今回の旅行のテーマは火山だったので、エオリエ諸島滞在中は火山にばかり注目していたが、シチリア島の北に連なるエオリエ諸島にあるのは火山だけではない。リーパリの町を歩いていたら、グリェルモ・マルコーニ通り(Via Guliermo Marconi)脇の空き地のようなところに、なにやら気になるものが並んでいる。
思わず立ち止まり、まじまじと見た。石でできた蓋付きの箱が並んでいる。これは何?側に小さな看板があり、「ギリシア・ローマ墓地」と書いてあった。ということは、これらの箱のようなものは棺桶ということになる。小さな町の住宅街の空き地のようなところにギリシアや古代ローマ時代の棺桶が、あたかもついこの間置かれたばかりのように並んでいる様子に驚いてしまった。
後で知ったことには、この空き地のような緑地はディアナ考古学公園(Parco Archeologico di Diana)という公園の一部である。リーパリ島では1948年からシステマチックな考古学調査がおこなわれている。この公園のあるディアナ地区で古代墓地(ネクロポリス)が発見された。上の写真の左奥に見える石の壁は、4世紀にギリシア人入植者によって建設された市壁の一部らしい。1954年から約20年間、発掘調査を率いた考古学者ルイジ・ベルナボ・ブレアとマドリン・キャバリエが、1971年にこの考古学公園と旧市街中心部、リーパリ城内のエオリエ考古学博物館(Museo Archäologico Regionale Eoliano)を設立した。 ディアナ考古学公園という名称は、ネクロポリスが建設された当時エオリエ諸島で栄えていた文化、ディアナ文化にちなむ。
ネクロポリスからは整然と並ぶ2600を超える墓が発掘されている。古い時代の墓の上に新しい時代のものが重ねられた状態で見つかったらしい。見つかった棺の一部がこの公園に展示(?)されているということなのだろうか。
気になって、エオリエ考古学博物館へも行ってみた。
考古学博物館入り口
エオリエ城の敷地はなかなか広くて、要塞や大聖堂など見どころがたくさんある。考古学博物館もいくつかの建物に分かれてい流。小さな島の博物館なのに規模が大きくて驚く。ここには先史時代からのエオリエ諸島の歴史が詰まっているのだ。地中海の考古学研究においても重要な博物館であるらしい。エオリエ諸島は平地がほとんどなく、ゴツゴツとした岩ばかりで人が住むのに適しているようにはあまり思えないのだが、紀元前5500年頃から人が定住していたことがわかっている。特にリーパリ島は黒曜石が豊富に採れることから、新石器時代にはその交易で栄えた。その後、ギリシアの植民地となり、古代ローマに征服され、838年からは150年間にわたり、サラセン人の支配下に置かれる。1082年にはノルマン人に支配され、イタリアのファシスト党時代には反体制活動家の流刑地となっていた。現在の人口は1万3000人に満たない小島なのに、なんと劇的な歴史なのだろう。
考古学博物館の敷地内にある青銅器時代の集落の跡
博物館を全部回る時間がなかったので、気になっているネクロポリスに関する展示と地質学のセクションのみを見た。
敷地の奥にディアナ考古学公園とは別の考古学公園があり、そこにも棺が並んでいる。
こちらの公園では、半円を描くように棺が配置されている。
博物館内に展示されているリーパリ島のネクロポリスから出土した紀元前6〜4世紀の土器の棺
なるほど、石の棺桶だと思ったものは土器の棺を入れる容器だったのだな。岩だらけのエオリエ諸島では地面に穴を掘って棺を埋めるのは大変だから、頑丈な石の入れ物に入れて地上に置いておいたのだろうか?
ギリシア時代の墓石
棺桶や墓石ばかり見ていたが、この博物館には重要な展示物が他にもたぶん、たくさんある。時間がなくて全部の展示室を回れなかったし、もし全部見たとしても、予備知識がなさ過ぎて大量の情報を処理できそうになかった。家に帰って来てからそれなりに調べようとしたのだけれど、イタリアについてはやはりイタリア語の情報が圧倒的でなかなか難しい。もう二度と行けないかもしれない場所だから、せっかくの貴重な機会だったのにと思うと残念。いつか何かのきっかけでここに展示されているものについて知り、「ああ、あのとき〇〇を見てくればよかった!」と悔しく思うのかなあ。
まあ、そんなことを言ってもしかたがないので、わからないものだらけの環境に身を置いたときには、何か一つ、気になるものを見つければ良いとしよう。そして、そのときにはうまく把握できなくても、いつか別方向から近づけることがあるかもしれないから、少しでも気になることはわかる範囲で書いておこう。
水中考古学のセクションに展示されている160個のアンフォラ
さて、そろそろエオリエ諸島滞在も終わりだ。これからシチリア島へ戻り、さらに旅を続けよう。