった。ガイドさんの説明を聞き、登山靴とストックを借りて、いざ出発。「今日はアフリカからシロッコという熱風が吹いているので、夜でも暑いです。20分ごとに休憩しますが、体調が悪くなったら無理をせずに下山してください。ストロンボリに登るのは素晴らしい体験ですが、具合が悪くなってまで登る理由はありません」。えー、やっぱりそんなにキツいの!?
教会を出発してしばらくの間は硬い石畳が続いた。太陽に向かって歩かなければならず、すでに17:00近いのに暑い!ひえー、もうすでに疲れたよ。こんなんで登り切れるのか?
しかし、しばらく歩くと方角が変わり、日陰になった。これなら意外と大丈夫そう?
立ち止まってストロンボリ町と小島ストロンボリッキオ(Strombolicchio)を見下ろす
だんだん急になり、この先は写真を撮っている余裕はなかったが、心配したほどハードではなく、2時間後、無事に北西側の展望台に到着した。
展望台から見た火口
海底へと続く谷、シアーラ・デル・フオーコ(Sciara del fuoco)。海に日が沈んで行く。
今か今かと固唾を呑んで噴火を待つ。
おお!
15分に1回くらいの間隔で起きる噴火を言葉なくじっと見つめて過ごすこと1時間半。
夜空に燃える火口を本当に見ることができた。こんな体験ができるなんて、なんだか信じられない。登って本当によかった。
何度かの噴火を楽しんだら、さあ下山だ。
懐中電灯で足元を照らしながらの夜の下山も、生まれて初めての体験でなんだか楽しい。こんな歳になっても新しい体験ができるんだなあと良い気分で山道を下る。それに登るのも大したことなかったしね!
と言うのはまだ早かった!帰り道の長いこと長いこと。行きとは別のルートで、緩やかだけれど、その分、長い。8kmもあった。最後の方はもう疲れて嫌気がさして来た。やっと教会に着き、登山靴とストックを返却したが、そこで終わりではないのだ。港まで歩かなければならない。ボートに乗り込んだときにはもうヘトヘト。そして、再びモーターの爆音の中、2時間近く激しく揺られてリーパリ島へ帰るのだ。シートには背もたれがないので眠ることはできず、背筋を伸ばして座っているのも辛い〜。朦朧とした頭で「噴火を見られて感動したけど、こういうのは1回でいいや」「旅行でハードな体験をするたびに寿命を縮めているのでは?」「いや、でも、快適なことしかせずに長生きするよりも、面白い体験をたくさんしてその結果、多少早死にすることになっても、その方が生きる意味があるのでは?」「これでいいのだ」などと考えながら波に揺られていた。
港に着いたら、すでに23:30。そこから車を止めてある場所までまた坂を登り、山の上のアパートメントに戻り、そしてシャワーを浴びなければ寝られない。さすがにうんざりしたが、どうにかこうにかこの冒険の日を無事に終え、深い眠りについたのであった。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その5 ヴルカーノ島でフォッサ火山に登る
リーパリ島をぐるっと一周し、海でも何度か泳いだので、今度は日帰りでエオリエ諸島で3番目に大きい島、ヴルカーノ島(Isola Vulcano)へ行くことにした。火山のことを英語でvolcano、ドイツ語ではVulkanと言うが、それらの言葉の由来はこのヴルカーノ島である。そもそもなぜこの島がIsola Volcanoと呼ばれるようになったかというと、ギリシア神話ではこの島には火の神、へパイストスの鍛冶場があるとされた。ギリシアの神「へパイストス」に対応するローマの神は「Vulkanus」である。
ヴルカーノ島へはリーパリ島から観光ツアーも出ているが、リーパリ島とヴルカーノ島との間は頻繁に連絡船が行き来しているので、それを利用することにする。車はリーパリ島へ置いていくのでヴルカーノ島を自力で回ることはできないが、きっと現地ツアーがあるだろう。
ヴルカーノ島の港
ヴルカーノ島に到着。まずは観光案内所でパンフレットでももらおうかと思ったが、そのようなものはなかった。
港から集落への道
島に上陸すると、強い硫黄臭が鼻につく。ヴルカーノ島では古代ローマ時代から硫黄が採取されていた。キツくて危険で健康に悪い硫黄の採取作業は、古代ローマ時代には奴隷が、近代には囚人が担った。しかし、1880年から19990年にかけて起きた最後の噴火の際、硫黄の採取施設はすべて崩壊したそうだ。この噴火時に大規模な森林火災が起き、住民はボートでリーパリ島へ避難したという。
ヴルカーノ島には泥浴場があると読んだので、まずはその浴場を探しに行こう。地図を見ると、港からは目と鼻の先のようだ。
泥浴場は現在、閉鎖中だった。ガッカリ。
娘が「綺麗な洞窟があるらしいよ。それを見に行こう」と言う。案内地図を見ると、東の海岸に確かに洞窟があるようだが、陸路で到達できるようには見えない。島の西側のビーチへ行けば、そこからボートツアーが出ているのではないかと推測し、ビーチSpiaggia Sabbie Nereに向かう。
黒い砂のビーチの奥にボート乗り場があった。持ち主と思われる男性が何人か立っていたので、「洞窟に行くツアーはあるか?」と聞くも、言葉がまったく通じない。シチリア島もエオリエ諸島も基本的に英語はあまり通じないのだ。しかし、娘がどうしても行きたいと言うので、夫が諦めずに片っ端から船長風の人に声をかけていったら、ようやく洞窟までボートを出してもらえることになった。1時間クルーズで一人10ユーロ。さあ、真っ青な海とダイナミックな海岸線を眺めながらの小クルーズの始まりだ。
迫力ある崖の景色
「あの岩はライオンの横顔に見える」とか、、、
「あれはゾウの足にそっくり」とか、船長がいろいろ説明してくれたようだが、イタリア語がほとんどわからないので、他にどんな話をしてくれたのかは不明。こういうとき、現地の言葉がわからないと本当に残念。
そうこうしているうちに、見たかった洞窟、グロッタ・デル・カヴァッロ(Grotta del Cavallo)がいよいよ近づいて来た。
中はどのくらい深いのだろうか。遠くからだと暗くて中がよく見えない。洞窟の少し手前でボートを一時停止してもらったので、青い青い水に飛び込んで少し泳ぐ。最高。
泳ぎ終わってボートに上がると、船長がボートを洞窟の前に寄せてくれた。水面になにかがきらめいている。
うわー!
光って見えるものは水面に浮いた細かい軽石だそうだ。軽石と言われればそうかと思うけれど、まるでイルミネーションのようで美しく、魔法を目にした気分だ。ここでボートは来たルートを引き返し、出発したビーチに戻った。1時間ほどとはいえ、10ユーロで普段はできないことができたのだから、悪くない。
しかし、ヴルカーノ島でのアクティヴィティのハイライトはこれからである。vulcano(火山)という言葉の語源となったこの島で最も大きな火山、ヴルカーノ・デッラ・フォッサ(vulcano della Fossa)に登るのだ。
後ろに見えるのがヴルカーノ・デッラ・フォッサ
標高は391m。山頂付近には大きなクレーターがあり、グラン・クラテーレ(Gran Cratere)とも呼ばれる。赤っぽい山肌に斜めに通った黒いラインが登山道で、左上の煙の出ているところまで登るつもり。登山道はそれほど急ではないが、日陰がなく黒い地面が太陽光を吸収して熱いので、昼間登るのはやめたほうが良いとガイドブックに書いてある。夕方4時まで待って登り始めることにした。
午後4時過ぎでも暑ーい!あっという間に超汗だくになり、体力を奪われる。強い日差しにクラクラし、なんでこんなことやってるんだっけー?と叫びたくなった。
でも、1時間ほど頑張って登り、見下ろした景色の素晴らしさは感動的で、報われた。
ヴルカーの島の向こうにリーパリ島とその後ろにサリーナ島が見える。
そしてリーパリ島の東側にはうっすらとパナレーア島とストロンボリ島が見えるではないか。これはすごい!こんな景色、初めて見たよ。
山頂には直径500mほど、深さ200m のクレーターがある。
火山ガスの刺激臭が強くて、むせてしまった。長居はせずに下山しよう。
暑い中、登るのに1時間、降りるのに30分、港に戻るのにさらに30分くらいかかって結構疲れたけど、楽しかった!リパーリ島へのボートが来る時間まで、港のそばのレストランで美味しいご飯を食べて大満足である。充実してるなあ。
ところで、火山の噴火様式の一つに「ブルカノ式噴火」というのがあるが、それはこのヴルカーノ島(ブルカノ島とも表記される)でよく見られる噴火様式のことで、粘り気の強い溶岩の火山で爆発的な噴火が特徴である。桜島など、日本の火山にも多いタイプ。別の噴火様式に「ストロンボリ式噴火」があるが、それもこのエオリエ諸島の一つ、ストロンボリ島の火山が名前のもととなっている。
次回はいよいよそのストロンボリ火山に挑戦だ。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その4 リーパリ島を探検
シチリア島でエトナ山を軽く見た後、カターニアを離れ、エオリエ諸島(Isole Eolie)へ向かった。エオリエ諸島は海底の火山活動によりティレニア海南部に形成された、リーパリ島(Isola Lipari)、サリーナ島(Isola Salina)、ヴルカーノ島(Isola Vulcano)、ストロンボリ島(Isola Stromboli)、パナレーア島(Isola Panarea)、フィリクーディ島(Isola Filicudi)及びアリクーディ島(Isola Alicudi)の主要7島から成る火山弧である。
シチリア島からはミラッツォ(Milazzo)の港からフェリーが出ている。シチリアを経由せずにイタリア本島のナポリ港から直接行くことも可能だ。
車ごと乗り込み、1時間ほど船に揺られていると、エオリエ諸島のうち最もシチリア島に近いヴルカーノ島が見えて来た。
ヴルカーノ島の港
うわー!美しい景色に気分が一気に高揚する。青い海に飛び込みたーい!しかし、私たちが滞在するのはこの島ではなく隣のリーパリ島。もうしばらくの我慢である。
ヴルカーノ島から20分ほどでリーパリ島に到着した。事前に調べたところ、リーパリ島はエオリエ諸島の中で最も魅力的というわけではなかったが、7つの島の中で一番大きく道路も発達していて、またボートで他の島へも移動しやすいのでリーパリ島を拠点とすることにしたのだ。港のそばに島唯一の町があり、宿泊施設やレストランが集中している。しかし、私も夫もうるさい場所が苦手。町から少し離れた山の上にアパートメントを予約していた。
町からの直線距離はたいしたことがないが、細い蛇行した坂道はとてもきゅうで、舗装されていない部分も多い。車で上るのはなかなか大変だった(といっても運転したのは夫なので、私がした苦労ではないのだけれど)。通りに名前はなく、ナビで見ても宿の場所がわからないので管理人に電話したらバイクで迎えに来てくれた。
坂道を上るのはちょっと大変だけど、アパートメントのテラスからの眺めは抜群だ。ここで約1週間を過ごすことになる。やりたいことはたくさんあるが、まずは泳ぎにでも行こうか。
最寄りのビーチは上の地図の緑アイコンのSpiaggia Valle Muriaというビーチである。「坂を降りればビーチ」と管理人はこともなげに言ったが、そんなに楽な話ではなかった。坂道というか、崖のようなところを15分くらい降りると海岸に着く。行きはまだいいけれど、帰りはその崖をまたよじ登って来なければならないのだ。ちょっとひと泳ぎするだけでやたらと疲れる。これがハードモードなエオリエ諸島滞在の始まりであった。
リーパリの石のビーチ
誤解のないように付け加えると、島にはCannetoのビーチなど楽にアクセスでき、観光客向けに整備されたビーチもある。でも、自然を楽しみにエオリエ諸島に来たわけだから、アクセスの良い場所だけ見るというのもなんだか違う気がするしね。
上の写真の右側に白とグレーの層が縞状に重なった崖が写っているが、リーパリ島の地表は軽石と黒曜石で覆われている。白っぽくてスカスカの軽石とガラス質の黒曜石は互いに似ても似つかない見た目だけれど、どちらも同じ流紋岩質のマグマが冷えて固まってできた岩石である。黒曜石といえば石器時代、ナイフや槍の先端などの素材として使われた岩石で、黒曜石が豊富に採れるリーパリ島はその交易で栄えたのであった。今でもリーパリ島の主な土産物として黒曜石のアクセサリーがたくさん売られている。
また、リーパリの軽石もとても上質で、主に建材などの用途に世界中へ輸出されて来た。現在は主に島の北東部の石切場で採取されている。
軽石や黒曜石だけでなく、リーパリ島では粘土鉱物カオリナイトも採れる。リーパリ島におけるカオリナイトの利用は紀元前3-4世紀に遡る。島に入植したギリシア人が土器作りに使っていた。第二次世界大戦後から1970年代初めにかけては主にセメントの材料として大々的に採掘されていたが現在はもう採掘は行われていない。その跡地を歩いてみよう。
噴気孔と思われる穴があった。リーパリ島には現在、活発な火山活動はない。
石切場の奥まで歩くと、海へ続く道が延びている
普段住んでいるドイツでは日常的に散歩をしているけれど、同じ散歩でもリーパリ島ではまったく違う体験だ。平坦で直線的な北ドイツとは対照的に起伏が激しく表情豊かな風景に圧倒される。
海岸線も複雑だ。
絶景スポットBelvedere di Quattracchiから眺めたリーパリ島の美しい入江
以下は夫がドローンで撮影した写真。かなり高いところに登って撮っているので、危ないから真似しない方がいいです(私もドローン免許持っているけど、恐ろしくてこんなの絶対に撮れない)。
島の南部へ行ってみると、そこにも軽石の石切場があった。
島の南の先端近くには地質学観測所があり、そこからはヴルカーノ火山がよく見える。
よし!次に向かうのは、あの島だ!
シチリア・エオリア諸島ロードトリップ その3 地中海の最高峰エトナ火山に登る
「火山」がテーマのシチリア・エオリエ諸島ロードトリップ。前回の記事に書いたように、まずはシチリア北東部、エトナ火山の麓の町、カターニア(Catania)の溶岩でできた街並みを見た。その後は実際にエトナ火山に行ってみることにした。
地中海地域では最も高く、また世界で最も活動の活発な火山の一つである。頻繁な噴火によって標高は常に変化しているが、現在の高さはこちらのサイトによると3329mだそう。エトナ山とその周辺はエトナ山自然公園(Parco dellÈtna)という国立公園になっている。(以下のGoogleMapをズームして見てください)
カターニアからはツアーも出ているが、私たちは車があるので自力で行くことにした。エトナ山に登るにはエトナ公園の北側と南側からアクセスする方法がある。カターニアからは公園の南側のニコージ(Nicolosi)という町を経由するのが便利だと現地の人に教わり、ニコロージ方面に向かって、いざ出発。
途中で車を止め、小高くなった場所に上がって眺めた景色。地表の一部が溶岩流に覆われている(グレーの部分)。山麓の火山性土壌は肥沃で柑橘類や葡萄などの栽培に適しており、シチリア島の中で最も人口密度の高い地域の一つだが、恵み多い生活はリスクと隣り合わせでもある。最近では、2001年の大きな噴火の際に溶岩流がニコロージ市のわずか4km手前まで到達したそうだ。
溶岩流で崩壊し、埋もれた家屋
20kmほど緩やかな山道を登って行くと、山岳ホテルや土産物屋、駐車場のあるリフージョ・サピエンツァ(Rifugio Sapienza)に着く。そこからロープウェイ(Funivia Dell’Etna)に乗ることができる。この地点ですでに標高1900mを超えるので、夏でも肌寒い。この日はそれほどでもなかったけれど、風が強い日なら余計に寒いと思うので防寒対策が必要。でも、もし上着を忘れてもロープウェイ乗り場で登山靴と上着を貸し出しているので大丈夫。
黒々とした山肌を眺めながら標高2500mの高さまで登る。
ロープウェイの降り場にはミニバスが停まっている。バスでさらに登り、登山ガイドさんと一緒に歩くツアーが用意されているのだが、2017年に起きた噴火で、取材中のBBCのクルーや火山学者、観光客が噴石で怪我をする事故があり、現在は山頂まで行くことはできないことがわかった。残念!もちろん安全第一なのでしかたがない。でも、噴火口を見られないのであればツアーに参加してもあまり面白くないかな?と思い、ツアーには参加しないことにした。
下から見ると結構な急斜面に見えたが、登ってみたらたいしたことはなく、あっという間に上に着いた。この小山はピアノ・デル・ラーゴ(Piano del Lago) という火口丘だ。どんな感じか見たい方は以下の動画をどうぞ。
周囲をぐるっと歩く。ふと夫の背負っているリュックを見たら、テントウムシが1匹止まっていた。え?なんでこんな植物もない場所にテントウムシ?下界からうっかり連れて来ちゃったのかな?と思ったが、後でガイドブックを読んだら、火口周りは温かいので、テントウムシがたくさんいると書いてあった。へえー。
火山国、日本出身の私にとっては火山は珍しい存在ではないけれど、ドイツ生まれの娘には大変なインパクトのようで、「登って良かった!」と大喜びしている。来た甲斐があった。もちろん、私もエトナ山に登れてよかった。
まあ、登山といってもロープウェイに乗って少し小山を登っただけなのでイージーモードだ。しかし、私たちの火山旅行はまだまだ序の口。これからさらなる興奮が待っているのである。エトナ公園は広く、ビジターセンターやいろいろな見所があるようで、たっぷり時間をかけていろんなアクティビティを楽しむことができそうだ。私たちも後に改めてエトナ山を別の角度から見ることになるのだが、その前にシチリア島の北側、ティレニア海南部に連なるエオリエ諸島に向かうことにした。それについては次の記事で。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その2 溶岩でできた黒い町、カターニア
ドイツから4日かけてシチリア島へやって来た。カラブリア州のメッシーナ海峡をフェリーで渡るのだが、ヴィラ・サンジョヴァンニ(Villa San Giovanni)から対岸のメッシーナ(Messina)は目と鼻の先で、20分ほどで着く。陽光にきらめく青い海の向こうに雄大なエトナ火山のそびえるシチリア島が近づくのを船上から眺めるのが楽しみだ。
と思ったら、港に着いた瞬間に空が急に暗くなり、出港と同時にまさかの大雨である。視界はグレー一色、何も見えない状態でシチリア島に到着した。メッシーナから最初の目的地カターニア(Catania)方面へは高速道路を南下するだけだが、路面のコンディションが良くないので前の車の飛沫が凄まじい。シチリアはインフラが良くないだろうと想像していたが、早速、それを実感することになった。
カターニアはエトナ火山の麓にあるシチリア島で2番目に大きな町だ。今回の旅行では都市は避けると言いながらカターニアに向かったのは、シチリア旅行に飛び入り参加することになった娘をカターニア空港でピックアップしなければならなかったのと、旅の事前準備として読んだ本、「シチリアへ行きたい(小森谷慶子、小森谷賢二著)」にカターニアが「溶岩でできた」町だと書かれていたので、その街並みを是非見てみたかったのだ。
カターニアはかつてギリシア人の植民市として発展した町だが、その当時から現在に至るまで、エトナ火山の噴火の影響を受け続けて来た。1669年の大噴火と1693年の大地震では壊滅的な被害を負い、18世紀にバロック様式で再建された。
大雨の後のドゥオーモ広場
町は全体的に黒っぽく、独特の雰囲気を醸し出している。
地面のあちこちが黒い火山灰で汚れている
ユネスコ世界遺産に登録されている旧市街には美しい広場と大聖堂、城や宮殿、考古学博物館など見所がたくさんある。しかし、それらの観光名所についてはガイドブックやネット記事などに日本語の情報がたくさんあるので、このブログでは私の個人的な興味に沿って話を進めたい。
ヨーロッパでは古い建物の漆喰が剥がれて中の建材が剥き出しになっているのを目にすることがよくある。私が住んでいる北ドイツでは中のレンガが見えるが、カターニアでは溶岩だ。
すごい!
建物だけでなく、石畳や、
花壇も溶岩でできている
うおー!
と変なことに盛り上がってしまう。石造りの建物が多いヨーロッパに住んでいると、「町の景観はその土地の石がつくる」と感じるようになった。その町のある地域の自然条件によって多く採れる石材が異なるからだ。石が違えば町の色も質感も変わる。だから、知らない町を訪れるときには「どんな石の町だろう?」と気になるである。
カターニアの町は17世紀末にエトナ山の噴火で破壊されたと先に書いたが、旧市街のあちこちにギリシア時代や古代ローマ時代の遺跡が見られる。
ローマ帝政時代の円形競技場、Anfiteatro
全体の一部しか発掘されていない状態だが、総客席数はおよそ15000席と推定されるそうだ。当時の人口がどのくらいだったのかわからないが、こんな大きな競技場があったのだから繁栄していたんだなあ。黒い玄武岩でできたこうした古代建造物の名残を見ると、カターニアはまさにエトナ火山が生んだ町なのだと感じるのである。
競技場のエントランス
ローマ劇場(Teatro Romano di Catania)も見応えがあった。
溶岩という視点でカターニアの町を見た。それではエトナ火山を見に行くことにしよう。レポートは次回の記事で。
シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ その1 なぜ車でシチリアへ?
2020年からパンデミックで自由に旅行ができない日々が続いていたが、EU内共通のデジタルワクチンパスポートが導入され、ようやくドイツの外に出かけられるようになった。とても嬉しい。そこで、久しぶりの本格的な旅行としてイタリアのシチリア島へ行ってきた。ドイツの自宅から車でシチリア島に渡り、シチリア島を周遊しティレニア海に浮かぶ火山島群、エオリエ諸島を巡るロードトリップ(一部は船)である。全行程3週間、満喫したので忘れないうちに記録しておこう。
旅行規制が緩和されたとはいえ、まだパンデミックが収束したわけではないので、当面は「ピークシーズンを外す」「人の多い都市部や人気観光地は避け、主に自然を楽しむ」を我が家の旅の基本方針とすることにした。
今回の旅の目的地になぜシチリア及びエオリエ諸島を選んだのか?
数年前から、長期の旅行に出るときには何かしらテーマを設定することにしている。2020年の2月には「火山」をテーマにニカラグアへ行く予定だった。ところが直前にパンデミックが起こり、泣く泣くキャンセルすることに。そのときには1年くらい待てば行けるかなと考えていたのだが、現状では中米方面には当分行けそうにもない。そこでニカラグアの代わりに欧州最大の活火山、エトナ火山のあるシチリア島とそのすぐ北にある火山性のエオリエ諸島に行こうということになったのだ。
なぜドイツから2200km以上も離れたシチリア島まで自宅から車で行ったのか?
私と夫はロードトリップが大好きで、一緒に旅行するときは自宅から車で行ける場所へはマイカーで、そうでない場合も現地の空港でレンタカーを借りて回る。車の旅を選ぶ理由は以下の3つだ。
夫は都市よりも圧倒的に自然を好み、私もメジャーな観光地よりマイナーな場所を探索するのが好きなので、能動的な移動手段が不可欠なのである。そして、旅行のスタイルもハイキングしたり野鳥を観察したりなどアクティブ系なため、道具がいろいろと必要になる。トレッキングシューズや双眼鏡、超望遠レンズのついたカメラ、そして最近はドローンを持って行くこともあり、車でないと運搬が大変だ。また、旅先でも化石を採集したりなど、持ち帰るものも多くなっている。幸い、夫は運転が苦にならないタイプで、知らない国でも悪路でもへっちゃらなのが助かる。
自宅からオーストリアを抜けてイタリア本島を南下し、カラブリア州ヴィラ・サンジョヴァンニ(Villa San Giovanni)の港から車ごとフェリーでシチリア島のメッシーナ(Messina)に渡り、帰りはパレルモ(Palermo)から夜行フェリーでナポリ(Napoli)へ移動、そこから北上して帰って来た。シチリアへ到着してからの移動ルートは以下のマップの通りである。エオリエ諸島のリパリ島へも車ごとフェリーで渡り、その他の島へは小型ボートで移動した。
今回はひとまずここまで。
ドイツ最大のコウノトリ繁殖地、リューシュテットを訪れる。
まだ9月の声を聞いていないのにすでに秋になったようなドイツである。今年の夏はなんだか短かったなあ。
私が住むブランデンブルクでは春から初夏にかけてコウノトリが多く繁殖する。ブランデンブルクで繁殖行為を終えたコウノトリたちは8月にはアフリカに向けて移動する。彼らが飛び立つ前に、コウノトリの村、リューシュテットへ行って来た。ブランデンブルクの外れにあるこの小さな村はドイツ最大のコウノトリの繁殖地でコウノトリの保護に力を入れている。アクセスが大変なのだが、ラジオで偶然、なぜこの村に多くのコウノトリが集まるのかについて聞いて、是非とも行ってみたくなったのだ。
すでに7月だったのでピークシーズンは過ぎていたが、それでも多くのコウノトリを見ることができた。コウノトリは大きな鳥だけあって、たくさんの個体が集まっている様子はなかなか壮観だった。野鳥観察は本当に楽しいなあ。
YouTubeチャンネル「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」にスライド動画を公開したので、ご興味があったらぜひ見てください。
ケムニッツの「化石化した森」を見に行く
ダイナミックな自然風景が好きである。
街歩きもとても楽しいけれど、これまでの旅の体験の中でそのときの感動が後々までずっと心に残っているものはどんな体験かと考えると、真っ先に頭に浮かぶもののほとんどは自然体験なのだ。忘れられない景色は数多いが、その中の一つに米国のアリゾナ州にある「化石の森国立公園」がある。そこにはこんな風景が広がっている。
広大な砂漠地帯にたくさんの木が横たわっている。木とはいっても、これらは化石だ。およそ2億5000万年前、地質時代でいうと三畳紀の終わりに洪水によって熱帯の森林から流されて来た倒木が化石化したものだと知って圧倒された。
これらの木の化石は珪化木と呼ばれる。流されて来た木々は近くにある火山の活動によって周期的に火山灰に埋もれた。火山灰の成分である二酸化ケイ素が地下水に溶け込み、その水が木の内部に入り込んで、長い年月をかけて内部組織を二酸化ケイ素に置き換えていったのだという。断面を見ると、それがもはや木ではなく石であることがわかる。これだけでも驚きなのだが、地表に露出しているのは化石化した森林のごく一部に過ぎず、地下にはまだまだ多くの珪化木が埋まっているそうだ。
広い米国の国土には、都会で普通に生活していたら触れる機会のない、とんでもないスケールの自然風景がたくさんあるなあとつくづく感じた。
しかし、この景色を見た数年後、実はドイツにも「化石化した森」と呼ばれる場所がザクセン州ケムニッツにあることに気づいた。アリゾナほどのスケールではないが、ドイツの国土の大きさからすれば堂々たる規模の珪化木の集積地のようである。1740年代に初めて化石化した木の幹が発見されて以来、ケムニッツでは断続的に多くの珪化木が発掘されており、それらは標本としてケムニッツ自然史博物館に展示されている。このたび、ようやく見に行くことができた。
博物館のフロアに展示されている「化石化した森」
クローズアップ
ケムニッツの「化石化した森」はおよそ2億9000年前のペルム紀の森なので、アリゾナ州の化石の森よりもさらに古い。その頃、ヨーロッパでは火山活動が活発で、ケムニッツの北東ではツァイスィヒヴァルト火山(Zeisigwald-Vulkan)が噴火し、一帯に大量の火山灰を撒き散らした。火山灰に埋まって珪化木となったペルム紀の木が自然史博物館の内部で「森」として再現されているというわけだ。
結構たくさんの標本が展示されている
館内の説明によると、ペルム紀のケムニッツの森にはシダ植物やシダ種子類、トクサ属、その他の種子植物などが生えていた。
いろんな断面が面白い。これは根っこの断面
木にツル植物が絡み付いたまま化石化したもの
世界各地の珪化木の断面
木の種類やそれが埋まっていた火山灰に含まれていた鉱物の種類によっていろいろな色や硬さの珪化木になる。
メノウ化したケムニッツの珪化木
ケムニッツは観光地としての知名度が高い町じゃないけれど、良い博物館がたくさんあって、私にとってはかなり楽しめる町だ。博物館好きの人には穴場だと思う。
社会主義の遺産 スターリン建築を探る
ドイツに暮らしていて面白いと思うことの一つは、いろいろな時代の建物があることだ。首都ベルリンには実に様々な時代に建てられた趣の異なる建物が不思議な調和を生み出している。
過去数十年間に建てられた近代的な建物は日本の都市にあるものとそう大きな違いはないが、それよりも古い建物は装飾が凝らされていたり、日本では見かけないフォルムや質感だったりでいくら眺めていても飽きることがない。
けれど、ドイツの歴史をほとんど知らずに街歩きをしていた頃は、そうした古い建物をすべて「西洋建築」というたった一つのカテゴリーで認識していて、どれがいつの時代のものなのかまったく見当がつかなかった。最近になってようやく、建物を外観からいくつかのグループに分類して認識できるようになって来て、ますます街歩きが楽しくなっている。
建築史におけるそれぞれのエポックは、単なる美的意識の移り変わりではなく、それぞれの時代の技術革新や政治、イデオロギーとも関わっていることがおぼろげながら見えて来た。
「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」では、相棒の由希さんが建物好きなこともあって建物をメインテーマの一つにしているが、今回は旧東ベルリンのカール・マルクス・アレーを中心にスターリン建築を取り上げた。長年ベルリンに住んだ由希さんが撮影した東ベルリンやワルシャワのスターリン建築と、私の手持ちの東ドイツの他の町や本場モスクワのスターリン建築の写真を合わせて以下のスライド動画ができた。スターリン建築は個人的には好みの建築様式というわけではないけれど、インパクトが大きいし、それらが建てられた背景はやはり興味深い。動画で紹介したものだけでなく、旧社会主義国のあちこちに類似の建築物がたくさん残っていることだろう。今後、もっと見る機会があればいいな。
旧東ドイツの気になる街角アート、背景を調べてみた
前回の記事では、旧東ドイツ時代に建てられた高層住宅群、プラッテンバウジードルングを紹介した。旧東ドイツの遺物を見て回ることができるのはベルリンやブランデンブルクに住む楽しみの一つだ。プラッテンバウはその典型的な例としてよく挙げられるが、プラッテンバウよりもさらに直接的に社会主義時代を想像させるものがある。
それは、街角で見かける社会主義時代のアート。
初めて見たときにはそのインパクトに度肝を抜かれた。私は人生の半分近くをドイツで暮らしているが、最初の10年ちょっとは旧西ドイツエリアにいたので、社会主義についてあまり考えるきっかけがなかった。ブランデンブルクに移り住み、あちこちで西側では見たことのない独特なアートを目にするようになり、社会主義国東ドイツとはどんな国だったのだろう、そこでの暮らしはどんなふうだったのだろうかと考えるようになった。
東ドイツ時代に街角に設置された彫刻や絵はイデオロギーを前面に打ち出していたため、その多くはドイツ再統一後に撤去されている。まだ残っているものについても、今後どう扱っていくべきか、議論が交わされている。
今回、「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」で相棒の由紀さんが撮り溜めたベルリンの気になる街角アート、そして私が撮影したブランデンブルクの街角アートについて、背景を調べてみたら、今まで知らなかったことがたくさん出て来て興味深かった。
どの作品も背景はそれぞれ興味深いけれど、私個人にとってはポツダムの情報処理センター(だった建物、現在はアートスペース)の外壁に描かれた、宇宙をモチーフとしたモザイク画が特に想像をかき立てる。旧東ドイツにおける宇宙開発は気になっているテーマの一つなので、いつか掘り下げてみたい。
上の動画で紹介しきれなかったが、ポツダムの情報センターの壁はモザイク画だけでなく、小さなタイルが並べられている壁もある。タイルの模様が銀河っぽい?
気になることを調べるって、本当に楽しいな。次は何を調べよう?
東ドイツのプラッテンバウ団地を探検する
私が住んでいるドイツ東部には団地が多い。いや、団地はどこにだってたくさんあるのだが、ドイツ東部の団地は特徴的である。規格化されたプレハブ工法の高層アパートがずらりと立ち並ぶ。都市という都市で見かける光景だが、特にベルリンやコットブスなどの大きな都市における団地の規模たるや圧倒的である。
そのような高層アパートは社会主義国であった旧東ドイツ(DDR)時代に建設されたもので、俗に「プラッテンバウ(Plattenbau) 」と呼ばれる。旧西ドイツにも第二次世界大戦後に建設された高層アパートの団地がないわけではないが地域が限られており、数も旧東ドイツほどは多くない。だから、「プラッテンバウ」はしばしば社会主義の象徴として語られる。ドイツが再統一された現在はダサい建物とみなされがちな「プラッテンバウ」であるが、私にはずっと気になる存在だった。なぜかというと、プラッテンバウが並ぶ団地を見ていると、なんとなく郷愁を覚えるのだ。どことなく昭和的というか、、、。いや、ここはドイツ。昭和という時代はここには存在していなかった。でも、プラッテンバウは私が育った昭和の時代によく目にした団地の風景にちょっと似ている。
「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」の相棒の由希さんは団地ファンで、やはりプラッテンバウがずっと気になっていたという。ならば、プラッテンバウを探検しようではないか。
というわけで、スライド動画「東ドイツの”The 団地” プラッテンバウ」が完成。動画では旧東ドイツで多くのプラッテンバウが建てられた背景やプラッテンバウの様々なタイプ、そしてベルリンとブランデンブルク州のいろいろな団地を紹介している。
特に紹介したかったのはプラッテンバウの聖地ともいえるベルリン北東部のマルツァーン地区の巨大団地だが、それらしい写真を撮るのにちょっと苦労した。というのは、地上から撮影したのではなかなかその規模の大きさを伝えられない。そこで、マルツァーン地区にある園芸博覧会跡地の広大な公園、”Gärten der Welt“の上を走るケーブルカーに乗り、その中から団地の景色を撮影することにした。ところが、乗ってみたらケーブルカーのガラスは黒っぽい遮光ガラスでガックリ。あ〜、これじゃまともな写真撮れないよ〜。しかし、乗った以上は引き返すこともできない。仕方なくそのまま乗っていたら頂上駅の横に大きな展望台があるのに気づいた。
あそこなら撮れる!階段を駆け上がり、展望台から見た景色は、、、、、圧巻であった。
バルト海に面したダースのかわいいドア
先月、バルト海へ休暇に行って来た。今年初めての旅行である。長い長い旅行制限が続いた後、ようやく遠出をすることができ、短い期間ではあったが満喫した。
滞在したのはダース地方のプレーローという村である。
ダース地方はバルト海に突き出たブーメランに似た形をした細長い半島の中心にある。半島名はFischland-Darß-Zingst。長い名前なのは、かつて3つの別の島だったFischlandとDarßとZingstの間に砂礫が堆積して一続きの陸地になったからだ。自然環境が素晴らしく、半島の東部のZingstは写真ツーリズムで有名で、私も一度写真ワークショップに参加したことがある(そのときに書いた記事はこちら)。プレーローはこじんまりとした静かな村で、Zingst方面へもFischland方面へも移動しやすく大変気に入った。
お天気に恵まれたので、サイクリングをしたり、海に入ったり、野鳥を観察したりと野外活動を大いに楽しんだ。
ダースにはいくつかの村があるが、ぶらぶらと歩いているうちに気づいたことがある。とても可愛らしい民家が多く、特にドアが他では見たことのない素朴な可愛さなのだ。
こんな感じ
気になっていたところ、地元の書店でこんな本を見つけて、即買い!
「ダースのドアの小さな本」と題されている
タイトルの通り、ダース地方の伝統的なドアについての本でとても素敵で興味深い。そして、裏表紙を開いたとき、「ヤッタ!」と思わず声が漏れた。
なーんと、滞在しているプレロー村の可愛いドアのついた家のマップが載っているではないか。これはもう、「ドア探検」に行くしかないよね?家から持参した自転車に飛び乗って、かわいいドアを探しに行ったのであった。
数が多くて全部は見切れなかったけれど、ドアのオーナメントにはいろんなモチーフのものがあり、また同じかわいいドアでも時代によってデザインに流行があることがわかって大変面白かった。その探検の成果をまとめたものが以下の動画である。
スライド動画には載せきれなかったダースのドアの画像を「ドアギャラリー」にアップしたので、興味のある方はぜひ見てね。
野鳥の育児観察記録2021 クロウタドリ編
前回、前々回の記事でシジュウカラの育児観察についてまとめたが、今年は同時にクロウタドリの営巣も観察するチャンスに恵まれた。
以前から我が家の庭にはクロウタドリが3ペアほど出入りしていて、そのうちの1ペアが生垣の中に巣を作ることがよくあった。でも、その生垣は奥行きが2メートル以上あり、去年までは観察用カメラも持っていなかったので、巣の中を見たことはなかった。今年はその生垣を撤去したので、うちの庭にはもう巣を作らないだろうなあと思っていた。でも、垣根を取り除いた場所に花などを植える作業をしているとクロウタドリが飛んで来て、すぐそばの地面で忙しそうに虫を集めている。お隣か裏の家の庭に巣を作ったのだろうなあ。
ところが、5月の終わりに庭の反対側の地面にクロウタドリの卵が落ちているのを発見した。
こちら側にも小さい生垣がある。もしや、と思って葉をかき分けて中を覗くと、クロウタドリの巣があった。
巣には卵が1つ。そのそばの枝には割れた別の卵の殻が引っかかっている。どうやら、カラスか何かに巣を荒らされたらしい。この巣はこのまま放棄されるのだろうか。せっかく巣作りしたのに、残念だなあ。しかし、この後、休暇に出かけたりして、そのままこの巣のことはすっかり忘れていた。
旅行から帰って来て庭を見回っていると、生垣のあたりが何やら騒がしい。クロウタドリが生垣に出たり入ったりしている。あれ?ひょっとして?
覗いてみると、メスが巣に座っているではないか。そして右側にはヒナらしきものの姿が!母鳥は残った1個の卵をちゃんと温め、ヒナが生まれていたのだ。気づいた私と夫はワーワー大騒ぎ。夫が大急ぎで観察用カメラを生垣の中に取り付けた。
やった!これでクロウタドリの巣も観察できる。シジュウカラの観察カメラは巣箱の天井につけたから真上からの映像しか見れないが、こちらは横にカメラを設置したのでまた違うアングルから観察できるのもグッド!でも、あれれ?ヒナは2羽いるぞ。巣を荒らされた後もさらに卵を産んでいたのか。
と思ったら、4羽いた!いつの間にこんなに卵を産んでいたんだろう。
気づいたのが遅かったので、ヒナはすでにある程度大きくなっていて、最初から観察できなかったのがちょっと残念だが、みんな元気いっぱいで見ていて楽しい。それもそのはず、親鳥がすごくがんばって育てているのだ。
餌としてヒナに与える虫を集めるお母さん
お母さんだけじゃないよ、お父さんも超働き者。夫婦で力を合わせて4つ子育児に奮闘している。私たちがテラスに座っていると、お父さん鳥が頭上をビュンビュン飛んでせっせと餌を巣に運んでいく。そして、このお父さんはなかなか慎重で、巣に直接は飛び込まず、まず近くの別の場所に留まってあたりを見回し、誰も見ていないのを確認してからサッと生垣の中に消える。そして、子どもたちもお利口さんなのだ。母鳥も巣から離れて餌探しをすることがあったが、親がいない間は子どもたちは巣の中に頭を引っ込めて静かにじーっとしている。ふと、「オオカミと7匹の子ヤギ」の話を思い出した。悪い奴がやって来て、食べられてしまったら大変だからね。
ぐんぐん成長して、数日後にはこんなに大きくなった!
そして7月7日。私は朝から胸騒ぎがしていた。今日あたり、彼らは巣立つのではないかという気がしたのだ。なのに、その日に限ってキャンセルできない予定が入っている。出先でカメラアプリを頻繁に覗き込む余裕もなさそうだ。私が家にいない間にすべてが終わってしまうかもしれないと巣を気にしつつ、家を出た。
数時間後、夫からメッセージが入った。
「オレのビーサンの中にヒナがいる!」
「はあ?」
あああ〜!やっぱり、出ちゃった。でも、なぜ、サンダルの中に着地!?夫はこれをどうしたものかと迷ったが、そのままにしておいたら親鳥が迎えに来て一緒にいなくなったとのことである。
私は慌てて家に帰ったが、時すでに遅し。巣はもぬけの殻であった。
自動録画された映像を巻き戻して巣立ちの瞬間が映っていないかを見たところ、最後の1羽はなかなか飛び立てなかったようで、巣の縁に上がっては中に降り、また縁に上がっては降りをしばらく繰り返した後、ついに飛び出した。
生垣の中だから、華麗に飛び立つというより、近くの枝や葉っぱに乗りながら出ていくという感じだね。
こんなわけで、シジュウカラのヒナもクロウタドリのヒナも無事に巣立ち、めでたしめでたし。そして私はまた空の巣症候群に陥るのであった。