パレルモ港から夜行フェリーでナポリへ移動し、そこから北上してエミリア・ロマーニャ州で一泊し、ドイツの自宅に戻って来た。旅行記は前回の記事で終わりだが、今回のシチリア島とエオリエ諸島ロードトリップについてまとめてみよう。

1. まず、旅行記ではほとんど触れなかった食事について

シチリアの食べ物は本当に美味しかった。イタリアではそもそも食べ物の当たり外れはほとんどないし、地方ごとに郷土料理が発達しているのでどこで何を食べても美味しいけれど、私にとってはシチリア料理は今まで経験した中で最も素晴らしかった。何が良いかというと、あっさりしていて胃腸に負担がかからない。主張のある味というよりも、魚介類の出汁が効いていてしみじみと美味しい。

一番気に入ったのは「パスタ・コン・レ・サルデ (Pasta con le Sarde)」というイワシのパスタ。見た目は地味だけれど、実に美味しいシチリアの定番料理。イワシの他にアンチョビ、干し葡萄やフェンネル、松の実などが入っていて、チーズではなく炒ったパン粉がかかっている。この意外な組み合わせが絶妙なハーモニーを生み出していて旨い!お店によって味がかなり違うので、食べ比べするのが幸せだった。

シチリアでは英語はあまり通じず、イタリア語のメニューを見てもなんだかさっぱりわからずに適当にお店の人の勧めるものを注文することもあった。

適当に頼んだらマグロのからすみのパスタが出てくるとか、最高なんだけど。

甘味で気に入ったのはダントツ、カンノーロ(Cannolo)。筒状のクッキーの中にリコッタチーズのクリームが詰まっている。

ドイツのイタリア食材店でもよく売っているお菓子。でも、本場のは全然別物だと思った。その場でクッキーに冷たいクリームを詰めてくれる。チーズクリームだけれどさっぱりしてて、こんなに大きいのにぺろっと食べられてしまう。

なんでもかんでも美味しいので一つ一つ挙げているとキリがない。ただし、朝食は甘いものしかないことがほとんどで、それはちょっと(いや、かなり)辛かった。朝食はドイツの方がいいな〜。

2. 宿について

いろんなタイプの宿に泊まった中でアグリツーリズモが良かった。アクセスの悪い場所にあることも多く、ピークシーズンを過ぎていたため宿泊客は私たちだけということもあった。なのに夜になると、美味しいご飯を食べにどこからか人が集まって来る。ドイツでは経験したことのない現象で興味深い。

 

3. 移動について

私たちはドイツからほぼ全ルートを自家用車で移動した。観光地以外の場所も見たい私たちには正解。食材をたくさん買って帰るつもりだったので、車がないと難しいという理由もあった。美味しいオリーブオイルやその他の農産物を生産者から直接買うことができて満足である。でも、リーパリ島は坂道の勾配が大き過ぎて、運転した夫は大変だったと思う。シチリア島でも街中はカオスなので、よほど運転に慣れている人以外は車での移動はやめた方が良さそう。

 

4. 観光について

今回の私たちのメインテーマは「火山」で、火山地形を中心に観光した。エオリエ諸島の7つの島のうち、4つ見ることができたし、エトナ山もいろんな方面から楽しめたので大満足である。でも、当初の計画では自然だけ見られれば良いと思っていたのだけれど、古代ギリシアやローマの遺跡を見たらやっぱり面白くなった。シチリア島にはギリシア神殿や劇場などの遺跡が驚くほどたくさんある。青銅器時代の遺跡やフェニキア人の遺跡もあって、考古学的な見所に的を絞ったとしてもいくらでも見るものがありそうだ。さらに、バロックの街並み、アラビアの影響を受けた建物,etc.と文化的、美術的資源の多さ、多様さは半端でなさそうだったけれど、残念ながら私に下地がないので、もったいないけれど今回はほとんどスルー。でも、この旅をきっかけに地中海の歴史に興味が湧いたので、勉強してからまた来ようと思う。今回はパレルモを見なかったので、次回はパレルモを中心に建築物を見たり、博物館巡りができたらいいな。

5. 残念だったこと

何のトラブルもなく、とても楽しい旅だった。一つだけ残念に思ったことは、ゴミが多いこと。これまでいろんな国を旅行して来て、貧しい国へも見て来たので路上のゴミは見慣れているつもりだったけれど、シチリアのゴミは凄まじい。メジャーな観光地は比較的きれいなので、そういう場所にしか滞在しなければ見なくて済むかもしれないが、車で移動すると国道沿いに何十キロも延々と続くゴミの山に慄く。

人々のモラルの欠如だけでここまでの状態になるとは思えないので、構造的な問題なのだろうと想像する。とても気になって調べてみたら、シチリアにはゴミの焼却施設がないとか、ゴミの分別は導入されたが、プラスチックのリサイクル率は10%台だと書いてあるサイトがあったが、イタリア語が読めないので英語やドイツ語から得た情報で、確かなことはわからない。原因は何であれ、ショッキングで悲しい光景だった。

 

6. その他、シチリアならではの注意点

歩きやすい靴は超重要。シチリアはどこへ行っても硬い。坂が多く、地面は石ばかりなので、クッションの効いた歩きやすい靴を履いていないと、だんだん体が硬直して来る。幸い、履き慣れたスニーカーを履いていたので足は痛くならなかったが、地面が硬いだけでなく、なぜかシチリアの椅子は硬い椅子ばかり。深々としたソファーにはほとんど遭遇せず、宿でもレストランでも椅子は板張りかプラスチックだったので、筋肉を緩める機会がなくて背中がバキバキになってしまった。今度シチリアへ行くときはクッションを持参することにする。

 

これでシリーズ「シチリア・エオリエ諸島ロードトリップ」は終わりです。いつかまたシチリアへ行きたい。

 

 

3週間に及ぶシチリア島とエオリエ諸島の旅を終えて帰路につく前に、最後に寄りたかった場所がある。それはトラパニとパレルモの真ん中あたりにある小さな海辺の村、トラッぺト(Trappeto)村。観光地として知られている場所ではない。人口3000人ほどの小さな自治体だ。なぜ、そんな村に寄りたかったのかというと、50年前に夫が両親とともに一夏を過ごした場所だから。

夫の両親は東ドイツ出身で、ベルリンの壁ができる少し前に西ドイツへ逃亡した。着の身着のまま東ドイツを脱出したため、最初のうちは経済的に大変苦労したそうだ。金属加工職人としてのスキルを持っていた義父は、やがて刃物生産で有名なゾーリンゲン市の刃物工場に職を得、安定した生活ができるようになったが、東ドイツに残った親や兄弟に西側の物資をせっせと送る日々が続き、経済的に余裕があるとは言えない状態だった。高度成長期にあった西ドイツでは海外で休暇を過ごすことが一般的になりつつあり、太陽を求めて遠くスペインやイタリア、ギリシアまで出かけて行く人が増える中、義両親はどこへも出かけたことがなかった。

義父の勤めていた工場にはシチリア島から出稼ぎに来ている男性たちがおり、義父はその一人、サルヴァトーレという名の男性と特に親しくしていた。ある日、「あーあ、自分もイタリアやスペインに休暇に行きたいもんだよ」と義父が呟くと、サルヴァトーレ氏が「だったらシチリア島へ行ったらいい。僕の家を使っていいよ」と気前よくシチリア島のトラッぺト村にある自宅の鍵を貸してくれたのである。そこで、義父は取れるだけの休暇をまとめて取り、妻と当時5歳の息子を連れてシチリアへ出発した。まだ自家用車を持っていなかった頃のこと、ゾーリンゲンから電車やバスに揺られて行ったという。

トラッぺト村は貧しい漁村だったが、村の人たちは義両親と夫を「サルヴァトーレのドイツでの同僚一家」として大変歓待してくれたという。3人はサルヴァトーレ氏の家でのんびりとした、とても楽しい夏を過ごしたらしい。義母によると夫も村の子どもたちと毎日遊び回っていたそうだ。

質素ではあったけれど、太陽と青い海を満喫した6週間。素晴らしい思い出だと義両親は今でもとても懐かしがっている。夫は50年前のその夏のことをほとんど何も覚えていないが、両親と旅行に出かけたのはそのたった一度のシチリア休暇だけなので、シチリア島は夫にとって特別な存在であるらしかった。だから、今回、シチリア島へせっかく来たのなら、是非ともトラッペト村を見てみたいと思ったのである。

 

トラッペト村の小さな港。着いたのがお昼過ぎでシエスタの時間だったからか、村は静まりかえっていた。

夫は感慨深げな表情であたりの景色を眺めている。「少し思い出した気がする、、、」

50年前に夫が両親とともにこの海で遊んだ後しばらくして、サルヴァトーレ氏は結婚し、ゾーリンゲンを離れた。義両親もまた引っ越したのでそのまま疎遠になってしまい、現在、サルヴァトーレ氏がどこで何をしているのかはわからないそうだ。もしかしたら、この小さな村のどこかに今、サルヴァトーレ氏がいるのかもしれない。探してみようか?と夫に言ってみた。今はサルヴァトーレ氏も高齢になっている。「自分のことを忘れてはいないかもしれないが、お互いに顔もわからないからなあ」と夫は首を横に振った。

 

港にレストランがあった。近づくと何やら看板のようなものがかかっている。その文字を読んでびっくり!

「ゾーリンゲン市トラッペト地区」と書いてあるのだ。これは一体どういうことだ?この黄色い看板はドイツの地名標識にそっくりである。でも、なぜゾーリンゲンの標識がシチリア島に?それに、トラッペトはもちろんゾーリンゲン市の一地区などではない。

気になって調べたところ、興味深いことがわかった。西ドイツは第二次世界大戦後、「ガストアルバイター(ゲスト労働者)」という名で外国から多数の出稼ぎ労働者を受け入れたが、その初期はイタリアからの移住者が多かった。トラッペト村は最初にガストアルバイターを送り出した村の一つで、男性たちは集団でゾーリンゲン市に渡っていたのだった。

現在、当時のドイツのガストアルバイター政策はその後、社会問題を生み出したと否定的に語られることが多い。その是非についてここで論じるつもりはないが、良いことばかりでなかったことは想像できる。しかし、「トラッペト村からのガストアルバイター達は真面目な働き者で、職場での関係は良好だった」と義父は常々言っていて、個人レベルでは義父とサルヴァトーレ氏の間のような心温まる交流もあったのだ。そして、この黄色い地名標識がそれから50年経った今もここに置かれているということは、トラッペト村の元ガストアルバイターにとってもゾーリンゲンでの日々はきっと悪い思い出ではないのだろうと思わされ、関係ない私もなんだかちょっと嬉しかった。

夫が義両親に「今、トラッペト村にいるよ」と電話したら、義母が「村に入ってすぐのところ、右側に食料品店があるでしょう?」と言うのだが、それらしきものは見当たらなかったが、小さなカフェがあった。

記念にカフェで取った軽食。コーヒー味の冷たい飲み物があまーくて、独特の味だった。この味が私に取ってのトラッペト村の思い出になるのかもしれない。

高齢となった義両親はもう旅行に行くことはできない。彼らの代わりにここへ来ることができて良かった。さあ、ドイツへ帰ろう。