ドイツの野鳥シリーズ、第一回はキツツキだった。今回はツルについて。

ドイツで観察できる野生のツルはヨーロッパクロヅル(Grus grus grus)のみだが、メクレンブルク=フォアポンメルン州やブランデンブルク州には多く飛来し、一部は繁殖もする。私の住むブランデンブルク州では結構、至るところでツルの姿を見ることができ、身近なのが嬉しい。秋になると、我が家の庭の上をもツルの群れが鳴きながら通り過ぎていく。田舎暮らしで良かったなと感じる瞬間だ。

ベルリン・ブランデンブルク探検隊の方でスライド動画を作ったので、このブログで記事としてまとめる代わりにリンクを貼っておく。

 

 

 

 

約3週間の北海道ジオパーク•ジオサイト巡り、ついに最終日。最後の目的地はむかわ町の穂別博物館に決めた。

数年前、北海道むかわ町で見つかっていた恐竜の化石が新属新種であることが判明したというニュースを目にし、興味が沸いた。そして、むかわ竜と名付けられたその恐竜の学名が「カムイサウルス・ジャポニクス」に決まったと知ったときには思わず興奮。カムイの地で生まれ育った者としてはスルーできない。いつかカムイサウルスを見てみたいなあと思っていたのだ。

むかわ町穂別は「古生物学の町」という感じで、町のあちこちに化石や古生物のオブジェが見られる。

交差点のアンモナイト化石

穂別博物館の向かいにあるお食事中のモササウルスのオブジェ

野外博物館のタイムトンネル

野外博物館のアンモナイトオブジェ

 

穂別博物内に入ろう。ロビーで出迎えてくれたのは、カムイサウルスではなく、ホベツアラキリュウのホッピーだ。

ホベツアラキリュウは中生代白亜紀に生きた水棲爬虫類のクビナガリュウ(プレシオサウルス)で、穂別地域でおよそ8000万〜9000万年前に生息していたとされる。   その頃の穂別は、陸から遠く離れた海だった。それにしても首が長い。歯が小さくて細く、硬いものを噛み砕けないので、魚やイカ、タコ、小さいアンモナイトなどを丸呑みして食べていたと展示で読んだけれど、こんな長い首をアンモナイトが丸ごと通過していったと想像すると、どうにも不思議だ。

ホベツアラキリュウの産状復元模型と現物化石

ホベツアラキリュウの名は、1975年に化石を最初に発見した荒木新太郎さんにちなんでいる。その後の発掘調査で頭部・頸部・尾以外を除く大部分の骨格が見つかり、ホッピーは全身骨格が復元された国産クビナガリュウ第二号、北海道では第一号となった。ホッピーは北海道天然記念物に指定され、この貴重な化石の保存や展示を目的に穂別博物館が建設されたのだ。

こちらは、モササウルス類の生態復元模型。モササウルスは後期白亜紀の海性のトカゲ。確かドイツのリューゲン島のチョーク博物館で全身骨格を見た記憶がある(けど、記録していない)。ゲッティンゲン大学博物館にも生態復元模型があった(過去記事)。

モササウルス・ホベツエンシスの化石

穂別博物は大型古生物の標本もすごいけど、アンモナイト標本も魅力的なものが多い。点数は三笠市立博物館ほどではないけれど(三笠市立博物館に関する過去記事 )、内部構造が見えるものがいくつも展示されている。

 

三笠ジオパークの野外博物館で中生代の大型二枚貝、イノセラムスの化石を見た(記事はこちら)が、穂別博物館にもいろいろな種類のイノセラムス化石が展示されている。イノセラムスは示準化石なので、地層から出てくるイノセラムスの種類でその地層の地質年代がわかる。(むかわ町ウェブサイトのイノセラムス関連ページ

いろいろなイノセラムスの標本。その左には、ゆるキャラの「いのせらたん」。

さてさて、いよいよ本命。カムイサウルス・ジャポニクスにご対面しよう。

じゃじゃーん。これが実物化石のレプリカから作成したカムイサウルス・ジャポニクスの全身復元骨格だ!全長は堂々の8メートル!だそうだけど、、、あれ?なんか短くない?それに、なんとなくバランスが良くないような。、、、と思ったら、この展示室には全身が入りきらないので、しっぽ部分を外してあるのだった。

カムイサウルスの大腿部の骨化石(本物)

カムイサウルスの化石は2003年、白亜紀のアンモナイトなどの化石がよく見つかる地域を散歩をしていた堀田良幸さんによって発見された。最初はクビナガリュウだろうと思われたが、2011年に恐竜であることが判明。最初に見つかったのが連結する13個の尾椎骨だったので、全身の骨格が埋まっている可能性が高いということで2013〜14年に大々的な発掘作業がおこなわれた。博物館に展示されている発掘作業の様子を写した写真パネルによると、化石が埋まっていた地層は傾斜がきつく、作業はかなり大変だったらしい。しかし、結果として全身のおよそ8割の化石が見つかり、センセーションを引き起こす。ほぼ全身が丸ごと化石になって保存されていたのには、実際に生活していた陸ではなく、海だった地層に埋まっていたことが幸いした。穂別のカムイサウルスは死んだ後、お腹が腐敗ガスで膨れた状態でプカプカ水に浮いて沖合まで流され、バラバラになることなくそのまま保存されたということである。

むかわ町穂別博物館はとても気に入ったので、ここで今回の北海道ジオ旅を締めることができてよかった。まあ、恐竜は地質学というより古生物学だけど、時間的尺度で考えれば広義の意味でジオに含めて構わないだろう。そして、今回の旅を通して、北海道は古生物学に関連する面白い場所も豊富だと気づいた。今回見られなかった場所はまた時をあらためて訪れたい。

ということで、北海道ジオパーク・ジオサイト巡り2023の記録はこれで終わり。欲張って盛り沢山すぎる計画を立てたので、見切れない部分もあったし、ヒグマ出没のせいでアクセスできない場所も多々あったけれど、毎日面白い景色を見て、いろんな石を見つけて、興味深い博物館を訪れて、とても充実した旅になったと思う。数年中にこの続きがしたい。

 

この記事の参考文献・ウェブサイト:

むかわ町恐竜ワールド ウェブサイト

 

 

前回の続き。「幌満峡エリア」でかんらん岩を見た後は、海岸沿いの「様似海岸エリア」と「日高耶馬峡エリア」のいくつかの見どころを回った。

様似漁港

これまたすごい景色。漁港の内側に突き出した板のような巨岩はソビラ岩。その向こうにうっすらと陸繋島であるエンルム岬が見えている。岬まで行ってみた。

エンルム岬のふもとに置かれたかんらん岩の巨石

展望台に上る階段

展望台から見た様似漁港。ソビラ岩、そしてその向こうには親子岩と呼ばれる岩が見える。

海から奇岩が突き出すこの特徴的な海岸地形はどうやってできたのだろう。エンルム岬やソビラ岩、親子岩などは「ひん岩(porphyrite)」でできている。ひん岩とは、安山岩質のマグマが冷えて固まった火成岩で、斑状組織を持つ。およそ1770万年前、太平洋プレートのしずみ込みによって地殻が圧縮し、できた地層の割れ目にマグマが入り込んで固まった。その後、大地が隆起し、やわらかい周囲の地層は波の侵食を受けて削られてなくなった。後に残った硬いひん岩も、長い年月のうちに少しづつ削られていく。そうして不思議なかたちの岩が作られていったのだ。

エンルム岬の崖に見られる節理。マグマが冷えて固まるときにできる。

エンルム岬の崖の下の岩礁

様似海岸エリアから海岸沿いを東に進み、日高耶馬渓エリアに入ると、まもなく冬島漁港が見えて来る。冬島漁港には冬島の穴場と呼ばれる、穴の開いた大きな岩がある。

冬島の穴場

この岩は片状ホルンフェルスと呼ばれる岩でできている。 「ホルンフェルス」はドイツ語の Horn(角) + Fels(崖)。泥岩や砂岩がマグマの貫入によって加熱されてできる変成岩だ。この岩はかつて波打ち際にあり、波で割れ目が侵食されて穴が開いた(海食洞と呼ばれる)。

筋状の割れ目がたくさん見られる。

日高耶馬渓はおよそ7kmにわたる断崖絶壁の海岸である。昔からここは交通の難所だった。

そんな日高耶馬渓には明治時代から平成時代までに4つのトンネルが掘られた場所がある。国道336号線上には平成時代に開通した山中トンネルがあるが、その脇の旧道に昭和トンネル、大正トンネル、明治トンネルが一列に並んでいて面白い眺めだ。

3つの旧トンネルの中で地質学的に面白いのは大正トンネル。

大正トンネル

トンネルの穴の周りは、黒雲母片岩の岩にマグマが貫入してできた花崗岩。

大正トンネル付近の岩には花崗岩の貫入がはっきり見える。

大正トンネルからさらに東に向かうとルランベツ覆道というトンネルがあり、その海側の横の岩には押し曲げられた地層(褶曲)が見られる。

緑灰色の角閃岩が黒雲母片岩に包まれている。

内側の角閃岩は海洋プレート上の玄武岩質の岩石、それを包み込む周りの岩石は大陸プレート上の砂岩や泥岩だったもので 、それらが海溝で混じり合い、熱と圧力による変成を受け、押し曲げられてこのようになった。

把握するのがなかなか難しい話が続いたけれど、最後は日高地方の食べ物で締めたい。

日高耶馬渓は言わずと知れた昆布の一大産地である。海岸は昆布でびっしり。そして、私たちが行ったときは牡蠣の季節だった。

様似町のお食事処、「女郎花」で食べたカキフライ定食

何十年ぶりかに食べたカキフライのあまりの美味しさに感動。

見どころの多いアポイ岳ジオパークなので、見ることができたのはそのうちの一部だけだったけれど、それでも大満足。遠いけれどはるばる来てよかった〜。

 

この記事の参考文献:

北海道新聞社 『ユネスコ認定 アポイ岳ジオパークガイドブック

北海道ジオ旅も終盤。いよいよ待ちに待ったアポイ岳UNESCOグローバルジオパークへ行くときが来た。アポイ岳ジオパークは、日高地方南部、様似町を中心に広がるジオパークで、「幌満かんらん岩」と呼ばれる、学術的にとても貴重なかんらん岩が観察できる。

かんらん岩というのは地球の上部マントルをつくり、玄武岩マグマのもととなる岩石である。地球はよく卵に例えて説明されるが、地殻を卵の殻だとすると、マントルは白身の部分にあたる。かんらん岩を構成する造岩鉱物のうち主となるのはオリーブ色の「かんらん石」で、大きくて綺麗な結晶はペリドットと呼ばれている宝石だ。かんらん岩は地球の体積の8割以上を占める圧倒的に多い岩石だけれど、厚い地殻の下にあって、そう簡単にはお目にかかれない。アポイ岳を含む日高山脈はおよそ1300万年前にユーラシアプレートと北米プレートが衝突することでできた山脈だが、その際、北米プレートの端っこがめくれあがって大陸プレートの上に乗り上げ、マントルの一部が地表に露出した(例えれば、ゆで卵の白身が殻の外にはみ出してしまった状態)。かんらん岩は変質しやすい岩石で、地表に露出すると普通は蛇紋岩という別の岩石になってしまうが、アポイ岳とその周辺ではほとんど変質していないかんらん岩を見ることができる。それが「幌満かんらん岩」なのだ。


アポイ岳ジオパークは、「幌満峡エリア」「アポイ岳エリア」「様似海岸エリア」「日高耶馬峡エリア」「新富エリア」の5つのエリアに分かれている。できれば丸2日は時間を取ってじっくりと全部のエリアを回りたいところだけれど、お天気と宿泊の事情で日帰りコースになってしまったので、今回はアポイ岳に登るのは諦めて、「幌満峡エリア」と「様似海岸エリア」、「日高耶馬峡エリア」を見ることにした。その前に、まずは「アポイ岳エリア」にある「アポイ岳ジオパークビジターセンター」でジオパークの概要を掴もう。

アポイ岳ジオパークビジターセンター

幌満かんらん岩体はプレート境界の東に、東西8km、南北10kmにわたって広がって露出する。

ビジターセンターに展示されているプレートの衝突現場

ビジターセンターに展示されている世界のかんらん岩標本の中に、ドイツのアイフェル地方産のものがあった。

アイフェル地方のかんらん岩は現地で実際に見たことがある。

アイフェル地方のかんらん岩

ただし、同じかんらん岩でも、アイフェルで見つけたのは火山噴火で飛び出して来た溶岩の中にかんらん岩が捕獲されているゼノリスというもので(詳しくは過去記事を参照)、アイフェル地方ではアポイ岳のように大規模なかんらん岩体が地表に露出しているわけではない。ちなみに、溶岩に捕獲された状態で地表に転がっているかんらん岩はカナリア諸島のランサローテ島でも見た。

ランサローテ島のかんらん岩捕獲岩

大きな結晶!

ひとくちにかんらん岩といっても、様々な種類があることがわかった。かんらん岩はかんらん石だけでなく、斜方輝石(飴色)、単斜輝石(エネラルドグリーン)、スピネル(黒色)、斜長石(白色)などでできている。その割合によって、呼び名が異なる。かんらん石の割合が最も多い(9割以上)のがダナイト、かんらん石を6割以上含み、斜方輝石と単斜輝石の両方を含むのがレルゾライト、かんらん石を6割以上含み、斜方輝石が多いのがハルツバージャイト、レルゾライトのうち、斜長石を多く含むものは斜長石レゾルライトと呼ばれる。

なぜそのような違いが生まれるのだろうか。かんらん岩を構成する鉱物はそれぞれ融点が違い、溶けてマグマになる際には溶けやすいものから順番に溶け出す。すると、残った方のかんらん岩の鉱物の種類や割合が変わる。展示ではかんらん岩をオレンジに例えて、斜長石レルゾライトはオレンジジュースを絞る前の状態のかんらん岩、オレンジをちょっと絞るとレルゾライトになり、もっと絞るとハルツバージャイトになると説明していてわかりやすかった。ところで、「ハルツバージャイト」という岩石の名前はなんだか覚えにくいなあと最初思ったのだけれど、英語表記のHarzburgiteという文字を読んで、ハッとした。Harzburgというのはドイツのハルツ山地にある地名、ハルツブルクではないのか?ということは、ハルツバージャイトというのは「ハルツブルクの岩」という意味になる。ハルツバージャイトはドイツ語の岩石名ハルツブルギットの英語読みなのだった。

さて、ビジターセンターでざっくりとかんらん岩について知った後は、実際にフィールドでかんらん岩を見てみよう。向かうは「幌満峡エリア」の幌満川峡谷にある旧オリビン採石場下の河原だ。

旧オリビン採石場

オリビン(olivine)というのは英語でかんらん石のこと。地表はほんのり薄い緑色をしている。

旧オリビン採石場の下の河原

石を観察しに河原へ降りた。ごろごろした石の多くは黄褐色をしている。

が、割れているものを見ると、中は緑。

いろんなのを1箇所に集めてみた。いろいろあって面白い。

熱心に石を観察する私たちを、崖の上からシカたちがジーッと見ていた。

 

後編に続く。

 

この記事の参考文献:

北海道新聞社 『ユネスコ認定 アポイ岳ジオパークガイドブック

藤岡換太郎 『三つの石で地球がわかる 岩石がひもとくこの星のなりたち

アポイ岳ジオパークビジターセンターの展示

旭川市周辺のジオサイト(カムイミンタラジオパーク構想における見どころ)を見た後は、いよいよ楽しみにしていたアポイ岳ジオパークに向かうことにした。でも、旭川からアポイ岳ジオパークの中心地である様似町はかなり遠い。現地は宿が少なく、すでに予約がいっぱいの様子だったので帯広市へ移動し、帯広から日帰りでアポイ岳ジオパークへ行くことにした。帯広市へ行く途中には「とかち鹿追ジオパーク」がある。とかち鹿追ジオパークに位置する然別湖の周辺には風穴地帯というものがあるらしい。風穴(ふうけつ)というのは、岩場の岩の隙間から涼しい空気が吹き出す現象であるそうだ。通り道なので、風穴を体験したい。

前回立ち寄ったスポット、層雲峡から然別湖へは国道273号線を南下し、三国峠を超えて行く。三国峠からの眺めは絶景だった。

 

三国峠から見る松見大橋

幌鹿峠と鹿追町の間でたくさんのエゾシカに遭遇した。

可愛い親子。ポーズを取ってくれた?

漢字が読めない夫は鹿追町の町名表示板のローマ字表記「Shikaoi」を「シカオオイ(鹿多い)」と読んだようで、「そのまんまだね」と笑っていた。

沢にはキタキツネも

三国峠を超えてしばらくすると、だんだんと雲行きが怪しくなって来た。然別湖に着いた頃には霧がかかって、かなり視界が悪くなった。

 

霧の然別湖

湖畔に車を停めて降りてみた。残念ながら景色はよく見えない。それでも、湖の神秘的な雰囲気にはゾクゾクするものがある。晴れていたらさぞかし美しいだろうと思わされる。こんな湖でカヌーに乗ったら素晴らしいだろうなあ。道路の反対側に然別ネイチャーセンターというのがあったので、中で風穴のある場所を聞くと、東ヌプカカウシヌプリ登山口付近で見られると教えてくれた。

これがその場所。ごろごろとした岩が斜面に溜まっている。こうした場所はガレ場(岩塊斜面)と呼ばれる。東ヌプカウシヌプリは然別火山群に属する溶岩ドームである。凍結して割れた岩が山の斜面を崩れ落ち、麓の斜面を覆った。冬季の「しばれ」の厳しいこの地域では、岩の下で地下水が凍り、越年地下水となる。岩の下で越年地下水によって冷やされた空気は、暖かい季節になると隙間から外へ吹き出して来るのだ。

近づいて隙間に手を翳してみると、確かにスースーする。面白い〜。

 

とかち鹿追ジオパークのサイトに風穴とその周辺の自然環境についてのわかりやすい説明動画があったので、貼っておこう。

 

この記事の参考文献、ウェブサイト:

とかち鹿追ジオパークブログの風穴のページ

北海道大学出版会 『北海道自然探検 ジオサイト107の旅

 

実家に帰省したついでに回る旭川市周辺のジオサイト。神居古潭の次は当麻鍾乳洞だ。鍾乳洞は私が住んでいるドイツにも規模の大きいものがたくさんあって、特にシュヴェービッシェ•アルプの洞窟群はかなり見応えがある(過去記事 )。それらと比較して当麻鍾乳洞は小さいが、学術的にはかなり貴重なものであるらしい。

夏休みが終わっているせいか、この日は私たちの他に観光客は見当たらず、閉まっているのかと思うほど閑散としている。

石灰岩の崖にある鍾乳洞入口

鍾乳洞は、サンゴ礁などの殻や骨格を持つ生き物の死骸が海の底に堆積することによってできた石灰岩が水で溶食されてできる。

冷んやりした内部に入る。歩道の長さは135m。

洞窟の内部はいろいろな色が混じり合って神秘的な独特の雰囲気を醸し出している。当麻鍾乳洞の石灰岩は、海洋プレートが海溝に沈み込む際に海底火山や深海底の地層と一緒に大陸プレートの縁に押しつけられてくっついた付加体である。岩がカラフルなのは、その際の圧力で海底火山や深海底の地層は変質して緑色岩や赤色チャートになったため。

洞窟内は5つの部屋に区切られ、それぞれの部屋には大小様々な鍾乳石や石筍、石柱などが造り出す自然の造形にふさわしい名前がつけらている。

幸運の間

奥の院

千鶴の滝

当麻鍾乳洞の大きな特徴は、方解石の結晶であるつらら石や石柱などの透明度がとても高いことだそう。

確かに透明度がすごい。

蝋燭みたい。

特筆すべきは、管状鍾乳石と呼ばれる半径5mmほどの真っ直ぐな細い鍾乳石で、中が空洞になっている。マカロニ鍾乳石とも呼ばれ、とても珍しいそうだ。

 

当麻鍾乳洞を見た後は、大雪山国立公園内に位置する峡谷、層雲峡へ。

層雲峡には見どころがたくさんあるけれど、数時間では見切れないので、今回は2箇所に的を絞ろう。

1箇所目は大函。この渓谷はおよそ3万年前の大雪山の噴火によって堆積した火砕流堆積物が石狩川に侵食されてできた。火砕流堆積物は火山灰や軽石、スコリアなどから成るが、火砕流が厚く堆積すると中に熱がこもって火山灰中の火山ガラスが溶け、互いにくっつき合って緻密なガラスとなる。そうしてできたのが層雲峡に見られる溶結凝灰岩だ。

柱状節理

河原に落ちている岩のかけら

こんなものも落ちてた。エゾシカの骨?

2箇所目の立ち寄りスポットは双瀑台。

すごい岸壁

双瀑台テラスからは銀河•流星の滝を両方一度に眺めることができる。左のV字形の谷から流れている滝が銀河の滝(落差104m)で、右側のが流星の滝(落差90m)。2本合わせて夫婦滝とも呼ばれる。

糸のように細く分かれた水が岸壁を流れ落ちる銀河の滝。こちらが雌滝。

滝から崩れ落ちて来た岩石

滝というのはいつ見てもいいなあ。さて、再び移動だ。

 

この記事の参考文献:

前田寿嗣 『見に行こう!大雪・富良野・夕張の地形と地質

北海道大学出版会『北海道自然探検 ジオサイト107の旅

北海道には現在、7つのジオパークがあるが、それに加え、上川盆地から大雪山系にかけての地域をジオパークとして整備しようというプロジェクト、「大雪山カムイミンタラジオパーク構想」が進められていることを知った。カムイミンタラとはアイヌ語で「神々の遊ぶ庭」という意味で、雄大な大自然の広がる私の故郷である。そのジオパーク構想では旭川市の西の外れの渓谷、神居古潭(カムイコタン)がジオサイトの一つとして候補に上がっているらしい。カムイコタン(「神々の住むところ」)は子どもの頃から慣れ親しんできた場所で目新しさはないのだけれど、ジオという観点で景色を眺めたことはない。久しぶりに行ってみることにしよう。

石狩川が流れる渓谷、神居古潭は変成岩の織りなす独特な風景が印象的な景勝地だ。今回は車だが、旭川サイクリングロードが神居古潭まで伸びているので、市内から自転車でも気軽に行くことができる。

のはずが、ここもヒグマ出没で、安心して歩き回れない。本当にどこに行ってもヒグマヒグマヒグマ。

吊橋からの眺め

河岸を縁取っているゴツゴツした岩は緑色片岩や黒色片岩。この辺りの地質帯は「神居古潭変成帯」と呼ばれ、学術的にもとても重要らしい。神居古潭の岩と聞いて私が真っ先に頭に思い浮かべるくすんだ緑色の岩、つまり緑色片岩は、海底に噴出した溶岩やハイアロクラスタイトが熱と圧力の作用により地中で変成してできたもので、それが地殻変動によって1億年以上の時間をかけて地表へと上昇して来たのだ。

岩にはポットホール(甌穴)と呼ばれる丸い窪みができて、中に水が溜まっている。岩の表面の割れ目が水流で侵食されて窪みとなり、そこに小石が入ってグルグル回ることで丸い穴が形成されるのだ。神居古潭のポットホール群は北海道の天然記念物に指定されている。

ところで、神居古潭へやって来たのは、「神居古潭石」を見つけるためでもあった。神居古潭石というのは地質学用語ではなく、あくまで銘石としての総称だ。いろとりどりですべすべした美しい光沢があるので、観賞用の石として収集する愛好家がいる。そして、神居古潭の石は神々の住む場所の石だから、パワーストーンとしても人気があるらしい。私は石に超自然な力が宿っているとは考えないが、綺麗な石を見るのが好きだし、どんな石があるのか、実際に自分で探してみたかった。

吊橋のあるところからもう少し西に移動すると、河原に降りられる場所がある。河原の石は泥を被っていて、一見、どれも同じようなグレーに見えるが、土手の斜面の下ではいろいろな石が見つかった。

持って帰れるわけではないけれど、写真が撮りたくて1箇所に集めてみた。赤、オレンジ、緑、青、紫、茶、黒、、、、。

旭川駅の南口のあさひかわ北彩都ガーデンにも大きな神居古潭石が展示されている。

蛇紋岩

さて、石鑑賞を楽しんだ後、実家に帰って母に「今日は神居古潭へ行って神居古潭石を探して遊んだ」と話したら、「神居古潭石なら玄関にあるじゃない」という返事が返って来た。

え?

玄関に行ってみたら、そこに鎮座するのは立派な神居古潭石、、、。

「気づいてなかったの?昔からずっとここにあるのに」と母。灯台下暗しとはこのこと。そんなアホなオチのついた神居古潭石探しだったけれど、楽しかったからまあいっか。

 

この記事の参考文献:

前田寿嗣 『見に行こう!大雪・富良野・夕張の地形と地質

北海道大学出版会『北海道自然探検 ジオサイト107の旅

今回のスポットは滝川市美術自然館。北海道に住んでいる弟が面白いよと勧めてくれたので行ってみた。

滝川市美術自然館はその名の通り、美術部門と自然部門からなる博物館だけれど、今回はあまり時間がなく、目当てが「タキカワカイギュウ」だったので、自然史部門のみを見た。タキカワカイギュウとは1980年に滝川市の空知川河床で発見されたカイギュウの化石だ。北海道で初めての発見で、のちの調査で新種であることがわかり、1984年に北海道天然記念物に指定されている。

滝川市美術自然館の建物

建物前の広場にはホタテ貝のようなオブジェがあり(タカハシホタテ?)、

その中に骨の模型がある。これは、タキカワカイギュウの化石発掘の状況をシンボライズしているのだろう。そこから伸びる水路の先にはカイギュウらしき生き物の像が設置されている。

館内に入る前から期待感を抱かせてくれる。それでは、自然部門の展示室へ入ってみよう。

おおっ?なかなか本格的。カイギュウだけではなく、ティラノサウルスを含むいろいろな古生物の骨格が置かれ、自然史及び地球史に関する総合的な展示がなされていている。滝川市がそれほど大きな町ではないことを考えれば、かなりの充実度でテンションが上がった。大都市の大きな博物館が充実しているのはまあ当たり前だと感じるけれど、地方に良い博物館を見つけると思わず感激してしまう。この自然部門はその2階の子ども博物館と合わせて、とても気に入った。こんな素敵な博物館が身近にある滝川市の子どもが羨ましい。

この博物館のが充実しているのには、やはり、ここ滝川市でタキカワカイギュウの化石が見つかったということが大きいだろう。タキカワカイギュウを特別にしているのは、そのほぼ全身の化石が揃って発掘されただけでなく、発掘作業から、調査研究、レプリカ作り、そして展示に至るまでの全行程が滝川市内でなされたということ、そしてそのプロセスに滝川市の市民が積極的に参加していることだ。展示を見ているとタキカワカイギュウは滝川市の誇りなのだなということが伝わって来て、滝川市民ではない自分までなんだか嬉しくなる。

タキカワカイギュウの全身骨格とその下に展示された化石。後ろには生体復元模型。

滝川市で見つかったカイギュウの化石だからタキカワカイギュウと呼ばれているが、学名はヒドロダマリス・スピッサ。500万年前に生息したヒドロダマリス属のカイギュウで、体長およそ7m 、重さはおよそ4トンと推定される。発見当初はクジラの化石だとみなされたそうだ。発掘にたずさわった市民の会が「滝川化石クジラ研究会」と命名されたのはそのため。なにしろ、北海道ではそれまで一度もカイギュウの化石は見つかっておらず、日本全国でも2例しかなかったのだから、無理もないことだろう。

カイギュウは海に棲む哺乳類のうち、唯一の草食の生き物で、海藻のよく育つ浅い海に暮らす。滝川は今は平野だが、500万年前にはクジラやイルカ、サメなどが暮らす海だった。

現存するカイギュウの仲間であるマナティーやジュゴンは暖かい海に棲んでいるが、タキカワカイギュウが暮らしていた500万年前の滝川の海の水は冷たかった。タキカワカイギュウは体を大きくして筋肉量を増やし、同時に体の表面積を小さくすることで寒さに適応した。ラグビーのボールのような体型なのはそのため。

また、滝川の海の海藻は柔らかかったので、歯が退化してしまったとのこと。

滝川市周辺では貝の化石も23種見つかっている。この標本を見て、あっと思った。というのは、この日の前の日に偶然、近郊の河原で貝化石を含むと思われる石を見たのだ。

やっぱりこれらは貝の化石だったようだ。こんなふうに、実際にフィールドで目にしたものと展示の説明が繋がると楽しい。

その他、滝川方式として知られるようになった独自の化石レプリカ作製メソッドに関する展示なども興味深かった。

 

この記事の参考文献:

前田寿嗣 『見に行こう!大雪・富良野・夕張の地形と地質

木村方一 『化石先生は夢を掘る 忠類ナウマンゾウからサッポロカイギュウまで

 

 

ニセコ町滞在中、チセヌプリの北側にある神仙沼湿原を歩き、初めて見る高層湿原にとても魅了された(記事はこちら)ので、さらに規模の大きい高層湿原である雨竜沼湿原へ行ってみることにした。雨竜沼湿原は暑寒別岳の東側斜面、標高850mの高さに広がるおよそ100haの山岳高層湿原で、1964 年に北海道天然記念物に、2005年にはラムサール条約湿地に指定されている。

感想から言うと、ここは本当に素晴らしい。今回の旅は私たちにとって興味深い場所盛り沢山になったが、この雨竜沼湿原は間違いなくそのハイライトだ。

ただ、湿原の入り口まで車で気軽にアクセスできる神仙沼と違って、雨竜沼湿原に辿り着くにはまず2時間ほど山登りをしなければならない。なかなかハードルが高そうで、ちょっと不安でもあった。

雨竜町の道の駅に貼ってあったポスター

まずは車で雨竜町中心部から登山口ゲートパーク(標高540m)まで行き、管理棟で入山受付をし、熊鈴をつけたら登山開始。

登山口からはてっぺんが平らな円山が見える。こんな形をしているのは、地下から上がってきた玄武岩の岩脈が、周りが侵食されてなくなった後に残ったものだから。その標高(853m)は湿原とほぼ同じ。つまり、これからあのてっぺんの高さまで登るだ。大丈夫かなあ。

心配しつつ登り始めたが、とりあえず最初の15分くらいは緩やかな傾斜で楽勝だった。

渓谷を流れるペンケペタン川にかかる渓谷第一吊橋を渡り、さらに15分くらい歩くと、谷の向こう側に大きな露頭が見える。

溶岩や礫岩、砂岩の層などが見える。

白竜の滝

渓谷第二吊橋を渡ったあたりからは険竜坂と呼ばれるだけあって、かなりキツくなる。

登り切って、湿原テラスに到着。

テラスから、しばし湿原を眺める。高原の上に広がる青空は清々しく、がんばって登って来た甲斐があった。向こうに見える山は南暑寒岳(左)と暑寒別岳(右)。熊が出没しているのでこれらの山へは登らないようにと管理棟で言われていた。湿原の奥にある展望台までは行っても構わないとのことだったので、展望台を目指して湿原を歩くことにした。

湿原には木道が整備されている。

山の上にこんな広い平原が広がっているのは、ここが溶岩が積み重なってできた溶岩台地であるからだ。一年の半分以上が雪に閉ざされるので、枯れた植物が腐食せずに堆積して泥炭の厚い凸凹の層を作る。その窪みが大量の雪解け水で滋養されることでこの広大な湿原が形成されているのだ。

湿原には大小様々な無数の池塘がある。円形の池塘は、氷河期に地中にできたレンズ上の氷が気温が上がることで溶け、形成された窪地に水が溜まったものだという。それを知って、私が住んでいる北ドイツの地形との意外な繋がりに気づいた。こちらの記事にまとめたように、最終氷期に氷床に覆われていた北ドイツの低地には氷床の溶け残りによってできた窪地に水が溜まってできた湖がたくさんあるのだ。山の上で似たプロセスでできたものを見るとは思わなかった。

これも不思議な風景。左側の池塘の方が水面が高くなっている。雨竜湿原は雨水や雪解け水のみで滋養され、地下水とは繋がっていない高層湿原(ドイツ語ではHochmoorと呼ばれる)なので、それぞれの池塘の水位は蒸発の程度によって決まる。

池塘には浮島を持つものもある。(実際には浮いているわけではなく、池の底で繋がっている)

湿原の中央にはペンケペタン川が大きく蛇行しながら流れている。

7〜8月にはたくさんのお花が湿原を彩るそうだけれど、もう9月に入っていたので、お花はほとんど咲いていなかった。かろうじて咲いていたのはエゾリンドウくらい。

お花のハイシーズンに来たかったなあ。

湿原テラスから1時間ほど歩いて、ようやく展望台に到着。

展望台

展望台から湿原を見下ろす。すごい景色なのに写真では素晴らしさをうまくキャプチャできず、無念。湿原の向こうにはなだらかな恵岱岳が見える。山が途切れているところが湿原の入り口。

再び木道を歩いて湿原入り口に戻ろう。

 

恵岱岳の斜面はダケカンバの林で、その麓にはチシマザサが群生している。

湿原入り口から登って来た道を下って登山口へ戻る。

ペンケペタン河床の玄武岩溶岩

登山開始から5時間ちょっとでゲートパークまで戻って来た。思ったほどはハードでなく、なかなか見られない素晴らしい景色が見られて最高だった〜。感動の余韻の中、車に乗り込み道道432号を雨竜町に向かう。もう大満足なのだが、帰路で野生動物に次々遭遇し、ますます感動することになる。

エゾシマリスだ!小学生の頃、母と山へ行って目にして以来の遭遇。可愛い〜。

今度はタヌキたちが出て来た。実は野生のタヌキを見るのは初めて。こんな昼間に遭うとは。楽しいなあ。

テンションが上がりっぱなしの私たちだった。ところが、そこからほんの数十メートル進んだ先で気分は一転する。前方を何か大きな黒いものが動くのが視界に入ったのだ。

「何あれ?」

「、、、、。」

「クマ?」

「クマだ、、、、」

目の前を動いているのがヒグマだということを把握した瞬間、ヒグマは路肩から右の藪の中に消えた。

ヒグマに遭遇した場所。一瞬のことだったのでヒグマはすでに消え去っているけれど、目撃報告のための記録として撮影。

ふう〜〜〜。車に乗っていてよかった。ヒグマはさすがに怖い。遭遇した時刻をスマホに記録し、ゆっくり気をつけながら運転して町へ戻った。それから登山口ゲートパークに電話して状況を説明したけれど、自分がヒグマ遭遇の報告をしているということがなんだか現実味がなくて、なんとも不思議な感覚だった。

そんな予期せぬオマケもあった雨竜沼湿原トレッキング。きっと、いつまでも記憶に残ることだろう。

 

この記事の参考文献、サイト:

前田寿嗣 『見に行こう!大雪・富良野・夕張の地形と地質

雨竜沼町観光協会ウェブサイト

 

前回はニセコ町の北に位置するニセコ連峯のジオサイトについて記録した。今回はニセコ町の東にそびえる羊蹄山周辺のジオサイトについて。

日本百名山の一つである羊蹄山は標高1898m。溶岩や火山砕屑物などが積み重なってできた成層火山で、富士山に似た美しい円錐状のかたちをしていることから蝦夷富士とも呼ばれる。その存在感は圧倒的。上川地方出身の私にとっては、山といえばなんといっても大雪山系の主峰、旭岳なのだけれど、今回、道央を回って羊蹄山の勇姿を何度も見て、すっかり羊蹄山ファンになった。

雲が切れて、ほぼ山頂まで姿を現した 羊蹄山

ここでも『行ってみよう!道央の地形と地質』を見ながら、京極町から倶知安町まで、羊蹄山周辺のジオサイトを回る。

 

まずは羊蹄山の西側に回って、湧水の湧き出る京極町のふきだし公園へ。

思っていた以上にすごい!ここふきだし公園で1日に湧き出す水の量は8万トンだという。湧き出している水は、羊蹄山を形成する岩石の隙間にしみ込んだ雪解け水や雨水だ。ゆっくりと山体の内部を降りて来た水は、麓の水を通さない粘土層に到達すると地表に湧き出して来る。

ふきだし公園の湧水は環境庁の名水百選に選ばれている。自由に汲んでよいので、容器を持って汲みに来ている人がたくさんいた。ちょっと味見してみたら、確かにとてもおいしい水だった。

 

ふきだし公園から国道275号線をそ1.5kmほど北上したところには、溶岩の流れた跡が観察できる場所がある。

大きな塊の部分には柱状節理が見られ、その上下は細かい構造の層。溶岩流といえば、イタリアのシチリア島アルカンタラ渓谷の風景を思い出す(記事はこちら)。あの景色もすごかったなあ。

 

もう1箇所とても興味深かったのは、倶知安町高砂地区にある露頭。高砂地区には陸上自衛隊の駐屯地があり、敷地の縁が崖になっている。

崖は一面、草に覆われているが、

よく見ると、1箇所、地層が見えているところがあった。

近寄って見ると、ねっとりした粘土の地層である。真ん中ほどの位置の焦げ茶色をした層は、資料によると羊蹄山の噴火によって堆積したスコリア層。粘土層の表面を擦って剥がすと、中はくすんだ青色をしている。

この地層は「湖成層」と呼ばれ、ここがかつて湖だったことを示している。この地層は湖の底に堆積した粘土が固まったものなのだ。黒っぽい細かい横縞がたくさん入っている。季節などの要因によって粘土の量が増えたり減ったりしたためにこのような縞模様ができたのだそう。

縞模様が乱れているところは、湖に住む生き物によって泥がかき乱された跡。倶知安町はかつてそのほぼ全域が湖だった。その湖は町の南部を流れる尻別川が堰き止められてできていたが、川を堰き止めていたものがなくなったことで湖の水はなくなり、湖の底にあった地層だけが現在まで残っている。倶知安の湖成層からは当時、湖に生息していたケイソウなど、微化石が多く見つかるらしい。(もちろん、肉眼では見えない)

数年前からときどき趣味で化石採集をするようになって感じるようになったのは、地球環境は常に変化しているのだなあということ。まったく何の予備知識もないまま初めて化石採集に行ったのは南ドイツだったが、海から遠く離れた場所なのに、地層から海の生き物の化石が出て来て驚いた。でも、よく考えてみれば不思議なことではなく、地球は人間の時間をはるかに超えるスケールの時間の流れの中で変化し続けている。それを意識するようになってから、風景を見にしたときの感じ方が変わった。今、目にしている風景は、止まることのないダイナミズムのある一時点を切り取ったものに過ぎないのだよね。

 

 

この記事の参考文献:

北海道大学出版会 『札幌の自然を歩く 第3版 道央地域の地質あんない

北海道大学地質学会北海道支部 『北海道自然探検 ジオサイト107の旅

前田寿嗣著『行ってみよう!道央の地質と地形

 

 

 

 

 

最近、なにかと話題のニセコ町。過疎化した小さな町だったのが、上質のパウダースノーを求めてやって来る海外からのスキー客向けに外国資本のリゾートホテルが次々に建てられ、移住者も増えているという。さらには、国からSDGs未来都市にも選定され、国の内外から注目されている。そんな話をネット上でもよく目にするようになった。

今回、私たちもそのニセコ町に滞在することにした。とはいっても、スキーシーズンでもないし、高級リゾートホテルに泊まるお金もない。私たちの今回の旅の目的はジオサイトを見て回ること。贅沢は必要ないので、ニセコ町に小さなコテージを借りて自炊することにした。ところが、行ってみると、コテージは思った以上に簡素だった。予約する際によく確認しなかったのが悪いのだが、エアコンがないのはまあいいとして、お風呂もシャワーもついていないということが現地に着いてから判明。ええっ、と驚く私たちにオーナー夫婦は「ニセコには温泉がたくさんありますから、お風呂に入りたかったら温泉へ行ってください」と言う。猛暑だというのにシャワーもないなんてとうんざりしたが、ニセコは実際、温泉天国なのだった。

というのも、ニセコ町の北西には東西25kmに渡ってニセコ連峯が連なっている。ニセコ連邦は200万年以上も活動を続ける火山群である。中でもニセコ町に近いニセコアンヌプリからイワオヌプリにかけては、約10万年前から活動を開始した新しい火山だ。温泉湯本を始めとするジオサイトがたくさんある。

まずはイワオヌプリの中腹にある、五色温泉の源泉を見てみよう。

五色温泉の源泉は、すり鉢状をした直径250mの爆裂火口である。地面は白っぽく変質し、水蒸気爆発で吹き飛ばされた岩塊があたりに散らばっている。

湯の谷に敷かれた給油管

熱水が流れた岩の割れ目に硫黄の結晶ができている。

大きな結晶!

イワオヌプリの登山口付近から見たニセコアンヌプリ

 

次はチセヌプリの麓の地熱地帯、大湯沼へ。

駐車場に着いて車を降りたら、強烈な硫化水素のにおいがする。沼の周りには散策路が設けられているが、火山ガスが強く、健康に害があるので、長時間の見学はしないようにと書かれた看板が立っていたので、鼻を押さえながら早足で沼の周りを回った。

沼の底からブクブクとガスが湧き上がっている。

沼の周りの地面を無数の黄色い小さなツブツブが覆っている。これらは温泉から分離した硫黄が溜まった球状硫黄と呼ばれるもので、中は空洞である。

大湯沼を見た後は、道道66号を北上してチセヌプリの北の神仙沼自然休養林へ。神仙沼レストハウスの北側にある展望台へ登りたかったが、霧がかかっていて何も見えそうにないので諦めた。レストハウスでお昼ご飯を食べていたら少し霧が晴れて来たので休養林を歩くことにした。

木道入り口。左右にツタウルシが多いので注意。

木道をしばらく歩くと視界が開け、そこには湿原が広がっていた。

神仙沼湿原はチセヌプリが山体崩壊を起こし、崩れた山体の一部が岩屑なだれとなって山の北側に堆積したことによって形成された高層湿原だ。蓄積した泥炭層の隙間が雨水や雪解け水で満たされた池塘が点在する。

池塘のあちこちでトンボが産卵している。

神千沼

これまでに低層湿原は何度も歩いたことがあったが、高層湿原は初めて。静かでとても神秘的な風景だった。

 

この記事の参考文献:

北海道大学出版会 『札幌の自然を歩く 第3版 道央地域の地質あんない

北海道大学地質学会北海道支部 『北海道自然探検 ジオサイト107の旅

前田寿嗣著『行ってみよう!道央の地質と地形

今回まとめるのは余市市から積丹岬へのドライブについて。積丹半島の地形も小樽周辺同様に海底火山活動によって形成されている。つまり、今回の記事は前回の記事「小樽の地形と石と石像建築」の続き。

忍路湾から再び国道5号線に戻り西へ向かうと、余市川を渡ってすぐの入船町に余市漁港がある。その漁港には「太古の岩」と呼ばれる岩礁があるという。

 

目的の岩礁は思ったより目立たず、どこにあるのかとしばらくウロウロし、ようやく駐車場の横に柵で囲まれた「太古の岩」の看板を見つけた。

余市漁港は溶岩とその砕屑物によって形成された岩盤の上に造られている。漁港を造る際、この岩礁を「太古の岩」として残し、保存することになった。マグマが流れた跡が縞模様として残る流紋岩の岩礁だ。漁港のすぐ背後に迫るモイレ山もまた流紋岩でできている。

近づいてみると、マグマの流れを表す縞模様(流理構造)がはっきり見られる。

捕獲岩もみっけ!

こういうのを見ると、石って本当にタイムカプセルだなあと思う。

さて、次の目的地は白岩町の白岩海岸だ。


現在は閉鎖されている旧ワッカケトンネルの上の崖に、白岩海岸の名前の由来である真っ白な岩が見える。その上には重々しい灰色の岩が乗っかっている。そのコントラストがすごい。

白い地層は軽石や火山灰が堆積して固まった凝灰岩で、

その上の岩体はハイアロクラスタイト。このような異なる2つの岩体が重なった構造になったわけは、それぞれのもととなったマグマの種類が違うからである。(下部の白い岩体は流紋岩マグマ由来で、上部の灰色の岩体は安山岩マグマ由来。)同じマグマでも種類によってこんなに見た目が全然違う岩になるんだなあ。

 

白岩海岸は海側にもまた、目を見張る景色が広がっている。

恵比寿岩(左)と大黒岩(右)。合わせて夫婦岩。大黒岩の上には鳥居がある。

浅瀬にそそり立つ2つの奇岩。これらは火山円礫岩という礫岩でできている。海底火山活動によってできたハイアロクラスタイト(水中砕石岩)が崩れて流れ、水の作用を受けて丸くなり、それらが再堆積したものという理解でいいのかな。

小樽から余市までの海岸は景勝地のオンパレードで、1箇所1箇所見ていたら時間がいくらあっても足りない。でも、せっかくここまで来たからには、積丹ブルーが見たい。さらに積丹岬まで足を延ばそう。

積丹岬の駐車場に車を停め、積丹岬自然遊歩道を歩くつもりだった。ところが、、、、。

クマ出没で遊歩道は閉鎖されていた!ショック。今年は北海道全域でヒグマの出没が多発しているようで、この後に訪れたあっちでもこっちでも遊歩道が閉鎖され、行動が制限されることになった。私は野生動物が好きでアニマルトラッキングもやっているけれど、さすがにヒグマ出没エリアに足を踏み入れるのは危なすぎる。残念だけれど、遊歩道ハイキングは諦めよう。駐車場のすぐ近くの島武意海岸展望台へは「クマに注意しながら」なら、行っても良いらしい。クマ鈴をつけて展望台へのトンネルを潜った。

展望台に出たが、なんとここにもロープが張られ、海岸へは降りられないようになっている。ああ、残念。

クマのせいで、上から眺めるだけになってしまったが、積丹岬はさすが日本の渚百景の一つ、碧い海と岩々の織りなす絶景は息を呑む美しさ。この日は曇っていたけれど、晴天だったらどれほど鮮やかだろうか。

海から突き出す屏風岩。屏風を立てたように見えるからそう呼ばれるそうだが、この不思議な形は一体どうやってできたのだろう。これは海底火山が形成されたときにマグマの通り道だったところ、つまり岩脈で、その後火山体は海底で侵食されてなくなり、岩脈だけが隆起した。マグマの上昇は繰り返し何度も起こったので、複数の岩脈が重なっている。

積丹の海岸は本当にダイナミックだ。でも、積丹半島にあるのは海岸だけではない。実は、積丹半島では「積丹ルビー」と呼ばれる石が採れるという、気になる情報を入手していた。積丹ルビーは「ルビー」とつくけれど実際にはルビーではなく、菱マンガン鉱(ロードクロサイト)というもので、ピンク色をしており、質の良いものは半貴石として取引されているそうだ。

菱マンガン鉱は積丹半島のどこで見つかるのだろう?調べてみると、菱マンガン鉱は別の名を稲倉石といい、今は閉山した稲倉石鉱山で採取されていたとわかった。そこで、稲倉石鉱山跡へ行ってみることにした。

これが結構な奥地で、草木が生い茂る真夏に鉱山跡付近に辿り着くだけでも冒険だった。

やっと辿り着いた稲倉石鉱山跡の入り口。

はるばる来たけれど、日が暮れて来たし、誰もいない山の奥でクマが出て来そうで怖い。これ以上進むのは危ないからやめておいたほうがいいだろう。せめて地面に落ちている石の中に菱マンガン鉱が混じっていないかなあ。

薄いピンク色の結晶のある石がいくつか見つかった。これ、菱マンガン鉱かなあ?それとも別の石?

 

積丹半島、まだまだ見どころがたくさんありそうだけれど、行きたい場所、見たいもののリストは長い。次に進もう。

 

この記事の参考文献:

北海道大学出版会 『札幌の自然を歩く 第3版 道央地域の地質あんない

北海道大学地質学会北海道支部 『北海道自然探検 ジオサイト107の旅

前田寿嗣著『行ってみよう!道央の地質と地形

 

登別温泉で集まった家族はそれぞれの家に帰り、再び二人になった私と夫は小樽へと向かった。

小樽といえば運河や風情ある歴史的街並みが人気である。市の中心部には明治時代初期から昭和初期にかけて建てられた石造建築物が数多く残っている。

栄町通りの石造建築

どうして小樽市には石造りの建物が多いのだろうか。小樽には水族館やウニ丼やガラス細工など、他にもいろんな魅力があるけれど、今回はジオ旅行ということで特に石に着目してみることにした。事前に親戚が送ってくれた日本地質学学会の地質学雑誌第125巻に掲載されている「巡検案内書 小樽の地質と石材」という資料が参考になった。

運河沿いの倉庫群などに代表される小樽の石造建築は木骨石造と呼ばれる、木材でつくった枠組みの間に石材を積み重ねた構造である。明治時代から港町として発展した小樽市では、多くの倉庫を建造する必要があった。蔵といえば伝統的には土蔵だが、当時、冷涼な気候の北海道では米作りがまだそれほど普及しておらず、土蔵の土壁に必要な稲わらが不足していた。また、小樽では大火事が度重なり、多くの建物が被害を受けたこともあり、耐火性のある石材を使った建物が多く建てられたらしい。そうした建物には、石材として「小樽軟石」と呼ばれる、柔らかくて加工しやすい凝灰岩(火山灰が堆積してできた岩石)が主に使われた。

小樽市西部の桃内という地域にかつての小樽軟石の採石場があるらしい。探しに行ってみよう。

小樽市中心部から国道5号線を余市方面に向かって進み、塩谷海水浴場で国道を降りて笠岩トンネルを抜けると、海岸に桃岩と呼ばれる特徴的な岩が視界に入る。

奥に見える丸みのある岩が桃岩。桃のような形と言われればそのようにも見える。その右手のなだらかな斜面にもかつては大きな岩山があったという。現在は私有地のようで、桃岩へ向かう道にはロープが張られていて近づけない。

桃岩を望遠レンズで撮ったのがこの写真。地面から1/3くらいの位置にラインが見え、その上とで見た目が違っている。こちらのサイトによると、下部は軽石凝灰岩で、上部は軽石凝灰岩および凝灰質砂岩。と言われてもピンと来ないのだけれど、細かい違いはあれど、全体として火山灰が海の底に堆積し、固まったものと考えていいのかな。

右側の斜面もズームインして見てみた。石を切り出した跡がわかるような、わからないような。やっぱり近くで見ないといまひとつ理解できない。

ちなみに、小樽の石造建築物には札幌軟石という石も使われている。小樽へ来る前に、札幌の石山地区に残る札幌軟石の採石場跡も見て来たのだ。

 

こちらの採石場跡は公園になっていて、近くで岩肌をみることができる。なかなか壮観だ。同じ軟石でも札幌軟石と小樽軟石とでは色味や質感が少し違うように見える。札幌軟石の方がすべすべしている印象。約1,000万年前~約500 万年前の水中火山活動によって水底に堆積してできた小樽軟石とは異なり、札幌軟石は約4 万年前に火山噴火物が陸上に堆積してできたもの。小樽軟石よりも粒が均質で、石材としてより高級だそうである。でも、見た目的には小樽軟石の方が味わいがあって好まれたとか。そんな違いも考えながら小樽の石造建築を一つ一つじっくり眺めて歩いたら楽しいかもしれない。

街歩きだけでも充分楽しい小樽だけれど、せっかくなら絶壁と奇岩が織り成す複雑な小樽の海岸線を海側からも見てみたい。そう思って青の洞窟までのクルージングツアーを予約した。ところが、当日の朝になって、今日は波が高いので青の洞窟までは行けませんとクルーズ会社から連絡が、、、。楽しみにしていたので、がっかり。運河内のクルーズなら可能とのことだったけれど、それだとジオ旅行の目的が果たせないので、クルーズはやめて陸地から海岸の景色を楽しむことにした。

まずは小樽市街の北にある「おたる水族館」近くの祝津パノラマ展望台へ。写真は展望台から見た小樽海岸の絶壁である。色と形が印象的。崖の斜面が黄色っぽいのは、海底火山活動による熱水で地層が変質したため。

そしてそこから突き出す岩塔。周りの地層よりも硬くて侵食されにくい岩が残ってこのような景観になるらしい。

 

次は海岸へ行ってみよう。車で西に移動し、赤岩山の麓にある出羽山神社から山中海岸へ出る斜面を降りた。

坂道はかなり急だった。この日は気温が30度くらいあり、鬱蒼と茂った植物をかき分けて進むので、暑くてムシムシする。海に辿り着く前に汗だくだあ。

山中海岸

どうにか海岸に到着。大きくてゴツゴツした岩がゴロゴロしている。遠くに見えるのはオタモイ海岸の崖。

山川の景色。うわー。海岸の大きな岩はここから崩れて落ちて来たのかあ。

岩はマグマからもたらされた熱水で変質し、薄緑色や赤茶けた色をしている。

結晶ができているところは熱水が通った跡。

 

しばらく海岸で石を眺めたり風に当たったりした後は、再び汗だくになり、虫に刺されながら降りて来た山道を登って車に戻る。国道5号線をさらに西に進み、忍路半島に向かった。

忍路湾船着場の奥に見える恵比寿岩。船着場付近に車を止め、そこから山道を登って竜ヶ岬まで歩いてみた。

切り立った崖の上に恐る恐る立った。全体的に黄色っぽい崖の表面はグレーの角ばった大小様々な塊で覆われている。それらは水中に噴出した溶岩が急激に冷やされて表面が収縮し、内側から砕けたものだそう。

丸みのある大きなグレーの塊は、溶岩が水中に噴出して固まった枕状溶岩。

表面のあちこちには溶岩中のガスが抜け出した跡の穴が開いている。こんな高い崖のてっぺんで枕状溶岩などというものを見るのはなんだか不思議な気がする。今、私が立っている場所は、かつては海の底だったのね。

竜ヶ岬からの眺め。すごい景色だなあ。

ボートクルージングはできなかったけれど、陸上でいろんな景色を見て、小樽周辺の景観は海底火山活動によって創り出されたものだと感じることができた。ここまで調べてまとめるのがやっとで、理解が追いついていない部分が大きいけれど、はるか昔の火山活動があって小樽周辺の地形や地質があり、その過程で形成された岩石の一部が石材となって現在まで続く小樽市の街並みをかたちづくったのだなあ。地形や地質と人々の営みや文化との繋がりを考えるのは面白い。

 

この記事の参考文献:

北海道大学出版会 『札幌の自然を歩く 第3版 道央地域の地質あんない

北海道大学地質学会北海道支部 『北海道自然探検 ジオサイト107の旅

前田寿嗣著『行ってみよう!道央の地質と地形

地質学雑誌 第125 巻 第5 号 巡検案内書『小樽の地質と石材』(PDF)

北海道ジオ旅行開始から1週間。遠方から帰省した弟夫婦に加え、道内に住む母も合流したので、みんなで温泉に1泊することにした。選んだのは、北海道に数多くある温泉の中でも特に知名度の高い登別温泉である。

クッタラ火山の活動が生み出した登別温泉は湯量が豊富で、泉質の種類が多いことで知られる。「温泉のデパート」と呼ばれたりもする。

でも、私は暑がりでのぼせやすいので、実は温泉に入ることにはそれほど興味がない。お湯に入った瞬間は気持ちがいいけれど、暑くてすぐに出たくなってしまう。それぞれの温泉には異なる効能があるのだろうけれど、健康効果が得られるほど長く入っていられない。そんなわけで、湯巡りよりも自然景観を眺める方により興味があった。

夕方に温泉街に到着しホテルに荷物を置いたら、さっそく登別温泉の泉源である地獄谷を見に行った。

さすが地獄谷と呼ばれるだけあって、迫力満点。日本に住んでいると、こういう景色はそこまで珍しいものではないけれど、私の住んでいるドイツでは目にすることがないので、火山好きの夫にこれを見せたかったのだ。地獄谷の複雑な地形は、繰り返し起きた爆裂の火口が重なり合うことで形成されている。

谷を流れる湯の川

噴気孔

析出した硫黄

 

翌日の朝、家族は温泉街の散歩に出かけた。泊まっていた第一滝本館のすぐそばの泉源公園に間欠泉があるという。私はその日の朝はなんとなくダラダラしたい気分だったのと、間欠泉はアイスランドのゲイシールを見たことがあるから別にいいかな、、、と思ってパスした。しばらくして帰って来た家族が、「ちょうど噴き出す時間帯だった。なかなか凄かったよ」と言って、撮った動画を見せてくれた。しまった、これは見に行けばよかった!

 

午後は地獄谷から道道350号倶多楽公園線を登って大湯沼へ。

大湯沼の後ろにそびえるのは日和山。

沼からもうもうと湯気が上がっている。表面の温度は40〜50℃ほどだけれど、沼底は130℃を超えるとのこと。

こちらは奥の湯。表面温度は大湯沼よりもさらに高く、75〜85℃。

 

大湯沼駐車場から数分のところに大湯沼川探勝歩道への入り口があり、天然足湯ができる場所もあるらしかったが、暑い中、母を歩かせるのはかわいそうなので、そのまま車に乗り込み日和山展望台へ向かった。

日和山展望台から見た日和山の山頂。噴気孔からゴウゴウすごい音を立てて白煙が上がっている。

展望台にある説明看板によると、「日和山」の名は、昔、太平洋を移動する船が山から立ち上る噴煙の量や流れる方向を見て天気を判断していたことから来ているそうである。

倶多楽公園線はクッタラ湖へと続いている。透明度が高く、ほぼ円形をした美しい姿が人気だと読んで楽しみにしていたのだけれど、観光シーズンを過ぎているからか人気はなく、車を停められると思った場所にうまく停められなくて、湖畔に降りられなかった。そんなわけでクッタラ湖の写真は撮り損ねてしまった。でも、以前の北海道への帰省写真を見返したら、飛行機の中から撮った写真にクッタラ湖が写っていた。

手前に見える外輪山がくっきりの湖がクッタラ湖。

クッタラ湖はおよそ4万年前の噴火活動によってできた。地図上では小さい湖のように感じられたのに、上空から見るとかなりインパクトがあるなあ。

これまでは温泉を「効能のあるお湯のお風呂」としか捉えていなかった。日本人で生まれて、温泉があまりに身近でその不思議さを意識していなかったのだと思う。今回、久しぶりに温泉に入って、温泉を地球の活動という観点考えるのも面白いんじゃないかという気がして来た。

北海道ジオパーク・ジオサイトの旅はさらに続く。

 

この記事の参考文献・サイト:

前田寿嗣著『行ってみよう!道央の地形と地質

登別国際観光コンベンション協会ウェブサイト

 

石狩市望来海岸を楽しんだ後は、次は洞爺湖有珠山UNESCO世界ジオパークへ移動した。日本で初めて世界ジオパークに登録されたジオパークで見どころが多いので、2泊滞在してじっくり楽しむつもりだった。

ところが、お天気がパッとせず、特にフルに使える予定だった2日目は終日雨。残念ながら充分に見て回ることができたとは言えないけれど、いくつかの場所を見ただけでも、このジオパークは凄い場所だなと感じた。忘れないように記録しておこう。

洞爺湖はおよそ11万年前の巨大な火山噴火によって形成された窪地に水が溜まってできた直径およそ10kmのカルデラ湖で、その中央に中島と呼ばれる島群を持つ。洞爺湖のすぐ南には周期的に噴火を繰り返す有珠山がそびえる。1977- 78年の噴火時には私はまだ小学生だったけれど、連日ニュースで噴火について報道していたのを覚えている。当時は何が起こっているのかよく理解していなかったものの、有珠山の名前はかなりのインパクトを持って脳内に刻み込まれた。

まずはロープウェイに乗って有珠山に登った。

向こうに見える赤い山は、昭和新山。山というものは、はるか昔からそこにあるものと普段なんとなく思っているので、自分が生きている時代に新しく誕生したという事実が不思議でとても気になる。

丸く高く盛り上がった溶岩ドームの周りには緑色の尾根山が低く広がっていて、上から見るとなんだか新鮮な卵で作った目玉焼きみたい。有珠山は活動の場を変えながら噴火を繰り返し、次々と新山を作って行くのが特徴。有珠山から噴出するデイサイトと呼ばれる粘り気の強い溶岩は流れにくく、地面を押し上げて新しい山を作ったり、地表に現れて溶岩ドームになる。昭和新山よりも以前の明治時代にできた新山は「明治新山」と名付けられている。明治の噴火の後に温泉が発見されたことで洞爺湖温泉が発展することになった。

これは下から見たところ。山肌の赤い色は、昭和新山ができる前にそこにあった土壌がマグマの熱で焼かれて天然のレンガとなったためで、地表の温度は現在でも高いところは100℃くらいあるそうだ。もとは平坦な麦畑だったところが突然、隆起を始め、あれよあれよという間に山ができたというのが本当に不思議。そして、その成長の様子をつぶさに観察し、記録していた人がいるという事実に驚嘆する。

観測者は当時、地元の郵便局長だった三松正夫氏。三松氏による新山隆起図はミマツダイアグラムと呼ばれて世界的に知られるようになった。三松正夫記念館という資料館もあって、氏の残した記録や資料が展示されているそうだけれど、今回は見る機会を逃してしまった。

ロープウェイ降り場から少し歩いて有珠山火口展望台に到着。右手前から大有珠、オガリ山、小有珠が連なり、その左下方に火口(この写真では見えない)がある。

銀沼火口。説明パネルによると、ここはかつては森林に覆われた静かな沼だった。1977-78年の噴火で植生が破壊され、銀沼は火口原となった。オガリ山は分割され、小有珠は沈み、長閑な景観は大きく様変わりした。

丸かった大有珠山頂もかたちが変わってギザギザに。あのときの噴火は、やはりとてつもない規模の噴火だったのだなと実感する。

 

山を降りた後は、洞爺湖ビジターセンター・火山科学館へ。

この施設では2000年の噴火時の被害を実物展示で見ることができる。この噴火時には私は日本にいなかったので、噴火のニュースは耳にしたものの、詳しくは知らなかった。

ぐにゃりと曲がった線路

火山科学館のシアターで見た映画もとてもわかりやすくてよかった。

 

翌日は、雨の合間に金毘羅山火口展望台へ。

展望台から見た洞爺湖と中島

有くん火口

2000年の噴火時に金毘羅山にできた火口群の一つ、有くん火口のエメラルドグリーンの水が綺麗。マグマが地下水と接触して水蒸気爆発を起こし、噴出物がこのように火口の周りに高く積まれた状態になったものを「タフコーン」と呼ぶと知った。水蒸気爆発でできた火口に水が溜まった「マール湖」という地形がドイツのアイフェル地方にあるが、火口の周りにはこのような目立った高まりはなく、水をたたえた火口はレンズのようだ。爆発が激しいと噴出物は遠くに吹き飛ばされて、火口の周囲に溜まらないためらしい。私は神秘的なアイフェル地方のマール湖が大好きなのである。(見学記はこちら

展望台から洞爺湖温泉街を見下ろしたら、廃墟のようなものが目に入った。

これらは2000年噴火時に金毘羅火口から流れ出した熱泥流によって被害を受けた建物で、災害遺構群として敢えてそのまま残してあるそうだ。手前は桜ヶ丘団地、奥にあるのは町営浴場。熱泥流の被害は相当な規模だったにも関わらず、住民の避難は迅速に行われて一人の犠牲者も出なかったというのは凄い。これらの遺構を間近に見学できる「金比羅火口災害遺構散策路」が設けられている。

さらに、ピンク色のかつての消防署の建物を起点とした「西山山麓火口散策ルート」というのもある。この消防署の建物の中にも噴火に関する展示があって、興味深い記録写真がたくさんあった。でも、資料館として公式にカウントしていないのか、ジオパークのビジターセンターでもらった案内マップには記されておらず、建物にも係員はいなかった。(でも、ドアは開いていたので勝手に入って展示を見ました。すみません)

消防署の建物の裏手には沼(西新山沼)がある。電柱や標識があってなんだろう?と思ったら、ここはもともとは国道で、マグマが地表を押し上げたことで下り坂だったところに窪地ができ、そこに水が溜まって沼になったとのこと。散策路を進むと地殻変動や災害の跡がよく観察できるらしい。ぜひとも歩きたいルートだったけど、雨が強くなって来たのでやむなく断念。中島へも行きたかったし、まだまだ見たいものがあったので、ちょっと心残りである。

 

 

北海道ジオパーク・ジオサイト巡り、次の目的地は札幌の北西およそ30kmに位置する石狩市の望来海岸である。

前田寿嗣氏の「行ってみよう!道央の地形と地質」によると、望来海岸には面白そうなジオサイトがいくつもありそうだ。札幌から国道231号を北上し、石狩川を渡ると、その北には石狩丘陵が広がっている。

丘から海岸へ向かう途中で車を降りて、少しあたりを歩いてみた。この一帯の地形は台地が階段状になった、海岸段丘だ。海岸に面した陸地が波による侵食と隆起を繰り返すことで、階段状の丘になると読んでなるほどなあと感心した。視界を遮る人工物がほとんどないので、地形がよくわかって面白い。

段丘を降り切った無煙浜と呼ばれる場所には厚田油田跡という、昭和6年から36年まで操業していた油田の跡が見られるらしい。探してみよう。

崖の下の草むらに、コンクリートの塊が柵で囲まれた場所が見つかった。ここはかつての油井で、コンクリートの下には穴があり、原油が溜まっているらしい。と言われても、これだけではどうもピンと来ないなあ。もっと油田らしい風景は見られないのだろうか。

海に向かって草むらを少し歩いてみることにした。すると、ほんの数十メートル進んだ地点で、ガソリンのような強烈な臭いがして来た。あたりを見回すと、

おお!油田跡っぽい!地面はねっとりした粘土質で、そのあちこちに水溜りがある。よく見たら、それらは水溜りではなく、滲み出した油だった。いくつかの油溜まりからはブクブクとガスが吹き出している。

すごい。初めて見た。

地面には動物の足跡。エゾシカとアライグマかな。よくこんなところを歩くなあ。油が足についたら臭いし、なかなか取れないだろうに。

厚田油田跡から海岸沿いを北に進むと、剥き出しの崖が現れた。望来層と呼ばれる、泥岩の地層である。

望来層の崖のところどころには大きな石の塊があるのが見える。

このような塊は石灰分が凝縮して硬くなったコンクリーションというもので、ノジュールと呼ばれることもある。ノジュールは中に化石を含むことがある。前回の記事に書いた三笠ジオパークのアンモナイト化石もノジュールの中から発見されるのだ。この望来層のコンクリーションからは、主に貝の化石が見つかると読んだ。

それにしても大きな塊。落ちて来そうで怖い。

カメラでコンクリーションをズームインしてみたけれど、貝化石は見当たらない。もっとよく見たいけれど、ヘルメットを持参していないので、落石するのではとヒヤヒヤ。安全第一なので、化石を探すのは諦めて足早に崖を通り過ぎることにした。望来層の崖沿いにさらに北上すると、当別層という明らかに見た目の違う別の地層が現れる。

左側の色の濃い地層が当別層で、右側が望来層

この地層は砂岩の地層で、こちらも崩れやすいものの、大きな塊はないのでほっと一安心。

貝化石は拾えなかったけれど、正利冠川河口近くの波打ち際にはメノウ(瑪瑙)らしきものがたくさん落ちていた。

白メノウとオレンジっぽいメノウ。メノウ拾いは初めてなので、関係ないのも混じっているかも。

博物館で見るような大きくてカラフルなメノウではないけど、拾うのは楽しくて時間を忘れる、、、、と言いたいところだけど、今年は猛暑の北海道。この日も30度くらいあり、汗だくになってクラクラして来たので早々に退散することに。

ジオ旅は始まったばかり。まだまだこれから本番なのだ。体力を温存しなければ。

 

北海道ジオパーク・ジオサイト巡りの最初の目的地には三笠ジオパークを選んだ。三笠市は2019年1月に娘と一緒に一度訪れている。その際、日本一のアンモナイト博物館として知られる、三笠市立博物館を訪れた。三笠市では明治時代から現在に至るまでに500種以上のアンモナイトが発見されている。「三笠」の名のつく新種アンモナイトも7種ある。一般的な知名度はよくわからないが、アンモニア研究者やマニアの間では世界に知られる超重要な場所なのだ。

三笠市立博物館

館内には「三笠市立博物館」というシンプルな名前からは想像できない、白亜紀の海の世界が広がっている。直径およそ130cmの日本最大のアンモナイトをはじめ、およそ600点のアンモナイト標本や天然記念物エゾミカサリュウ化石などが展示されていて、圧倒的である。凄い博物館なのだが、この博物館についてはこちらの過去記事にすでに書いているので、今回は博物館の裏手に整備されている野外博物館についてまとめておこう。前回来たときは真冬だったので、野外のジオサイトは雪に埋もれていて見ることができなかったのだ。

三笠市はその全体がジオパークに認定されている。6つのエリアに分かれ、ジオサイトの数は全体で45箇所。総面積は300㎢を超えるので、1日で全部のエリアを見て回るのはとても無理そうだ。博物館の職員の方に聞いたら、露頭が見たいなら「野外博物館エリア」が特におすすめとのことだった。

三笠市立博物館外観

真冬に来たときには雪に埋もれていて気づけなかったのだけれど、博物館の前には大きな石標本が並んでいる。

およそ1億年前に生息していた三角貝の化石を含む礫岩

1億年前に波が水底の砂につけたリップルマーク

博物館の裏手に周り、橋を渡ると、幾春別川沿いにかつての森林鉄道跡を整備した散策路が南東に延びている。全部で15の見どころがあり、歩いて往復すると約1時間とのことだった。

野外博物館についてはジオパークのウェブサイトに詳しい説明があるので、ご興味のある方にはリンク先を見ていただくことにして、私にとって印象的だったことを書いておこう。

ジオパークというと、なにかもの凄い絶景が見られると想像する人がいるかもしれない。実際、そのようなジオパークも存在するけれど、三笠ジオパーク「野外博物館エリア」は一見、地味だ。パッと見ただけでは何がすごいのかよくわからない。しかし、各所にある説明を読みながらよくよく考えるとその成り立ちは不思議で興味深く、じわじわと好奇心が刺激される。

三笠ジオパークではその東側におよそ1億年前に海に堆積した地層が分布し、西へ移動するにつれて地層が新しくなっていく。1億年前、まだ北海道は存在せず、現在の三笠市の大地は海の底だった。約6600万年前に陸化し、約5000万年前には湿地となり、約4000万年前には再び海となる。人類が住むようになったのは約3000年前。明治元年(1868年)に石炭が発見されてからは、炭鉱の町として栄えた。

旧幾春別炭鉱立坑櫓。大正時代に完成し、立抗は地下215mの深さまで延びている。

「野外博物館エリア」の遊歩道の面白さはなんといっても、5000万年前の世界から1億年前の世界へと5000年分の時間をひとまたぎでワープできることである。

遊歩道を歩いていくと、「ひとまたぎ覆道」と呼ばれる半トンネルを境に、2つの異なる地層間を移動することになる。覆道の手前、つまり西側は5000万年前に堆積した幾春別層という地層で、覆道の向こう側、つまり東側は1億年前に堆積した三笠層だ。その間の地層は存在しない。

東側から見た覆道

どういうことかというと、約1億年前から約5000万年前の間に大地がいったん陸化したことによって、5000万年分の地層が侵食されて消えてしまったのだ。互いに接する地層が時間的に連続していないことを不整合と呼ぶが、この付近の地層は日高山脈の上昇期に押し曲げられてほぼ垂直になっている。そのため、不整合面が縦になっていて、またぐことができる。つまり、トンネルを抜けると、そこは一気に5000万年後というわけ。なんとも不思議な感覚である。

幾春別層の露頭

若い方の幾春別層は川の底に砂や泥が積もってできた地層で、泥岩層、砂岩層、石炭層から構成される。写真の露頭は植物が生い茂っていてわかりにくいが、表面がでこぼこである。説明によると、差別侵食といって、砂岩よりも柔らかい泥岩層や石炭層が削られて先になくなるためだそう。

石炭が露出している場所もある

ほぼ垂直の地層

垂直な地層に穴が開いている

この穴は「狸堀り」の跡。狸堀りというのは、地表に露出している石炭層などを追って地層を掘り進む採掘方法のことで、その際にできるトンネルがまるで狸の巣穴のようだから、そう呼ばれるそうだ。確かに入口に石炭が見えている。

 

三笠層の方は砂岩層や礫岩層で構成されている。幾春別層とはまったく異なる地層であることは一目瞭然だ。この地層にはアンモナイトをはじめ、白亜紀を生きた様々な生き物の化石が埋まっているのだ。

さらに進むと、巨大な貝の化石が埋まっているところがあった。約2億年前から約6600万年前まで世界中で繁栄した二枚貝、イノセラムスだ。

上記は全部で15ある見どころのうちのいくつかで、他の見どころも面白い。折り返し地点まで来たところで、ちょっと河原に降りてみた。

幾春別川

化石の入ったのジュールが落ちていないかなあとあたりを見回してみたけど、そんなに簡単に見つかるわけもないのだった。

 

この夏、5年ほど前から構想を練っていた旅がついに実現した。どんな旅かというと、北海道のジオパークやジオサイトを回る旅である。これまでに、住んでいるドイツ国内のジオパークを訪れたり、化石を採取したり地質学系の博物館を見たりして、ジオ旅行の楽しさを満喫して来た。数年前の一時帰国時には高知県の室戸UNESCOジオパークに行ったらとても興味深くて(室戸UNESCOジオパークに関する記事はこちら)、日本にも面白いジオサイトがたくさんあるんだろうな、巡ってみたいなと思い始めたのだ。

高木秀雄著「年代で見る日本の地質と地形 日本列島5億年の生い立ちや特徴がわかる」という本には、日本の地質について、こう記述されている。

日本列島は、きわめて多様な地質や地形の特徴を有するが故に、日本列島はどこでもジオパーク、あるいは日本列島まるごとジオパーク、といった言い方をされることがある。

この本には日本の地質や地形の解説とともに各地の魅力的なジオパークが紹介されていて、あちこち行ってみたくなる。2023年9月現在、日本にはジオパークに認定されている地域が46地域あるが(日本のジオパークマップ)、日本は広いので、まずは私の故郷、北海道から回ってみることにしよう。レンタカーを借りて夫と二人で約3週間かけてできるだけ多くの、なるべくバラエティに富んだジオサイトを巡るという企画を立てた。札幌を起点に、主に道央を回る。

ルートを考えるにあたっては、各ジオパークのウェブサイトや、去年の一時帰国時に買って来た以下の本などを参考にした。

どの資料も良いけれど、特に役立ったのは北海道新聞社から観光されている前田寿嗣著「地形と地質」シリーズ。エリアごとに無理なく回れるルートが提案されていて、各スポットはカラー写真付きでわかりやすく解説している。地学を専門的に学んだことはないけれど興味があるという人におすすめ!

夫は日本語がほぼ読めないので、訪れるスポット選びは私の独断。回る順番はきっちり決めず、お天気を見ながら移動することに。その結果、訪れたスポットは以下のマップのようになった。

幸い、全行程で悪天候に見舞われたのは1日だけ。見たいものはほぼ見られたし、道中で道の駅に立ち寄って美味しいものを食べたり温泉に入ったり、知的刺激いっぱいのとても楽しい旅になった。持ち帰った資料や撮った写真をもとにこれから一つ一つのジオサイトについてまとめて行こう。

 

 

スコットランドのモダニズムに触れる旅、前回の記事にグラスゴー出身の建築家/デザイナー/芸術家、チャールズ・レニー・マッキントッシュのインテリアデザインをウィロー・ティールームで鑑賞したことを書いた。今回はマッキントッシュデザインの鑑賞に訪れた2つ目のスポット、マッキントッシュ・ハウス (The Mackintosh House)について記録しておこう。

マッキントッシュ・ハウスは、マッキントッシュが妻であり、創作活動のパートナーでもあった画家マーガレット•マクドナルド・マッキントッシュが自らデザインし、1906年から1914年まで生活していた家を再現したものである。現在のサウスパーク・アベニューに建っていた彼らの家は取り壊されてしまったが、そこからわずか数十メートルの位置にマッキントッシュのオリジナル家具を使い、できるだけ忠実に再現されたという。現在はハンタリアン美術館の一部となっていて、見学することができる。

マッキントッシュ・ハウス外観。1906年設計でこの外観!?

マッキントッシュは妻マーガレットとその妹のフランシス、そしてハーバート・マクネアと共に”The Four (四人組)”の名で呼ばれ、グラスゴー発のモダンデザイン「グラスゴースタイル」を生み出したことで知られるが、当時のグラスゴーでは建築家としてそれほど評判が良かったわけではなかったそうだ。マッキントッシュのデザインは自国よりもドイツやオーストリアで高い評価を得ていたという。

斬新な外観には驚かされたが、中はとても良かった。当時、スコットランドの家において一般的だったという模様のある壁紙やカーペットなどはなく、全体がすっきりとしている。

1階のダイニングルーム

家具は1890年代から1900年にかけて作られたものだそう。ここでもマッキントッシュのデザインを象徴するハイバックチェアーが使われている。

黒いマントルピースの暖炉

後ろから見たハイバックチェアー

マッキントッシュがデザインしたカトラリー

2階に上がると、暗い色でまとめられた1階とはガラッと変わり、書斎は白と黒のコントラストが効いた空間だ。

扉に真珠母が埋め込まれたデスク。

今、写真を見ながらこれを書いていて初めて気づいたが、窓枠にも色ガラスのようなものが嵌め込まれている。マッキントッシュは光の効果を取り入れるのを好んだのだろうか。色ガラスの飾りやステンドガラスを各所に使っている。

書斎から続く応接間は白メインで明るい。今見てもまったく古さを感じさせないのがすごいなあ。

白いマントルピースの上に飾られたパネルは、妻マーガレットの『白いバラと赤いバラ (“The White Rose and The Red Rose”)』と題された作品。マッキントッシュのインテリアデザインはマーガレットのアートと切り離すことができない。マッキントッシュのデザインした空間においてマーガレットの作品が大きな役割を果たしているだけでなく、二人はまた、多くを共作しているからだ。

こちらは応接間の暖炉。マッキントッシュは日本文化から大きな影響を受けていた。マントルピースの上には日本絵が飾られている。

キャビネットのドアの内側にはバラの花と女性が描かれている。バラは1900年頃のグラスゴースタイルのシンボルだった。マッキントッシュ夫妻の作品には抽象化されたバラのモチーフが繰り返し使われている。

今まで知らなかったが、「チャールズ・レニー・マッキントッシュ」というバラの品種があるそうだ。

3階のベッドルーム。ベッドはマーガレットとの結婚に向けてマッキントッシュがデザインした。

ベッドの中央枠に嵌め込まれた色ガラスを通して光がベッド内に差し込むようにデザインされたそう

吹き抜けは展示スペースとして使われ、600作品を超えるというハンタリアン美術館のマッキントッシュコレクションの中からいろいろな作品が展示されている。

ウィロー・ティールームのためにデザインされたハイバックチェア

ウィロー・ティールームとマッキントッシュ・ハウスという二つの場所を見て、マッキントッシュのデザインの特徴がいくらか見えて来たのと同時に、当時のグラスゴーでは広く受け入れられなかったというのもわかるような気がした。今見ても新鮮さを感じるのだから、きっと、早過ぎたのだろうなあ。

 

この記事の参考文献:

John McKean, “Charles Rennie Macintosh  Pocket Guide” (2010)

 

スコットランドのグラスゴーへ行って来た。グラスゴーは同じスコットランドのエジンバラほど観光地としてメジャーではないが、行ってみると見応えのある美術館や博物館がいくつもあった。かつて、大英帝国第二の都市として栄えたグラスゴーは第二次世界大戦後、産業の衰退による深刻な不況に陥り、治安の悪い都市として知られていたが、近年はアートの町として注目されるようになった。町中にストリートアートが見られ、UNESCOの City of Musicにも認定されるなど、斬新で活気ある町だ。

 

そんなグラスゴーで目当てにしていたのは、19世紀の終わりから20世紀初頭のグラスゴーで建築家、デザイナー、芸術家として活躍したチャールズ・レニー・マッキントッシュ (Charles Rennie Macintosh)のデザインだ。私が住んでいるドイツはモダンデザインを生み出した「バウハウス」という芸術学校が存在したことで知られているが、スコットランドのグラスゴーもまた、「グラスゴースタイル」と呼ばれる独特なモダンデザインを創出したという。チャールズ・レニー・マッキントッシュはその中心的担い手だった。グラスゴー市内にはグラスゴー美術学校 (Glasgow School of Art)の校舎をはじめとするマッキントッシュ設計の建築物や、彼の手がけたインテリアデザインの見られる場所がたくさん存在する。それらをできるだけたくさん見て回りたかった。

が、残念なことに、マッキントッシュ建築の最高傑作とされるグラスゴー美術学校は修復工事中でカバーがかかっていて見られず、ライトハウス (The Lighthouse)も閉鎖中だった。そんなわけで、マッキントッシュの建築は鑑賞できなかったが、インテリアデザインの方はかなり楽しめたので記録しておこう。

まず、最初に訪れたのは、ソーキーホール・ストリートのウィロー・ティールーム (Willow Tea Rooms)。マッキントッシュがパトロンであった実業家、ミス・クラントンの依頼を受けてデザインし、1903年にオープンしたティールームだ。

4階建てのウィロー・ティールームの1階部分と2階部分のファサード。

このティールームが誕生したとき、グラスゴーは繁栄のピークにあった。産業革命によって造船業や綿工業などの産業が急速に発展し、世界最大の都市の一つとなっていた。1888年に初の国際見本市が開催され、豪奢な建物が建ち並ぶ華やかな町に成長したグラスゴーだったが、1870年代までは外食の場は上流階級紳士のためのプライベートクラブや労働者用のパブがほとんどで、女性が楽しめる場所はほとんどなかった。1875年に紅茶のブレンドや販売をビジネスにしていた事業家スチュアート・クラントンがグラスゴーに初めて小さなティールームをオープンし、紅茶とケーキやパンを提供し、人気となる。その頃、スコットランドを含む英国で禁酒運動が激しくなっていたいたこともティールーム文化の開花を後押しした。スチュアート・クラントンの妹、キャサリン•クラントン(ミス・クラントン)もティールーム経営に乗り出した。ミス・クラントンは前衛的なアートの支援に意欲的で、自らの経営するティールームのデザイナーに、グラスゴースタイルの先駆者、マッキントッシュに白羽の矢を当てたのだ。マッキントッシュはミス・クランソンのティールームをいくつも手がけているが、その中でこのウィロー・ティールームは建物の外部及び内部デザインから家具までをトータルデザインしている。

1階の道路側のティールーム

1階は道路側と奥の2つのエリアに分かれている。道路側は女性のためのティールームで、白を多く使った明るい空間にデザインされている。

マッキントッシュの家具デザインの中で代表的なのは、背もたれの高い「ハイバックチェア」。高い背もたれで広空を区切り、テーブル周りにパーソナルで心地よい空間を創ることを意図したそう。

ティールームは奥のランチルームへと続いている。ランチルームは男女共に利用することが想定され、ティールームよりも暗めの落ち着いた空間にデザインされている。マッキントッシュは「女性のためのスペースは明るく、男性のためのスペースは暗く」というコンセプトを持っていたそう。

事前にマッキントッシュについて読んだら「アール・ヌーヴォーの建築家」と記述されていたけれど、私にはアール・ヌーヴォーは曲線的というイメージがあったので、白と黒が基調で、コントラストがはっきりしていて直線のラインが目を引くティールームの内装を見て、あれっと思った。むしろ、アール・デコ?その一方で、装飾には柔らかい曲線が用いられている。デザインに詳しくないのであくまで個人的な感想だけれど、直線と曲線のバランスが絶妙だなと思った。このティールームのあるソーキーホール・ストリートの「ソーキー」というのはスコッツ語で柳を意味する言葉だ。だから、壁などの装飾には柳のモチーフが使われている。でも、かなり抽象化されていて、説明されなければ私は柳だとは気づかなかったかも。

2階に上がる階段から1階を眺めたところ

2階のティーギャラリー

バラ垣をイメージした壁

ギャラリー奥の暖炉

建物は4階建てで、この上には女性用のより豪華な”Salon de Luxe”、そしてさらに上には男性用のビリヤードルームがあるが、現在、一般公開はされていないのか、見ることはできなかった。

ティールームの隣の建物はミュージアムおよびショップで、そこでもマッキントッシュのデザインを見ることができる。

ミュージアムに展示されているSalon de Luxeのドア

マッキントッシュのデザインに直接触れたのは、このウィーロー•ティールームが初めてだったので、全体的な雰囲気を見て「へーえ。これがマッキントッシュのデザインかあ」と感心しただけで、ハイバックチェアがあること以外にはどの部分が特にマッキントッシュらしいのかはよくわからなかった。この後、グラスゴーの各地で見たマッキントッシュの家具やインテリアに、繰り返し使われるフォルムがあることに気づく。

続きは次の記事に。