フリチョフ・ナンセン (Fridtjof Wedel-Jarlsberg Nansen)の名前を知ったのは15年ほど前になる。当時中学生だった息子が親しくなったクラスメートの名前が「フリチョフ」だったのだ。ドイツでは珍しい名前だなと思ったら、ノルウェーの極地探検家、フリチョフ・ナンセンにあやかって命名されたという。その男子のお父さんは極地研究者なのだった。それでナンセンの存在を知ったのだが、偉大な探検家らしい、ということ以外は知らないままでいた。

今回、初めてノルウェーを訪れることになり、そういえばとナンセンのことを思い出した。首都オスロにはナンセンが北極圏探検に使った船、フラム号が展示されているフラム号博物館がある。見ておかなくちゃ。

毎度のことながら、博物館外観の写真を撮り忘れた。館内に入ると、ナンセン像が迎えてくれる。

館内中央にどーんとフラム号が展示されている。1893年から1896年にかけて、ナンセンはこの船に乗って北極点を目指したのだ。こんな木造の船で?と現代の感覚ではびっくり。しかし、フラム号には特別な設計がなされていた。船体の丸みを帯びたかたちのおかげで、フラム号は北極海に浮かぶ厚い氷に閉じ込められても押しつぶされずに上に持ち上げられるように作られている。実際、フラム号はナンセンによる長期間にわたる航海の間、持ちこたえた。その後、オットー・スヴェルドラップによる第二次北極探検やロアール・アムンセンの南極探検にも使われている。

設計士Colin Archerによるフラム号のモデル

ナンセンの北極探検の構想は、フラム号を氷に閉じ込め、流氷と共に漂流させ、数年かけて北極点に到達するという大胆かつ壮大なものだった。ナンセンはこのアイディアを1881年にシベリア北海岸沖で沈没し、その3年後にグリーンランド沖で発見された米国の探検船ジャネット号から得ている。この探検の途中でナンセンはフラム号を降り、徒歩で北極点を目指したが、結局、北極点に到達することはできなかった。それでも、ナンセンの探検はその後の極地探検の礎を築くことになる、とてつもない業績だったのだ。

展示されているフラム号の中に入ってみた。

ナンセンを含めて13人が5年分の食料を積んだこの船で生活を共にした。中はかなり広いけれど、氷に閉ざされ、真冬は太陽が昇らない北極圏、船の中で何年も過ごすなんて過酷の極みだ。肉体的にも精神的にも極めて強靭じゃなければ無理だろう。想像の域を完全に超えているよ、、、。

発電のための風車

船員の寝室

食堂。フラム号のFRAMの文字が入った食器が並ぶ。

ナンセンの航海道具

当時、ナビゲーションに使われていた六分儀

海洋学者であり動物学者でもあったナンセンは、この探検を通じて海流や北極地域の環境に関する研究を行い、科学の発展に大きく寄与した。ナンセンを探検に駆り立てたのは、誰よりも早く北極点に到達したいという野望だけでなく、未知の世界を知りたいという圧倒的な知的好奇心でもあったのだ。

さらに、ナンセンはヒューマニストでもあった。第一次世界大戦後、国際連盟で難民高等弁務官を務め、数多くの難民を支援した。ナンセンが無国籍者や難民に身分証明書に発行した、いわゆる「ナンセン・パスポート」は難民の移動や再定住を可能にした。この活動により、ナンセンは1922年にノーベル平和賞を受賞している。

すごい、、、、すごすぎる。まさにレジェンド。まちがいなくノルウェー国民にとってのスーパーヒーローだろう。

フリチョフ・ナンセンの圧倒的な人間力に自分のちっぽけさを痛感してしまった。

さて、このフラム号博物館、フラム号とナンセンについてだけでなく、アムンセンなど他の探検家についての展示も充実していて、人類の極地探検の歴史を辿ることができる。ショップの書籍コーナーに置いてある資料も豊富だ。

今回、買って来た資料

 

 

ノルウェー旅行記の第二弾は、ヨトゥンハイメン国立公園(Jotunheimen National Park)での山登りについて。

ヨトゥンハイメン国立公園は首都オスロから北西に300kmほど移動したところに広がる山岳地帯。オスロから拠点となるロム(Lom)の町までは車移動で4時間から4時間半かかる。

地形が複雑なノルウェーでは移動にとても時間がかかる。今回のノルウェー旅行は1週間という短い日程だったので、内陸部のジャコウウシが見られるドブレフエル国立公園(詳しくはこちらの記事を)とヨトゥンハイメン国立公園とフィヨルドの両方を見るのは時間的に難しかった。何を優先しようか迷った末、今回はフィヨルドはパスして山地へ行くことにした。その理由は、「氷河が見たかったから」。

いくつかの過去記事に書いているが、北ドイツに住んでいる私にとって、氷河は特別な意味を持つ存在なのである。というのは、北ドイツはかつて氷河に覆われていた。今も風景の至るところにその痕跡を認めることができる。北ドイツの平野に転がっている石の大部分は氷河によってスカンジナビアから移動して来たものだ(過去記事: 氷河の置き土産 北ドイツの石を味わう)。それらの石を眺めるたびに、「これらの石を運んで来た氷河のパワーはどれほどのものだったんだろう?」と考えてしまう。ヨトゥンハイメン国立公園には北欧最高峰のガルフピッゲン山(Galdhøpiggen)があり、登頂するのにはいくつかのルートがある。その中に氷河を横切るルートがあると知り、ぜひやってみたいと思ったのだ。

出発点となるのは標高1851メートルの高さに位置する山小屋、Juvasshytta。ヨトゥンハイメン国立公園への拠点となるLomの町から山道を車で35分ほど登ったところにある。Lomは緑深い森に囲まれているが、山道を登る途中で森林限界を越え、Juvasshyttaに着いたら、そこはまったくの異世界だった。

Juvasshytta。世界一標高の高い宿泊施設だそう。

山小屋は氷河湖Juvvatnetに面している。

グレーと白とブルーのコントラストが綺麗。

うわー、迫力!

Juvasshyttaは、山小屋と呼ぶのに似つかわしくないほど快適だった。

食堂からの眺め

部屋からの眺め

向こうに見える3つのピークのうち、一番右がガルフピッゲン山。宿から山頂までは片道およそ3時間、頂上での休憩も含め、往復で7時間ほどかかるという。北欧最高峰といっても標高2,469mでそれほど高くないけれど、日頃から山に登り慣れているというわけではないし、氷河をわたるという特殊なシチュエーションなのでドキドキである。氷河渡りは危険を伴うので、プロのガイドなしで渡ってはいけない。Juvasshyttaが提供するツアーに申し込む必要がある(申し込みはこちらから)。

 

山小屋からガルフピッゲン山頂までのルートは3つのステージから成る。

1つ目のステージは、山小屋から氷河まで(上の地図の黄色い線)。距離は3つのステージの中で一番長く、所要時間は平均でおよそ1時間。2つ目のステージは氷河上の移動(水色の線)で、渡りきるのに大体45分から50分かかる。最後のステージで急な坂を山頂まで登る(赤い線)。地図上で見ると距離が短いけれど、3つのステージの中で最もハードでさらに1時間ほどを要する。

尾根づたいに登る

私は氷河を渡ることに特に不安はなかったが、ふだん平地に住んでいてキツい斜面は登ったことがないので、最後のステージをやりきれるか、自信がなかった。それに、特別山に登りたかったわけでもなく、氷河が渡れればそれでよいという気持ちだった。しかし、氷河を渡ったところでグループから抜けて自分だけ引き返すという選択肢はなく、ツアーに参加するからにはなにがなんでも山を登り切らなければならない。

幸い、当日はまずまずのお天気だった。でも、山は天気が変わりやすいし、ガルフピッゲンでは8月でも普通に雪が降るので、しっかりとした登山靴と冬の服装(手袋、帽子含む)が必須。氷河の上は眩しいのでサングラスもあった方がいい。ランチ、飲み物も各自持参である(ランチ代を払えば、山小屋の朝食ビュッフェから好きなものをお弁当に持っていくことができる)。ガイドさんの説明を聞き、ハーネスを装着して、午前10:00に山小屋を出発した。

第一ステージ

山小屋から氷河までの第一ステージは傾斜が緩やかだけれど、ゴツゴツと角ばった石の上を歩くので、歩きやすいとはいえない。うっかり足を挫いたりしないように注意が必要だ。このステージは各自のペースで歩いてよいが、一定時間以内に氷河まで辿り着く必要がある。1時間半経っても辿りつかない場合は、みんなと一緒に山頂まで登る能力がないとみなされ、山小屋へ引き返すように要請されるとのことだった。この日は参加者全員がほぼ1時間で第一ステージを歩き終えた。いよいよ氷河渡りだ!

氷河に着いたら、装備を装着する。

靴にクランポン(アイゼン)を装着。装備はツアー代金に含まれている。

腰に装着したハーネスのカラビナをロープの結び目に引っ掛けて、全員が1本のロープで繋がった状態で氷河を渡る。

第二ステージ、しゅっぱーつ!

渡る氷河の名前はStyggebreen氷河といい、現地の方言で「危険な氷河」という意味だそうだ。ガイドさんによると、雪がたくさん積もっているとクレバスが見えないのでとても危険だけれど、夏場の今は雪がなくて氷だけなのでクレバスの位置がわかるからそれほど危険ではないらしい。とはいっても、ガイドなし、装備なしで渡るのはダメ。

クランポンをつけていれば、氷の上を歩くのは難しくなかった。ただ、ロープで繋がっていると前後の人と常に歩調を合わせなければならないので、その点で少し緊張する。お天気はよかったのだが、氷河が流れている場所は谷なので風が強く吹きつけ、氷の粒が顔を叩いた。

氷河を無事渡り終え、いよいよ第3ステージである。

この岩崖をよじ登る。

第3ステージでは300メートルを超える急登だ。一部、幅がすごく狭いところがあって、左右は崖なので、高所恐怖症の人にはキツいかもしれない。でも、途中で休憩できるようなスペースはないし、目の前の岩をよじ登るのに背一杯で、崖の下を見下ろしている余裕はそもそもない。前にも後ろにも人がいるのでもたもたするわけにもいかず、一気に登った。

もうすぐ山頂

 

着いたー!!

Galdhøpiggenは周囲を氷河に囲まれている。すごい眺めだ。これを見られたのだから、登った甲斐があった。

 

雄大な眺めをたっぷりと堪能!と言いたいところだけど、山頂はやはりかなり寒いので、石造りのロッジに入ってお弁当のサンドイッチを食べ、暖を取った。45分ほど休憩したら下山だ。

登るよりも降りる方がむしろ大変。

 

そして再び氷河渡り。行きよりも氷が溶けていた。

氷河を渡り終わって、やれやれ、あとは山小屋へ戻るだけ、もうハイキングは終わったようなものだと思ったのだけれど、この時点ですでに足がけっこう疲れてもつれて来たので、石ころだらけの道を戻るのは難儀だった。

ぴったり7時間でJuvasshyttaの暖かい部屋に到着。やりきったー。

子どもの参加者もいたし、ガイドさんは二人とも若い女性だったし、私でも登れたのだから難易度が高いわけでもなく、健康な人なら誰でも登れる山だと思う。でも、氷河を渡るという新しい体験ができたし、「北欧最高峰を登頂した」のだと思うとやっぱりちょっと特別な気持ちがする。

そして、登るのはそこまでハードではないとはいえ、危険がないわけではない。私たちが登った日は幸い、お天気に恵まれたけれど、悪天候になって視界が悪くなれば、崖登りのハードルはその分上がるだろうし、寒いのが苦手な人は防寒対策をしていても辛いかもしれない。それと、山頂のロッジにはトイレはない。7時間に渡るハイクの途中、木も生えていなければ茂みもないので、ちょっとその辺でというわけにもいかない。この点は要注意!

 

 

 

 

 

ヨーロッパに住むようになって、34年。ヨーロッパはかなり回っているけれど、未踏の地はまだまだある。今回、初めてノルウェーに行って来た。

せっかく夏のノルウェーへ行くなら、オスロだけでなく自然を楽しみたい。しかし、ノルウェーは広い。いったいどこから手をつけたら良いものか。考えていたら、ノルウェー育ちの若い女性がいくつか提案をしてくれた。そのうちのひとつがドブレフエル国立公園(Dovrefjell-Sunndalsfjella-Nationalpark)だ。ノルウェーに数ある国立公園の中で彼女が特にこの公園を勧めてくれたのは、「野生のジャコウウシを見ることができるから」だという。

ジャコウウシと聞いて、飛びついた。実は、半年ほど前から探検家の角幡唯介氏のグリーンランド探検の本にどハマりしている私。角幡さんの本の中で幾度となく登場するジャコウウシに興味を抱くようになっていたのだ。ノルウェーにもジャコウウシが生息しているとは知らなかった。ドブレフエル国立公園はノルウェーで唯一の野生のジャコウウシの生息地だという。公園内にはMusk Ox Trailというハイキングルートがあり、ジャコウウシに遭遇するのはさほど難しくないらしい。でも、確実に見たければガイドツアーに申し込むべしとのことで、近郊の町オップダール(Oppdal)発のこちらのツアーに申し込んだ。

ツアーの所有時間は、ジャコウウシがどこにいるかによって変わり、4〜8時間。公園の入り口があるヒエルキン(Hierkinn)という小さな集落から(オップダールからヒエルキンまでは各自、マイカーで移動)ガイドさんの誘導でジャコウウシを探して歩いた。

ノルウェーではジャコウウシの化石が見つかっており、2万年ほど前にはジャコウウシが多く生息していたことがわかっているが、氷河期に絶滅してしまった。カナダやグリーンランドから移入の試みが行われては失敗を繰り返し、1947年にグリーンランドから移入された21頭から繁殖し、定着した。現在、ドブレフエル国立公園には推定250〜300頭がいるという。一時は約350頭にまで増えたが、密度が高くなり過ぎたため一部がスェーデンへ移動し、そこでさらに繁殖しているそうである。

ドブレフエル国立公園の自然環境はツンドラだ。夏には地面が解けて湿地帯のようになるが、その下は永久凍土である。「ツンドラ」とはノルウェーの少数民族サーミ人の言葉で「木のない平原」を意味するらしいが、実際、ところどころに白樺が見られる以外、木は生えておらず、灌木と草と苔と地衣類が表面を覆っている。

2時間ほど歩いたら、Snove川の向こうにジャコウウシの姿が見えてきた。川を渡って(橋はないので、飛び石で)、双眼鏡でよく見える距離まで近づいた。ジャコウウシは適切な距離(最低200m)を守って観察する分には人間を攻撃することはないそうだ。でも、うっかり近づき過ぎると、首を振ったり、蹄で地面を引っ掻いたりなど威嚇のサインを発する。体重400kg、走る速さは最大時速60kmだというんだから、体当たりされたらひとたまりもないだろう。オス同士がツノを突き合わせて激しく戦うと、頭突きの衝撃で認知症になってしまうこともあるという。

そこには、オス1頭、メス3頭と子どもが2頭、全部で6頭の個体がいた。ガイドさんによれば、数キロ離れた場所にさらに5頭がいるらしい。

長い毛が風に靡いている。長い毛の下にはキヴィアックと呼ばれる短いフワフワの産毛があり、それが良い断熱材となるので極寒の地でも生きられる。ただし、防水性はないので、雨が降り続けて体が濡れると、子どものジャコウウシは肺炎を起こして死んでしまうことがよくあるそうだ。

あちこちの低木にジャコウウシの産毛が絡まっている。採っても構わないとのことだったので、少しもらって行くことに。

キヴィアック

フワッフワに軽く柔らかい。「ジャコウウシ (Musk Ox)」の名は繁殖期のオスが分泌する強い匂いが由来なので、匂うかなと思って嗅いでみたけれど、特に何の匂いもしなかった。ちなみにジャコウウシはウシ科の生き物ではあるものの、近縁はヤギだそう。

私たちに観察されても特に気にしていないようで、ゆっくりと草を食べている。

ずーっとムシャムシャやっている。1回の食事に大体4時間くらいかかり、食べ終わったら4時間くらい寝て、また4時間かけて食事、、、というのを繰り返すそう。

1頭は川を往復していた。

食べ終わったので昼寝タイム。

私たちが遠くから観察していてもまったく気にしていない様子だったが、一度、近くの道を観光バスが通り過ぎたとき、集まって塊になった。危険を感じるとこうして子どもたちを真ん中に入れてみんなで守るのだそう。

持参したサンドイッチのお昼ご飯を食べながらジャコウウシたちを40分ほど観察し、来た道を引き返した。結局、この日のツアーは5時間ちょっと歩くツアーとなった。たくさん歩いてくたびれたけど、目的を果たすことができて満足満足。ガイドツアーに参加すれば99%の確率で遭遇できるらしい。ジャコウウシはパッと目の前に現れてサッと逃げてしまうような生き物ではないので、じっくり眺めることができるのがいいね。

 

ここからはおまけ。

ツアーの後、車を止めてあったヒエルキンの駐車場近くにある展望小屋、Viewpoint Snøhettanに寄ってみた。丘を1.5kmほど登ると、片側の壁一面がガラス張りのウッドキャビンがあり、ドブレフエルの山並みを一望することができる。

ウッドキャビン内部。寒い日でもパノラマビューが楽しめる。

素敵なキャビンだけど、この日はお天気が良かったので、小屋の中からガラス越しで景色見るよりも外で見る方がいい。

ドブレフエルの最高峰、スノヘッタ山が綺麗に見えた。氷河の成長によってえぐられてできた圏谷(カール)の迫力がすごい。

 

この記事の参考サイト:

ドブレフエル国立公園ウェブサイト

 

 

迷子石。ずっと昔、1万年前よりももっと昔、スカンジナビアから氷河の流れによって北ドイツに運ばれて来た石。ブランデンブルク州に住むようになって以来、今も北ドイツのあちこちで見られる、そんな不思議な石に魅力を感じている。

2020年に迷子石(より広範囲には 、氷河によって運搬された石(Geschiebe)」に関して導入編基礎編を書いてから、ずいぶん時間が経った。相変わらず興味が尽きず、この4年の間に少しわかったこともあるので続きをまとめていこう。発展編として長く続くシリーズになるかもしれない。

今回は、ヴィントカンター(Windkanter)と呼ばれる石について。ヴィントカンターとはこんな石。

風(Wind)によって作られた角(Kante)を持つ石のことで、英語ではventifactという。日本語では「風触礫」と呼ばれるようだ。写真の石は近所を散歩中に見つけたもの。ヴィントカンターとは岩石の種類ではなく、特徴的な角ばった形状を指している。

ポツダムのロックガーデン(Geschiebegarten)に展示されたヴィントカンター群

 

氷河によって運搬された石の一部がこのような形状を持つようになる。それはなぜだろうか。

氷河の末端に位置していた場所では、氷に覆われた気温の低い場所から氷のない気温の比較的高い場所に向かって強い風が吹いていた。地表にある石に砂を多く含む強い風が長期間にわたって一定の方向から吹きつけることで石の表面が研磨され、平らな面ができた。風向きが変わったり、石が転がって向きが変わると、今度は別の面が削られ、その境目に尖った角(稜角)ができる。そのため、ヴィントカンターには複数の稜線を持つものがある。

3つの稜線を持つものは特にドライカンター(Dreikanter)と呼ばれる。ヴィントカンターは北ドイツではまったく珍しくないが、きれいなドライカンターを見つけると嬉しくなる。

ヴィントカンターについて調べていたら、日本にも「白羽の風触礫」と呼ばれる石が存在することがわかった。静岡県前崎市白羽がその産地で、国の天然記念物に指定されているらしい。中でもドライカンターは「三稜石」と呼ばれ、極めて珍しいとのこと。石の風触は乾燥地で見られる現象で、北ドイツではありふれた石だけれど、多湿な日本ではこのようなかたちの石ができる場所は限られているようだ。残念ながら、「白羽の風触礫」はすでに採集し尽くされていて、産地に行っても地形を観察することしかできないようだけれど、牧之原市史料館に石が展示されているとのことで、いつか機会があれば見てみたい。

 

普段、住んでいるヨーロッパでジオ活動をしているけれど、気になる石や地形について調べていると日本にある同じようなものについても知ることになって面白いな。

 

 

この記事の参考資料:

Beate Witzel, “Steine, Mammuts, Toteislöcher: Auf den Spuren der Eiszeit in Berlin

Fachgruppe Mineralogie Geologie Paläontologie Potsdam (ポツダム地質学研究会が発行する冊子)” Geschiebe Garten Großer Ravensberg – Arbeitsmappe für Lehrer und Erzieher”

Mineralienatlas- Fossilienatlas のWindkanterのページ

Wikipedia: 白羽の風触礫産地

こちらの記事に書いたように、庭に設置したカメラ付き巣箱3つのすべてで野鳥が営巣をするという、これまでにない展開になった2024年の春。

ハウス1、2、3のうち、ハウス3からはシジュウカラのヒナ6羽が巣立った(詳しくはこちら)。ハウス1とハウス2についても時系列にまとめておこう。

ハウス2

シジュウカラが作り始め、途中で放棄した巣をアオガラが引き継ぎ、4/13から産卵を始めて全部で5つの卵を産んだ。このアオガラのメスは巣材に大量の鳥の羽を使い、パッと見カオスだったので営巣が下手なのかなという印象だったけれど、ヒナが産まれると全員に満遍なく餌を与え、ヒナの成長の個体差はほとんど見受けられなかった。

お母さん、座ったまま寝てる、、、

シジュウカラの子たちと違って、巣箱の中ではみんな静かで、巣立ちギリギリまでほとんど鳴かない。アオガラのヒナはそういうものなのか、それともこの兄弟の特徴なのか。

静かーにお母さんの帰りを待つヒナたち

5/23、5羽のヒナは元気に巣箱から飛び出した。

社会人(鳥)、1日目!

でも、まだ親に食べさせてもらう。

 

ハウス1の方は冬の間からずっとシジュウカラが寝床として利用し、4月に一旦営巣を始めるたものの、2日で放棄してしまっていた。この巣箱はもうこのまま今年は使われないのかなと思っていたら、5/16、シジュウカラが営巣の続きを初め、5/19に最初の卵を産んだ。冬の間に寝泊まりしていた個体だろうか。

6/6 、6羽のヒナが生まれる。12日後の6/18には目も開いてすっかりシジュウカラらしくなった。しかし、気になったのは1羽、明らかに発達の遅い子がいたことだった。羽毛がまだあまり生えておらず、他の子達よりも少なくとも3、4日分は発達が遅れているように見える。特に弱々しいというわけではなく、餌をもらおうと一生懸命、裸の首を伸ばしてがんばってはいたが、兄弟たちと一緒に巣立てるだろうかと心配になった。そしてその子を含めても巣箱の中には5羽しか見当たらない、6羽目は?

巣箱の中でヒナが重なり合ってカメラ越しには全員が見えないことがよくあるので、きっとそのせいだろうと思ったが、その翌朝見たら、巣箱には4羽しかいない。前日に必死に生きようとしていた5羽目のヒナの姿もなかった。力尽きたのか、それとも元気な兄弟たちの下敷きになって潰れて死んでしまったのだろうか。残念だけれど、しかたがない。過去数年にわたって野鳥の営巣や巣立ちを観察する来た中で、卵が孵らないことや、ヒナがみんな死んでしまうことは珍しくないのだと諦めがつくようにもなった。もちろん、みんなが無事に巣立てば、それ以上嬉しいことはないのだけれど。

6/23、気の早い最初の1羽が巣立った。生まれてから2週間と3日。今まで観察して来た営巣では巣立ちまで平均で3週間くらいかかっていたから、成長が早目である。営巣開始の時期が比較的遅かったから、その分、気温が上がっていて、育ちがよかったのかもしれない。残る3羽も何度も羽ばたきを試みたが、その日は巣箱から飛び出せず、翌日早朝、迎えに来た親鳥に誘導されて次々と大空へ。

 

そんなわけで、今年はシジュウカラ10羽、アオガラ5羽、合わせて15羽のヒナが巣箱から巣立つことができた。2020年から観察を始めて5年目の今年がこれまでで最高。素晴らしい春だった。

でも、外の世界に出たらもっと危険があって大変。

庭に大きなヘビが来ることもあるし、大家としてはハラハラが続くのであった。

 

 

UNESCO世界遺産ドロミテ旅行、前回の記事の続き。

プレダッツォのドロミテ地質学博物館を出るときに館内にあった観光パンフレットの中にブレッターバッハジオパーク(Geoparc Bletterbach)というジオパークのパンフレットがあるのに気づいた。地図で確認すると、そう遠くない。その日はヴェローナ空港からドイツの自宅に帰ることになっていたが、飛行機の時間まで少し時間があったので寄ってみることにした。

パンフレットによると、ブレッターバッハ(Bletterbach)とはコモ・ビアンコ山(ラディン語ではヴァイスホルン)から流れる川が数千年の年月をかけて形成した深い峡谷の名である。ジオパークはいくつかのハイキングルートから成り、峡谷を歩きながら険しい崖の地層を観察することができるらしい。4000年という大きな時間スケールの中でかたちづくられたドロミテ山塊の内部を覗くことができるというわけ。それは是非とも歩いてみたい。

ビジターセンターの建物

ビジターセンターでハイキングルートについて聞いてみたところ、いくつかのルートがあるが、峡谷を歩くルート(以下の地図の赤いラインのルート)は1周するのに3、4時間かかるという。そこまでの時間の余裕はなかったので、残念ながら諦めることに。でも、谷を見下ろすビューポイントまでだったら1時間あれば往復できますよということだったので、ファミリー向けの短いハイキングルート、the Saurian trailを歩くことにした。

かつてここに生息した古生物や峡谷の地層を構成する岩石の情報を読みながら、緩やかな山道を20分ほど歩くと、崖を見下ろすビューポイント、Butterlochに着く。

ブレッターバッハの峡谷には岩石の層序がそのまま保存されており、剥き出しになった崖にその重なりを見ることができる。主な岩石層はコモ・ビアンコ(ヴァイスホルン)山の山頂から順に、浅い海に堆積した石灰藻の遺骸から成る白っぽい岩石のContrin formation、2億5200万〜2億4500万年前に海岸沿いで堆積した石灰岩、泥灰土、砂岩そして珪質粘土岩の細かい層から成るカラフルなWerfen formation、ペルム紀に珊瑚礁で生成された、石膏を含む Bellerophon formation、斑岩の侵食と堆積によってできた砂岩の層であるGardena sandstone、そしてその下にある、2億8000万年〜2億7400万年前の火山噴火によって堆積し、砂岩の元となった石英質斑岩、Borzano quartz porphyryだ。

それぞれの岩石層と、それらが形成された時期の環境についてはビジターセンター内の展示に詳しく説明されている。Werfen formationとBellerophon formationの境目は、古生代ペルム紀と中生代三畳紀の地質時代上の境目と一致している。Bellerophonというのは、この時代に生息していたカタツムリの名前である。ペルム紀末のおよそ2億5100万年前に起こった生物の大量絶滅で地球上の海の生物の約90%、陸上生物の約70%が絶滅したとされる。ジオパークの地層から見つかる多くの化石からは絶滅した生き物についてだけでなく、大量絶滅の後、生命がどのようにして再び繁栄していったのかを知ることができ、世界的にも稀な学習の場となっているのだ。

ペルム紀に生息し、大量絶滅によって地球上から消えた爬虫類、パレイアサウルスの模型

パライアサウルスの足跡

火山岩、堆積岩、そして多様な変成岩から成るドロミテは「岩石の本」だと言われる。ブレッターバッハ・ジオパークは2016年から欧州宇宙機関(ESA)の宇宙飛行士らの訓練の場としても使われている。

峡谷ハイキングしたかったなあ。今回は時間が足りなくて残念。また今度!

 

ドロミテの地質について、ドイツ語の良いドキュメンタリーが見つかったので貼っておこう。

 

この記事の参考資料:

Geoparc Bletterbachのウェブサイト

UNESCO  パンフレット ドロミテ

イタリアのドロミテへ行って来た。東アルプスに属する山岳地帯ドロミテは2009年にUNESCO世界遺産に登録され、ハイシーズンにはかなり混雑するらしいが、6月上旬はシーズンには少し早く、滞在したのがPie Falcadeという小さな村だったこともあり、とても静かだった。この数年、すっかりジオ旅行にハマっているけれど、今回の旅は友人と会うのが主な目的で、滞在場所も友人が決めてくれたので、ほとんど下調べをせずに現地入り。それでも、軽くハイキングしてドロミテの自然の雄大さを感じることができた。

Passo di Valles峠からCol Margheritaハイキングルートを歩き、途中で振り返ったところ

 

途中の山小屋レストランRifugio Lareseiのテラスからモンテ・ムラツ方面を眺める

ドロミテの名は、18世紀末、この地方を訪れたフランス人地質学者デオダ・ドゥ・ドロミューDéodat Guy Sylvain Tancrède Gratet de Dolomieu)が、新しい岩石を発見したことに由来する。カルシウムとマグネシウムから成るその岩石はドロミューの名に因んで「ドロマイト(苦灰岩)」と名付けられた。うすい灰色をしたドロマイトは、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸が衝突してアルプス山脈を形成する以前に、両大陸の間にあった熱帯の浅い海海に堆積した石灰岩中のカルシウムがマグネシウムに置き変わることでできたものだ。

そうしてできたドロマイトは長い年月の間に氷河や風、水で浸食を受け、尖峰を代表とする特異な自然美を作り出している。

というところまではドロミテへ行く前にもなんとなくは知っていたけれど、実際に現地に行ってみると、「ドロミテはドロマイトでできた山」なんていう単純な説明で片付けられるような場所ではないことがわかった。その成り立ちはものすごく複雑そうだ。ほんの数日、ハイキングしたりドライブしながら景色を見ただけでも風景の多様さに驚かされる。ドロマイトは海洋性の堆積岩だが、そのほかに斑岩など明らかに火山性のものも多く目にした。一体ここはどうなっているのだろう?

ダイナミックに褶曲した地層

パネヴェッジョ湖 (Lago di Paneveggio)の北側の山の岩も気になる

景色に圧倒されて、帰る前にざっくりとでもドロミテの成り立ちを把握したくなったので、プレダッツォ(Predazzo)という町にあるドロミテ地質学博物館(Museo Geologico delle Dolomiti in Predazzo)へ行ってみた。

田舎の公民館のような建物が地質学博物館

ドロミテの地質学博物館がなぜこの小さな町にあるのかというと、ここがドロミテの地質学研究の発祥の地であるかららしい。現在、この博物館が建っている場所から数十メートル離れたところには、かつて、”Nave d’Oro” (Golden Shipの意)という名のホテルがあった(現在は取り壊れていて存在しない)。19世紀、各国から地質学者たちがやって来てNave d’Oroに集い、ドロミテ山塊の調査を行ったのである。

ドイツの地質学者・博物学者、アレクサンダー・フォン・フンボルトもここで調査をおこなった。

ベルリン出身の研究者、Fedor Jagorのノートブック

北のリエンツァ川、西のイザルコ川およびアディジェ川、南のブレンタ川と東のピアーヴェ川に囲まれたドロミテはいろいろな分け方があるようだが、この博物館の展示によると、ドロミテ山塊は9つのエリアに分けられる。

それぞれのエリアごとに地質学的特徴が異なり、やはり「ドロミテとは〇〇」とひとまとめに語ることは無理があるようだ。私たちが滞在したPia Falcade村は①と②と③の間、つまりドロミテのど真ん中に位置している。

1階フロアにはドロミテの各地に特徴的な岩石が展示されている。

ドロミテの岩石と地層は、海における堆積物の堆積と火山活動、そして造山活動という異なるプロセスを経て形成されて来た。

Dolomia principale

ドロミテ地方全体に見られる、ドロマイトが大部分を占める岩石層 、Dolomia principale(ドイツ語ではHauptdolomit)は、中世代後期三畳紀(約2億3700万年前から2億130万年前)の浅い海に堆積物が積み重なって形成されたもの。厚いところでは2200 mにも及ぶ。この時期にはさまざまな海洋生物や陸上生物が進化し、繁栄した。化石化したそれらの遺骸を含むドロミテの地層は、その後の新生代に起こったアルプス造山運動によって海面から高く押し上げられ、地表に露出した。山なのに海の生き物の化石が見つかるのはそのためである。

かつて、ドロミテの明峰ラテマール山は環礁だった

 

かつては環礁だったラテマール山の地層中に見つかった化石

魚の化石

 

ドロミテのあちこちで火山岩を目にする理由もわかった。上述のようにドロマイトが形成される以前のペルム紀は火山活動が非常に活発な時期だった。ドロミテでおよそ2億8000万年前に始まり2000万年間も続いたスーパーヴォルケーノの噴火活動は直径70kmにも及ぶボルツァーノカルデラを形成し、2000km2を超える広大な地域に大量の火山性堆積物を積らせたのだった。ドロミテの火山岩のうち特に多い石英質斑岩は、ドロミテの多くの町の石畳に使われている。

以上は博物館の展示(イタリア語、英語、ドイツ語の3ヶ国語対応)と、博物館ショップで買ったドロミテの地質史の本からわかったこと。でも、ドロミテの地質史はとても複雑で、ドロミテ地方のごく一部を見ただけで全体について把握するのはかなり難しい。ショップで買った本はよくまとめられているように思うのだけれど、残念ながらイタリア語版しかなく、GoogleLensをかざしてドイツ語に翻訳しながら読んだので、正確に理解できたかどうかは、ちょっと自信がない。でも、今後のさらなる理解のためにわかった分だけでもまとめておこうと思った次第。

 

ドロミテのジオパークGeopark Bletterbachの記事に続く。

 

この記事の参考文献:

Emanuelle Baldi (2020)   “Dolomiti    La Formazione di una Meraviglia della Natura

UNESCO  パンフレット ドロミテ

 

これまでに訪れたドイツ国内のジオパークに関する記事のまとめ。今後まだまだ増える予定!

 

隕石が好きなら、

リース・ジオパーク (Geopark Ries)関連 

 

石炭化石から恐竜まで幅広く楽しめる

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洞窟探検と考古学がセットで大満足

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実はドイツにもある活火山、しかも神秘的

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北ドイツといえば氷河地形

氷河期地形ジオパーク (Geopark Eiszeitland am Oderrand)関連

 

氷河地形ジオパーク (UNESCO Global Geopark Moskauer Faltenbogen)関連

  • ヒダ状の氷河地形を観察できるUNESCOグローバルジオパーク、ムスカウアー・ファルテンボーゲン (Muskauer Faltenbogen)関連

 

ペルム紀のスーパーヴォルケーノが遺した石とは?

斑岩ジオパーク (Geopark Porphyrland)関連

 

 

 

 

気になっていたことがある。数年前、移動中たまたま通りかかったハレ(Halle)という町に立つ、立派な給水塔に目が留まり、車を降りて写真を撮っていたときのこと。ふと、足元を見て、古い石畳にハッとしたのだった。

「あっ、斑岩だ!」と思わず呟いた。私は斑岩が好きなのだ。

赤っぽい石基にそれよりも薄い色の細かい斑晶ができている。このような石はドイツ語ではPorphyr(英語ではPorphyry)と呼ばれている。水玉模様みたいでなんかかわいいな、と思ったのが興味を持つようになったきっかけだった。

私が住んでいる北ドイツの古い石畳のほとんどは、はるかスカンジナビアやバルト海地域から氷河とともに運ばれて来た石の寄せ集めでできている。氷河は北方の様々な石を運んで来たので、北ドイツの石畳はカラフルなのが特徴だ。中には斑岩も含まれているけれど、全体の中では比較的少ないし、色や斑晶の大きさなどもまちまちである。

それがこの石畳ときたら、オール斑岩、それもすベて同じ石なのだ。ということは、この石畳に使われている石はどこか近くの石切場から切り出して来たということになる。ハレは首都ベルリンから南西におよそ170kmに位置しているが、火山もないのに斑岩が採れるんだろうか?

不思議に思ったけれど、この疑問はそのまま長らく放置していた。ところが、先日、こちらの記事に書いたようにベルリン中心部に使われている石を見て歩いていたら、また斑岩の石畳に遭遇したのだ。

ベルリン、ジャンダルメン広場前の石畳

手持ちの資料、”Steine in deutschen Städten: 18 Entdeckungsrouten in Architektur und Stadtgeschichte“によると、このグレーに白っぽい斑晶のある石はBeuchaer Porphyrと呼ばれ、ライプツィヒ郊外のボイヒャ(Beucha)というところで採れるらしい。ライプツィヒはハレと40kmちょっとしか離れていない。やっぱりあのあたりは斑岩が採れるのだろうか?でも、あの辺に火山なんてないよなあと再び気になりだし、調べてみるとライプツィヒの東には広さおよそ1.200 km²のジオパークがあり、その名もズバリ「斑岩ランド・ジオパーク(Geopark Porphyrland)」だというではないか!

まったく知らなかったのだが、そのあたりでは約2億9000万年前(ペルム紀)、超巨大火山が噴火を起こし、大規模な火砕流が一帯を覆ったのだという。それが冷えて固まってできたさまざまな種類の斑岩の層は、深いところでは500mを超える。つまり、ライプツィヒ近郊は斑岩の一大産地だったのだ。

ということで、行ってみた斑岩ランド・ジオパーク。

見どころはたくさんあって、1回で多くを回るのは難しい。斑岩ランド・ジオパークは、2億9400万年前の爆発的な噴火によって形成されたカルデラであるロッホリッツ(Rochlitz)エリアとそれよりも後の2億8700万年前にできたカルデラ、ヴルツェン(Wurzen)エリアとの2つの地域に大きく分けられる。より南部のロッホリッツエリアでは主にRochlitzer Porphyrtuffと呼ばれる真っ赤な石が採れる。

ロッホリッツァー・ベルク(Rochlitzer Berg)という山にはかつての石切場があり、現在はジオ散策ルートとなっている。

旧石切場 Gleisbergbruch

ここでは中世から採石が行われ、石臼にしたり彫刻を作るのに使われていた。

深いところは100メートルくらいある。

ロッククライミングをしている人がいた。

こちらは現在も稼働中の石切場

だけど、ちょっと待てよ。これって斑岩?私が思っていたのとずいぶん違っていて、混乱してしまった。これまでに見た石畳や、家の周辺で拾った斑岩は石基の部分がもっと硬くて緻密で、斑晶が模様のようにはっきりとしていたが、この石はもっと密度が低くて手触りもざらざらしている。よく見ると、黒っぽい小さな火山礫が混じっているがそれほど目立たない。Rochlitzer Porphyrtuffと言われる石だから、字面通りに解釈するなら、「斑晶(Porphyr)を持つTuff(凝灰岩)」ということになるが、ジオパークwebサイトの説明によると、Rochlitzer Porphyrtuffは固まった火山灰である一般的な凝灰岩とは異なり、ガスを多く含んだ熱い火山砕屑流が堆積してできた「イグニンブライト (Ignimbrit)」と呼ばれる石に分類される。(ラテン語で「火」を意味する ignis と「雨」を意味する imber  の合成語)

私のイメージする斑岩とは違ったが、薄紫から赤へのグラデーションやところどころに走る岩脈が味わい深いとても魅力的な石だ。この石は古くから現在に至るまで建材として広く使われており、2022年に国際地質学連合(IUGS)により、ドイツの岩石では初のヘリテージストーンに認定された。

Rocherlitzer Bergのてっぺんに立つ見晴らし塔、フリードリヒ・アウグスト塔

ヘリテージストーンというくらいなので、きっと最寄りの大都市ライプツィヒ市内にこの石を使った建物が見られるだろう。確認に行ってみたら、実際、旧市街はこの石だらけだった。

ライプツィヒ旧市庁舎。下のアーケードの部分がRochlizer Porphyrtuff。

でも、ライプツィヒだけじゃない。ベルリンやポツダムでも、この石を使った建物を見かけた。きっと、他の町でも幅広く使われているんだろう。知っている石ができると街歩きが楽しくなるなあ。

ベルリン、フリードリヒ通りの建物

 

次はヴルツェンエリアへ行ってみよう。まず向かったのはThallwitzというところにある山、Gaudlitzberg。

Gaudlitzbergの石の崖 

ここで採れるのは石英斑岩 (Quarzporphyr)。岩肌の割れ目から想像できるように、割れやすくかつ硬い石で、石畳や砂利としての利用に適しているのだそう。

左右に動かすと黒雲母の粒がキラキラして見える。

Gaudlitzbergの石の壁はロッククライマーに大人気で、年に一度、ここでクライミングと映画鑑賞のイベントが開催されるらしい。でも、この日は誰もいなくて、あたりにはニセアカシアの甘い香りが漂い、ナイチンゲールの鳴き声が響き渡っていた。

 

次は、Naunhofの石切場、Ammelshainへ。

1950年まで採石が行われていた跡地は今は水が張られ、自然保護区およびレクリエーションの場となっている。

ここで採れるのは、ジオパークのウェブサイトによると石英花崗斑岩(Quartzgranitporphyr)。それって、石英斑岩なの、それとも花崗斑岩なの、どっち?なんともややこしいが、花崗斑岩のうち、石英の割合が大きいものということらしい。

 

お次はボイヒャ(Beucha)の石切場、Kirchbruchへ。

石切場の上に教会が載っている。 なんとも言えない光景。

ボイヒャ花崗斑岩 (Beuchaer Granitporphyr)

この石がベルリン、ジャンダルメン広場の石畳に使われている斑岩だ。私はなぜか、このようなピンク色をしたカリ長石の斑晶に惹かれてしまう。石の性質としては、硬く霜や湿気にも強い。磨いてツルツルにするのにも適しているので、さまざまな用途に利用できるらしい。

Beuchaの別の石切場

そして、ボイヒャの斑岩はライプツィヒにある、プロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデンの連合軍がナポレオンを倒したことを記念して1913年に建てられた壮大なモニュメント、諸国民戦争記念碑(Völkerschlachtdenkmal)の建材でもある。是非とも見ておきたくてジオパークの帰りに寄った。

Völkerschlachtdenkmal

迫力!この全体が斑岩でできているのだー。重さ30万トンに及ぶこの巨大な記念碑を建てるのに、ボイヒャの石切場から2万6500個の石が切り出された。

壁のクローズアップ

内部の床。色のバリエーションはグレーっぽいのと赤っぽいのがある。ところどころに見える大きな黒い部分は黒曜石だろうか。

内部の石像には手の込んだ表面加工が施されている。

この記念碑以外に、ライプツィヒの中央駅、ドイツ国立図書館、ゲヴァントハウスなどにも同じ石が使われている。

斑岩といっても、いろんな種類のものがあるんだなあ。斑岩ランド・ジオパークはまだジオパークに認定されて日が浅いせいか、ウェブサイトはよくできているけれど、現地の説明パネルが少ないし、ビジターセンターの開館時間も限定的でその点はもうちょっとなんとかならないかなと感じたものの、斑岩が気になる私にとっては面白いジオパークだった。

 

ちなみに、このジオパーク訪問の伏線となったハレの石畳の斑岩の産地はまだわからない。ハレの周辺には斑岩ランドの斑岩とは別の時代に生成された斑岩の採れる場所があるらしく、そちらが産地かもしれない。探索は続く、、、。

 

この記事の参考サイト:

Geopark Porphyrlandウェブサイト

 

 

 

こちらの記事の続き。

庭に設置した3つの巣箱のうち、ハウス3で進行していたシジュウカラの営巣。4/23日に7つの卵からヒナが孵り、しばらくは成長ぶりに大きな個体差も見られず、みんな順調に育っていると思われたけれど、7羽のうち1羽は途中で死んでしまい、6羽となった。

生後およそ2週間後、ヒナたちの目が開き、「ヂヂヂヂヂッ」「ピピピピッ」というヒナに特徴的なフレーズでひっきりなしに鳴くようになった。このフレーズは過去数年のシジュウカラの営巣観察で私の耳にすっかりお馴染みになっている。巣箱の中で、ヒナたちは最初の数日はほとんど声を出さない。その後少しづつ「ピッ」とか「チッ」という単音を発するようになり、その声も次第に大きくなるけれど、「ヂヂヂヂヂッ」「ピピピピッ」というフレーズが出て来るのは巣立ち間近になってからのようだ。巣立った後もしばらくの間はヒナは親鳥に世話をしてもらわなければならないから、自分の居場所を知らせるために特定のフレーズが必要だということなんだろうか?だとすると、シジュウカラのヒナの「ヂヂヂヂヂッ」「ピピピピッ」は、つまり「おかあさーん」という意味かな?

そして、生後18日目の朝、巣箱カメラを覗くと、中が何やら騒々しい。

ヒナのうち、2羽が翼を広げて飛び上がっては降り、飛び上がっては降りを繰り返している!いよいよ巣立ちか?

朝ごはんを食べていた私はコーヒーの入ったマグカップとカメラを持って、急いで庭に出た。

あっという間に最初の1羽が巣箱から飛び出し、それから1時間半ほどの間に6羽中5羽が無事に巣立った。ヒナが飛び立つ瞬間は、いつ見ても感動的である。

巣立ったばかりのヒナ。かわいい〜。

でも、広い世界の危険をまだ把握していないヒナたちは地面にいることが多く、危なっかしい。

 

しかし、ここからが忍耐戦だった。最後の1羽が出てくるのを見届けようと、朝ごはんを中断したままカメラを抱えていたのだけれど、なかなか出て来ない。巣箱カメラを通して中を見ると、末っ子ちゃんは出入り口の穴に飛び上がるのにすら苦労しているようだ。ありゃりゃ、これは時間がかかりそうだなと一旦家の中に入ることにした。

それから数時間が経過。何度巣箱カメラを覗いても、末っ子ちゃんは一向に出る気配がない。お父さんお母さんが交代で何度も何度も迎えに来てはあの手この手で外へと誘導するのだが、どうやらかなり臆病な子らしく、なんとか出口には登っても、そこから飛んで出るのはどうしても怖いらしい。親鳥も巣立った子たちへの餌やりや飛び方指導などしなければならないのだから、この子ばっかりに構ってはいられない。巣箱に来る間隔がだんだん長くなっていく。

今日はこのままもう無理かもしれない。

そうこうしているうちに日が暮れた。鳥も寝る時間である。母鳥は巣立った他の子たちと一緒に外で寝るらしく、巣箱に戻って来ない。末っ子ちゃんはひとりぼっちで夜を明かすことになってしまった。あーん、かわいそう。初めての経験できっとすごく心細いよね?まさか、このままお父さんお母さんに忘れられたりはしまいね?

 

そして、一夜が明けた。

朝、目が覚めて早速巣箱の中を見ると、末っ子ちゃんはすでに目を覚まして鳴いている。今日も出られないのだろうかと心配になったが、お母さんは巣箱の中にまだもう1羽いることを忘れていなかったようで、ちゃんと迎えに来た。よかったー。

そして、お母さんの誘導の下、飛び出そうとしかけてはまた戻り、を何度か繰り返した後、末っ子ちゃんはついに巣箱から出ることに成功!!

でも、なんとか外には出たものの、羽ばたいて遠くまで飛ぶのはまだまだ怖いらしく、「おかーさーん。おかーさーん」と鳴いて助けを呼んでいる。いやはや、手のかかる子もいるもんだ。

 

こうして今年は6羽のシジュウカラの巣立ちを無事、見届けることができた。でも、広い世界は危険がいっぱい。1羽でも多くが大人になれますように!

 

ハウス2のアオガラのヒナたちも今のところ、順調に育っている。こちらも巣立ちが楽しみだ。(こちらに続く)

 

 

2024年春の野鳥営巣観察の続き。前回の記事で、庭に設置した3つのカメラ付き巣箱のそれぞれで営巣が始まったことを書いた。以下はそれからおよそ3週間が経過した、現在の様子を記録しておこう。

まず、ハウス1

シジュウカラが2日間、巣材を運び入れて作業していたが、なぜか放棄されてしまった。今まで3つの巣箱の中で最もよく使われて来た巣箱だけれど、今年はこのまま使われないのか、それとも誰かが引き継いで使うことになるのかはわからない。現時点では空き家状態である。

 

ハウス2

この巣箱ではシジュウカラが途中まで作った巣をアオガラが引き継いだ。このアオガラのメスは羽が大好きなようで、大量の鳥の羽を集めて来た。

羽は土台に編み込んだりせずにそのままなのでフワフワ舞っていて、なんだかカオス。

4/13から卵を産み始め、全部で5つ産んだ。でも、このフワフワ羽、ヒナが生まれたら邪魔そうなんだけど、いいのかなあ?ちょっと気になっている。

このアオガラのメスはちょっとだらしないタイプなのでは?と思うのだが、気は強いのか、パートナーのオスにしきりに餌をねだっている。

 

ハウス3

こちらの巣箱のシジュウカラはカラフルな巣材を集めて来た。

卵を7つ産んで、4/11に抱卵を開始。巣材で器用に丸い窪みを作って、ハウス2のアオガラの巣とは大違い。

そして、4/23に最初のヒナが孵った!

次々と誕生するヒナ達。感動的〜。

7羽のヒナ、今のところ元気に育ってる。無事に巣立ちますように!

 

続きはこちら

 

前々から欲しいと思っていた本を購入した。石材を見ながら街を歩く活動をしておられる名古屋市科学館主任学芸員、西本昌司先生の『東京「街角」地質学』という本だ。ジオパークや石切場に石を見にいくのも楽しいけれど、街の中でも石はいくらでも見られる。建築物やインフラにいろんな石が使われているから、見てざっくりとでも何の石か区別できるようになれば楽しいだろうなあと思って、この本を日本から取り寄せた。読んでみたら、想像以上にワクワクする本だ。石についての説明もわかりやすいし、特定の種類の石が使われた背景も面白い。さっそく自分でも街角地質学を実践してみたくなった。

とはいっても、東京へ行けるのはいつになるかわからないので、まずは住んでいるドイツの町で使われている石材を見に行くことにする。この目的にうってつけの”Steine in deutschen Städtchen(「ドイツの町にある石」)”というガイドブックがあるので、これら2冊をバッグに入れてベルリンへGo!

“Steine in deutschen Städtchen”のベルリンのページでは、ミッテ地区のジャンダルメンマルクトという広場周辺で使われている石材が紹介されている。地図上に番号が振られ、それぞれの番号の場所の石材の名称、産地、形成された時代が表にされているので、これを見ながら歩くことにしよう!

と思ったら、ジャンダルメンマルクトは2024年4月現在、工事中で、広場は立ち入り不可。いきなり出鼻を挫かれた。でも、広場周辺の建物を見て回るのには支障はなさそうだ。

まずはマルクグラーフェン通り(Markgrafenstraße)34番地の建物から見てみよう。

1階部分にアインシュタインカフェというカフェが入っているこの建物は、1994-96年に建造された。地階とそれ以外の階部分の外壁には異なる石材が使われている。

地階部分はイタリア産の蛇紋岩、「ヴェルデヴィットリア(Verde Vittoria)」。

上階部分はCanstatter Travertinというドイツ産のトラバーチン。シュトゥットガルト近郊のBad Cannstattで採れる石で、本場シュトゥットガルトではいろいろな建物に使われているらしい。

 

次に、広場の裏側のシャロッテン通り(Charlottenstraße)に回り込み、フランス大聖堂(Franzözischer Dom)前の石畳を観察する。

フランス大聖堂前の石畳

ここのモザイク石畳に使われている石は大部分がBeuchaer Granitporphyrという斑岩。ライプツィヒ近郊のBeuchaというところで採れる火山岩で、ライプツィヒでは中央駅や国立図書館の建物、諸国民戦争記念碑(Völkerschlachftdenkmal)などに使われているそうだ。

そこから1本西側のフリードリヒ通り(Friedrichstraße)には商業施設の大きな建物が立ち並んでいる。例えば、Kontorhausと呼ばれる建物は赤い壁が特徴的だ。

使われているのは南ア産の花崗岩で、石材名はTransvaal Red。花崗岩というと以前は白と黒とグレーのごま塩模様の日本の墓石を思い浮かべていたけれど、ドイツでは赤い花崗岩を目にすることがとても多い。石材用語では「赤御影石」と呼ばれるらしい。

建物のファサード全体と基礎部分では、同じ石でも表面加工の仕方が違っていて、全体はマットな質感、基礎部分はツヤがある。これは何か理由があるのかな?地面に近い部分は泥跳ねなどしやすいから、表面がツルツルしている方が合理的とか?それとも単なるデザインだろうか。

 

連続するお隣の建物ファサードには、縞模様のある淡いクリーム色の石材が使われている。

この石材は、イタリア、ローマ郊外チボリ産のトラバーチン、Travertino Romano(トラベルチーノ ロマーノ)。ローマのトレヴィの泉やコロッセオに使われているのと同じ石。ベルリンでは外務省ファサードにも使われている。『東京「街角」地質学』によると、東京ではパレスサイドビル内の階段に使われているらしい。

トラバーチンという石を『東京「街角」地質学』では以下のように説明している。

トラバーチンは、温泉に溶けていた石灰分(炭酸カルシウム)が、地表に湧き出したところで崩壊石として沈澱し、積み重なってできたものである。その沈殿は常に同じように起こるのではなく、結晶成長が速い時期や不純物が多く混ざる時期などがある。そのため、木に年輪ができるように、トラバーチンにも縞模様ができるのである。(出典: 『東京「街角」地質学』

なるほど、縞の太さや間隔は一定ではない。小さい穴がたくさん開いている(多孔質)のも、トラバーチンの特徴だ。

 

その隣の建物との境に使われている石は緑色。緑の石というと、蛇紋岩?

ガイドブックによると、ヴェルデヴィットリアとなっているから、最初に見たアインシュタインカフェのファサードと同じ石ということになる。随分色も模様も違って見えるけれど。

180-184番地の建物はガラッと違う雰囲気。建造年は1950年で、東ドイツ時代の建物だ。クリーム色の部分はドイツ産の砂岩(Seeberger Sandstein)で、赤っぽい部分は同じくドイツ産の斑状変成凝灰岩(Rochlitzer Porphyrtuff)だ。

このRochlitzer Porphyrtuffという石はとても味わい深い綺麗な石である。なんでも、この石は多くの重要建造物に使われていて、国際地質科学連合(IUGS)により認定されたヘリテージストーン(„IUGS Heritage Stone“)の第1号なのだそう(参考サイト)。ヘリテージストーンなるものがあるとは知らなかったけれど、なにやら面白そうだ。今後のジオサイト巡りの参考になるかもしれない。ちなみに、Rochlitzer Porphyrtuffの産地はザクセン州ライプツィヒ近郊で、Geopark Porphyrlandと呼ばれるジオパークに認定されていて、石切場を見学できるようなので、近々行ってみたい。

 

さて、次はこちら。

1984年にロシア科学文化院(Haus der russischen Wissenschaft und Kultur)として建造された建物で、建物のデザインはともかく、石材という点ではパッと見ずいぶん地味な感じ。

でも、よく見ると、地階部分のファサードには面白い模様の石が使われている。

Pietra de Bateigという名前のスペイン産の石灰岩で、日本で「アズールバティグ」と呼ばれる石に似ている気がするけれど、同じものだろうか?

 

道路を渡った反対側には、フリードリヒシュタットパッサージェン(Friedrichstadt Passagen)という大きなショッピングモールがある。

ファサードは化石が入っていることで有名な、「ジュライエロー」の名で知られる南ドイツ産の石灰岩。ジュライエローについてはいろいろ書きたいことがあるので、改めて別の記事に書くことにして、ここでは建物の中野石を見ていこう。この建物は内装がとても豪華なのだ。

大理石がふんだんに使われたショッピングモールの内装

地下の床に注目!いろんな色の石材を組み合わせて幾何学模様が描かれている。この建物の建造年は1992年から1996年。ドイツが東西に分断されていた頃は東ドイツ側にあったフリードリヒ通りにおいて再統一後まもない頃に建てられた建物アンサンブルの一つだが、その当時はこういうゴージャスな内装が求められたのだろうか。

白の石材はイタリア産大理石「アラべスカートヴァリ(Arabescato Vagli)」で、黒いのはフランス産大理石「ノワールサンローラン(Noir de Saint Laurent)」。ちなみに、大理石というのは石材用語では内装に使われる装飾石材の総称で、必ずしも結晶質石灰岩とは限らないから、ややこしい。”Steine in deutschen Städtchen”には「アラべスカートヴァリ」は結晶質石灰岩で「ノワールサンローラン」の方は石灰岩と記載されている。

赤い部分はスペイン産大理石(石灰岩)、Rojo Alicante(日本語で検索すると「ロッソアリカンテ」というのばかり出てくるのだけど、スペイン語で「赤」を意味する言葉だからロッホと読むのではないのかな?謎だー)。

こちらの黄色いのはイタリア、トスカーナ産のジャロ・シエナ(Giallo di Siena)。およそ2億年前に海に堆積し、圧縮されてできた石灰岩が、2500万年前のアペニン山脈形成時の圧力と高温下で変成して結晶質石灰岩となった。

 

同時期に建てられたお隣のオフィスビルは、ファサードに2種類の石灰岩が組み合わされている。色の濃い方がフランス産のValdenod Jauneで、クリーム色のがドイツ産のジュライエローだ。

でも、ファサード以上に目を奪われたのはエントランス前の床の石材だった。

床材も石灰岩づくしで、濃いベージュの石材はフランス産のBuxy Ambre、肌色っぽい方も同じくフランス産でChandore、黒いのはベルギー産Petit Granit。Chandoreは白亜紀に形成された石灰岩で、大きな巻貝の化石がたくさん入っている。

このサイズの化石があっちにもこっちにもあって興奮!

そして、花崗岩(Granite)ではないのにGranitとついて紛らわしいPetit Granitもまた、白亜紀に形成された石灰岩で、こちらも化石だらけなのだ。

サンゴかなあ?

これもサンゴ?大きい〜!

これは何だろう?

化石探しが楽しくて、人々が通りすぎる中、ビルの入り口でしゃがみ込んで床の写真を撮る変な人になってしまった。ここの床は今回の街角地質学ごっこで一番気分が上がった場所だ。街角地質学をやりに出て来て良かったと感じた。ただ、ベルリンで街角地質学をやる際、困ることが一つある。それは、ベルリンの町が汚いこと。このフリードリヒ通りはまだマシな方ではあるけれど、せっかくの素晴らしい石材が使われていてもロクに掃除がされていないので、ばっちくて触りたくないのだ。写真を撮るとき、化石の大きさがわかるようにとコインを置いたものの、そのコインをつまみ上げるのも躊躇してしまう。

 

さて、2時間近くも石を見ながら外を歩き回ったので、さすがにちょっと疲れて来たので、初回はこの建物で〆よう。Borchardtというおしゃれ〜なレストランが入っている赤い砂岩の建物である。

この砂岩はRoter Mainsandstein(直訳すると「赤いマインツの砂岩」というドイツ産の砂岩で、ドイツ三大大聖堂の一つ、マインツ大聖堂はこの石で建てられている。この建物は1899年に建てられており、ファサードの装飾が目を惹くが、石的に注目すべきは黒い柱の部分だ。

うーん。写真だと上手く伝わらないかな。光が当たるとキラキラ輝いて、とても美しい。ノルウェー産の閃長岩で、石材名は「ブルーパール(Blue Pearl)」。オスロの南西のラルヴィクというところで採れるので、地質学においては「ラルビカイト(Larvikite)」と呼ばれる岩石だ。東京駅東北新幹線ホームの柱や東海道新幹線起点プレート、住友不動産半蔵門駅前ビルの外壁にも使われているとのことで、東京に行ったときにはチェックすることにしよう。

 

それにしても、世の中にはたくさんの石材があるものだ。少しづつ見る目が養われていくといいな。

 

関連動画:

YouTubeチャンネル「ベルリン・ブランデンブルク探検隊」で過去にこんなスライド動画を上げています。よかったらこちらも見てね。

2020年から始めた庭の巣箱カメラを通した野鳥の営巣観察、早いもので今年で5年目!

思えばこれまでにいろいろなことがあった。最初の年、2020年の春にはオークの木に取り付けたばかりの巣箱でシジュウカラが営巣をし、9つの卵を産んだ。そのうち1つは孵らなかったものの、8羽のヒナが無事に巣立ち、その一部始終を巣箱の中に取り付けたカメラを通して観察することができた。巣箱からヒナたちが順番に飛び立つ瞬間も見ることができ、とても感動的だった。

その後、同じ巣箱で2回目の営巣が始まったが、母鳥が巣を離れている間に生まれたヒナたちが巣材を喉に詰まらせて次々に窒息、全滅するという痛ましい結果に。その様子をカメラを通して目にすることになり、どうにかしてあげたいのに何もできず、辛かった。

翌年の2021年はシジュウカラが卵を2つ産み、そのうちの1つが孵った。たった1羽のヒナを夫婦で過保護に育てる様子がなんとも可笑しかった。また、庭の垣根でクロウタドリも営巣し、無事にヒナたちが巣立った。

2022年春。シジュウカラが巣箱で営巣していたが、母鳥の不在中にクロジョウビタキが巣箱に侵入し、戻って来た母鳥とバトルに。母鳥はクロジョウビタキには勝ったけれど、なぜかそのまま巣を放棄してしまった。かなりがっかりだったけれど、庭の周辺でいろんな野鳥が繁殖し、親鳥たちがヒナを連れて我が家の餌場に集まってとても賑やかな春となった。

2023年は巣箱で初めてアオガラが営巣し、10個の卵を産んだ。しかし、ヒナ達が孵って喜んだのもつかの間、夜中にアライグマが庭に現れ、巣箱の中に手を突っ込んで母親を捕らえて食べてしまった。母親を失ったヒナ達の運命は言わずもがなである。

こんな風に野鳥の子育ては常に危険と隣り合わせで、毎年ハラハラして見守っている。

さて、今年の状況はというと、これまでとは少し違っている。去年までは営巣期間以外には巣箱は使われていなかったが、今年の冬は現在3つあるすべての巣箱がシジュウカラに寝ぐらとして使われていた。なぜ今年に限ってそうなったのだろう?巣箱が冬の寝ぐらとして便利だと思いついたシジュウカラがうちの庭にたまたま何羽もいた?それは偶然がすぎる気がする。1羽が巣箱を寝ぐらとして使い始めたのを見て他の個体がそれを真似したのだろうか。あるいは同じ餌場に集まる仲間同士、「巣箱で寝ればあったかくていいんじゃない?」というコミュニケーションがあったのか。わからないが、とにかく冬の間ずっと巣箱が使われていたので、もしかしたら春になったらそのまま営巣が始まるのではと期待していた。

そして、4月2日の状況はこんな具合である。

ハウス1 (去年まで旧館と呼んでいた巣箱)

シジュウカラが営巣。この子は本日(4/2)営巣を開始。それまでもちょくちょく昼間に巣箱に入ってはいたが、のんびりさんなのか、「ここで巣を作ろっかなー、どうしよっかな〜」と考えてでもいるかのように頭を傾げたりキョロキョロするばかりでいっこうに作業を始めなかったのだ。ようやく心が決まったのか、今朝から慌ただしく巣材を運んでいる。

今日1日でここまでできた。やる気になれば早いらしい。

 

ハウス2(去年までは新館と呼んでいた巣箱)

この巣箱ではアオガラが営巣中。実はこの巣箱では3/22日にシジュウカラが営巣を始め、突貫工事でたった1日で7割方完成していたのだが、なぜかその後放置されていた。夜になっても寝に戻って来ることがなかったので、この巣箱のシジュウカラの身に何かがあったのかもしれない。3/29の昼間、庭仕事をしていた夫が、「アオガラのオスがメスをハウス2に案内していたよ」と言う。すでに土台のできた巣があるので、いってみれば「家具付き物件」と言うことになる。メスも「タイパがいいわ!」と気に入ったのか、翌日から営巣を始めて、夜も寝泊まりしている。

なぜか画像が白黒だけど、現在の巣の様子。

 

ハウス3 

こちらのシジュウカラはコツコツ型で3/11に作業を開始し、毎日少しづつ進めていっている。パートナーのオスも巣作りに積極的に参加し、せっせと巣材を運んで来たりと仲がよい。

3つの巣箱の中で作業が一番進んでいる。

 

さて、今年はどうなるか。何が起こってもおかしくない野鳥の子育てなので心配だけど、3つの巣箱で同時進行の繁殖活動を観察できるのは初めてなので観察で忙しくなりそう。みんながんばって。成功を祈ってるよ。

 

この続きはこちら

北ドイツに住むようになって以来、氷河地形が気になってしょうがない。氷河地形といっても北ドイツのそれはアルプスのような山岳氷河が形成した地形ではなく、かつてスカンジナビアから北ドイツまでを覆っていた大陸氷河が広い大地に残した痕跡である。

こちらの過去記事に書いたように、ベルリンの北東には氷河地形をテーマにしたジオパーク、Geopark Eiszeitland am Oderlandがあり、「エンドモレーン」が観察できる。エンドモレーンというのは、氷河が移動することによってその末端に砂礫が堆積してできた地形だ。さらに、そのエンドモレーンにはドイツ語で「Stauchmoräne(シュタウホモレーネ)直訳すると「圧縮モレーン」」と呼ばれる特殊な地形があるらしい。それは、ヒダ状にうねった地形だという。一体どんなものだろう?それを見にブランデンブルク州とザクセン州の境でポーランドとの国境を跨ぐUNESCOグローバルジオパーク、ムスカウアー・ファルテンボーゲン(UNESCO Global Geopark Muskauerfaltenbogen)へ行って来た。

ジオパークのダウンロード用資料の地図を使用

ムスカウアー・ファルテンボーゲンは、国境の町バート・ムスカウ(Bad Muskau)を中心にU字形に伸びている。上地図の茶色い部分だ。ファルテンボーゲンとは直訳すると「ヒダ(Falten)のある弧(Bogen)」という意味。なぜU字形をしているかというと、かつてここには長さ22km、幅20kmほどの舌のような形をした氷河があった。その縁に沿ってファルテンボーゲン、地質学用語でいうところのシュタウホモレーネが形成された。でも、ヒダ状の地形って、一体どんなの?

氷床の重みで押され、ヒダ状に盛り上がった地面。図はジオパークのダウンロード用資料から。

過去40万年の間にドイツは3度の氷期を経験した。氷期の名前は地域によって異なり、それぞれ川の名が付けられている。北ドイツでは新しい順にヴァイクセル氷期(Weichsel-Kaltzeit)、ザーレ氷期(Saale-Kaltzeit)、エルスター氷期(Elster-Kaltzeit)と呼ばれる(アルプス地域ではミンデル、リス、ヴュルム氷期)。3度の表記のうち最も古い、39万年前から32万年前まで続いたエルスター氷期には、氷床はこのジオパークのある現在のブランデンブルク州とザクセン州との州境あたりまで及んでいた。

では、ヒダヒダの地形はどうやってできたのか?ムスカウエリアの地層は厚さ500mにも及ぶ氷河の重みで潰され、割れて氷の縁の外側に押し出された。そのとき、割れた地層の塊は縦に起こされ、本棚に本を並べるような感じでくっついて、ヒダのような構造になったのだ。つまり、上の絵のように。

と、頭だけで理解しようとするのは難しい。ジオパークには散策ルートがたくさんあるが、ヒダヒダの地形がよくわかるドラゴン山ツアー(Drachenberg-Tour)というルートを実際に歩いてみた。森の中を4、5km歩くルートだ。

ジオパーク内の散策ルート。青い丸はインフォメーションポイント、赤はジオトープ、緑は展望台、黄色はその他の見どころ

歩いてみると、確かにアップダウンが激しい。

登って降りて登って降りて。まるで扇子のように小高い部分と谷が数十メートルごとに交互に続いていく。まさにヒダヒダ!こんな地形を体験するのは初めて。とても面白い。

切り込んだような谷の部分はギーザー(Gieser)と呼ばれる。ムスカウ周辺の地層は褐の層を含んでいるが、ファルテンボーゲンが形成された際に地層が縦に起こされたので、褐炭の層は地表に対して帯状に分布している。ギーザーはそれら褐炭の帯に対応しているのだ。地表近くの褐炭が風化することで地表が沈み、溝のような谷ができた。

別の散策ルート、地質学ツアー(Geologie-Tour)のルート上にはギーザーの断面が見られる場所がある。

下の方の茶色いのが褐炭

この地域では1800年代半ばから1970年代まで褐炭が採掘されていた。そのため、褐炭を掘り出した後の穴が無数にあり、そこに水が溜まって池になっている。

ジオパークの見どころの一つ、「4つのカラフルな池(Die vier bunten Seen)」。ドローンで撮影。

1901年から1908年まで採掘が行われたHorlitzaの採掘場の4つの池はそれぞれ水の色が違うので、「4つのカラフルな池」と呼ばれている。水の色の違いは水のpHや微生物、含まれるミネラル、温度などによるらしい。4つの池全部を写真に収めようとドローンで限界まで高度を上げて撮ったけれど、これが限界。曇りだったので、色の違いもそれほど明確ではないかな。(ジオパークのサイトのこちらのページに良い画像があるので、興味のある方は見てみてください。)

UNESCOグローバルジオパーク、ムスカウアー・ファルテンボーゲンには他にも見どころがたくさんあって、日帰りではとても回りきれなかった。さらに、バート・ムスカウのムスカウ城とその庭園であるムスカウ公園はUNESCO文化遺産に登録されているので、ジオ以外でも盛りだくさん。今回、時間切で見れなかったものを見に再訪したい。

ムスカウ城

クロムラウのシャクナゲ公園のラコッツ橋(Rakotzbrücke)

コスタリカ滞在中、多くの野鳥を見た。その中で、最もよく目にし、かつ存在感の大きい野鳥はコンドルだったのではないか。コスタリカの至る場所で、コンドルの群れが滑空していた。

子どもの頃から「コンドル」と聞くと、羽を大きく広げて広い空を優雅に飛ぶ姿が目に浮かび、なんとなく憧れがあった。しかし、パナマやコスタリカで実際のコンドルを目にするようになって、すっかり印象が変わってしまった。そう、コンドルは「ハゲタカ」と総称される、腐肉を食べる野鳥の仲間なのだ。生き物の死骸に群がり、肉を食いちぎる様はグロテスクで優雅なイメージとは真逆である。でも、頻繁に姿を見かけるだけに、気になる野鳥である。

手持ちのフィールドガイドによると、コスタリカには3種のコンドルがいる。その中で最も多く目にするのは、クロコンドル(Coragyps atratus )だ。

クロコンドル (Coragyps atratus

コンドルの頭が禿げている、つまり羽毛がないのは、死骸に頭を突っ込むようにして食べるため、頭部が不衛生になるかららしい。

動物の死骸に群がるクロコンドルたち

クロコンドルは視覚に優れ、大きな群れで死肉を探して滑空する。道路脇で車に轢かれた動物などの死骸に群がっている場面によく遭遇した。あまりいい気持ちのする光景ではないけれど、ロードキルをすばやく片付けてくれるお掃除屋さんだと思えば、ありがたい存在にも思える。ただし、彼らは死肉を食べるだけでなく、産卵中のウミガメなど、無防備な生き物を襲うこともある。

クロコンドルほどではないが、ヒメコンドル(Cathartes aura)もコスタリカ各地で頻繁に見かけた。

ヒメコンドル (Cathartes aura

ヒメコンドルはクロコンドルのように大きな群れで行動することは少ない。視覚だけでなく嗅覚にも優れており、その両方を駆使して死肉を探す。

羽を広げたヒメコンドル

顔と脚が赤いこと、広げた羽の下半分が白いことで、上空を飛んでいてもクロコンドルと簡単に区別がつく。(クロコンドルは羽の先だけが白く、全体は黒い)

そして、コスタリカに生息するコンドルの仲間のうち、最も大きいのはトキイロコンドル (Sarcoramphus papa)だ。羽を広げると2メートルにも及ぶ。羽全体の色は白、広げた羽の下部のみ黒い(若鳥は全体が黒)。「トキイロコンドル」という和名は頭部がカラフルだからつけられたのだろう。

トキイロコンドルは単独で行動することが多い。クロコンドルやヒメコンドルと違って、目はあまりよくなく、嗅覚で獲物を探す。深い森など視界の開けていない場所では強い嗅覚は有利だ。そのため、都市に近い場所で目にすることは稀らしい。私はオサ半島で上の写真を撮ることができた。

コンドルはコミュニケーション能力に長け、死肉発見情報はコンドル達の間で瞬く間に共有されるらしい。Jack Ewing著 “Monkeys are made of Chocolate – Exotic and Unseen Costa Rica”には著者が経験したこんなエピソードが書かれている。1972年、著者はニカラグアとの国境に近いコスタリカ北東部のグアナカステ州に頻繁に滞在していた。コスタリカの他の地域同様、グアナカステ州でも至るところでコンドルの姿を見た。しかし、その年の12月にニカラグアの首都マナグアで大地震が起き、1万4000人もの人が亡くなった。新聞は人々の遺体に大量のコンドルが群がっていると伝えていた。そして、大地震の発生から2週間ほどの間、著者はグアナカステ州からコンドルの姿がすっかり消えていることに気づいたそうである。

 

死骸を食べる野鳥はコンドル以外にもいる。たとえば、カンムリカラカラというハヤブサ科の野鳥。

カンムリカラカラ(Polyborus plancus

オレンジ色のクチバシに真っ白な喉、黄色い足。ポップな美しい見た目をしていて、死肉をあさるようには思えない。カンムリカラカラという和名も面白い響きで親しみが湧く。でも、彼らが死骸を食べる現場を目撃した。

道路に転がったネズミか何かの死骸を食べているところ。

道路に転がっている小動物の死骸を見つけて、一羽のカンムリカラカラがやって来た。死骸をつついていると、仲間らしい別の1羽が向こうから歩いて来て、仲良く死骸を食べ始めたのだった。カンムリカラカラは生きた小動物を捕らえて食べることもあるが、狩りはあまり得意でないそうで、落ちているものがあればラッキーという感じなのだろうか。カンムリカラカラは現地ではquebrantahuesosと呼ばれている。直訳すると「骨を折る者」。動物の死骸を掴んで空に飛び上がり、硬い地面に落として骨を砕いて食べる習性があるのだそう。

キバラカラカラ (Daptrius chimachima)

こちらは同じハヤブサ科のキバラカラカラ(Daptrius chimachima)。これもいかにも上品な姿の野鳥だが、カンムリカラカラ同様に死肉を主食としている。

 

この記事の参考文献:

Fiona A. Reid, Twan Leenders, Jim Ook & Robert Dean “The Wildlife of Costa Rica – A Field Guide”

jack Ewing “Monkeys are made of Chocolate – Exotic & Unseen Costa Rica”

「あれ、どうしたの?首から上が真っ赤だよ」

コスタリカ旅行の最終日。朝、目を覚まして夫の顔を見て、思わずつぶやいた。夫は色が白く、日に当たるとすぐに肌が真っ赤になる。でも、昨日は日焼けするほど暑かったっけ?

「え、そんなに赤い?」

「まるでヒメコンドルみたいだね」

屍を探してコスタリカの空を飛び回るヒメコンドルの禿げた赤い頭が思い浮かんだのだ。

「酷いなあ」

私の冗談に憤慨しつつ、夫は起き上がった。この日はポアス火山を見に行くことになっていた。でも、私は出かけるべきかどうか迷っていた。というのも、前の晩からお腹の調子が悪かったのだ。胃腸が弱い私は、熱帯を旅行すると、すぐにお腹を壊してしまう。コスタリカは安心して水道水の飲める国だとされているけれど、少しづつ細菌が体内に蓄積されてしまったのだろうか。今日のトレイルは残念だけどパスして、夫には一人で行ってもらおうか。

しばらく悩んだが、せっかくチケットを購入したし、今日が最後と思うとベッドで寝ているのも惜しい気がして、やっぱり出かけることにした。活性炭の錠剤を水で胃に流し込んで、車に乗り込み出発した。公園のエントランスでヘルメットを借り(義務)、まずは火口の見えるプラットフォームに向かう。火口まではエントランスから300mほどで、あっという間に着いた。

煙を上げるカリエンテ湖(Laguna Caliente)の火口

世界最大級の大きさを誇る火口はモクモクと煙を上げていた。すごいスケールだ。プラットフォームにまで強い刺激臭が漂って来て、むせそうになる。あまり長くはいられない。

プラットフォームからもう一つの火口湖であるボトス湖(Laguna Boto)へ直接続くトレイルは現在閉鎖中で、いったんエントランスに戻り、El Canto del los Avesという森の中の坂道を登る必要がある。長めのトレイルなのでお腹が心配だったが、せっかくここまで来たのだから湖も一目見て帰りたい。幸い、トレイルは思ったほどハードに感じなかった。それなのに、「ああ、けっこうキツいな、これ。」と夫は辛そうなのである。おかしいな、と思った。体力のある夫は、普段、この程度のハイキングで弱音を吐くことはない。

ボトス湖

山道を登りきり、ボト湖に到着。エメラルドグリーンの水を湛えた湖は神秘的な美しさだ。しばらく眺めていたかったが、10分もしないうちに夫が「もう下りよう」と言うので、すぐに戻ることにした。山道を一気に下りて駐車場に戻り、そのまま宿に帰った。

そこからが大変だった。ポアスで私たちが泊まっていたのは、グランピングテントなるものだった。ドーム型をした、こんなテントである。

ネットでたまたまこの宿泊施設を見つけたとき、こういうのも面白いんじゃないか、一度試しに泊まってみたいと思って予約したのである。

内部は比較的広く、ベットとテーブル、チェアーが置かれ、小さなキッチンとシャワーもついている。天井には大きなスクリーンのテレビまであって、テントとはいっても贅沢な感じ。ビニールの窓部分からの眺めも良い。これは快適そうだ。

着いたときにはそう思ったのだが、実はこのテントには重大な欠陥があった。内部の温度調整ができないのである。ここは標高2000m以上あるので、日が沈むと一気に寒くなる。でも、それはまだよかった。毛布が二枚重ねになっていたし、宿主からポータブルヒーターを借りることもできる。問題は昼間だった。午後になると、耐えられないほどテントの中が暑くなってしまうのだ。

ポアス火山から戻った夫は「少し横になって休みたい」と言う。え、こんな暑いところで、とても寝られないでしょう?と思ったけれど、他に横になる場所はない。少しでも涼しい空気を入れようとドアを全開にし、備え付けの扇風機をフルに回した状態で夫はしばらく眠った。私は暑すぎてとても中にはいられず、外の日陰に座って日が沈むのを待った。

休んだら良くなるどころか、夫の体調は急激に悪化した。暑い暑いと訴えるので濡らした冷たいタオルを額に乗せると、しばらく後、今度は寒い寒いとガタガタ震え出す。「体温がうまく調節できない。頭は熱いのに手足は冷たいんだ」。それを聞いて、「マラリア」という言葉が一瞬頭をよぎる。いや、マラリアではないだろう。蚊のいない季節を選んで来ているし、実際、蚊には刺されていない。では何?コルコバード国立公園で私たちは、虫除けスプレーを使っていたにもかかわらず、身体中を小さなダニに噛まれていた。ダニが何か病気を媒介したのだろうか?でも、ネイチャーガイドさんは「ダニに噛まれても特にリスクはない」と言っていたではないか。それとも、ポアス火山で気分がすぐれなかったのは単なる疲れで、戻ってからこのドームテントの気狂いじみた暑さの中で寝ていたので熱射病になったのだろうか?ああ、こんな宿に泊まるんじゃなかった!

朝食以来、何も食べていなかったが、夫はとても食事に出られる状態ではないし、私はお腹を壊していて翌日のフライトまでに治らないと困る。何も食べない方がよいだろうと思い、ただひたすら水だけを飲んで朝になるのを待った。とにかく無事に家に帰らなければならない。辛く長い夜だった。

夜が明けて、そこからは思い出したくもない地獄。くねくね曲がる長い山道を下りて首都サン・ホセまで戻り、レンタカーを返し、空港で長い列に並び、飛行機を乗り継ぎ、ベルリンの空港近くの駐車場に預けてあったマイカーを取りに行き、、、。二人とも絶不調の中、どうにかこうにかやっとの思いで帰宅した。途中で倒れなかったのが不思議なくらい。しかし、自宅に戻ったものの、夫の体調はますます悪化していくように見えた。これは、熱中症ではないのでは?すぐに医者に見せた方がいいだろう。熱帯病かもしれない。

夫を車に押し込み、ベルリン医大病院の熱帯病研究所外来へ運んだ。ひとまずインフルエンザ、コロナ、マラリアの検査がなされ、そのいずれでもないことが判明したが、炎症を示す値がとても高いとのことで、そのままシャリテ大学病院の感染症病棟に入院し、抗生剤の点滴投与を受けることになった。詳しい血液検査の結果が出るには数日かかる。私は気が気ではなく、夫の症状が当てはまる病気がないか、ネットで検索したところ、それらしき病名がヒットした。

レプトスピラ症

スピロヘータに汚染された水や土壌との接触によって起こる感染症、どうもこれらしい。熱帯病ではなく、ほとんどのケースは軽症だが、稀に重症化し、最悪の場合は命を落とすこともあると書いてある。それを読んでゾッとしたけれど、幸い、早々に専門家の手に委ねることができたから大丈夫だろう。でも、いったいいつ、どこで感染したんだろう?コスタリカ滞在中、何度も滝壺で泳いだり、ジャングルの中でぬかるんだ場所を歩いたりしている。でも、滝壺のように流れの速い水が汚染されていたとは考えにくいし、ぬかるんだ川べりを歩いたときはゴム長靴を履いていた。私たちはほぼ常に一緒に行動していたので、夫だけが感染したというのも不思議である。

あっ!

あのときかもしれない。頭に浮かんだのは、ドラケ湾の集落で橋が壊れていて、しかたなく車ごと川を渡ったときのことだ。(詳細は「オサ半島での最後の日々 〜 またもやハプニング」)

このとき、川底に穴が開いていたり、角ばった石があってパンクでもしては大変だと、夫は車を下り、歩いて川を渡って川底の状態を確認した。その直後、牛の群れがぞろぞろと川を渡っていったのだ。

牛たちは、毎日、あの川を行き来しているに違いない。水の中に糞尿を垂れ流す牛もいるだろう。川の水は特に汚くは見えなかったけれど、家畜が通り、生活用水が流れ込んでいるかもしれない川が汚染されていたとしても不思議はない。夫がこの川を歩いて渡った際、足の擦り傷かどこかから細菌が体内に侵入した可能性は少なくない。

ああ〜〜〜。

毒ヘビや毒グモのいるジャングルの中では常にあたりに注意を払っていた。人の住む集落に戻って来た途端に気が抜けて、油断してしまったということか。でも、もとを正せば、四輪駆動の車を借りなかったということが最大のミスだったのだ。そのせいで今回の旅のほぼ全行程にわたって悪路に悩まされることになり、ついには夫が病に倒れるという結末を迎えてしまったのだ。

まさに、悪夢に始まり、悪夢に終わったコスタリカ旅行だった。

幸い、これを書いている現在、夫はすでにすっかり回復しており(検査の結果、やはりレプトスピラ症だった)、いろいろあったけど楽しかったねなどと二人で話している。旅にハプニングはつきものとはいえ、ハプニングが重なり過ぎた。同時に楽しい時間や心躍る瞬間も多くあり、いろんな意味でとても濃厚な旅となった。きっとずっと私たちの記憶に残るだろう。

 

(コスタリカ・ジャングル旅行2024の記録はこれで終わりです)

およそ3週間に渡るコスタリカ旅行が終わろうとしている。最後の滞在地に選んだのは、コスタリカ北部に位置するポアス火山国立公園(Parque Nacional Volcán Poás)だった。その中心となるポアス火山は、標高2,697mの成層火山で、コスタリカの火山のうちで最も噴火活動が活発な火山である。火口を間近に見られる数少ない活火山の一つだが、2017年4月の大噴火時には近隣住民や旅行者が避難するほどの事態となり、公園はしばらく閉鎖されていた。2018年9月からまた入場可能になっているので行ってみようと思ったのだ。

ところが、コスタリカに来てまもなくの頃、ローカルな食堂で食事をしていたら、店内のテレビがついていて、たまたまニュースが流れていた。なんと、ポアス火山の映像とともに、「ポアス火山は昨年12月より、断続的に噴火活動が続いています。危険防止のため、近々、公園は閉鎖されるかもしれません」と言っているではないか。すでに宿は予約してしまっているので、公園に入場できない事態になったら、予定を変更しなければならない。以来、ヒヤヒヤしながらこちらのサイトの情報をこまめにチェックしていた。

幸い、滞在予定日直前になっても公園は閉鎖されていなかったので、予定通り、向かうことにする。それまで滞在していたロス・ケツァーレス国立公園(Parque Nacional Los Quetzales)からは国道2号を北上し、首都サン・ホセを経由してさらに北上する。ロス・ケツァーレスからしばらくの間は山道を登るので、標高が高くなるにつれて視界に霧がかかり始めた。そしてそのうち、霧は厚い雲となった。

分厚い層雲が広がっている。これは、もしかして雲海というものでは?

さらに北上すると、ラ・チョンタ(La Chonta)という集落に国道沿いのサービスエリア的なものがあったので、休憩することにした。コーヒーを注文してレストランのテラス席につくと、目の前に広がっていたのはこの景色!

これぞ「雲海テラス」!雲海は、様々な気象条件が揃わないと見ることができない稀な自然現象だと思っていたので、予期せずに見られて感動した。コーヒー一杯でこんな景色が見られて、得した気分。間違いなく、これがこの日のハイライト。

 

と思っていたら、なんとまだ続きがあったのだ。ポアス火山国立公園近くの宿に着き、公園入り口の近くにサンセットスポットがあると知ったので、日の入り少し前に行ってみた。

 

首都サン・ホセを見下ろす山の上で見たものは、夕陽でオレンジ色に染まりゆく空の下、ゆっくりと広がる雲海だった。

こんな日ってある?

 

 

楽しくもハードだったオサ半島滞在が終わり、約3週間のコスタリカ旅行も終盤に近づいた。ドイツの自宅に戻る前に、あと2つ、行っておきたいエリアがあった。その一つはロス・ケツァーレス国立公園 ( Parque Nacional Los Quetzales )。この国立公園は広さ50km2と小規模ながら、標高は低いところで1,240m、最も高いところは3,190mとかなりの幅がある。標高に応じて異なる種の野鳥が生息するバードウォッチャーのパラダイスだ。コスタリカでバードウォッチングというとモンテヴェルデ熱帯霧林自然保護区がメジャーだけれど、今回の旅では飛行機の遅延のせいで予定していたモンテヴェルデでの3日間の予定がまるごとなくなってしまっていたので、ロス・ケツァーレス国立公園に期待をかけていた。世界一美しい野鳥として名高いケツァールの名前を冠しているから、もしかしてケツァールを見るチャンスがあるかもしれない。

オサ半島からは国道2号(Inter American Highway)に出て、首都サン・ホセ方面に向かってひたすら進むだけ。舗装された道路だから安心である。パルマー・ノルテ(Palmar Norte)で右折し、川沿いをしばらく走ると、そこからはグングンと標高が上がっていく。高温多湿のオサ半島を出発したときには半袖にサンダル履きだったが、進むにすれて気温が下がっていき、肌寒さを感じ始めた。あたりの景色もどんどん変化していく。

ラ・タルデでお世話になったネイチャーガイドのジョセフさんに「ロス・ケツァーレス方面へ行くならぜひ、寄って」と勧めてもらった場所がある。それはラ・アスンシオン山(Cerro La Asuncion)という山で、タパンティ国立公園(Parque Nacional Tapanti)内にある。標高3,335mと、とても高い山だが、頂上が国道2号の道路脇にあり、100mも登らずにてっぺんに上がれてしまうという。天気が良ければ、頂上からは太平洋とカリブ海を同時に両方見ることができるらしい。

ラ・アスンシオン山の頂上付近

頂上への登山口が見つかったので、登ることにした。登山道はかなり急だけれど、たいした距離ではないから楽勝だろう。そう思って登り始めたのだが、海抜ゼロに近いオサ半島から急に3000メートルを超える高山に来たからだろうか。少し登っただけで心臓がバクバクした。わー、これはちょっと危険。

頂上

頂上からの眺め

雲があって残念ながら海は見えないけれど、向かって左がカリブ海側、右が太平洋側。コスタリカが日本同様、国土の真ん中に山脈が走る細長い国だということがわかる。

 

ラ・アスンシオン山からさらに国道2号を北上すると、まもなくロス・ケツァーレス国立公園の入り口がある。

ロス・ケツァーレス国立公園入り口

この国立公園は訪問者が少ないので、事前にチケットを購入しなくても余裕で入れる。

トレイルは部分的に閉鎖中で、歩ける距離はそう長くないが、オサ半島など低地のトレイルとは植生がまったく異なっていて新鮮だ。

見晴らし台からのロス・ケツァーレス国立公園の眺め

あっという間に歩き終わったので、ひとまず宿へ行くことにした。ホテルやコテージは深く切り込む谷の道路に沿って建っている。

幸い、道路は舗装はされているもののかなり急な斜面を降り、予約していたコテージに到着した。部屋は広いが、標高が高い上に谷だから、日当たりが悪くてけっこう寒い。それなのにコテージの床はタイル張りで冷え冷えとしている。もしやと思い、シャワーを確認してみたら、案の定、熱いお湯は出ない。一気にテンションが下がった。オサ半島で四六時中汗だくになっていたのも辛かったが、今度は寒すぎなのである。過酷すぎないか、今回の旅?

部屋で震えていてもしょうがないので、洋服を何枚も着込んで、コテージの向かいにあるレストラン、Miriam´s Quezalesへお茶を飲みに行くことにしよう。

レストランの奥には谷に面したテラスがあった。テラスに一歩出た瞬間、私は目を見張った。テラスの向こうのバードフィーダーに、たくさんの野鳥が集まっていたのだ!すごい!!沈んでいた気分が一気にぱあっと晴れた。そこにいたのは、

ドングリキツツキ (Melanerpes formicivorus

クロキモモシトド (Atlapetes tibialis)

ニシフウキンチョウ(Piranga ludoviciana

アカエリシトド (Zonotrichia capensis )

アオボウシミドリフウキンチョウ (Chlorophonia callophrys)のオス

Long-tailed silky flycatcher (Ptiliogonys caudatus)

マミジロアメリカムシクイ (Leiothlypis peregrina)

メジロクロウタドリ (Turdus nigrescens)

バフムジツグミ (Turdus grayi) 地味だけど、コスタリカの国鳥

ギンノドフウキンチョウ (Tangara icterocephala)

ハチドリもいろいろいたけど、種は識別できず。

すごいすごい!やっぱりロス・ケツァーレスへ来てよかった!これまで訪れた場所ではまったく目にして来なかったいろんな野鳥がいる。それも1箇所でこれだけ多くの種が見られるとは。

ところで、ケツァールも見られるのだろうか?レストランの女主人に聞いたところ、ケツァールがよく見られる場所を教えてくれた。谷をさらに20分ほど下ったところらしい。それらしき場所へ行ってみたが、よくわからないので、近くのお店で「ケツァールが見られる場所を探しているんですが」と尋ねてみた。

すると、「ケツァールなら、うちの主人がガイドツアーをやっています。明日の朝もやりますよ」とのこと。「ツアー?どこへ行くんですか?」との私の質問に女性は店の後ろの急な斜面を指さした。

「そこを登るんですか?」「はい」

ダメだ、急斜面過ぎる。ラ・アスンシオン山に登ったときの心臓のバクバクを思い出したのだ。コテージからこの谷をここまで車で下って来るだけでもかなりの標高差である。そしてここから歩いて山を登るとなると、降りたり登ったりで体にかなり負担がかかってしまいそうだ。おまけに、ツアーは早朝なので、水シャワーしかないあの寒いコテージで相当早くに起きなければならない。うーん、、、ちょっと無理。諦めよう。

そんなわけで、幻の鳥、ケツァールは見れずじまいだったが、それでもたくさんの美しい野鳥が見られて満足である。ケツァールは、またいつか機会があるといいな。

 

 

ついに念願叶って、オサ半島コルコバード国立公園のラ・シレナ・レンジャーステーションで過ごすことができた!シレナ海岸からドラケ湾(Bahia Drake)へ戻るボートの上で、私は満足感でいっぱいだった。再び1時間半ほど波に揺られ、ボートはドラケのメインビーチに到着した。


私たちはあと少しだけ、美しいオサ半島に滞在するつもりで、ドラケ湾の南西側にあるプンタ・リオ・クラロ国立野生動物保護区に近い山の上に宿を取っていた。

しかし、このコスタリカ旅行記のに詳しく書いた通り、四輪駆動の車を借りなかったという大きなミスのため、悪路に散々苦労していた私たちである。今度の宿も集落からは離れており、そこへ向かう道路のことを考えると、心底ウンザリした。これまではラ・シレナへ行くという強い意志があったから、どんな悪路もどうにか乗り越えることができた。でも、目標が達成された今、その気力はもう残っていない。一体何のためにわざわざ大変なことをしなければならないのだ?という気持ち。そこで、山の上の宿はキャンセルし、もっと楽にアクセスできる別の宿を取り直すことにした。

かといってメインビーチのホテルでは、うるさくてゆっくりできないかもしれない。できるば自然に囲まれた場所がいい。地図と睨めっこし、ここならよさそうだと判断したのはメインビーチから数キロ北、飛行場のそばにあるコルコバード・バンガローである。キッチンもプライベートプールもついた綺麗な宿だ。飛行場といっても日に何度も飛行機が飛んでくるわけではないから、騒音は問題ないだろう。コスタリカに来て以来、連日のハイキングで、さすがに疲れが蓄積していた。早く快適な宿でのんびりしたい。ビーチのそばに停めておいた車に乗り込み、私たちはバンガローに向けて出発した。

ところが!(またもや「ところが!」な事態が発生……. いい加減イヤになる)

バンガローへ行くには川を渡らなければならないが、橋に続く道路は橋が故障しているため通行止めになっていたのである。えー!

もう一度地図を見ると、幸い、別の道があったので、そちらからアクセスすることにした。が!

こちらにはそもそも橋がないのだった。どーするよ?

どうするもこうするもない。川を越えなければ宿に到達できないのだから、車ごと川を渡るしかないのだ。幸い、乾季で水の量は少ない。ただ、川底に大きな凸凹があったり、角張った大きな石があったりするとタイヤがパンクするリスクがある。夫は車を降り、サンダル履きで歩いて川を往復し、川底の形状を確認した。これなら大丈夫そう、と判断した夫は再び車に乗り込み、一気に川を横断。無事に向こう岸に渡ることができた。(が、これが後に大きな災いを及ぼすのである)

 

バンガローはのどかな集落にあった。民家の敷地内に建てられた真新しい建物で、見晴らしもよく、素晴らしい。オーナーの女性は「良いところでしょう。私はここで生まれ育って、ここが本当に気に入っているんです」と笑顔で言う。

バンガローからの集落の眺め

目の前の大木にはコンゴウインコの群れが

バンガロー内部も広々としていて内装のセンスもよく、快適だった。ここなら2日間、ゆっくりできそうだ。

ああ、そうだ、晩ごはんはどうしよう?メインビーチに戻ればレストランがいくつかあるけれど、またあの川を車でバシャバシャ渡らなければならないと思うと気が滅入る。キッチンが付いているから、何か買ってきて料理をしようか?川を渡らずに行ける村のスーパーへ行ってみることにしよう。

村のスーパー

幸い、車で5分のところにスーパーがあった。何が売っているかな。

パンコーナー

とりあえずパンを買おうと思ったけど、うーん、、、。コスタリカは基本、米食で、都会はともかく田舎ではパン食文化は発達していないようである。

お米とお豆はたっぷり売っている。

何を買ったらいいのかよくわからない。気合を入れて料理をする気にもなれず、そのままつまめるものを適当に買って帰り、宿のオーナーさんが「庭で採れたのでよかったら」とバンガローに持って来てくれたプランテンバナナを焼いて食べた。

このコスタリカ旅行記には食べ物の写真はほとんど載せていないが、それには理由がある。コスタリカに来てから、毎日ほとんど同じものしか食べていないのだ。朝ごはんは、どこへ行っても国民食ガジョピント(お豆と一緒に炊いたごはん)とスクランブルエッグまたは目玉焼き、それに焼いたプランテンバナナ。美味しいけれど、いつも同じ。外国人の多い観光地のレストランではピッツァやスパゲティなどの欧米風の料理も食べられるが、田舎の食堂で出てくるコスタリカ料理(comida tipica)は、ご飯に煮豆、焼いたお肉、焼いたプランテンバナナか揚げキャッサバから成るカサード(Casado)と呼ばれる定食が定番だ。

食堂の定食

都市部のスーパーに売っていたコスタリカのお弁当

味付けはクセがなく食べやすいけれど、店によって多少のバリエーションはあれど大体似たり寄ったり。家庭料理はまた違うのかもしれないけれど、旅行者がメジャーな観光地以外で食べられる料理は限られている。特に今回の私たちの旅はリモートな場所を回っているので、食事に関してあまり選択肢はなかった。

 

オサ半島での最後の2日間はこのような環境で過ごした。ドラケ湾にもいくつかのトレイルがあるようだったが、ハードな毎日が続いていたからトレイルはパス。特に何もせずダラダラ過ごし、川を渡らずに行ける北のビーチに夕陽を見に行っただけである。

太平洋に沈む夕陽

さて、なかなかに冒険度の高かったオサ半島ともそろそろお別れだ。

 

前回の記事の続き。

どのくらい寝ただろうか。2段ベッドのずらりと並ぶコテージの板の間を常に誰かしらが歩き、その度に懐中電灯の灯りがあっちこっちへと動く。枕元のスマホで時間を確認すると、まだ朝の4時だった。午前5時には朝のハイキングに出発することになっている。そろそろ起きなくちゃ。

洗面所へ行くと、すでに大勢の宿泊者らが薄暗い中で歯を磨いていた。開放的な造りのコテージの外からはホエザルの低い吠え声が響いて来る。なんとも不思議な光景。今、私は本当にコルコバード国立公園にいるんだと実感する。

大変な道のりだったけれど、私たちはとうとうラ・シレナ・レンジャーステーションにやって来ていた。1泊2日のこのツアーではネイチャーガイドさんと一緒にレンジャーステーションを起点とする4つのトレイルを歩き、植物や野生動物を観察しながらガイドさんの説明を聞く。

1日目は到着直後の午前中と夕方にそれぞれ3時間ほど歩いた。

フィールドスコープを担いで歩くネイチャーガイドのドニーさんについて行く。

動物を見つけると、ガイドさんはネイチャースコープを設置して、グループのみんなに見せてくれる。

スコープを覗き込むメンバー

昼寝中のジェフロイクモザル (Ateles geoffroyi)

これは私のカメラで撮ったジェフロイクモザルたち

コスタリカにはマントホエザル(Alouatta palliata)、ノドジロオマキザル(Cebus capucinus)、セアカリスザル(Saimiri oerstedii)、そしてジェフロイクモザル(Ateles geoffroyi)の4種のサルが生息する。いずれも新世界ザル(広鼻猿)だ。コルコバード国立公園ではこの4種のサルがすべて見られるのだ。

「クモザル」は英語名でもspider monckeyという。腕や脚が長いからクモに例えられるのだろうと思っていたが、ドニーさんによると、彼らの手には親指がなく、両手合わせて指が8本だからクモザルだそう。クモザルは親指がない代わりに長くて強い尾で器用に木の枝を掴むことができる。

 

コルコバード国立公園には、シレナ川とパヴォ川という2つの川が流れており、両者はシレナ海岸近くで合流し、太平洋に流れ込んでいる。

川にはメガネカイマン ( Caiman crocodilus )やアメリカワニ (Crocodylus acutus )がいるので注意。

メガネカイマン ( Caiman crocodilus )

 

2日目。ドニーさんについて、夜明け前のジャングルをヘッドランプをつけて歩いていく。そのうちに少しづつ空が白み始め、木々の輪郭がはっきりして来た。ドニーさんはバクを探しているようだった。バクは夜行性で、昼間は茂みに隠れて眠る。バクのいそうな場所を、なるべく音を立てないよう気をつけながらそっと歩いた。

ベアードバク (Tapirus bairdii)

茂みの中で1頭のバクが横になっていた。邪魔をしないように、少し離れたところにしゃがみ、息を潜めて茂みの奥を見つめる。しかし、バクは目を覚ましてしまった。立ち上がって周囲の植物の葉を食べ始めたので、その様子をしばらく観察した。ベアードバクの体長はおよそ2メートル。体重は重い個体だと300kgにも及ぶと言う。こんな大きな野生動物を間近で観察できるなんてすごいな。コルコバードに来た甲斐があったというものだ。ドニーさんによると、このメスのバクは妊婦さんである。中央アメリカ全体ではベアードバクの個体数は激減しており、コルコバードは重要な生息地だ。無事に赤ちゃんが産まれて育つことを願うばかり。

バクの足跡。巨大!

 

朝食後のハイクではたくさんの野鳥を目にした。

カンムリシャクケイ (Penelope purpurascens)

ワライハヤブサ (Herpetotheres cachinnans)

ムナフチュウハシ ( Pteroglossus torquatus)

ハチクイモドキ (Motmot)

他にも写真を撮れなかった野鳥がたくさん。

 

レンジャーステーションの近くにはハキリアリ(Atta cephalotes)のゴミ捨て場があり、ゴミ捨て係のアリがせっせとゴミを運んでいた。ハキリアリは、切り落とした葉を巣に運んで餌となるキノコを栽培することで知られているが、養分が抜けてゴミとなった葉や死んだアリは巣から運び出され、特定のゴミ捨て場に廃棄されるということを知った。

 

他にも目にしたもの、聞いた説明などたくさんあって、とても書ききれない。2日目の最後のハイキングで面白い新しい経験をすることができたので、それを記しておこう。

ある高い木の下で、ドニーさんが「みんな、この木の根を見て」と言うので地面に目をやると、

太い根の1箇所がぱっくりと開いて、中が空洞になっている。

「入ってみてください」

人が入れるほど中は広いのだろうか?

「全員入れる広さですよ。危険なことはないので、さあ、どうぞどうぞ」

私たちは恐る恐る、順番に中に潜った。

動画には映っていないが、木の中はずっと上までがらんどうだ。樹洞の中ではコウモリたちが休んでいた。「木の中って、なんだかワクワクするね」。グループのメンバーはみんな大人だけど、なんだか子どもに戻ったような気分だ。

 

さて、楽しかったラ・シレナでの時間もそろそろ終わりである。レンジャーステーションに戻り、荷物をまとめてボートの出る海岸へと歩いた。海岸に着きボートを待っていると、急に当たりがどよめいて、みんなが同じ方向を凝視している。「バクが歩いているよ!」

バクがゆっくりと茂みに沿って砂浜を歩いている。

バクは、たくさんの観察者に見守られる中、食事をしながらゆっくりと砂浜を移動していった。ツアーの最後の最後に大サービスという感じ。

多くの野生動物が見られて、私としては大満足だ。でも、ラ・シレナに来たのが3回目の夫は「過去の2回はもっと多くの動物が見られたよ。やっぱり、以前と比べて訪問者の数が増えているから、動物たちは奥地に引っ込んでしまうんだろうね」と言う。ガイドツアーで歩けるエリアはコルコバード国立公園全体のわずか2%に過ぎない。野生動物の密度が最も高いとされるコルコバード湖(Laguna Corcovado)を中心としたエリアは、特別に許可を得た科学者以外、近寄ることが禁じられている。動物たちには人間に邪魔されることなく生活できる場所が必要だから。

動物の側からすれば、人間など近づいて来ないに越したことはない。でも、野生動物を見るのは多くの人にとって大きな喜びだし、観察の機会があって初めて保護の必要性に気づくという側面もある。そのバランスを取るのはとても難しいことだけれど、コスタリカは失敗も経験しながらも、エコツーリズムのトップランナーとして経験を蓄積していっている。とても評価すべきことで、そのコスタリカの中でも最も重要性の高いコルコバード公園に来ることができてよかった。