年間約1,000万羽以上の渡り鳥が訪れるユネスコ世界遺産ワッデン海。その自然の豊かさには本当に魅了される。しかし、ズィルト島ハリヒ・ホーゲの記事に書いたように、北海の一部であるこの地域の海岸線は、常に風と水との戦いの舞台だった。激しい嵐や満潮に乗って押し寄せる高潮は、ときに人々の暮らしを一瞬で飲み込んでしまう。そんな自然の猛威に立ち向かうため、さまざまな防潮の技術が発展してきた。

今回、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の西端、アイダー川河口に築かれた巨大な防潮施設「アイダー・シュペアヴェルク(Eidersperrwerk)」を見学して来た。

© Klaus-Dieter Keller / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0

1973年に完成したアイダー・シュペアヴェルクは、高潮時に海水の流入を遮断し、高潮や嵐による洪水からアイダー川流域の低地を守るために作られた。きっかけは、1962年2月に起きた「北海高潮災害(Nordseesturmflut)」。猛烈な嵐が北海沿岸を襲い、ドイツ、特にハンブルク周辺に甚大な被害をもたらした。堤防が決壊し、浸水により多くの命が失われ、都市機能が麻痺した。大きな高潮が来ると、それまでの堤防や小規模な水門では高潮の力を防ぎきれない。そうした危機感から、アイダー川の河口に大型水門を設け、それを開け閉めすることで海から川へ流れ込む水の量を調整するという大胆な構想が生まれた。

水門の上には歩道が整備されていて、防潮堤の上を歩いて渡ることができる。

歩道上から見た景色。右側が海、左側がアイダー川の流れる陸地。堤防の高さ約8.5m長さは4.8kmある。 水門の下はトンネル構造になっていて、道路が貫通している。

アイダー川の岸辺から見たシュペアヴェルク。水門の一つはメンテナンス中だった。

海側と川側に幅40mの水門がそれぞれ5つ並ぶ二重構造で、水門はそれぞれ独立して動作する。

海側のゲート

天候や潮の状態に応じて、水門の開け方を変えることで川と海の水をコントロールする。運転モードは主に以下の4つ。

① 通常モード

すべての水門が開いている状態。北海どアイダー川の水が、自由に行き来できる。自然な満ち引きによって水が移動する。

② 満潮対策つき通常モード

満潮時には北海の海水がアイダー川に流れ込んで来るが、このとき、海の砂が川に入りすぎないように、海側の水門を少しだけ閉じて流れをゆるめることがある。

③ 高潮モード

2列ある水門をどちらも完全に閉じて、内陸への浸水を防ぐ。

④ 排水モード

満潮時に海側の水門だけを閉じて、北海の水が川に入ってこないようにし、干潮になって海の水位が下がったら、水門を開けて川の水を海に流す(排水する)。

実際にシュペアヴェルクの上を歩いてみて、その圧倒的な規模に、どえらいものを作ったものだなあと圧倒された。しかし、北海はこのような設備が必要となるほど荒い海なのだ。北海の荒れ狂う嵐や暴風、高潮は擬人化して”Blanker Hans”と呼ばれる。恐ろしくも魅力的な自然の力の象徴だ。

ところで、シュペアヴェルクのすぐ横に、アジサシやユリカモメが繁殖コロニーを作って暮らしていル。この日も何羽もの親鳥がせわしなく飛び回っていた。

駐車場に「野鳥の繁殖を邪魔しないでください」と立て看板があったけれど、シュペアヴェルクへの階段上にまでヒナがたくさんいて、親鳥が餌を運んで来るのを待っている。

ヒナに与える餌を咥えるキョクアジサシの親鳥

キョクアジサシ(Küstenseeschwalbe)はここで初めて見たが、「キョク(極)」の名が示唆する通り、一年のうち北極と南極を行き来する渡りのチャンピオンだそう。2006年にはこのアイダーシュペアヴェルク付近で143ペアのキョクアジサシが繁殖をおこなったと報告されている。真っ赤なクチバシと脚がオシャレだね。

ここまで来たついでに、近郊の町、Tönningにある自然教育施設、「Multimar Wattforum」にも立ち寄った。


ここでは、干潟のしくみや、そこに暮らす生きものたちの生態、そして高潮対策のことまで、子どもから大人まで楽しみながら学べる展示が充実している。アイダーシュペアヴェルクの模型や膨張技術の紹介コーナーもあり、かなり見応えがあった。

ドイツ連邦水路航行庁(WSV)による関連動画:

 

ドイツ最北端の島、ズィルト島。ドイツに住んでいる人でズィルト島の名を知らない人はいないだろう。でも、私は一度もズィルト島へ行ったことがなかった。高級ビーチリゾートのイメージが強くて、私の路線じゃないなあと敬遠していたのだ。気が変わったのは、モールズム崖(Morsum Kliff)という国に指定されたジオトープが存在すると知ったから。ジオトープと言われると、俄然、気になってしまうのである。

ズィルト島はデンマークとの国境を跨ぎ、島の西側が北海に向かって弓なりに張り出した特殊な地形をしている。ドイツ本土からは海に向かって伸びるヒンデンブルク築堤と呼ばれる堤防を電車で渡ることができる。島の東側、つまり本土との間には干潟が広がっている。広大な干潟の上を電車で走るというのは、とても素晴らしい体験だった。車窓の外の景色にワクワクしながら、これだけでもズィルト島に来た甲斐があったと思うほどだった。

ズィルト島は風と波が運んできた砂が積もってできた砂丘の島だ。北海から浜辺に打ち寄せられた砂が風で内陸へと運ばれ、降り積もって丘となる。そうしてできたゆるやかな曲線を描く砂丘が、島の広範囲を覆っている。砂丘はやがてこの波と風のプロセスは現在も続いていて、ズィルト島の地形は変化し続けている。西側にあるビーチの砂もどんどん削られ、運ばれていくので、定期的に海底から運んで来た砂を補充しなければビーチを維持できないほどだ。

砂丘の表面の大部分は、草やコケ・ハマナスなどの低木などで覆われ、固定されている。砂が露出している部分では砂の移動が続いている。

そんなダイナミックな砂の島、ズィルト島だけれど、厚い砂の層の下には、島の土台となる地層がある。それは、ザーレ氷期にスカンジナビアから南下して来た氷河によって運ばれて来た、礫・砂・粘土などから成る堆積物だ。そして、そのさらに下には氷期以前の地層が存在する。島のごく一部に、地下深くに押し込まれた太古の地層がむき出しになっているエリアがある。それがモールズム崖なのだ。

モルズム崖は、島の東の端、つまりヒンデンブルク築堤を渡り切って島に上陸してすぐのところにある。ハイキングルートの出発点までは、モルズム駅からおよそ2km。バスもあるけれど頻繁には来ないので、30分くらいかけて歩いた。

ジオトープの説明パネルのある駐車場からスタートして、展望台までは約1.7km。さらに崖の上を歩くルートがある。

展望台から東側を眺めたところ

東に向かってハイキングルートをしばらく歩き、振り返って西側を眺める。

ドローンで撮影

北の海岸に沿っておよそ2kmに渡って続くモールズム崖の地層はカラフルだ。黒っぽい地層、赤茶色の砂、真っ白な砂。それらが斜めに連続して露出している。一番古いのは黒い地層で約1100万~530万年前、この地が暖かい海だった頃に堆積した雲母粘土(Glimmerton)だ。赤茶色のは、530万~180万年前に波打ち岸に堆積したリモナイト砂岩(Limonitsandstein)。白いのは、海が西へと退き、ズィルトが陸地となった約350万年前にスカンジナビアやバルト地方から川が運んで来たカオリンサンド(Kaolinsand)だ。もっと細かく見ると、この3つの地層の間にはオレンジ色の砂や茶色の砂の層もある。

氷期に突入する以前、これらの地層は水平に積み重なっていたが、約40万年前、エルスター氷期の氷河がこの地域を通過した。そのときの強い圧力で地面にヒビが入り、地層がバラバラの岩塊に分かれて、前方にせり上がった。氷がとけた後には、傾いた大きな地層ブロックが階段のようにずれて残った。

図は現地の説明パネルを撮影したもの

何百万年も前の地層を押し上げて見えるようにした。モールズム崖は、氷河の力によって現れた地層のタイムマシーンだと言えるだろう。やっぱり、氷河ってすごいなあ。

 

似た地形について過去にも書いています。よければこちらもどうぞ。

 

 

 

 

 

前回の記事に引き続き、テーマはワッデン海。今回はワッデン海の生き物について知ったことを記録しよう。

ワッデン海には多くのアザラシが生息している。世界には34種のアザラシが存在する中、ドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州沿岸で見られるのは、主にゼニガタアザラシ(Seehund, Phoca vitulina)とハイイロアザラシ(Kegelrobbe, Halichoerus grypus)の2種。1970年代、ゼニガタアザラシの数は激減していたが、1974年にアザラシ猟が禁止され、1985年にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州ワッデン海国立公園が設立されたことで、個体数が大きく回復した。現在、ワッデン海では年間、7000頭を超えるゼニガタアザラシの赤ちゃんが産まれている。しかし、そのうち数百頭もの赤ちゃんが、生後数週間の授乳期に親とはぐれてしまうという。アザラシは干潟や砂浜で出産するが、母親が餌を探しに出かけたまま事故や病気で戻って来れなかったり、赤ちゃんが嵐で迷子になったりするのだ。母親と離れ離れになった赤ちゃんは、鳴いて母親を呼ぶ(heulen)ので、アザラシの乳児はホイラー(Heuler)と呼ばれている。

ハイイロアザラシの方は16世紀末に絶滅の危機に瀕していたが、こちらも個体数が回復している。ハイイロアザラシの赤ちゃんは、生後しばらくの間は水の冷たい北海を避け、母親が世話をしに定期的に戻って来るのを砂浜などで待つ。やはり、母親とはぐれてしまうことがある。

北海には、これらアザラシの子を保護し、適切なケアをした後に海に戻すアザラシ保護施設が何ヶ所かある。そのうちの一つ、ドイツで唯一、公式に認可された保護施設、Seehundestation Friedrichskoogを訪れた。

アザラシ保護センター、Seehundestation Friedrichskoog

この施設はアザラシの保護を目的とした「アザラシのための施設」であり、商業施設ではないので、アザラシとのふれあいをウリにしてはいない。一日に2回、食餌シーンを見学できるものの、ショータイムのようなものはない。しかし、訪問者がアザラシとその保護活動について知る学びの場としてよくデザインされている。

訪問者が入れるエリアには大きなプールがあり、そこではゼニガタアザラシ3頭とハイイロアザラシ2頭が一緒に生活している。この5頭は成獣だが、さまざまな理由で野生に戻すことが難しく、この保護センターでのんびりと余生を過ごすそうだ。見られることに慣れているようで、間近でじっくり観察できる。

リトアニアの動物園生まれのハイイロアザラシ、Jurisくん。写真のために立ちポーズを取ってくれた。

ハイイロアザラシのネミさん。自力で餌を取ることができないので、ずっとここにいることになった。彼女は幸せそうな顔でずっと寝ていた。

センターで生まれた若いゼニガタアザラシのシュノーレくん

アザラシ(Pinnipedia)とは、陸上の肉食動物から進化し、水中生活に適応した。イヌアザラシ科、オットセイ・アシカ類、セイウチの3つの科に分類される。この保護センターで保護されているゼニガタアザラシ、ハイイロアザラシは、ともにイヌアザラシ科に属している。ゼニガタアザラシの特徴は、丸い頭とギザギザした奥歯。オスとメスの外見上の違いはあまりなく、どちらもグレーやベージュのゴマ塩模様で、オスは最大180cm、120kg、メスは150cm、60kgほどになる。ハイイロアザラシは頭が長く、オスが黒っぽい体に白っぽい斑点があるのに対し、メスは白っぽい体に黒っぽい斑点。オスは最大230cm、310kg、メスは200cm、186kgほどと、ゼニガタアザラシと比べてかなり大きい。

ゼニガタアザラシの出産は5月初頭から7月末にかけてだが、ハイイロアザラシは冬に繁殖期を迎える。ワッデン海で保護されるアザラシの子は圧倒的にゼニガタアザラシが多い。年間150〜300頭が搬入され、そのうち約90%が元気に野生へ還っているそうだ。

子どもたちのいるエリアはスタッフ以外は立ち入り禁止なので、展望デッキから眺める。搬入された子たちは、獣医が健康状態をチェックした上で、一定期間を隔離エリアで過ごす。その後、こちらのオープンなエリアに移され、離乳や病気・怪我の治療を施される。離乳といっても母乳はないので、魚をベースにした人工ミルクをチューブで与える。伝染病が広がるリスクを最小限にするため、生活空間は少数グループごとに区切られ、それぞれの水槽は独立したシステムになっている。衛生管理にとても気を遣っているとのことで、実際、臭いもほとんどしなかった。

展望デッキからズームで撮ったホイラー

順調に成長した子どもは、ここから海に帰るための訓練エリアに移され、泳ぎの練習や自力で魚を捕まえる訓練を受ける。準備が整ったら、いよいよ野生生活スタートだ。一連の流れがスムーズに行くよう、人間との不必要な接触はできる限り避けるのが望ましいのだそう。

アザラシの子どもには近づけないが、その代わり、センターではとても充実した展示をおこなってリウ。アザラシ保護活動について詳しく説明されている他、世界のさまざまなアザラシの情報も豊富で、アザラシについて幅広く知りたいならここ!という感じだ。

この保護センターは、大学や研究機関との協力体制のもと、アザラシに関するさまざまな研究を行っていて、そこから得られた知見は、展示に取り入れられているだけでなく、保護や環境教育の現場にも活かされていているそうだ。

海に帰る準備が出来たアザラシを運搬するための車

この保護施設には、とても良い印象を持った。パトロール要員の人たちががんばっているだけでなく、地元住民や観光客が親とはぐれたアザラシの子を見かけたら報告できるシステムも機能していていて、その成果もあってアザラシの個体数が増えているのは喜ばしい。でも、気候変動の影響で干潟や砂州が浸食されやすくなり、アザラシが出産したり休んだりする浜が痩せていく可能性があり、決して安心はできないようだ。

 

ドイツ最北の州、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州は、北海とバルト海という二つの海に挟まれている。州の東側には穏やかな内海のバルト海、西側にはダイナミックな北海。二つの海はとても対照的で、両方を味わえるなんて贅沢な州だなあと思う。どちらにも魅力を感じるが、今回は北海側へ行った。

北海のオランダからデンマークにかけての沿岸には世界最大の連続する干潟、ワッデン海(Wattenmeer)が広がっている。そのうち、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州北部の沿岸海域は、地形が複雑だ。大小の島々があり、成り立ちによってバリアー諸島(Barrierinseln)、ゲースト島(Geestinseln)、ハリゲン(Halligen)など、いくつかのタイプに分類される。その中でハリゲンと呼ばれる島々に特に興味があった。ハリゲンとは、海抜が極めて低く、限りなく真っ平で、強い高潮が来るとほぼ水没してしまう小さな島々だ。堤防らしい堤防はなく、人々は「ヴァルフト(Warft)」と呼ばれる盛土をした小高いエリアに住んでいる。

北フリースラント・ワッデン海にはそんなハリゲンが10島存在する(ちなみに、ハリゲンというのは複数形で、一つ一つの島はハリヒまたはハリクと呼ばれる)。そのうち、もっともアクセスの良いハリヒ・ホーゲ(Hallig Hooge)へ行ってみることにした。オックホルム(Ockholm)という村のSchlüttsielという港から1日に1便、フェリーが出ている。

フェリーに乗り込んで出発!

干潟にはPrielと呼ばれる水の流れがあり、それに沿って航路が整備されている。港を出発したフェリーが航路を進み始めると、ユリカモメの群れがフェリーが立てるさざなみに沿って飛びながら、ついて来た。フェリーの動きによってできた波が海の浅い部分をかき乱し、彼らの餌となる小さな生き物を水面に浮き上がらせる、その瞬間を狙って捕まえているようだ。印象的な光景だった。

曇っていて船の上は寒かったけれど、手すりに寄りかかりながら海を眺めいたら、遠くの砂州の上にアザラシが1頭休んでいるのが見えて感激した。

ハイイロアザラシ(Kegelrobbe)の子どもかな?

北海にはたくさんの洋上ウィンドパークがあるだけあって風が強く、やっぱりどこか荒々しい雰囲気。南の島へボートで出かけるような優雅さはない。ハリヒへ行くんだ!と気持ちが高揚していたから楽しく感じたけれど、そうでなければどちらかというと苦行かもしれない。

出発から1時間ほど経って、右手に最大のハリヒであるランゲネス(Langeneß)、その左に目指すホーゲ(Hooge)が見えて来た。

ヴァルフトが点在する長細いハリヒ、ランゲネス。ヴァルフト以外は見事に真っ平。

ああ、あれがハリゲンなんだ。冷たい海に囲まれ、潮が満ちるたびに地面が消え、盛土をしなければ人が生活することのできない島。これまでに世界各地で見た島のどれとも似ていない、この特殊な島々は、どのようにしてできたのだろうか。

シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の西の海岸はかつては今よりももっとずっと西にあった。つまり、現在、ハリゲンが点在するエリアは、もともとは陸地だった。およそ1万年前、氷期が終わり、海面が上昇すると、沿岸地域は海に沈み、干潟となった。このとき、陸地のうちわずかに高かった場所は島となって残ったが、潮の満ち引きや高潮で何世紀にもわたって土地が削り取られ、別の場所に運ばれて堆積した。海の中で堆積物が少しづつ高さを増し、形成されていったのがハリゲンだ。水のダイナミズムによって生まれたハリゲンは、形成後も潮流によって分断されたり嵐で崩れたりし、頻繁に地形が変化した。かつて、ワッデン海には100以上のハリゲンが存在していたとされるが、そのほとんどは失われ、一部は本土に接続されて、現在残っているのは10島のみだ。

ようやく、ホーゲが間近に見えて来た。島の周囲には石の護岸があるだけで、堤防は見えない。陸の高さは平均満潮水位より約1メートル高いだけ。強い高潮が来ると、建物の立っているヴァルフト以外は水没して見えなくなる。その現象はラントウンター(Landunter)と呼ばれる。

ホーゲの港に到着。

どんよりしていた空が、うっすらと晴れてきた。ハリゲンの中で2番目に大きいホーゲの面積は約 5.78 km²。日帰りの場合、島に滞在できるのは4時間ほどなので、自転車を借りることにした。(馬車によるツアーもある)

道路はよく整備されていて、ヴァルフトからヴァルフトへサイクリングするのは気持ちが良い。でも、7月半ばで「寒くも暑くもない」という感じだから、真夏以外はけっこう寒いんじゃないかな。

島のウェブサイトによると、ホーゲの現在の人口は106人。ヴァルフトが11箇所あり(そのうちの1箇所は無人)、家や家畜小屋などはすべてその上に作られている。高潮が来ると、ラントウンター状態になる前に、住民だけでなく家畜もみなヴァルフトへ避難しなければならない。

ホーゲのヴァルフトのうち一番大きいハンスヴァルフトには「Sturmflutkino(高潮映画館)」という小さな映画館があり、住民が撮影したショートフィルムを見せてくれる。ラントウンターとはどういう状態なのかを映像で体験できる。ドラマチックな演出ではなく、島民の日常生活を淡々と撮影しましたという感じなのだが、けっこう怖いと感じた。平時に村の中心部にある子どもの遊び場で子どもたちが楽しそうに遊ぶ姿が映し出される。高潮がやって来ると、海水が島を覆い、遊び場は遊具もろとも消えてしまう。水が引くまでは、子どもたちが遊び場で遊ぶことはできないのはもちろんのこと、ヴァルフトからヴァルフトへの移動もできない。水に囲まれた半径わずか数十メートルの空間に閉じ込められてしまうのだ。ハリゲンでは一年に数回、ラントウンターが起きるそうで、住民の人たちは慣れっこになっているだろうけれど、自分が実際に体験したら不安になるだろうなあ。

ヴァルフトは5〜7メートルの盛土がされているだけで、コンクリートの高壁で囲まれているわけではない。どの程度の嵐まで耐えられるのだろう?実際、ヴァルフトごと流されたり、盛土が崩れて家屋が崩壊するなどの惨事が、ハリゲンの歴史において繰り返し起こっている。1825年に起きた「ハリゲン洪水」と呼ばれる史上最悪の災害時には、現存するハリゲン以外のハリゲンが水没し、消失してしまった。このとき、ホーゲでは家屋230棟が崩壊し、74名が亡くなっている。ハリゲンは常に自然の脅威にさらされ、変化し続けているのだ。技術の進歩した現代では大きな被害は食い止められているが、ドイツの北海沿岸では、気候変動の影響で過去100年間で約20〜25cmの海面上昇が記録されており、近年、ますます加速傾向にある。ハリゲンを襲う高潮の頻度や強度も高まる可能性がある。

ではなぜ、住民を守るために、周囲をコンクリートの防波堤で固めるなどの強固な対策を取らないのだろうか?

そこには、大規模な人工物で自然を改変するのではなく、できる限り自然本来の性質を利用して被害を抑えようという考えがあるようだ。ワッデン海は世界でも類を見ない生態系と文化を保有する地域としてユネスコ世界遺産に登録されており、その中でハリゲンが位置するシュレスヴィヒ=ホルシュタインのワッデン海はユネスコ生物圏保護区にも指定されている。ハリゲンで繁殖する野鳥は推定およそ6万羽。貴重な生態系をなんとしてでも守っていかなければならないのだ。島の景観を守ることは、観光地としての価値を維持することでもあり、住民の暮らしを支えることにもなる。そうした考えから、沿岸の侵食された部分に砂を補充し、高潮の衝撃を和らげる緩衝地帯を作ったり、高床式の住居を導入するなどのソフトな災害対策が選択されている。

ハリゲンの陸地を覆う草原は、海から運ばれて来る細かい泥やシルト、砂などが堆積して形成される塩性湿地(Salzwiese)だ。熱帯雨林に匹敵する温室効果ガス吸収力を持つ。渡り鳥や昆虫、甲殻類など多様な生物の生息地としても極めて貴重だ。塩性湿地は世界中で失われつつある。ハリゲンの塩性湿地が維持されるためには、定期的にラントウンターが起きることが不可欠なのだと知った。島がたびたび水没するなんて、さぞかし不便で大変だろうと余所者の私は感じてしまったが、そうした自然現象と共に生きることこそがハリゲンに暮らすということなんだなあ。

塩性湿地にはたくさんのミヤコドリがいた。ピィーッというホイッスルのような鳴き声が賑やかだ。

ハリゲンを囲む広大な干潟も野鳥にとって貴重な餌場だけれど、気候変動で海面が上昇すれば、干潟は縮小し、野鳥は充分に餌を見つけることができなくなってしまう。気候変動は、ハリゲンに住む人たちにとってだけでなく、野鳥や干潟の生き物たちにとっても大きな脅威なのだと肌で感じることができた。

満潮時のハリヒ・ホーゲ。干潮時には周囲に干潟が現れる。

ヴァルフトがいかに小さなスペースかがわかる。

わずか数時間の滞在だったけれど、とても印象深い訪問となった。気候変動をリアルな脅威として感じる体験となった。今後、気候変動のキーワードを目にするたび、耳にするたびに、ハリヒ・ホーゲの風景を思い出すだろう。

トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅、ラストはパダボーン近郊のエクスターンシュタイネ(Externsteine)。砂岩の岩塊が塔のように垂直にそびえる景勝地なのだが、ゲルマン人の聖地だったという説があるのだ。

Extersteine

トイトブルクの森の奥深くに突然現れる奇岩群。高さは38メートル。すごい迫力だ。

なぜここにこのような奇妙な岩塔が立っているのか。その秘密は、およそ1億年前の白亜紀に遡る。その頃、このあたりは浅い海だった。海の底に堆積した砂は長い年月のうちに厚い層となり、重みでぎゅっと固まってオスニング砂岩(Osning-Sandstein)と呼ばれる硬い岩石となった。

さらに時が経った約7000万年前、水平に積み重なっていた地層が造山運動によって垂直に押し上げられ、地表に露出してトイトブルクの森を覆う山地の尾根の一部となった。それ以来、地層は侵食を受け続けている。オスニング砂岩のうち柔らかい部分から侵食され、残った硬い部分が形作っているのがこの不思議な景観なのである。

階段が整備されていて岩の上に登れるようになっているので、登ってみよう。

登るのは別にキツくはない。教会の塔を登る方がよほど大変。

地層が垂直になっていることがよくわかる。

先端の角が取れて丸みを帯びている。この特徴的な風化は「ヴォルザック風化(Wollsack-Verwitterung)」と呼ばれる。ヴォルザックというのは「羊毛の袋」という意味。岩が羊毛の袋のように丸く膨らんだブロック状に風化しているからそう言うらしい。羊毛の袋と言われても、あまりピンと来ないのだけど、クッションのような形と考えればよさそうだ。

えーと、時系列に整理すると、造山運動で岩が垂直に押し上げられた、その後の数千万年にわたって冷えたりまた熱せられたりして割れ目ができ、そこに雨水や地下水が染み込んで角が取れ、クッションがくっついたようなかたちになった。その後さらに、地域を流れる川(ヴィムベッケ川)が岩を削り、現在のかたちになった、ということか。

地質が好きなので、ついつい地質にフォーカスしてしまうが、今回ここに来たのは、この奇岩群がゲルマン人の聖地だったと言われているからであった。実際のところ、どうなのだろう。

結論から言うと、考古学的な証拠はないようである。18世紀末からのナショナル・アイデンティティを求める機運の中で、ゲルマン民族の原初の聖地を探す動きが生まれた。ゲルマンの英雄ヘルマンが古代ローマ軍と戦ったとされるトイトブルクの森にあって、いかにも神秘的なエクスターンシュタイネは、まさに聖地のイメージにぴったりだった。ナチスの時代にはエクスターンシュタイネに先史時代の儀式の跡が見られるという主張がなされたが、後の研究で否定され、今ではでっちあげだったとみなされている。

とはいえ、ゲルマン民族であれ、他の民族であれ、古代の人がこのような驚異的な風景を目にすれば、心を動かされたに違いないし、そこに超自然的な力の存在を感じたとしてもまったく不思議はないだろう。

ゲルマン人の痕跡は見つかっていないものの、中世キリスト教の活動の痕跡が複数、はっきりと残っている。

岩上の礼拝堂(Felsenkapelle)

岩塔の上に人工的に作られた空間があり、12世紀頃に礼拝用に設けられたものと考えられている。中央に石の祭壇があり、後壁には丸い窓が開いている。夏至の日の朝に太陽がここを通して差し込むらしい。

キリスト降架のレリーフ。北ドイツに現存する最大かつ最古級の宗教石造レリーフとして価値を認められている。

エクスターンシュタイネ周辺からは中世の陶器片・金属器の断片などが出土していて、この一帯が宗教的な巡礼・信仰の場として利用されていたことを示唆している。

というわけで、トイトブルクの森の旅もこれでおしまい。ゲルマン人についてわかったことは多くないけれど、ドイツにおいて「ゲルマン人」という概念がどのように膨らんでいったのか、そして膨らみすぎて破裂してしまった「ゲルマン人」の亡霊と現代のドイツ人がどのように向き合っているのかを、多少なりとも知ることができた。

なかなか気が滅入るテーマだったので、今しばらくはこれ以上追求する気持ちが起きないが、またいつか別のかたちでゲルマン文化を知る機会があるかもしれない。

この記事の参考サイト:

https://www.externsteine-teutoburgerwald.de/

 

ヘルマン記念碑を見に行って、「ゲルマン人」という概念が、かつて民族アイデンティティとして祭り上げられたことはよくわかった。しかし、私が知りたいのは「他民族の支配に屈しない、強靭なゲルマン人」などという概念ではなく、実際にゲルマン民族がどのような文化的特徴を持っていたかということ。それがさっぱりわからない。そこで、デトモルト中心部にあるリッぺ州立博物館へ行ってみることにした。トイトブルクの森を含むリッぺ地方に関する総合博物館で、郷土博物館と考古学博物館の要素を併せ持っている。

リッぺ州立博物館(Lippisches Landesmuseum)

リッぺ地方の先史時代から中世初期まで幅広く扱っている。展示されている出土品のうち、「ゲルマン人」のものとされるものはわずかだが、文章によるパネルがたくさんあって、「ゲルマン人の大移動」や「ゲルマン人と古代ローマとの衝突」「考古学調査からわかったゲルマン人の生活文化」などについて説明されている。

エアリンクハウゼン近郊の先ローマ鉄器時代の集落モデル。集落は柵に囲まれている。

ゲルマン人の集落は、通常、数軒の散在する農家から成り、敷地には住居の他に倉庫や掘立て小屋などがあった。人々は原始的な農耕(エンマーコムギ、ライ麦、オート麦、キビ、アマなどの栽培)を営んでいたが、肥料が乏しかったため、土地がすぐに痩せてしまい、定期的に移住する必要があった。

長屋(ランクハウス)の造りや、農耕の様子がわかるジオラマ

収穫した作物は、貯蔵穴に空気を通して保管したり、陶器の容器に入れて倉庫に保管していた。主食は穀物のお粥で、パンを焼くのは特別なときだけ。家畜は飼っていたが、主に乳や毛を取るためで、食生活における動物性食品の割合は低かったとのこと。ゲルマン人には焚き火で肉を焼いて食べているイメージがあったけれど、どうやら勝手な想像だったようだ。

人々の服装には時代ごとに流行があり、多様で色鮮やかな服を身につけていた、とある。ほとんどの衣類は羊毛と亜麻から作られた。

意外とモダン!女性の服装は現代でも通用しそう。

埋葬についても記述があった。リッぺ地方ではすでに紀元前1200〜700年の青銅器時代には遺体は火葬されていた。居住地の近くに集団墓地が作られた。埋葬法には壷に入れて土に埋める、皮袋に入れて埋める、灰を墓穴に直接入れるなど、時代によっていろいろな形式があったようだ。

伝説「トイトブルクの森の戦い」が語るように、紀元1〜4世紀、この地方では古代ローマとゲルマン人が衝突を繰り返していた。使っていた陶器のかたちから、ドイツのゲルマン人は大きく「エルベ・ゲルマン集団」、「北海・ヴェーザー・ゲルマン集団」「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に分けられる。トイトブルクの森の戦いでローマ軍を打ち破ったアルミニウス(ヘルマン)はケルスカ族の族長だったが、ケルスカ族は「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に属していた。

ローマとの接触によって、政治的、軍事的、経済的にさまざまな影響を受けたものの、リッペ地方のゲルマン人は生活様式や伝統は概ね保持し続けたとのこと。

エアリンクハウゼンの野外博物館で見た製鉄用の窯(Rennofen)のモデルが展示されている。

ゲルマン人が生活に使っていた陶器はシンプルで、大部分はろくろを使わず手で形成したものだったので、表面は粗く、指の跡がついているものも多い。ローマ人との接触が多くなるにつれ、ローマの陶器の影響が見られるようになった。

上段はローマのもの、下段はゲルマンのもの

展示室にはゲルマン人のものよりもローマの出土品の方が多い。ゲルマン人の生活はシンプルで、豪華な埋葬品などは少なく、布や木などの有機物は残っていないから、ローマのものほど展示するものがないらしい。また、文字を持たない口頭文化だったので、文書による記録はローマ側からの記述に限られる。ローマはライン川以東に住む全ての部族を一括りにゲルマン人と呼んでいたけれど、実際には地域ごとに文化は異なっていた。さらに、北西ドイツにはゲルマン系だけでなくケルト系の民族も住んでいて、両者はモザイク状に分布していた。なので、「これがゲルマン文化です」とはっきり言い切るのは難しいようだ。

 

リッぺ博物館には、トイトブルクの森の戦いに関する展示もある。

ローマ帝国の歴史家タキトゥスは著作『ゲルマニア』や『年代記』でこの戦いについて記述していたが、中世にはこの英雄の物語はほとんど忘れ去られていた。ルネサンス期に再発見されて、ドイツ人の「自分たちはゲルマン人の末裔である」というアイデンティティを形成することになる。

さらに時が経ち、フランス宮廷文化が模範とされ、小国の乱立するドイツは文化的に遅れているとみなされていた17〜18世紀。オレたちドイツ人の国を作ろう!というナショナリズムが高まる中で、ヘルマン(アルミニウス)は統一国家の希望の象徴とみなされるようになった。そうして、トイトブルクの森の戦いを題材とする芸術作品が次々と生まれた。

歴史画家ペーター・ヤンセン(Peter Janssen)の大作、Siegreich vordringender Hermann 「勝利に向かって進むヘルマン」

アルミニウス(ヘルマン)の妻、トゥスネルダ(Thusnelda)像。彼女の生涯はほとんど知られていないにもかかわらず、「夫に尽くし支える理想の妻」として描かれた。

Johannes Gehrs作” Hermann verabschied sich von Tusnelda 「トゥスネルダに別れを告げるヘルマン」”

デトモルトのヘルマン記念碑は、このような盛り上がりの中で作られた。この「ドイツの偉大なる父ヘルマン」信仰はドイツ国内にとどまらなかった。米国に移住したドイツ人の間でも温め続けられ、結成された市民団体「Sons of Hermann(ヘルマンの息子)」のイニシアチブにより、1897年、ミネソタ州ニューウルム市にデトモルトのヘルマン記念碑を模倣した記念碑が建設されている。

小国の寄せ集めだったドイツを一つにまとめ上げ、「我らがドイツ人」という共通認識を形成する基盤となったトイトブルクの森神話だったが、時代が進むにつれ、政治的に都合よく利用されるようになった。第一次世界大戦でも、そして第二次世界大戦においても、他国・他民族との対立を煽り、殺戮を正当化する手段となってしまった。つまりは、行き過ぎてしまったのだ。

第一次世界大戦中の絵葉書

 

今回の旅で、エアリンクハウゼン考古学野外博物館、ヘルマン記念碑、そしてこのリッぺ州立博物館を訪れて知りえたのは、「ゲルマン人とは多様な文化を持つ多くの部族を総称する呼び名で、共通する文化的特徴はあるのかもしれないが、まだ多くはわかっていない」ということ、「よくわからないからこそイメージがどんどん肥大し、悪利用されて暴走を引き起こしてしまった」こと。悲しいことだが、こうした行き過ぎは、どこの国でも起こり得ることだと思う。

ゲルマン民族とその文化には別に罪はないし、興味を持つのは悪いことでもないだろう。ただし、学術的に明らかになっていることにフォーカスして、勝手に妄想を膨らませないことが重要だ。

さて、過去の産物となったヘルマンだが、リッぺ地方では全否定されているというわけではなさそうだ。今では政治色のないご当地キャラとして、親しまれているように見えた。

いろいろなヘルマングッズ

さて、「トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅」のシメには、ゲルマン人の聖地と噂される奇岩群、エクスターンシュタイネに向かうことにしよう。