(この記事は以前、他の場所で公開していた2019年6月のパナマ旅行記をリライトしたものです。)

今回の旅行では娘が滞在地の周辺情報を調べ、行きたいところを連日提案している。この日はボケテタウンに隣接するPalmiraというところにある動物保護センター、Jungla Wildlife Rescue & Rehab Centerを訪問したいと言う。

娘は動物好きで、高校を卒業してすぐ、エクアドルアマゾンにある野生動物レスキューセンター、Merazoniaへボランティアに行っていた。Merazoniaは怪我をしたり密輸されかけ保護された野生動物をケアし、また野生に戻す活動をしている組織で、娘はそこで1ヶ月半、保護されたサルや鳥、ハナグマ、キンカジューなどいろいろな動物の世話をさせてもらった。その経験から、パナマでの動物保護についても知りたいのだという。私も大いに興味があったので、見学に行くことにした。

Jungle Wildlife Center

娘がボランティアをしていたエクアドルの施設は、動物を自然に戻しやすいように施設自体がジャングルの中にあるが、ここは町外れのファームのような場所で、かなり雰囲気が違うと娘は感じたようだ。

建物の中に入ると若い男性が出て来たので、施設を見学させて欲しいと伝える。男性はボランティアスタッフの一人だった。10ユーロを払うと現在保護している動物を見せてくれるとのことで、早速、案内してもらう。どんな動物たちが保護されているのだろうか。

大きなケージではスパイダーモンキーのデイジーとピーターが保護されている。

デイジー

サルのケージには見学者は入ることができず、金網の隙間からピーナツをやるだけ。その他の動物のケージには入らせてもらうことができた。

このアライグマはペットとして飼われていたことがあり、人馴れしている。自然に還してもきっとまた人のいるところに戻って来てしまうだろうとスタッフは説明した。スタッフがドライフードの載ったトレーと水をはった金だらいをアライグマの前に置くと、両手でドライフードを少しづつすくっては水の中に入れて洗って食べていたのが可愛かった。

メガネフクロウ

クロコンドル

トゥーカン

トゥーカンは他の鳥たちと異なり、小さいケージに入れられている。娘が質問した。「この子は野生に戻す予定ですか?」センターのオーナーの女性が「ええ。そうしますよ」と答えると、娘は「飛べるように大きなケージにして、中に枝を置くなど、自然に近い環境にしないのですか?」と突っ込む。「もちろん。この子はたった今、ここに運ばれて来たばかりなの。これからこの子のために良い環境を作りますよ」

キンカジュー

オーナーの女性に案内され、物置小屋の戸をそっと開けると、中にキンカジューが寝ていた。「この子は夜行性で昼間は出かけるんだけど、昼間はなぜかいつもこの物置に入って寝ているのよね。ここが好きみたいで」

この日センターで見た動物たちの他にも、昼間は出かけて夜だけセンターに戻ってくる動物もいると聞いた。また、野生動物の他にもヤギや馬のような家畜、犬や猫もたくさん保護されている。犬は10匹ほど、猫は25匹もいるとのこと。

この馬は目が見えないが、なぜか娘に擦り寄って来た。

この犬も目が見えない。でも、他の犬と元気にじゃれ合って、楽しそうにしている。犬や猫は広い敷地の中で放し飼いになっていて、自由気ままだ。

センターのオーナーの女性はアメリカ人で、動物たちの世話はボランティアスタッフが支えている。保護されている動物たちの多くは怪我をして飛べなくなっていたり、目が見えなかったりと問題を抱えているが、よくケアされていて幸せそうだ。この動物保護施設にはとても良い印象を持った。

次の記事では、翌日見学したもう一つの動物保護施設、Raquel´s Arkを紹介する。

 

 

 

 

(この記事は以前、他の場所で公開していた2019年6月のパナマ旅行記をリライトしたものです。)

ボケテ高原3日目。この日はTree Trek Adventure Parkというところで吊り橋ツアーに参加することにした。吊り橋を渡りながらハイキングするツアーで、ネイチャーガイドさんが動植物について説明してくれるという。

現地に着き、受付でツアーに申し込もうとすると、「今、最初のツアーが出たばかりなので、次は1時間後です」と言われてしまった。1時間も待つのかあとがっかりしていたら、別の男性が隣の部屋から入って来た。受付係りはその男性と何やら話している。そして受付の人が急に言った。「やっぱり今すぐツアーできます。彼について行って」。わけがわからないが、出発できると聞いてついて行った。

「私、今日は本当はガイドの担当じゃないんですが、ちょうどヒマなので特別に案内しますよ。他の参加者と一緒の大きなグループより、あなた達だけの方がいいでしょ?」どうやらスケジュール外のプライベートツアーを通常料金でやってくださるということらしい。ついている。お願いすることにした。

ハイキングするのはLa Amistad Friendship International Parkといって、コスタ・リカとパナマにまたがり、両国が共同管理している自然公園だ。渡る吊り橋は全部で6つ。最初の橋の高さは40m、長さは135m。

怖そうに見えるかもしれないけれど、ジャングルの中は植物が生い茂っていて地面が見えないから、全く怖くない。ガイドさんがいろいろな植物や動物について説明してくれるのを聞きながらの散策はとても楽しかった。ガイドさんがいなければ気づかずに通り過ぎてしまうものばかり。但し、山を登りながら写真を撮るので精一杯でメモを取ることができなかったので、教えてもらった植物や虫の名前全部忘れてしまった。とても残念。

「この蜘蛛の巣を見てください。蜘蛛がまるで小枝のようでしょう?」なるほど擬態しているのか。面白い。

綺麗な花がたくさん咲いている。「これ、花びらがずいぶん硬いね」と花を触りながら娘が言う。「それは本当の花びらじゃないんですよ。本当の花はこっち」

歩いていると頭の上をいろんな鳥が飛んでいく。ガイドさんによると、鳥は赤、黄色、白しか認知できないので、ジャングルを歩くときにそれらの色の服を着ていると花と勘違いして鳥が寄って来やすくなるそうだ。

ガイドさんは今度は地面近くを指差した。斜面の下の方の少し窪んだところに細い透明な糸のようなものが張られている。

「これは蜘蛛の巣のようなものだけど、蜘蛛によるものではないんです。ほら、この白い細長いもの、この虫が蜘蛛のようにネバネバした糸を出しているんですよ。この虫は夜になると光ります」

ツマジロスカシマダラ (Glasswing butterfly)

うまく写真が撮れなかったが、羽がほぼ透明で向こうが透けて見える綺麗な蝶がいた。

2つ目の吊り橋を渡り終わって少し歩いたところで、ガイドさんが「上を見て。ケツァールがいますよ」と言った。目を凝らして指さされたあたりを見ると、枝の間に赤と鮮やかな青をした小さな何かがいるのが見えた。双眼鏡で見ると、本当にケツァール!?ケツァールは世界一美しい、幻の鳥と言われている鳥だ。それがそんなに簡単に見られるとは驚きである。写真を撮ろうとしたけれど、望遠レンズでも遠くてダメだった。「尾がありませんね。売り物にするために尾を切ってしまう人がいるんですよ。だから、尾のないケツァールが多いんです」

上から先に出発したハイキング客のグループが戻って来てすれ違った。「あの方達が予約したのはハーフツアーだから、3つ目の吊り橋で引き返して来たんですね。私たちは6つ全部渡りましょう」。

3つ目、4つ目と高度を上げながら吊り橋を渡って行く。4つ目の橋の高さは70m。吊り橋から見下ろすジャングルは素晴らしい。そして吊り橋から眺める滝も。

「あのオレンジの実は食べられますか?」

「あれはまだ熟していませんね。サルの好物ですよ」

「こっちは熟している」ガイドさんは一粒つまんで口に入れた。「あなた達も食べてみて」。食べてみるとそれほど甘くはなく、トマトのような味がする。でも、あ、あれっ?「後味がピリッとするでしょう?」かすかに唐辛子のようなスパイシーな後味が残った。

「あ、Black guanがいる。ほら、あそこ!」見ると、黒くて大きな鳥がいた。「あなた達、今日はずいぶんラッキーですね。バードウォッチングツアーでもblack guanはなかなか見られないんですよ」。日本語名はクロシャクケイというらしい。こちらも残念ながら写真は撮れず。

さらにいろいろなシダ植物や蘭などを見ながら歩いて行く。ふと足元に目をやると、赤いキノコが生えていた。「これ、毒キノコ?」

「そう。毒キノコです。ちょっと待って」。ガイドさんは小枝を2本拾い、キノコの赤い部分を両側から挟んでぎゅっと押した。

真ん中からパフッと胞子が出てくるのが見えた。「吸い込んじゃダメ。吸い込むと象が空を飛びますよ」「象が空を飛ぶ?幻覚を見るってことですか?」「そう、このキノコは幻覚作用のある毒キノコなんです」。あたりを見回すとあっちにもこっちにも生えている。

「あれえ?カニだ!何でジャングルにカニが?」驚く娘。「サワガニだね」と私。でも、ずいぶん高いところにまでいるんだなあ。

「さあ、一番高い場所に着きましたよ」。ここがトレイルの頂点。なんてクールな場所なんだろう!

さあ、ここからは下り坂だ。

「わ、見て。毛虫がこんなにびっしり!」「毒ありますか?」「これは毒なしだから触っても大丈夫。柔らかいですよ」。そっと触ると、毛がふわふわだ。小さなヘビやトカゲもいた。

マラカイトハリトカゲ (Sceloporus malachiticus)?

いろんなものを見てご機嫌な私たち。5つ目の吊り橋を渡っている時だった。先頭を歩いていたガイドさんが急に血相を変えて振り返った。口に人差し指を当てて「静かに」の合図をしてから吊り橋の下の茂みを指差す。「プーマがいる」。

ええっ!プーマ!?まさか、聞き間違いだよね?

「あそこ。見えますか?プーマですよ」。必死で目を凝らすが、見えない。どこ?

するとガサガサっと葉の動く音がし、茶色い大きな猫が茂みの中を走るのが見えた。呆然とする私たち。

「す、すごい、、、、」。ジャングルの奥地でもないのに、サファリツアーでもないのに、野生のプーマに遭遇するなんてことがあり得るんだろうか。信じられない。

ガイドさんもしばらく感慨深そうに橋の上に立ち尽くしている。

「あなた達は本当にラッキーですよ。私はよく一人でジャングルを散策しますが、いろんな動物を見つけることができます。でも、お客さんと一緒のときには難しい。あのプーマは多分、今夜この辺りで寝ていたんでしょう。あなた達の前に出発したグループ、途中で引き返しましたよね。もし彼らがここまで来ていたら、その時点でプーマは逃げてしまっていたと思います。だから、あなた達はラッキーだった。私がなぜプーマに気づいたと思いますか。かすかに唸り声が聞こえたんですよ」

驚きと感動で言葉が出て来ない。「ワオ、、、」と言いながら三人、顔を見合わせるばかり。ただの吊り橋ツアーだと思って申し込んだのが、記念すべき特別なものとなった。優秀なガイドさんに何度もお礼を言い、チップを多めに渡してお別れした。

ああ、本当に素晴らしい体験だった。パナマ、なんて素敵なところなんだ。

 

 

 

 

(この記事は以前、他の場所で公開していた2019年6月のパナマ旅行記をリライトしたものです。)

前回の記事ではLost Waterfalls Trailを歩いたことについて書いた。これはその日の続きである。

ハイキングを完了して、「ああ、疲れた〜」と言いながら宿に戻ったが、部屋に着くか着かないかのうちに娘が「じゃ、今度は何する?」と言うではないか。彼らのエネルギー量は半端ではない。休むということを知らない人たちなのだ。私も精神的には活発な方と思っているけれど、そのわりに体力がないのが悩み。

「え、また出かける??」と驚く私に「温泉があるみたいだから行こうよ」と娘。温泉か、うん、それなら行ってもいいかな。動き回るわけじゃないしね。夫も温泉に入りたいという。私は出かけることに同意した。

地図で見ると温泉はCalderaというところにある。Palo Altoから25kmくらいだろうか。車だから大した距離ではない。しかし、宿の人に聞くと「あなたたちの車で近くまで行けないこともないけど、道が悪くて大変ですよ」と言われる。そう言われてひるむ夫ではない。運転するのは自分ではないので、私は何も言わずに車に乗り込んだ。

しかし、思った以上に酷い道だった。大きな石がごろごろした凸凹道をソロソロと進まねばならず、かなり時間がかかった。どうにかこうにかCalderaまで辿り着いたが、道はますます悪くなり、ついにこの状態に。

さすがにこれ以上は無理だろう。レンタカーを壊してもいけない。ここで車を停め、この先は歩いて行くことにした。またハイキングか、、、。

どんどん凄くなる。こんな道を10分ほど歩くと立て看板があった。

私有地のため立ち入り禁止。でも、温泉に入りたいなら2ドル払えばいいらしい。看板の横には民家があり、庭にいたおじさんがこちらにやって来た。温泉に入りたいことを伝え一人2ドル払うと、道順を教えてくれた。温泉は全部で4つあり、熱いのとぬるいのが二つずつ。と言ったと思うんだけれど、スペイン語なので正確に理解できたか自信がない。まあ行けばわかるだろうと、指さされた方向へ歩く。

森の中を少し歩くと芝生があり、石に囲まれた露天風呂が見えた。実際にはこの2倍の大きさで、すでに何人か人が入っている。外交的な娘は早速水着になって「ハロー」と彼らに仲間入り。アメリカ人だったので、お喋りに花が咲いた。ちなみにパナマでは英語はあまり通じないようだ。泊まっているPalo Altoの宿の経営者はアメリカ人でコミュニケーションに全く支障はないが、地元の人は英語が話せない人が多く、私と娘はドイツで習って来た下手なスペイン語で奮闘しているのである。

夫がドローンで撮影した写真。中央が露天風呂

こちらは二つ目の露天風呂。こちらも一つ目と同様、お湯はしっかり熱い。でも、外気温も高いので、とても長くは入っていられない。ぬるい方の温泉は川の方にあるというので、よくわからないが探しに行くことにする。

川縁に行くと、お湯が滝のように流れていた。そして、ぬるい温泉は「川の方」ではなく、川の中にあった。

中でくつろぐ夫と娘、そして米国人夫婦。この湯船?では温泉の熱いお湯と川の冷たい水がブレンドされ、いい具合の温度になっている。

河原にはヤギの群れがいた。ヒマそうに私たちの様子を観察している。さて、温泉にたっぷり浸かったことだし、そろそろ帰ろうか。

帰り道では孔雀の母子に遭遇。いろんな生き物がいて楽しいなあ。

車を停めてあった場所まで戻って初めて気づいたのだが、どうやら来るとき随分回り道をしてしまったらしい。帰りはそれほど酷い道路を走らずに済み、無事にボケテに戻って来た。でも、午前中は山登り、午後はドライブと温泉でもうクッタクタ。だけど、なんだか心地よい疲れだ。せっかくの休暇なのに何をそんなに疲れることをしているのかと言われるかもしれないけれど、昼間遊び倒して夜ぐっすり眠る、そんな休暇の過ごし方が嫌いではない。

 

 

(この記事は以前、他の場所で公開していた2019年6月のパナマ旅行記をリライトしたものです。)

ボケテ高原にやって来た目的の一つはハイキングだ。冷涼なドイツに住んでいる私たちにとって、熱帯雨林をハイキングするというのは本当に楽しいアクティビティなのである。ボケテ高原にはハイキングコースが豊富にあるが、まずはその中のLost Waterfalls Trailを歩くことにする。3つの滝のあるトレイルで、往復2時間くらいなので初級コースといっていいだろう。

朝、出発しようとしたら霧雨が降って来た。「雨だよ。どうする?」「構わん。行くぞ」。夫は雨でも実行するという。娘も怯むことなく、「行くしかないよ」と言うので出発することにした。6月のパナマは雨季である。雨季にも小雨季と大雨季があり、今は小雨季だからそんなにザアザア降られることはないだろうと思っていたのだが、Palo Altoに到着してからずっと霧雨が降ったり止んだりしている。後から知ったことには、これは雨季だからというよりもPalo Altoは常に雨がちなのだそうだ。ボケテタウンから3kmも離れていないが、熱帯雲雨林の入り口に位置していて霧雲がかかる範囲にある。だから、ボケテタウンでは晴れていてもPalo Altoまで北上すると急にシトシト雨が降ることが多いようだ。

トレイル入り口近くの駐車場に車を停め、15分くらい山を登ったところでコース入場料を払う。上の写真は頂上ではなく、入り口。この高さからさらに登るのだ。

防水のジャンバーを着てはいるけど、濡れるの嫌だなあ。そう思いながら歩き始めた。でも、実際に歩いてみると、ジャングルの中は大きな葉っぱが密集していてあまり雨が体に当たらないのと、汗をかいて内側からも湿って来るので、雨が降っていようがいまいがそのうちどうでも良くなった。

いやあ、やっぱりジャングルはワクワクする。ティーンエイジャーの頃は「疲れる」だの「暑い」だのと文句ばかり垂れてハイキングには参加したがらなかった娘も、ずんずん歩いていく。

道は良く整備されているけれど、雨で少しぬかるんでいて滑りやすい。スニーカーでも歩けないことはないが、ハイキングシューズがベター。

私たちが住んでいるドイツでは森の中を歩くのは国民的スポーツといっていいほどポピュラーなアクティビティで、「散歩」と称して2時間も3時間も日常的に歩く人もいる。ドイツの森を歩くのも楽しいけれど、熱帯の森は大きな葉があったり、見慣れない虫や鳥がいて刺激的である。

 

キダチチョウセンアサガオは南米原産

肝心の滝だが、3つとも無事に通過することができた。

夫と娘は滝壺で泳いだけど、水は冷たかったみたい。

雨が上がった

そんなわけで、雨に濡れながらも1本目のトレイルは無事に歩き切った。まだ少し時差ボケが残っていたこともあり、初級コースとはいえ、結構疲れた。だが、これはあくまで午前中のアクティビティで、午後の部もしっかりあるのだ。それについては次の記事で。

 

 

(この記事は以前、他の場所で公開していた2019年6月のパナマ旅行記をリライトしたものです。)

ボケテ高原のパロ・アルトに到着した翌朝、朝食の席で娘がその日のアクティビティを提案した。小さい頃からあちこち連れ回したせいか、大の旅行好きに成長した娘。やる気満々である。

「まずはコーヒー農園を見学に行こう」と娘は言う。ボケテ高原はコーヒーの産地で、アラビカ種だけでなく希少なゲイシャ種のコーヒーも栽培されていることで知られる。見学できるコーヒー農家は複数あるが、その中から娘がピックアップしたのはレリダ農園(Finca Lerida)だった。宿泊施設やレストランも併設するお洒落な農園だ。

パナマのゲイシャコーヒーについて、またレリダ農園についても農業の専門家である宮﨑大輔さんが以下の記事を書いていらっしゃるので、興味のある方は詳しくは宮﨑さんの記事を読んでいただければと思う。

パナマ産ゲイシャコーヒーの特徴!中米ボケテ高原のコーヒーツアーで学んだ栽培方法、豆の精製・焙煎技術、値段

ゲイシャコーヒーを育てる中米パナマ・ボケテ高原のレリダ農園の生産・加工・輸入・テイスティング方法

 

コーヒーの収穫期は11月から3月までだそうで、今は6月だから本来は収穫期ではなくツアーの内容は少し違っていたようだ。レリダ農園では50ヘクタールの畑にアラビカ種のカトゥアイという品種とゲイシャ種の2種類を栽培している。カトゥアイは標高の高いところで、ゲイシャは標高1600mくらいの低いところで栽培されているが、ツアーではゲイシャ種の畑を歩きながら説明を聞いた。

ゲイシャ種はエチオピア原産の品種で、とても繊細で栽培が難しい。労力に見合うほどの量が収穫できないので、かつては誰も栽培したがらなかったそうだ。しかし、お茶に似た軽い味わいとフルーティな香りが中国人などアジア人に受け、人気が出た。レリダ農園ではコーヒー畑に他の木を一緒に植え、コーヒーの木に当たる日射量を最適に保ち、風が当たりすぎないように調整するなど、繊細なゲイシャ種を手をかけて栽培している。

収穫期ではないけれど、木には花があり、実がなっていた。

その年の最初の強い雨の後、コーヒーの木は花を咲かせ、花が散った後、枝に節ができる。実はその節になる。青い実が熟れて赤くなったら収穫だ。ところが、近年、異常気象が続き雨が降りすぎたため、ストレスでコーヒーのライフサイクルが狂ってしまっているそうだ。

さらには葉っぱが寄生虫にやられ、カビが生えて写真のように黒ずんでしまった木がたくさんあった。大変なダメージだ。しかし、やみくもに農薬を散布すると益虫も一緒に死んでしまう。なるべく農薬の量を抑えながら効果的にカビの問題を解決しようと栽培ロットごとに様々な方法を試しているそうだ。農業って大変だなあ。

熟れた実(チェリーと呼ぶ)を潰して押し出した生豆にはヌメヌメしたゼリー状のものが付いている。伝統的なコーヒー豆の処理法は水洗い法といい、ゼリー状のものを洗い流してから3週間ほどかけて乾燥させ、皮を剥く。でも、前述のように異常気象で本来は収穫期でない時期に実がなったり、コーヒーの実を摘む労働者が不足していて摘みきれない実が熟しすぎ、美味しくなくなってしまうという問題があるそうだ。

そこで、水洗い法の他の方法も取られるようになった。その一つはハニー法といって甘いゼリー状のものを洗い流さないまま乾燥させる方法で、ゼリーの甘みが残るのでハニー法と呼ばれるそうだ。もう一つはナチュラル法で、実を丸ごと乾燥させ、後から機械で割って豆を取り出す。これらの方法は人手不足による苦肉の策だったが、出来上がったコーヒー豆はそれぞれ味わいが違い、飲み比べて違いを楽しめるのがセールスポイントになっているという。

こちらの豆はゲイシャではなくカトゥアイ。熟れると黄色くなる種類もある。コーヒーの実の品質は大きさ、色、密度などで決まる。グレードの高いものは主に輸出され、グレードの低いものは地元で消費される。高校を卒業してから一人で1ヶ月半、エクアドルに滞在したことのある娘は「エクアドルでも美味しいコーヒーはヨーロッパなどに輸出されて、地元で飲むのはセカンドクラスだと聞いたよ」と頷いた。

他にもコーヒーの歴史など面白い話をいろいろ聞かせてもらった後、ティスティングをすることになった。水洗い法、ハニー法、ナチュラル法のそれぞれで精製したカトゥアイと水洗い法のゲイシャの4種を比べるという。

コーヒーのティスティングは初めてで、ただ飲み比べるだけかと思ったら、ローストした豆の状態での香りの違い、挽いた豆の香りの違い、お湯に溶いた状態での香りの違い、そして飲んでみての味と香りの違いと4段階で比較するという。それぞれどう違うか、コメントしてくださいとガイドさんに言われたので戸惑う。水洗い法の豆が一番普通のコーヒーらしく、その他はそれぞれ香りが違うのはわかるけれど、言葉で説明するのは難しい。いろいろな香りの書かれた円チャートを指差さされ、「さあ、この中のどの香りを感じますか?」と聞かれる。「えーと、ハニー法の豆はちょっとシナモンっぽい香り?」「シトラス系の香りもしませんか?」「ナチュラル法はウッディな香りかな」。コーヒー豆ソムリエごっこのようでなかなか楽しい。

ゲイシャ種の豆は明らかに異なる香りがした。コーヒーというよりも軽くて確かにお茶のよう。そしてフルーティでちょっとフローラルな香りがする。すごーーーくいい香り!希少だからありがたがるわけではないけど、なんだかすごく気に入ってしまった。世界で最も高いコーヒーの一つだそうで、パナマで飲む機会が得られてよかった。

 

 

 

(この記事は以前、他の場所で公開していた2019年6月のパナマ旅行記をリライトしたものです。)

パナマシティのアルブロック国内空港でレンタカーを借り、いよいよボケテ高原に向けて出発する。ボケテまではパナマシティからパンアメリカン・ハイウェイでチリキ県最大の町(と言っても人口12万人程度だが)Davidまで行き、そこから約35km北上するだけなのでルートとしては単純だ。さすが北アメリカから南アメリカを縦断するパンアメリカン・ハイウェイだけあって道路はよく整備されていて快適だ。

と思ったものの、状態が良かったのはパナマシティを出発してしばらくの間だけで、そのうち「これ本当にハイウェイなの?」というコンディションとなった。レンタカー屋の人に「ボケテまでどのくらい時間かかりますかね?」と聞いたとき、「そうですね。(夫に向かって)あなただったら7、8時間かかるかな。私なら5時間で行っちゃうけど。ヒヒヒ」と言われ、夫は「なんでオレだったらそんなに時間かかるんだよ」とムッとしていたが、この道路状態では結構時間がかかるかもしれない。とはいえ、私たちが住んでいるドイツ東部はかなり酷い道路がたくさんあるので慣れていて、まあ、苦痛を感じるほどではなかった。

道路沿いに民家はたくさんあるのだが、町らしい町はなく、似たような田舎の景色が延々と続いた。ハイウェイ沿いは森林はすっかり切り開かれている。4時間くらい車を走らせていたらお腹が空いてきた。「どっかのレストランに入ろうよ」と誰からともなく言い出したが、なかなか適当な店が見つからない。

「PIOPIOっていう看板をさっきから何度か見たね。チェーン店かな?」「じゃ、次にPIOPIOがあったら入る?」娘がスマホでPIOPIOを検索する。「ファストフードみたい」「どれどれ?うーん、マクドナルドとケンタッキーを足して2で割ったような店だね」。あまりピンと来ない。もっと他の店はないのだろうか。グズグズしていたら、少し大きめの町らしいSantiagoに到達した。「Santiago Mallって書いてあるよ。モールならフードコートがあるんじゃない?」車を停め、中に入ると大きくて新しいショッピングモールである。しかし、フードコートは、、、、。

ジャンクフードばっかり、、、。まあ、田舎のモールだからこんなものかな。もうちょっとパナマらしい食べ物を期待していたのだが、お腹が空いていたので文句を言わず適当なものを買って食べた。しかし、その数百メートル先にパン屋があり、エンパナーダなど売っていた。しまった!だったら最初からパン屋を探せば良かった。

サンチャゴを通過してしばらくしたら、突然景色が変わった。民家がまばらになり、青々とした森が広がった。それとほぼ同時になぜか道路の状態も再び良くなりスイスイと車を飛ばすことができたので、まもなくDavidの町に着いた。そこからボケテの町までも快適だった。

ボケテ高原

山間の小さな町ボケテはAlto Boqueteとその少し北のBaño Boqueteに分かれている。Baño Boqueteの方が栄えていて、お洒落な西洋レストランやカフェがたくさん並んでいる。しかし、私たちの宿はそのどちらのエリアでもなく、さらに数キロ北上したPalo Altoというエリアだ。車があるのだから、中心部から少し離れたところでもいいかなと思ったのである。

ようやく到着した宿はこんな川の側の野趣あるエリアでとても気に入った。

これから1週間、楽しく過ごせそうだ。

 

 

(この記事は以前、他の場所で公開していた2019年6月のパナマ旅行記をリライトしたものです。)

パナマ運河を見学した後、再びUberを利用してパナマシティに戻った。次に訪れるのは、もしパナマに行くことがあれば必ず見たいと思っていた博物館、Biomuseoだ。生物多様性博物館とも呼ばれている。

そもそもパナマに来た目的は主にパナマの自然を楽しむことである。熱帯の国パナマは私の住んでいるドイツや故郷日本では見られない動植物が豊富に違いない。以前訪れたことのあるオーストラリアやタイ、インドネシア、コスタ・リカの熱帯雨林でカラフルな鳥や昆虫、花を見て感動したが、あらかじめ現地の生態系について少しでも知っておけばより楽しめるのではないか。そう思って、Biomuseoをまず見ておくことにしたのだ。

Biomuseoは2014年にオープンしたばかりの博物館で、アマドール・コースウェイという人工の細長い半島にある。見ての通り、目を見張る斬新な設計のカラフルな建物だ。設計者はフランク・ゲーリー。8つのテーマのギャラリーからなる建物を美しい公園が囲んでいる。

最初のギャラリーは生物多様性ギャラリー。パナマの国土は南北アメリカ大陸を繋ぐ東西に細長く伸びた地峡で、その地理条件がパナマの生態系をとても特徴的にしている。熱帯雨林と熱帯雲霧林、マングローブの森には1000種を超える蘭、約150種のパイナップル科植物、100種以上のシダ植物、そして数多くのフィロデンドロン、ヘリコニア、ユリ科の植物が生育する。パナマが原産の木は300種を超え、中央ヨーロッパの6倍にも及ぶそうだ。動物も哺乳類だけでおよそ240種、鳥や虫や魚の種類は想像を超える豊かさだろう。しかし、森林破壊や動物の密猟などで多様性がどんどん失われていっている。生物多様性ギャラリーではパナマにどのような動植物が生息し、それぞれがどの程度絶滅の脅威にさらされているのかをパネル展示で知ることができる。

 

シアターPanamaramaではパナマの自然を3面及び床面の大画面に映し出される映像で感じることができる。これ、すごく良かった。

 

地峡ギャラリー(Building the Bridge)の展示はパナマの国土がどのようにして形作られたかを示している。かつて南北アメリカ大陸の間には隙間があり、太平洋と大西洋は繋がっていた。太平洋プレートがカリブプレートの下に沈み込んでいく圧力と熱によって海底に形成された火山が海面から突き出して島となった。次々と現れる島々が次第に繋がってできたのがパナマだ。

約7000万年前の海底にあった枕状溶岩

約300万年前、パナマの国土が形成され南北アメリカが陸続きになったことで、それぞれの大陸の動物が大規模に移動して種の交換が起こった。これを生物学ではアメリカ大陸間大交差と呼ぶようだ。第4のギャラリー「The Worlds Collide」では北から移動して来た動物たちと南から移動して来た動物たちがパナマ地峡で出会う様子がダイナミックに示されている。なるほど、生物多様性博物館がパナマにあるもう一つの理由が理解できた。

ワクワクするディスプレイ

 

5つ目のギャラリーである建物の中央広場で人類が登場する。パナマに辿り着いた人々がどのように土地を利用し生活して行ったかを示す考古学及び文化についての展示だ。

 

海のギャラリー。パナマは太平洋とカリブ海に挟まれているが、二つの大きな水槽がそれぞれの生態系を示している。カリブ海と太平洋では同じ海でもいろいろな違いがある。カリブ海のサンゴ礁は様々な生息環境を提供するため、魚の種類が多い。透明度の高い海水の中では魚は主に視覚情報を使ってパートナーを探す。だからカリブ海の魚はカラフルだ。派手な模様は色とりどりのサンゴの間でのカムフラージュにも役立つ。それに比べ、太平洋の魚は見た目が地味だ。周辺環境がわりあい均等なので、多様性がカリブ海よりも低い。しかし、太平洋の魚の多くは集団で泳ぐため、それぞれの種の個体数が多い。

 

こちらがカリブ海の環境で

こちらが太平洋の環境

海の中って本当に綺麗で面白いなあ。私はスノーケルしかできないので、ダイビングは憧れである。

Biomuseoにはその他に生態系のネットワークを示す展示、パナマの生態系と世界の生態系のネットワークを示す展示がある。また建物の外の公園ではパナマの植物や生き物を眺めながら散策できて、最高である。

これでパナマシティで絶対に見たかった場所2つを見ることができたので、首都を離れ、パナマを探検することにしよう。アルブロック国内空港でレンタカーを借り、さあ出発だ。目指すはコスタリカとの国境近く、ボケテ高原である。

 

 

(この記事は以前、他の場所で公開していた2019年6月のパナマ旅行記をリライトしたものです。)

ドイツの人気絵本作家、ヤノッシュの作品に”Oh, wie schön ist Panama!(おお、パナマはなんて美しい)”というものがある。味わい深い可愛いイラストとユーモラスな文章が魅力的なヤノッシュの絵本の中で最も好きなものの一つだ。日本語のタイトルは「夢見るパナマ - きみのパナマを探しにいこう」。なんとも素敵なタイトルである。

パナマ。どんな国なのだろうか。本を初めて手にしたときから、いつか行ってみたいと思っていた。

2019年6月いよいよそのときが来た。私たちのパナマを探しにいくのである。ベルリン・テーゲル空港からアムステルダム経由でパナマシティへ飛ぶ。家を出発して約11時間後、トクメン国際空港に到着し、予約してあった市内のホテルに向かった。

パナマシティは高層ビルが立ち並ぶ大都会だ。ホテルの部屋の窓からの眺めに驚く娘。「ここは東京?」

時差で結構疲れていたので、その日の夕食はその辺で適当に済ませて寝る。

翌朝は時差ボケで早くに目が覚めた。朝食はホテルの朝食ルームで。パンにハムやソーセージ、チーズ、卵料理といった洋風の朝食の他にパナマの食べ物とみられるものがいくつかあったので食べてみる。お皿の右上のちょっと焦げ目のついた円盤状のものはトウモロコシのトルティーヤ、その横の長細いものはキャッサバ芋のフライ、左のものは茹でたキャッサバらしい。これらは後から調べてわかったことで、食べているときには自分が何を食べているのかわからなかった。トルティーヤは少しボソボソとした食感で、キャッサバフライはフライドポテトのよう、茹でキャッサバは味の薄い焼き芋という感じである。3つとも、美味しくないわけではないがすごく美味しいというわけでもなく、あまり味がしない。

さて、朝ごはんを食べたら、まずはパナマシティで是非とも見たい場所の一つ、パナマ運河に向けて出発だ。パナマシティ市内の移動はUberがとても便利である。スマホアプリで現在地と目的地を設定すると数分で車がやって来る。私たちはパナマ運河の水門の一つ、パナマシティから北西約20kmの地点にあるミラフローレス(Miraflores)閘門にあるビジターセンターに向かった。

ビジターセンターの展望台から水門を眺める。

 

 

パナマ運河は2016年に拡張工事が行われ、このミラフローレス閘門のやや南西に新たにココリ閘門が作られた。写真の水路は古い狭い方で、ココリ閘門の方の水路はもっとずっと広いらしいけれど、残念ながらビジターセンターの展望台からはほとんど見えない。新しい水路を見学するなら太平洋側ではなくカリブ海側のアグア・クララ閘門のビジターセンターに行くといいようだ。

パナマ運河の建設の歴史やミラフローレス閘門の仕組みについては宮﨑大輔さんがブログですでに詳しく書いていらっしゃるので、ビジターセンターの展示について少し書いておこう。

ビジターセンターの展示はパナマ運河が建設されるまでの苦難の歴史から始まる。1534年にスペイン王カルロス1世(神聖なローマ帝国皇帝カール5世)が運河建設のための調査を指示して以来、フランスが工事に着手して失敗し、米国が1914年についに運河を開通させるまでの、莫大な資金が注ぎ込まれ多くの命が失われることになった巨大プロジェクトの経緯を知ることができる。

運河建設のためにスコットランドで造られ、1912年に浚渫作業を開始したバケット浚渫船Corozal。52個のバケットで40分足らずの時間に1000トンもの土砂をすくい上げることができたとのこと。

これは運河の開通後、初めて運河を通行したSS Ancon。

 

ビジターセンターではパナマ運河の周辺の生態系についても展示スペースが設けられていて、興味深かった。運河流域にはチャグレス川国立公園(Chagres National Park)、ソベラニア国立公園(Soberania National Park)、カミーノ・デ・クルーセス国立公園(Camino de Cruces National Park)、アルトス・デ・カンパナ国立公園(Altos de Campana National Park)やスミソニアン熱帯研究所の運営するバロ・コロラド島の熱帯林など多くの自然保護区があり、保全活動が行われている。チャグレス川はパナマ運河の運用に必要な水の40%をもたらすだけでなく、合わせてパナマの人口の50%ほどを占めるパナマシティとコロン市に飲料水をもたらす大切な川だ。チャグレス国立公園内にはジャガーやオウギワシも生息しているという。

展示されていたゴキブリ。ゴキブリは大嫌い!のはずなのだけれど、私が知っているゴキブリとかなり違う姿なので、珍しくて、つい写真を取ってしまった。自分の家に出没する可能性がないとわかっていれば、意外と気持ち悪さは感じないものである。名前はGiant Cockroachだったかな。

 

パナマ運河は2016年に拡張工事が完成している。拡張工事をするかどうかは国民投票で決めたらしい。ビジターセンター内の新しい水路に関する展示スペースはとても賑わっていて、パナマ国民がこのプロジェクトをとても誇りに思っていることが窺えた。

拡張工事に使われた世界で最もパワフルな浚渫船D´Artagnan号。拡張工事により、これまでよりも大きな船が運河を通過できるようになった。パナマ運河を通過できる船の最大サイズを「パナマックス」と呼ぶそうだが、新しいパナマックスとして従来の約 5,000 TEU から 12,000 TEUへとサイズが改定されている。全幅は17mも広くなったというからかなりのスケールアップだね。

残念ながらビジターセンターに行ったのは船が通過する時間帯ではなかったので、船は見られなかったけれど、パナマの象徴ともいえるパナマ運河の見学で旅のスタートを切ったのは良いアイディアだった気がする。パナマシティでは是非とも見たいものがもう一つあった。それについては次の記事で。

 

2013年の米国旅行の際に印象深かった風景を思い出しながら綴る「過去旅風景リバイバル 米国編」。これまで7回にわたって主にアリゾナの風景について記して来たが、今回が最終回である。最後の風景はアリゾナ州とユタ州にまたがるモニュメントバレー(Monument valley)。

ユタ州からモニュメントバレーに向かってハイウェイ163を南下すると、映画「フォレスト・ガンプ」でフォレストが一直線の道を走ったシーンの撮影場を通過することで有名だ。私たちはアリゾナ州側から北上したので、残念ながらフォレスト・ガンプ・ポイントは通過しなかった。モニュメントバレーはその6に書いたアンテロープ・キャニオン同様にナバホ族の居留地である。ハイウェイ163をナバホ・ウェルカムセンター(Navajo Welcome Center)のところで降りて右折し、モニュメント・バレー・ロード沿いにあるビジターセンターに向かった。

ビジターセンターの展望台からは赤い砂岩の3つのビュート(残丘)が見える。名称は左からそれぞれウェスト・ミトン・ビュート(West Mitten Butte)、イースト・ミトン・ビュート(East Mitten Butte)、そしてメリック・ビュート(Merrick Butte)。左の二つはミトンように見えるからミトンビュートと名付けられた。それにしても、西部劇の舞台が現実にあるんだね。ただひたすら驚き、圧倒される。

ビュートというのは、岩山が川による侵食を受ける際、上部にある硬い地層が蓋となって(キャップロック)その下の柔らかい地層を侵食から守ることでできる。ビュートの末広がりの下部は泥が固まってできたオルガン・ロック頁岩(Organ Rock Shale)で、その上に垂直にde Chelly Sandstoneという砂岩が乗っている。キャップロックの部分はShinarump Conglomerateと呼ばれる礫岩だ。

これらビュートの独特な形状がモニュメントのようだから、この一帯はモニュメント・バレーと呼ばれているわけだけれど、ナバホ族はこの地域をシンプルに「岩の谷」と呼ぶそうだ。この風景もアリゾナの他の多くの風景と同様に、堆積→隆起→侵食というプロセスが生み出している。侵食が進んでモニュメントのようなビュートが残ったこの景色はグランドキャニオンやレッド・ロック国立公園の遠い未来の姿ということだろうか。乾燥していて植物がほとんど生えていないからこそ、そうした自然の作用をこんなにも直接的に感じることができる。

Merrick Butte

それにしても米国の風景はスケールが違う。3週間に渡るこの米国旅行では今回まとめた「過去旅風景リバイバル」で取り上げなかった他のたくさんの場所を訪れた。それぞれ面白かったけれど、旅を終えて8年半が経過した今、振り返ると、特に心に残っているのは驚異的な自然風景ばかりだ。もちろん、都市は都市で興味深いのだけれど、スケールの大きな自然風景に身を置いたときの感動と驚きは、より深く記憶に刻まれるような気がする。私の場合は、だけどね。

さて、「過去旅風景リバイバル」の米国編はこれで一旦おしまい。米国だけでなく、過去に旅した他の国についても、おいおい記憶を辿って記していこう。

 

 

過去旅風景リバイバル、米国編その7はアリゾナ州グランドキャニオン国立公園(Grand Canyon National Park)。言わずと知れたメジャーな観光地で世界中の旅行者に語り尽くされているけれど、アリゾナ州を旅するなら、やっぱり外せない。なぜなら、あれほど巨大でダイナミックな自然の造形に旅行者が簡単にアクセスできる場所は世界中にそれほど多くないと思うから。

 

南縁、サウスリムからの眺め。この写真は2013年のものだが、グランドキャニオンを訪れるのはこのときが初めてではない。私は大昔、二十歳のときに同じ場所に立ち、同じ風景を目にしていた。でも、そのときには、是非とも見てみたいと思って行ったグランドキャニオンなのに、目の前に広がる景色があまりにも不思議で現実のものだという実感が湧かず、感動的なのかどうかもよくわからなかったのを覚えている。それから何十年もの月日が経過し、その間にいろいろな場所でいろいろな風景を見て来たからか、2度目に訪れたこのときには、そのとてつもない規模を実感することができた。

さまざまな種類の堆積物がレイヤーとなり、岩肌に縞模様を作っている。ここはかつて浅い海だったときもあれば、乾燥した砂丘地帯だったときもあった。この風景には20億年にも及ぶ環境変化が記録されている。そして、このような深い谷をその上から一望することができるのは、およそ7000年前、この一帯が地殻変動によって隆起してコロラド高原という台地となったからだ。高いところでは海抜3000メートル以上もある。そこを流れるコロラド川が勢いよく流れて岩盤を削り、深い峡谷を作った。そういえば、規模はこれよりも小さいけれど、似たような景色がカナリア諸島のグラン・カナリア島にもある。グラン・カナリアでは谷に道路が通っていて、ドライブしながら渓谷の驚くべき地形を眺めることができた。

Mather Pointからの眺め。

グランドキャニオンへは2度行ったことになるが、いずれのときもメジャーなサウスリムのみ。いつかまた行く機会があったら、そのときにはノースリムに行ってみたいな。

 

参考: National Park Serviceウェブサイト

 

 

過去旅風景リバイバル、米国編その6は前回に引き続き、アリゾナ州北部にあるアンテロープ・キャニオン(Antelope Canyon)。「キャニオン」という名の通り峡谷で、動物の「レイヨウ」を意味する「アンテロープ」は、かつて、この峡谷をエダツノレイヨウの群れが移動していたことによるらしい。砂岩などの柔らかい堆積岩が水の流れによって侵食されてできた狭いV字型の渓谷で、そのような峡谷はスロットキャニオンと呼ばれる。赤い砂岩の地層を川が削り取ってできた細い渓谷に光が差し込むと、岩肌の縞模様が独特な神秘的な風景をつくり出す。

アンテロープ・キャニオンは先住民ナバホ族(Navajo)の居留地「ナバホ・ネイション」内にあり、自由にアクセスすることはできない。最寄りの町、ページ(Page)でガイドツアーに申し込む必要があった。アンテロープ・キャニオンは「アッパー・アンテロープ・キャニオン」と「ローワー・アンテロープ・キャニオン」に分かれていて、私たちが参加したのは「アッパー・アンテロープ・キャニオン」のツアーだ。

公園の入り口でナバホ族のガイドさんと一緒に数名づつトラックに乗り込んで渓谷まで行く。移動時間はそう長くなかったはずだが、ガイドさんが事前に「地面が凸凹なので、移動中、かなり揺れますよ」と言っていた通り、すごく揺れてまるで波乗りのような状態だったので、途中の景色を写真に撮ることは無理だった。GoogleMapの航空写真で見ると、渓谷の入り口あたりはこんな感じである。

分厚い砂岩の地層に割れ目ができているのが見える。ナバホ砂岩層と呼ばれる、砂丘が固まってできたこの地層は、およそ1億8000万年前に形成された。一帯は見ての通り、カラッカラの乾燥地だけれど、夏期には雨が降ることがある。集中豪雨が発生すると、雨水が鉄砲水となって細い谷間を流れる。勢いよく流れる水で地層が少しづつ侵食されてできたのが、このアンテロープ・キャニオンなのである。

赤い砂岩の地層にできた割れ目。岩肌には細かい縞模様ができている。ナバホ族にとっての聖地であるこの峡谷内部をガイドさんが案内してくれた。中は薄暗く、ところによってはすごく狭い。

岩壁は複雑で滑らかな曲線を描いていて、上から差し込む太陽の光が陰影を作り、とても美しい。光の入り具合によって色が変わるので、刻々と変化する岩のマジックをずっと眺めていたら、さぞかし感動的なことだろう。でも、ここに鉄砲水が流れ込んで来たらと想像すると怖くて、とても長居する気にはなれないのだった。

以下、当時使っていた古いコンデジで撮ったものなので、アンテロープ・キャニオンの美しさを十分に捉えられたとは言えないけれど、写真を何枚か。それにしても、自然の造形って本当に面白い。

 

 

 

過去旅風景リバイバル、米国編の5箇所目はアリゾナ州セドナ(Sedona)のすぐ南に広がるレッド・ロック州立公園(Red Rock State Park)。レッド・ロックという名の通り、赤い色をした岩山がそびえ立つ驚異的な景観の自然保護区だ。赤い岩が朝日や夕日を浴びて一層赤く染まる姿が神秘的だからか、パワースポットとしてとても人気があるようだ。セドナについて事前に調べ他とき、「ボルテックス」という言葉を含むサイトをたくさん目にした。私はパワースポットには興味がないのだけれど、レッド・ロック州立公園の風景は是非とも見たかったし、それ以外にも絶景の宝庫であるアリゾナ州を回る拠点としてセドナに滞在することにした。そしてここで、私たち家族は「ヘリコプターに乗って観光する」という初めての経験をすることになる。これが本当に素晴らしく、忘れられない思い出となった。

ヘリコプターに乗るなんて、そんなお金のかかるアクティビティをしようという発想はそれまでまったくなく、旅の計画の中には当然、含まれていなかった。それがなぜ乗ることになったのかというと、ドイツからアメリカへの移動に利用した航空会社のオーバーブッキングのおかげなのである。フランクフルト空港からいざ出発という段になって、出発ゲートにあるアナウンスが響き渡ったのである。

オーバーブッキングのため、ご予約くださったすべてのお客様に搭乗していただくことができません。明日の便に変更しても構わないという方はいらっしゃいませんか?お客様お一人あたり600ユーロを差し上げます

「え?変更したら一人600ユーロくれるの?ってことは、うちは4人だから、2400ユーロ?」

家族で顔を見合わせた。米国旅行をしようということになったとき、「アメリカは広いから移動に時間が取られる。1週間や2週間の日程では十分に見られないだろう」と思い、思い切って3週間の計画を立てていた。しかし、3週間もホテルに泊まるとなると、さすがに高くつく。それで、4人で一つの部屋に泊まり、1つのベッドに二人づつ寝て宿泊費を半分にするという節約モードの旅になるはずだった。

「3週間もあるんだから、1日くらい減ってもそんなに変わらないよね?」

「2400ユーロももらえるなら、旅行をグレードアップできるんじゃない?」

「2部屋に泊まれるよ」

「いや、それはもったいない!せっかくの臨時収入なんだから、普段ならできないことに使うべきだ」

数分のうちに決めないと、他の人に権利を取られてしまう!飛行機の変更を受け入れて旅程が1日短くなる代わりに普段できないことにお金を使おうというのでみんなの意見がまとまった。そして、1日遅れで出発した私たちは、航空会社から貰ったお金を「レッド・ロック州立公園の上をヘリコプターで飛ぶ」ことになったのだった。

このヘリコプターに乗って空から観光するのだ

 

助手席に座ったのは私。機体にドアはなく、シートベルトで体を固定するだけ。ドキドキ、、、。

 

ヘリコプターが上昇を始め、ドアのない機体から眼下に広がる景色を見下ろす感覚は、それまでにまったく体験したことがないものだった。気分は一気に高揚。怖いといえば怖いけれど、興奮がそれを上回る。層を成す赤い岩山、その間に広がる森林、雲の影。息を呑む美しさである。

セドナはコロラド高原の南西の端の断崖、Mogollon Rimに位置している。レッド•ロック州立公園に見られる特徴的な岩山はおよそ3億〜2億7000年前に古代の山から運ばれて来た砂が堆積して固まってできたもので、後に川による侵食を受けて現在のかたちになった。柔らかい地層ほど侵食されやすいので、硬い部分が残った独特のかたちになる。岩が赤い色をしているのは、堆積した砂が鉄分に富む地下水に浸されることで、白い石英の砂粒一つ一つが酸化鉄の薄いレイヤーに覆われているからだ。

ところどころに、帯のような白い層が見える。白い部分の層は砂の粒が他の部分よりも大きく、粒子同士の間の隙間が大きいので水が素早く流れ、鉄分の赤い色がつかなかったそうだ。

手前の山は鐘の形をしたベル・ロック(Bell Rock)。その右後ろに見えるのはコートハウス・ビュート(Courthouse Butte)。上の硬い地層が残って台地になった地形は、その形状によってメサ(Mesa)とかビュート(Butte)と呼ばれる。メサとビュートの厳密な違いはよくわからないが、上部が細く孤立丘になっているものがビュートと呼ばれるらしい。ベル・ロックやコートハウス・ビュートの色はひときわ鮮やかだった。このオレンジががった色の岩はSchnebly Hill Formationと呼ばれる岩で、およそ2億8000年前に形成された。その頃、セドナ一帯は海岸の砂丘だった。ベル・ロックの裾広がりの下部は丸みを帯びた階段状になっている。

ヘリコプターはベル・ロックの周りを旋回した。カーブを描くときには機体が大きく傾く。もちろん、自分の体も一緒に傾くので落ちそうな感覚になる。でも、高いところというのは中途半端に高い方がむしろ怖くて、一定以上の高さになるとそれほど怖くない気がする。現実味が薄れるからだろうか。

レッド・ロック州立公園というくらいなので、圧倒的な迫力で視界に入って来るのは主に赤い砂岩だけれど、ベル・ロックよりも高い山の上の方は白っぽい色をしている。Schnebly Hill Formationの上に乗っかっているのはココニノ砂岩(Coconino Sandostone)。ココニノ砂岩が形成された2億7500万年前にはセドナの南東にあった海が後退し、一帯は内陸の砂丘になっていた。Schnebly Hill Formationよりも砂の粒が大きく均等で、酸化鉄の色がつかなかった。

それにしても、ダイナミックな景色の中をヘリコプターで飛び回るというのは、想像以上に感動的な体験だった。同じ空から眺めるのでも、飛行機の窓から見るのとはまただいぶ違い、もっと鳥のような感覚だと言えるかな。

さて、レッド・ロック州立公園はもちろん、歩いて回ることもできる。公園内にはたくさんのハイキングコース(トレイル)が整備されている。

ベル・ロックからコートハウス・ビュートを背景に撮った写真

Devil’s bridge

 

カセドラル・ロック(Cathedral Rock)

 

Oak Creek Canyon

写真はたくさん残っているけれど、公園にはとてもたくさんのトレイルやビューポイントがあるので、どの地点で撮ったのかどうしても思い出せないものもたくさんある。この記事をまとめるためにガイドブックやいろんなサイトを見たが、「こんな場所もあったのか。見ればよかった!」と何度も悔しい気持ちになった。広大な自然保護区のすべてを見ることはもちろん不可能だけれど、、、。家族で行けて本当によかったなあ。

 

参考図書: Wayne Rainey  “Sedona Through Time. A Guide to Sedona’s Geology” (2010)

 

 

 

「過去旅風景リバイバル」米国編の4箇所目はアリゾナ州北部ウィンズローという町の近郊にあるバリンジャー隕石孔。バリンジャー隕石孔は、約4万9先年前に地球に衝突した隕石によって形成された直径約1.2キロメートルのクレーターで、その縁に上がってクレーター全体を眺めることができる、すごい場所だ。バリンジャー隕石孔の「バリンジャー」は、地面の巨大な窪みを隕石によって形成されたものだと主張した、鉱山技術者ダニエル・モロー・バリンジャー(Daniel Moreau Barringer)の名字である。隕石や隕石孔にはそれが落ちた場所の最寄りの郵便局の名前をつけられることが多いそうで、「ミティア・クレーター(Meteor Creter)」とも呼ばれる(Googleマップ上はメティア・クレーターと表記されている)。他にもいくつかの呼び名があるようだ。

先に行った人から「ただの穴だよ」と聞かされていたので、あまり期待して行くとガッカリするかな?と思ったけれど、実際に見たら、やっぱりすごーい!

ここに隕石が落ちたんだね、ひゃあー。直径30〜50メートルの鉄隕石だというが、それがこんなに大きな穴を作るとは。落下のスピードはThe Barringer Crater Companyのサイトによると、秒速12kmと推定されるらしい。途方もないスケールの話で、実際に地球上に起こったことなのに現実味がなく、怖いという感覚は湧かない。

ちなみに、私が住んでいるドイツにも隕石孔がある。ネルトリンゲンのリース・クレーターは直径25kmもあり、このバリンジャー隕石孔をはるかに超える巨大さだ。でも、全体を眺めるには大きすぎるし、クレーターの中に町ができているから、隕石が落ちた場所と言われてもピンと来ない。(ネルトリンゲン市内には「リース・クレーター博物館」というとても面白い博物館がある。それについてのレポートはこちら)そして、ネルトリンゲンの近郊、シュタインハイムにもリース・クレーターと同時期にできたシュタインハイム・クレーターがある。そちらは小さいので、近くの丘からぐるりと見回すことができるけれど(レポートはこちら)、牧草地なので、よーく見ればなるほど窪地になっているのがわかるものの、知らなければそのまま通り過ぎてしまうだろう。それらと比べ、このバリンジャー隕石孔は窪みが一目瞭然で、一度見たら忘れられない風景だ。

バリンジャー隕石孔はバリンジャーさんの子孫の私有地だというのもびっくりした。ビジターセンターで詳しく説明してもらったけれど、メモを取っていなくて、9年も前のことだから、どんな内容だったかすっかり忘れてしまった。やっぱり、面白いと思ったことは忘れないうちに記録しないとなあ。

 

 

長くて暗いドイツの冬。ここのところ、連日グレーの曇り空で、いつ日が登っていつ沈んでいるのかもよくわからないほどである。21:00頃だと思って時計を見るとまだ17:00だったりして、とにかく夜が長ーい!相変わらずのコロナ禍で夜に町に出ていく感じでもない。暗くても楽しめること、なんかないかなあ?

と思っていたら、Geopark Nordisches Steinreichというジオパークからメーリングリストでエクスカーションイベントのお知らせが来ていた。このジオパークはメクレンブルク=フォアポンメルン州、ニーダーザクセン州、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州そしてハンブルク州という4つの州にまたがり、石の種類が豊富なのが特徴である。以前、なんとなく思いつきでメーリングリストに登録したらお知らせが届くようになった。でも、いずれのエクスカーションもブランデンブルク州の我が家からは遠いので参加したことがなかったのだけれど、先週届いたメールのエクスカーションタイトルに「UVライトを持って夜の琥珀探し」と書かれていて、気になった。というのも、先日、夫がUVライトを買ったばかりなのだ。特に使用目的があるわけではないんだけど、あると面白いかな?というのでネットでポチって、家にある石ころを照らしたりして遊んでいたところ。そうだ、琥珀もUVライトを当てると光るんだよね。

ドイツのバルト海は世界的に有名な琥珀の産地だ。以下の記事にまとめたように、素敵な琥珀博物館もある。

世界有数の琥珀の産地、バルト海の琥珀博物館を訪れる

バルト海の海岸で琥珀探しができたら最高だけど、うちから日帰りで行くには遠い。でも、よくお知らせを見たら、海岸まで行かなくても内陸の砂利の採石場でも琥珀探しができることがわかった。ハンブルクに近いLüttowというところの採石場まではうちから片道2時間ちょっと。これなら参加できる。早速、エクスカーションに申し込んだ。

17:00に石切場の駐車場で集合。参加者は10人ちょっとで、子ども連れの人もいた。地質学ガイドさんの案内で真っ暗な石切場に入って行く。

なんかワクワク〜

採石場には砂利の山がたくさんあって、山の表面を熊手で引っ掻いて琥珀を探す。琥珀以外にもUVライトで光るものがいろいろあるが、黄色く光るのが琥珀だ。

わー、楽しい。大人も子どもも同じ熱量で遊べるのがいいな。参加者同士、ほとんど会話もせずに暗闇の中、黙々と琥珀を探していた。

1時間半ほどでこのくらい拾った。ちっちゃーいのばかりだけど、初めてだから、まあこんなものかな?思ったよりも色のバリエーションがある。

本当に全部琥珀か、塩水に入れてチェックしてみた。一応全部、浮いているので、きっと本物でしょう。

味をしめて、もっと本格的に探してみたくなった。いつか機会があるといいんだけど。バルト海に旅行者用のアパートを借りて、1週間くらい夜の海岸を琥珀を探し歩くという冬の過ごし方も悪くないかもしれない。

ちなみに、ジオパークNordisches Steinreich の琥珀探しエクスカーションはわりと頻繁にやっているようで、ロケーションもいろいろだ。エクスカーションのスケジュールはこちら。このジオパークは他にもハルツ産地やイギリス南部のジュラシックコースト、サルディニア島などへの少人数のジオ旅行も提供していて、とても面白そう。いつまで続くのかわからないパンデミック下、町中での活動を計画するのは本当に難しくなってしまった。自然の中で楽しめることを少しでも見つけていきたいと思う今日この頃。

 

 

 

過去旅風景リバイバル、米国編。今回スポットを当てるのは、カリフォルニア州デスバレー国立公園北部にあるメスキートフラット砂丘(Mesquete Flat Sand Dunes)。カリフォルニア州北東部のマンモスレイクス(Mammoth Lakes)からネバダ州ラス・ベガスへ移動する途中に見た風景である。

真夏だったので、デスバレーは迂回した方がいいのではないかと思った。なにしろ、デスバレーは世界で最も暑い場所の一つで、56.7℃という世界最高気温を叩き出している。水をたっぷり積んで走るにしても、途中で車がエンコするかもしれない。外に出て灼けた地面を歩いたら靴底が溶けたという体験談も聞いていた。でも、「デスバレー(Death Valley)」という言葉の響きにはやっぱり興味をそそられる。一目見たかった。夫も、迂回すると遠いから、やっぱりデスバレーを突っ切って行こうと言う。一番暑い時間帯に当たらないようにと、早めに出発することにした。

ところが、家族が朝、なかなか起きないので出発が遅れ、途中でマンザナーにあるかつての日本人強制収容所を見学していたらあっという間に時間が過ぎて、午後になってしまった。オーエンズ湖の東側を通り、州道190号線に入ってしばらく走るとデスバレーに突入する。

車を停めて、少し歩いてみる。暑いが、まだこの時点では耐えられないほどではない。

 

さらに190号線沿いを進むと、メスキート・フラット砂丘と呼ばれる砂丘地帯に到達した。駐車場があったので、休憩することにした。

恐る恐る、車のドアを開けて外に出る。うわぁ、暑い!まるでドライヤーの熱風を全身に浴びているかのよう。砂丘の奥に向かって、少しだけ歩いてみる。

眩い光にクラクラしながら眺める風景は、なんだか現実感がなく、不思議だった。

デスバレーは広大なモハーヴェ砂漠の北に位置している。砂漠なんだから砂丘があって当たり前な感じがするが、実際にはそうではなく、砂漠には砂砂漠の他に土砂漠、岩石砂漠、礫砂漠などいろんな種類がある。この一帯は山脈に挟まれていて、風上にある山が侵食を受けて砂が運ばれて来るが、風下にある山がバリアとなって砂がそれ以上飛ばされず、この一帯に溜まることで砂丘となった。デスバレーは「バレー」という名の示す通り谷で、一番低いところは海面下マイナス86mととても低い。北西から南北に伸びるデスバレーの真ん中には活断層がある。その断層が水平方向にずれて谷底が広がり、中央部が沈下していったからそんなに低いのそうだ。(参考: 渡邉克晃「美しすぎる地学辞典」)

砂の上を歩いていたのは10分ほどだったろうか。圧倒的で魅力ある風景だけれど、暑くてとてもじゃないけれどこれ以上は外にいられない。急いで車に乗り込み、出発した。

そこから先の景色も凄かった。もう車は降りず、車の窓ガラス越しに撮ったのでのでぼんやりとしているけれど、ネバダ州へ抜けるには、こんな山を越えていく。

冬が観光シーズンの米国最大の国立公園、デスバレー。このときは夏だったので、サッと通り過ぎてしまったけれど、「アーチストパレット」や「サブリスキーポイント」など、驚異的な風景の宝庫だから、いつかまた行くチャンスがあったらトレッキングしてみたいなあ。

 

 

「過去旅風景リバイバル」シリーズ米国編、思い出の景色の第二弾はヨセミテ国立公園(Yosemite National Park)で見た花崗岩ドーム。前回の記事に書いたモノ湖へはサンフランシスコからヨセミテ国立公園を横切るタイオガ・パス・ロード(Tioga Road)を通って行った。以下の写真はその途中で見た景色。

えーと、これはどの地点からどちら方向を見て撮ったんだったっけな?見慣れない風景に「わあ、すごい!」と思ったのは覚えている。でも、9年も前のことで、当時は細かい記録をメモを取っていなかったので、記憶が曖昧だ。Googleマップを見ながら考えるに、タイオガ・パス・ロード沿いのビューポイントの一つ、オルムステッド・ポイント(Olmsted Point)から見た花崗岩ドーム、「ハーフドーム(Half Dome)」ではないかと思う。Twitterにこの画像を上げて、わかる人はいませんかと聞いてみたところ、同じ推測を頂いたので、たぶん間違いない。

ハーフドームはヨセミテ国立公園のアイコンで、ハイキングする人も多い。ネット上によく上がっている写真はグレイシャーポイントという別のビューポイントからの眺めで、球を縦に半分に割ったような形状をしているのでハーフドームと呼ばれているそうだ。オルムステッド・ポイントからは切り立った崖側は見えない。

ヨセミテ国立公園にはハーフドーム以外にもボコボコした花崗岩ドームがたくさんある。このような変わった地形はどうやってできたんだろう?この景色を見た当時はまだ地質学にそれほど興味を持っていなかったので、「すごい景色だなあー」と圧倒されたものの、それで終わってしまった。今さらだけど、成り立ちを調べてみよう。

ヨセミテ国立公園はシエラネバダ山脈(Sierra Nevada)の西山麓に沿って広がっている。花崗岩は深成岩だから、マグマが地下の深いところでゆっくりと冷えて固まってできる。ヨセミテの花崗岩の丘は、シエラネバダ・バソリスという巨大なマグマ溜まりが固まって形成された岩体が地下から押し上げられ、その上の土壌が侵食を受けることで地表に剥き出しになってできた。

オルムステッド・ポイントの丘の斜面に座る子どもたち

オルムステッド・ポイントの丘の表面には割れ目がたくさんあった。昼間、岩が温まって膨張し、夜間に冷えて縮むことで割れ目ができる。岩は層状になっていて、風化で表面の層が玉ねぎの皮が剥けるように剥離し、そのプロセスが特定の条件下では特徴的なドームの形状を作る。当時ティーンだったうちの子どもたちが座っている斜面のところどころに石がちょこんと乗っかっているのが見える。これらの石は、かつてここを覆っていた氷河が遠くから運んで来て置き去りにした「迷子石」だということに今、気づいた。

えー、9年前にヨセミテで「迷子石」を目にしていたなんて!

というのは、私が住んでいるドイツのブランデンブルク州にはいたるところに迷子石があるのだ。いつからか迷子石に興味を持つようになり、このブログに迷子石に関する記事をいくつも書いているのだ。(「迷子石」でサイト内検索すると関連記事が表示されます)

氷河の置き土産 〜 北ドイツの石を味わう

ブランデンブルクではヨセミテのように岩盤が地表に剥き出しになっていないので、氷河で運ばれた石は土の中に埋まっているか、農作業や工事の際に掘り出されて地面の上にあるので、同じ迷子石でもそのたたずまい(っていうかな?)はヨセミテのそれとはかなり違うが。ヨセミテでそれらの石を見たときにはまだ「迷子石」という概念を知らなかったので、何も考えずにスルーしていた。

このときの旅行では行きたい場所がたくさんあって、ヨセミテ国立公園はサーッと通過してしまった。何日か公園内に滞在して氷河がかたちづくった景観をじっくり味わえばよかったなあ。今になってすごく悔しい、、、。

 

 

若い頃に楽しんでいた都市型の旅から自然を楽しむ旅へと移行したのは、子どもが生まれたことがきっかけだったと思う。幼な子と大荷物を抱えて公共交通機関で町から町へと移動することが難しくなった。子どもは美術館や博物館にはすぐに飽きてしまうから、ゆっくり見られない。必然的に自然豊かな場所に滞在する旅が中心となった。

子どもが大きくなるまでの間だけのことと最初は思っていたけれど、気づいたらすっかり自然の美しさ、面白さに魅了されている自分がいる。子どもたちはすでに大人になったが、私と夫の自然を楽しむ旅は終わらない。特に近年は地形や石や化石、野生動物など、自然風景を構成するいろいろなものへ興味が増していて、風景を少しでも「読み解きたい」と思うようになった。

過去数年に訪れた場所についてはこのブログに記録している。それ以前の旅でも印象的な風景をたくさん目にしたけれど、以前は自然について知りたいという欲求が今ほど強くなかったので、「綺麗!」「すごいなあ」という感想だけで終わってしまうことが多かった。過去に訪れた場所についての解説を今になってから読むと、「そういうことだったんだ!」と改めて感動する。地球上に行ってみたい場所は数限りなくあるけれど、次々と新しい場所へ行くだけが旅の楽しみではないのかもしれない。これまでに見た印象深い場所について、一つ一つ調べて味わい直すのもいいんじゃないか?旅は「行ったら終わり」ではなく、その後の人生において繰り返し楽しめるものであって欲しい。

ということで、「過去旅風景リバイバル」シリーズを始めよう。まずは2013年の夏に家族で行った米国の風景から。ドイツからロサンゼルスへ飛び、レンタカーで3週間かけてカリフォルニア州、ネバダ州、アリゾナ州を回った。青春時代を米国で過ごした私にとって雄大な米国の自然を家族と一緒に味わうことは悲願だったので、とても大切な思い出となった。

印象に残った数多くの風景の中でまず最初に甦らせたいのは、カリフォルニア州にあるモノ湖の風景。

白っぽくゴツゴツした柱状の岩が広い湖の水面からニョキニョキと突き出している。この不思議な風景は、ヨセミテ国立公園の東側の外れにある。

私たちが行ったとき、真昼間にも関わらずモノ湖の周りに人影はほとんど見当たらず、ひっそりと静かだった。その静けさが、鏡のような湖面とそこに映る奇岩群がつくり出す景色を幻想的にしていた。これらの奇岩はトゥファ(Tufa tower)と呼ばれる。モノ湖の水はアルカリ性で大量の炭酸カルシウムが溶け込んでいる。モノ湖には周辺から地表水が流れ込むが、独立した水域なので水が外へ流出することはない。そのため、湖の塩分はしだいに濃縮されていく。炭酸カルシウムが飽和すると沈澱し、湖の底に堆積する。それが何十年、何百年という長い年月をかけて大きな岩に成長していく。水の中に形成されたトゥファが湖の水位が下がることで露出したのがこの景色なのだ。

浅瀬にハエが大量にいた。Alkali fly という名前のハエで、このハエを食べにモノ湖には野鳥がたくさんやって来る。モノ湖の「モノ」とはネイティブアメリカンの言葉で「ハエ」を意味するそうだ。

この日は晴天で、湖面は澄んだブルーだった。きっと、日の出や夕暮れ時には美しく染まり、より幻想的なんだろうなあ。モノ湖は1941年から1990年までロサンゼルス市の生活用水の水源として使われ、水量が著しく減ってしまったため、現在は保護されている。保護活動によって水位が上がればトゥファの一部は水面下に隠れ、モノ湖の景色も変わる。いつかモノ湖の景色からトゥファがすっかり姿を消す日が来るだろうか。そうなることが望ましいのだろうけれど、もしそうなったらちょっと残念な気も、、、。

 

 

 

当ブログ、ここのところシチリア旅行のレポートが続いていたが、あまり知られていないドイツ、特にベルリンとその周辺のブランデンブルク州を発掘するYouTubeチャンネル、「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」も引き続き更新している。

探検隊チャンネルの動画作りは、相棒の久保田由希さんと私が興味のあるテーマを持ち寄って、一緒に作業するスタイル。共通の興味が多い私たちだけれど、テーマによっては由希さん寄りだったり、または私寄りだったりとバランスはその都度違う。これが楽しいのだ。お互いに相手の興味から学ぶことが多くて、世界が広がっていく。

過去記事で東ドイツ時代の団地「プラッテンバウ」について作成した動画を紹介したが、ドイツの「団地」に関連する動画をさらに2本、アップした。

団地はもともとは由希さんの守備範囲。私は「なんとなく気になるな」程度だったけれど、チャンネル開設以前から由希さんが熱く語るのを聞いているうちに興味を持つようになった。ドイツには日本の団地建設に影響を与えた団地が多くある。ベルリンにある6つの団地はUNESCO世界遺産に登録されている。そうした建物が作られるようになった社会背景や流れを知るのはとても面白い。

新たに公開した2本のうち1本は、「ジードルング」と呼ばれるドイツの集合住宅とはどのようなもので、いつ頃、なぜ作られるようになったのかを解説した以下の動画。由希さんが時間とエネルギーを注いでリサーチしてくれて、私もすごく勉強になった。

以下は公開したばかりの最新動画で、ベルリンの世界遺産団地を一つ一つ紹介している。

 

探検隊チャンネルのメインテーマの一つになりつつある建築物。これからもいろんな時代やタイプの建物について調べていきたい。

 

パレルモ港から夜行フェリーでナポリへ移動し、そこから北上してエミリア・ロマーニャ州で一泊し、ドイツの自宅に戻って来た。旅行記は前回の記事で終わりだが、今回のシチリア島とエオリエ諸島ロードトリップについてまとめてみよう。

1. まず、旅行記ではほとんど触れなかった食事について

シチリアの食べ物は本当に美味しかった。イタリアではそもそも食べ物の当たり外れはほとんどないし、地方ごとに郷土料理が発達しているのでどこで何を食べても美味しいけれど、私にとってはシチリア料理は今まで経験した中で最も素晴らしかった。何が良いかというと、あっさりしていて胃腸に負担がかからない。主張のある味というよりも、魚介類の出汁が効いていてしみじみと美味しい。

一番気に入ったのは「パスタ・コン・レ・サルデ (Pasta con le Sarde)」というイワシのパスタ。見た目は地味だけれど、実に美味しいシチリアの定番料理。イワシの他にアンチョビ、干し葡萄やフェンネル、松の実などが入っていて、チーズではなく炒ったパン粉がかかっている。この意外な組み合わせが絶妙なハーモニーを生み出していて旨い!お店によって味がかなり違うので、食べ比べするのが幸せだった。

シチリアでは英語はあまり通じず、イタリア語のメニューを見てもなんだかさっぱりわからずに適当にお店の人の勧めるものを注文することもあった。

適当に頼んだらマグロのからすみのパスタが出てくるとか、最高なんだけど。

甘味で気に入ったのはダントツ、カンノーロ(Cannolo)。筒状のクッキーの中にリコッタチーズのクリームが詰まっている。

ドイツのイタリア食材店でもよく売っているお菓子。でも、本場のは全然別物だと思った。その場でクッキーに冷たいクリームを詰めてくれる。チーズクリームだけれどさっぱりしてて、こんなに大きいのにぺろっと食べられてしまう。

なんでもかんでも美味しいので一つ一つ挙げているとキリがない。ただし、朝食は甘いものしかないことがほとんどで、それはちょっと(いや、かなり)辛かった。朝食はドイツの方がいいな〜。

2. 宿について

いろんなタイプの宿に泊まった中でアグリツーリズモが良かった。アクセスの悪い場所にあることも多く、ピークシーズンを過ぎていたため宿泊客は私たちだけということもあった。なのに夜になると、美味しいご飯を食べにどこからか人が集まって来る。ドイツでは経験したことのない現象で興味深い。

 

3. 移動について

私たちはドイツからほぼ全ルートを自家用車で移動した。観光地以外の場所も見たい私たちには正解。食材をたくさん買って帰るつもりだったので、車がないと難しいという理由もあった。美味しいオリーブオイルやその他の農産物を生産者から直接買うことができて満足である。でも、リーパリ島は坂道の勾配が大き過ぎて、運転した夫は大変だったと思う。シチリア島でも街中はカオスなので、よほど運転に慣れている人以外は車での移動はやめた方が良さそう。

 

4. 観光について

今回の私たちのメインテーマは「火山」で、火山地形を中心に観光した。エオリエ諸島の7つの島のうち、4つ見ることができたし、エトナ山もいろんな方面から楽しめたので大満足である。でも、当初の計画では自然だけ見られれば良いと思っていたのだけれど、古代ギリシアやローマの遺跡を見たらやっぱり面白くなった。シチリア島にはギリシア神殿や劇場などの遺跡が驚くほどたくさんある。青銅器時代の遺跡やフェニキア人の遺跡もあって、考古学的な見所に的を絞ったとしてもいくらでも見るものがありそうだ。さらに、バロックの街並み、アラビアの影響を受けた建物,etc.と文化的、美術的資源の多さ、多様さは半端でなさそうだったけれど、残念ながら私に下地がないので、もったいないけれど今回はほとんどスルー。でも、この旅をきっかけに地中海の歴史に興味が湧いたので、勉強してからまた来ようと思う。今回はパレルモを見なかったので、次回はパレルモを中心に建築物を見たり、博物館巡りができたらいいな。

5. 残念だったこと

何のトラブルもなく、とても楽しい旅だった。一つだけ残念に思ったことは、ゴミが多いこと。これまでいろんな国を旅行して来て、貧しい国へも見て来たので路上のゴミは見慣れているつもりだったけれど、シチリアのゴミは凄まじい。メジャーな観光地は比較的きれいなので、そういう場所にしか滞在しなければ見なくて済むかもしれないが、車で移動すると国道沿いに何十キロも延々と続くゴミの山に慄く。

人々のモラルの欠如だけでここまでの状態になるとは思えないので、構造的な問題なのだろうと想像する。とても気になって調べてみたら、シチリアにはゴミの焼却施設がないとか、ゴミの分別は導入されたが、プラスチックのリサイクル率は10%台だと書いてあるサイトがあったが、イタリア語が読めないので英語やドイツ語から得た情報で、確かなことはわからない。原因は何であれ、ショッキングで悲しい光景だった。

 

6. その他、シチリアならではの注意点

歩きやすい靴は超重要。シチリアはどこへ行っても硬い。坂が多く、地面は石ばかりなので、クッションの効いた歩きやすい靴を履いていないと、だんだん体が硬直して来る。幸い、履き慣れたスニーカーを履いていたので足は痛くならなかったが、地面が硬いだけでなく、なぜかシチリアの椅子は硬い椅子ばかり。深々としたソファーにはほとんど遭遇せず、宿でもレストランでも椅子は板張りかプラスチックだったので、筋肉を緩める機会がなくて背中がバキバキになってしまった。今度シチリアへ行くときはクッションを持参することにする。

 

これでシリーズ「シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ」は終わりです。いつかまたシチリアへ行きたい。

 

 

3週間に及ぶシチリア島とエオリエ諸島の旅を終えて帰路につく前に、最後に寄りたかった場所がある。それはトラパニとパレルモの真ん中あたりにある小さな海辺の村、トラッぺト(Trappeto)村。観光地として知られている場所ではない。人口3000人ほどの小さな自治体だ。なぜ、そんな村に寄りたかったのかというと、50年前に夫が両親とともに一夏を過ごした場所だから。

夫の両親は東ドイツ出身で、ベルリンの壁ができる少し前に西ドイツへ逃亡した。着の身着のまま東ドイツを脱出したため、最初のうちは経済的に大変苦労したそうだ。金属加工職人としてのスキルを持っていた義父は、やがて刃物生産で有名なゾーリンゲン市の刃物工場に職を得、安定した生活ができるようになったが、東ドイツに残った親や兄弟に西側の物資をせっせと送る日々が続き、経済的に余裕があるとは言えない状態だった。高度成長期にあった西ドイツでは海外で休暇を過ごすことが一般的になりつつあり、太陽を求めて遠くスペインやイタリア、ギリシアまで出かけて行く人が増える中、義両親はどこへも出かけたことがなかった。

義父の勤めていた工場にはシチリア島から出稼ぎに来ている男性たちがおり、義父はその一人、サルヴァトーレという名の男性と特に親しくしていた。ある日、「あーあ、自分もイタリアやスペインに休暇に行きたいもんだよ」と義父が呟くと、サルヴァトーレ氏が「だったらシチリア島へ行ったらいい。僕の家を使っていいよ」と気前よくシチリア島のトラッぺト村にある自宅の鍵を貸してくれたのである。そこで、義父は取れるだけの休暇をまとめて取り、妻と当時5歳の息子を連れてシチリアへ出発した。まだ自家用車を持っていなかった頃のこと、ゾーリンゲンから電車やバスに揺られて行ったという。

トラッぺト村は貧しい漁村だったが、村の人たちは義両親と夫を「サルヴァトーレのドイツでの同僚一家」として大変歓待してくれたという。3人はサルヴァトーレ氏の家でのんびりとした、とても楽しい夏を過ごしたらしい。義母によると夫も村の子どもたちと毎日遊び回っていたそうだ。

質素ではあったけれど、太陽と青い海を満喫した6週間。素晴らしい思い出だと義両親は今でもとても懐かしがっている。夫は50年前のその夏のことをほとんど何も覚えていないが、両親と旅行に出かけたのはそのたった一度のシチリア休暇だけなので、シチリア島は夫にとって特別な存在であるらしかった。だから、今回、シチリア島へせっかく来たのなら、是非ともトラッペト村を見てみたいと思ったのである。

 

トラッペト村の小さな港。着いたのがお昼過ぎでシエスタの時間だったからか、村は静まりかえっていた。

夫は感慨深げな表情であたりの景色を眺めている。「少し思い出した気がする、、、」

50年前に夫が両親とともにこの海で遊んだ後しばらくして、サルヴァトーレ氏は結婚し、ゾーリンゲンを離れた。義両親もまた引っ越したのでそのまま疎遠になってしまい、現在、サルヴァトーレ氏がどこで何をしているのかはわからないそうだ。もしかしたら、この小さな村のどこかに今、サルヴァトーレ氏がいるのかもしれない。探してみようか?と夫に言ってみた。今はサルヴァトーレ氏も高齢になっている。「自分のことを忘れてはいないかもしれないが、お互いに顔もわからないからなあ」と夫は首を横に振った。

 

港にレストランがあった。近づくと何やら看板のようなものがかかっている。その文字を読んでびっくり!

「ゾーリンゲン市トラッペト地区」と書いてあるのだ。これは一体どういうことだ?この黄色い看板はドイツの地名標識にそっくりである。でも、なぜゾーリンゲンの標識がシチリア島に?それに、トラッペトはもちろんゾーリンゲン市の一地区などではない。

気になって調べたところ、興味深いことがわかった。西ドイツは第二次世界大戦後、「ガストアルバイター(ゲスト労働者)」という名で外国から多数の出稼ぎ労働者を受け入れたが、その初期はイタリアからの移住者が多かった。トラッペト村は最初にガストアルバイターを送り出した村の一つで、男性たちは集団でゾーリンゲン市に渡っていたのだった。

現在、当時のドイツのガストアルバイター政策はその後、社会問題を生み出したと否定的に語られることが多い。その是非についてここで論じるつもりはないが、良いことばかりでなかったことは想像できる。しかし、「トラッペト村からのガストアルバイター達は真面目な働き者で、職場での関係は良好だった」と義父は常々言っていて、個人レベルでは義父とサルヴァトーレ氏の間のような心温まる交流もあったのだ。そして、この黄色い地名標識がそれから50年経った今もここに置かれているということは、トラッペト村の元ガストアルバイターにとってもゾーリンゲンでの日々はきっと悪い思い出ではないのだろうと思わされ、関係ない私もなんだかちょっと嬉しかった。

夫が義両親に「今、トラッペト村にいるよ」と電話したら、義母が「村に入ってすぐのところ、右側に食料品店があるでしょう?」と言うのだが、それらしきものは見当たらなかったが、小さなカフェがあった。

記念にカフェで取った軽食。コーヒー味の冷たい飲み物があまーくて、独特の味だった。この味が私に取ってのトラッペト村の思い出になるのかもしれない。

高齢となった義両親はもう旅行に行くことはできない。彼らの代わりにここへ来ることができて良かった。さあ、ドイツへ帰ろう。