前の記事に書いたように、エアリンクハウゼンの野外考古学博物館は考古学的にとても興味深かったが、ゲルマン人についての私のイメージは、相変わらずもやっとしている。何か別の手がかりはないものか。

デトモルト(Detmolt)にあるヘルマン記念碑(Hermannsdenkmal)を見に行くことにした。ヘルマン記念碑とは、紀元9年に「トイトブルクの戦い」でローマ軍を打ち破ったとされるゲルマンの英雄ヘルマン(本名のラテン名アルミニウスをドイツ化した名前)を讃えてつくられた記念碑である。こちらの過去記事に書いた通り、「トイトブルクの戦い」の現場は実はトイトブルクの森ではなく、オスナブリュック近郊だったことが明らかになっているが、かつてはヘルマンが勝利したのはデトモルトらへんだと思われていたのである。

記念碑はデトモルトの南西にあるグローテンブルクの丘の上に立つ。

デトモルトに宿泊し、あさイチでグローテンブルクへ。駐車場から森の中を歩いて丘を上ると、すぐに記念碑が見えて来る。

19世紀初頭、フランス革命によってヨーロッパ中に広まった「国民国家」「人民主権」という概念がドイツでも芽生え始めていた。それまでのドイツは、神聖ローマ帝国という括りはあっても、実情は小国の集まりで、共通意識は薄かった。しかし、ナポレオンが支配域を広げ、ドイツの小国を次々に制圧すると、屈辱を味わった民衆の間で「ドイツ人として団結すべきだ」という気持ちがメラメラと燃え上がり、ドイツ統一の気運が高まった。そうしたナショナリズムの勃興の中で、かつてローマ軍を打ち破ったとされるケルスキ族(Cherusker)のリーダー、ヘルマンが、ゲルマン民族の解放と統一のシンボルとして崇められていた。

ヘルマンの記念碑を建てようぜ!と言い出したのは、ドイツ民族の統一と自由の象徴を作りたいという強い理想に燃えていた彫刻家、エルンスト・フォン・バンデル(Ernst von Bandel)である志を共にする市民から寄付金を集め、1838年に着工したが、なかなか思い通りにはいかなかった。1846年に土台部分は完成したものの、資金不足で中断。その直後の1848/1849年にヨーロッパで革命が同時多発する。ドイツでも市民や労働者が自由主義や憲法制定を求めて蜂起したが、プロイセン王国に弾圧され、失敗してしまう。民衆の自由で民主的な国家建設の夢は、打ち砕かれてしまった。

工事が再開されたのは1862年。このときには、ドイツ統一はもはや市民だけの運動ではなくなっていた。1971年、プロイセンが普仏戦争に勝利し、統一ドイツ帝国(第二帝国)が誕生する。皇帝に即位したヴィルヘルム1世は、トイトブルクの戦いとフランスに対する勝利を重ね合わせ、ヘルマン記念碑の建造を積極的に支援した。こうして記念碑は国家プロジェクトとなったのだった。1875年8月16日の除幕式にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が臨席し、盛大に祝われたらしい。

ところで、上の写真はヘルマンの後ろ姿。正面からじっくり見ようと反対側に回ったら、、、、

逆光でよく見えない〜。午前中に見に行ったのは失敗だった。美しい写真が撮りたければ、夕方に行くべし。

トイトブルクの森を見下ろすヘルマン記念碑の高さは、台座を含めて53メートル。掲げている剣の長さは7メートル地元の砂岩でできた台座のデザインは当時の流行の古典主義で、ギリシアの神殿を思わせる。円柱で支えられた円形の屋根を持つこのような建物は、建築用語でモノプテロス(Monopteros)と呼ばれるそうだ。ゲルマン民族の象徴なのにギリシアなんかい!とツッコミたくなるが、バンデルも本当はゴシック様式で作りたかったらしい。でも、残念ながら、ゴシック建築の設計は経験がなくて無理、ということでこうなったとのこと。

右手に剣、左手に盾を持つブロンズ製のヘルマン像。まったく見えないけど、剣には「Deutsche Einigkeit, meine Stärke. Meine Stärke, Deutschlands Macht.(ドイツ統一は我が力、我が力はドイツの力)」と刻まれているらしい。

頭には翼のついたヘルメット。古代ゲルマン人がこんなヘルメットを被っていたわけではなく、バンデルの創作。

左足で鳥を踏んづけてる。ローマの象徴の鷲だそう。

ヘルマン記念碑の周りには、他にも記念碑がたくさんある。

エルンスト・フォン・バンデルのレリーフ付き記念碑

皇帝ヴィルヘルム1世がヘルマン記念碑除幕式に臨席したことを後世に残すための石碑

ドイツ帝国統一の立役者にして初代宰相、オットー・フォン・ビスマルクの功績を讃えるビスマルク石(Bismarckstein)

後にビスマルクの80歳の誕生日を記念して設置されたらしい。

つまり、この地は、古代の英雄ヘルマン、統一ドイツに君臨した皇帝ヴィルヘルム1世、そして外交と戦争によって現実に統一国家を完成させた政治家ビスマルクの三者を讃える、まさにドイツのナショナリズム高揚の場だったのだなあ。

「だった」と書いたのは、現在ではまったく違う評価を受けているからだ。詳しくは、この後に訪れるリッペ州立博物館で知ることになる。

 

この記事の参考文献:  Das Hermannsdenkmal: Daten, Fakten, Hintergründe (Historisch-Archäologische Publikationen und Dienstleistungen, 2008)

トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅。最初に向かったのは、エアリンクハウゼンにある考古学野外博物館(Aechäologisches Freilichtmuseum Oerlinghausen)だ。ノルトライン=ヴェストファーレン州最大の自然保護区の縁に位置するこの野外博物館では、考古学調査に基づいて、旧石器時代から中世初期までの人々の暮らしが時代ごとに再現されている。

博物館の全体はこんな感じ。順路に沿って見て歩いて、小一時間といったところ。

最初に目にするのは、旧石器時代の住まい。最終氷期の紀元前1万5500年 〜 1万3100年ごろ、北西ヨーロッパにはトナカイ猟を中心とした古代文化が広がっていた(ハンブルク文化と呼ばれている)。漁師は、トナカイの皮で作ったテントで移動生活をしていた。このテントは、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州アーレンスブルクで発掘された紀元前1万2700年前〜1万2500年頃のトナカイ猟師の集落跡をもとに再現されたもの。トナカイの皮は毛を取り除くと軽く、持ち運びに適していた。テントの周囲には、ヒメカンバ(Zwergbirke)、アルメリア(Grasmelke)、ガンコウラン(Krähenbeere) 、ビャクシン(Wacholder)など、当時の植生が再現されている。

こちらは、中石器時代(紀元前9700年〜紀元前4300年頃)の茅葺き小屋。この時代の生活についてはまだ多くはわかっていないらしい。トイトブルクの森で見つかったいくつかの集落跡を研究した結果、きっと、このような家に住んでいたのではないか?と考えられている。または、樹皮で作った壁の小屋に住んでいたという説もある。最終氷期が終わって暖かい気候となったドイツの森には、シカやイノシシ、クマ、オオカミなどが生息するようになった。植生も氷河期とは大きく変わり、人々はそのような変化に適応してライフスタイルを変化させていったが、この頃はまだ狩猟採集生活だった。

次は新石器時代(紀元前5500〜2200年ごろ)の家。ライン川流域の褐炭採掘場から発見されたレセン文化(Rössener Kultur)遺跡をもとに再現された。木材が使われ、ぐっと現代の家に近づいたように見える。正面から撮った写真なので分かりづらいのだが、ラングハウス(Langhaus)と呼ばれる長屋で、かなりの奥行きがある。旧石器時代にはラングハウスが一般的だったとされる。平面図は長方形ではなく、台形もしくは船型。人々は定住し、家畜を飼い始めた。この頃の主食は、エンマーコムギ(Emmer)、ヒトツブコムギ(Einkorn) 、レンズ豆など。

 

ここまで、考古学的調査に基づいた、旧石器時代から新石器時代までの暮らしを順番に見て来た。「暮らし」に焦点を当てた展示で、民族については触れられていない。ところが、この後、突如として「ゲルマン」というワードが登場する。

展示エリア「ゲルマン人集落(Germanengehöft)」。あれっ?今までのはゲルマン人の集落ではなかったのだろうか。混乱してしまった。説明パネルによると、このエリアは「現在は否定されている過去の研究に基づいてつくられたもの」のだという。

実は、現在のこの野外博物館の敷地には、かつて、「ゲルマン人集落」という、そのまんまの名の博物館が存在した。ナチスがドイツ人の祖先であるゲルマン人を理想化し、ドイツ人の優位性をアピールする目的で建設したものだった。その内容は、「学術研究に基づいている」と謳ってはいたが、イデオロギーにまみれたもので、現在の研究に照らし合わせると間違いだらけだった。「ゲルマン人集落」がオープンした1936年はベルリンでオリンピックが開催された年でもあり、ナチス政権は世界中からの来訪者を「ゲルマン人集落」に迎え、ゲルマン人が古来からいかに優れた民族だったかを示そうとした。まっすぐな柱に白い漆喰の塗られた土壁。当時、家の内部には近代的な家具が置かれていたそうだ。

「ゲルマン人集落」は、第二次世界大戦後しばらくの間は荒廃した状態のまま放置されていたが、1960年代に民間の寄付金によって、以前と同じかたちで再オープンした。そう、ナチスのイデオロギーのままで。

それが大きく変化したのは1979 年のこと。イデオロギーと決別し、学術研究の成果を正確に伝える考古学野外博物館がここにつくられることになった。発掘調査に基づいた、時代ごとの集落が再現されたのだ。その際、「ゲルマン人集落」は取り壊すのではなく、ナチスのゲルマン人史観を明瞭に伝える場所」として残された学術的なこの野外博物館の中に異質なエリアがあるは、このような背景からだ。

「ゲルマン人」という言葉が出てくるのはこのエリアだけ。この先は再び考古学の展示が続く。

これは青銅器時代(紀元前1550〜1200年頃)の茅葺き小屋。

青銅器時代の裕福な人のお墓(Totenhaus)を再現したもの。

鉄器時代のラングハウス

これはGrubenhaus(直訳すると「穴の家」)と呼ばれる半地下の小屋。床を地表より50〜80cmくらい掘り下げ、掘った部分の上に簡単な木の柱を立てて、屋根をかけたもので、先史時代や中世初期のヨーロッパで広く使われていたらしい。

内部はこんな感じ。床を地面より掘り下げることで、火を使わなくても冬暖かく夏涼しい快適な空間が得られた。主に作業場などに使われていたとのこと。

鉄鉱石から鉄を取り出すために使われ塊鉄炉(Rennofen)。炉に木炭と鉄鉱石を交互に詰めて火を入れると、高温で鉄鉱石から酸素が離れ(つまり、還元される)、鉄の塊ができるというしくみ。

ここに書ききれないが、それぞれの建物内部にも各時代の生活についての展示があり、手作業や農作業、家畜についてなど幅広い情報が提供されている。ゲルマン人の「現在のドイツ北西部において旧石器時代から中世初期までを生きた人たちの」生活史をざっくりと学ぶには、とても良い博物館だと思う。

ただ、この博物館が建てられた背景が心に重くのしかかって、残念ながら考古学展示を純粋に楽しむことができなかった。

 

この記事の参考資料:

Schriften des Archäologischen Freilichtmuseums Oerlinghausen: Kompakt (2006)

私が現在住んでいるドイツ東部には、かつてスラブ系の人々が住んでいたため、スラブ民族に関する史跡や博物館がいくつもある。スラブ民族とはどのような民族なのかに興味があり、これまでにそうしたスポットを訪れて来た。

直近では、メクレンブルク=フォアポンメルン州にあるスラブ人の集落を再現した考古学博物館へ行った。

展示は、とても興味深かったが、同時に新しい問いが生まれた。「スラブ人がどのような自然観を持っていたのか、どのような暮らしをしていたのかはなんとなくわかった。では、ゲルマン人はどうだったのだろう?

ドイツの国名が英語で「Germany」であるように、ゲルマン人はドイツ人のルーツだとごく一般的には思われている。いや、実際には、ドイツ人の祖先はゲルマン人だけではなく、ケルト人や古代ローマ人、スラブ人など、異なる民族が混じり合ったモザイク集団だった。だから、ドイツ人=ゲルマン人は誤りで、ゲルマン人はドイツ人のルーツの一つでしかない。

そもそも、「ゲルマン人」という言葉は、紀元前1世紀、古代ローマ人がライン川の東に住んでいた部族をまとめて「ゲルマニ」と呼んだのが始まりで、呼ばれた方は自分たちを「ゲルマン人」だと思っていたわけではなかった。無数の部族が、それぞれの文化習慣に従い、生活を営んでいた。「ゲルマン人」というのは他者によるラベルに過ぎない。

とはいえ、現代ドイツ人の多くが、もとを辿ればゲルマン系の言語を話すいずれかの部族にルーツを持つことは事実だろう。しかし、私はゲルマン人についてほとんど何も知らない。「森に住んで、体が大きく、戦闘的な人たちだった」「古代ローマ人からは野蛮な人間だとみなされていた」というくらいのあまりに大雑把すぎるイメージしか持っていない。スラブ人とその文化については積極的に知ろうとするのに、そのスラブ人の多くが吸収されていったゲルマン文化について無知なのは、バランス的におかしい気がする。それに、スラブ人の文化の特徴は、ゲルマン人のそれと比較することで輪郭がよりハッキリするのではないだろうか。

そう思って、「よし!それじゃ今度はゲルマン人を知る旅に出よう!」と思い立ったのだ。

ところが、、、、ことはそう簡単ではなかった。

リサーチ段階でまず躓いた。なかなか見つからないのだ、ゲルマン人の文化を紹介する博物館が。かつて古代ローマの植民地であったケルン市には「ローマ・ゲルマン博物館(Römisches-Germanisches-Museum)」があり、何度か行ったことがあるが、そこで展示されているのは主にローマ時代の発掘物で、「ゲルマン民族とは?」「ゲルマン人の文化とは?」を伝える博物館ではない。では、どこへ行ったらキリスト教化される以前のゲルマン人の宗教や儀式、暮らしなどについて知ることができるのだろう?

そこで思い出したのが、カルクリーゼ(Kalkrise)にある、考古学博物館である。

カルクリーゼは、ゲルマン部族が一致団結してローマ軍を倒した戦いの現場であることが、考古学調査の結果、わかっている。戦いの詳細については上の記事に書いているので、ここでは繰り返さないが、この戦いはかつて「トイトブルクの森の戦い」と呼ばれていた。トイトブルクの森とは、ドイツ北西部、ノルトライン=ヴェストファーレン州レーネ(Löhne)付近からニーダーザクセン州のホルツミンデン(Holzminden)のあたりまで広がる丘陵地帯だ。戦いの現場は、トイトブルクの森のどこかだと長らく考えられていたのだ。その中心地、デトモルト(Detmold) 市郊外の丘の上にはゲルマン人のリーダー、ヘルマン(ラテン語名はアルミニウス)の記念碑が立っているという。

ならば、トイトブルクの森へ行けば、きっとゲルマン人について詳しく知ることができるだろう。そう考え、ネットで情報収集を始めたところ、デトモルトとその周辺にゲルマン人と関係のありそうな博物館や施設がいくつか見つかった。しかし、該当ウェブサイトの説明を読んでも今ひとつよくわからない。私が知りたいと思っていることがそこで見つかるのか、どうもはっきりしないのだ。なにか歯切れが悪いというか、後ろ向きな空気感が漂っている。読んでいるうちに、「ゲルマン人」というテーマは現代ドイツ人にとって、話題にするのはとても慎重を要し、できれば避けたいものらしいということが伝わって来た。

というのは、「ゲルマン人」というコンセプトは、ナショナリズムを煽るために繰り返し利用された暗い歴史がある。それが結果としてナチスによる他民族の殺戮に繋がった。その重い事実に対する反省から、現在では博物館などで「ゲルマン人」を前面に出した展示はほとんど行われていない。ましてや、ポジティブに提示するなどもってのほか。ドイツ各地でゲルマン人の集落跡などが出土しているが、考古学博物館や郷土博物館ではそうした発掘物を「〇〇年頃にこの地方に暮らしていた人々の△△」のように展示していて、そこに敢えて「ゲルマン人」を持ち出す必要性はないというのが一般的なスタンスのようだ。

どうりで、ドイツに何十年住んでも「ゲルマン人とはどういう人たちだったのか」が、いつまでも見えて来ないわけだ。「縄文人」「弥生人」などと同じようなノリで「ゲルマン人」を語ることはできないのだという現実に気づいて、とても気が滅入った。

むろん、世界的に社会の右傾化が進んでいる現在、差別主義者を焚き付けるリスクをおかしてまでアピールするようなテーマではないというのは、理解できなくはない。

しかし、、、ゲルマン人について知りたいという欲求は、いけないことなのだろうか。ドイツに暮らす者として、この国の根底に流れる古くからの文化的要素に触れたいだけなのだけど。

もやもやとした気持ちを抱えたまま、それでも「トイトブルクの森」へ行ってみることにした。

 

(続く)

すっかり春の恒例となった、庭の巣箱での野鳥の営巣観察、シーズンがほぼ終わったようなので、まとめておこう。

今年は3つの巣箱のうち、一つでシジュウカラが、もう一つでアオガラが営巣をした。

まずはシジュウカラの状況。

今年は全般的に順調だったといって良い。4/15までに6つの卵が産み落とされた。4/26にすべての卵からヒナが孵り、5/14にそのうち5羽が無事に巣立った。巣立ちもほんの2時間ほどの間に次々と飛び立ち、親鳥の苦労は少なかったかな。

同じ巣箱ですぐにまた営巣が始まり、6/8、今度は8つの卵からヒナが生まれた。気温が高くなっていたせいか、巣立ちまできっかり2週間しかかからなかった。残念ながら2羽は途中で死んでしまい、巣立ったのは6羽。すべてのヒナが巣立てることはやっぱりなかなかないものだな。

今年は合計で11羽の巣立ちを見届けることができた。

 

アオガラの状況。

3/23に親鳥が卵を産み終わった。驚いたことに、こちらはなんと卵12個!アオガラはシジュウカラよりは多産傾向があるけれど、ここまで多いのは観察を始めて以来、初めてだ。同時に子育てをしていたシジュウカラの倍の子沢山だから、子育ての大変さも倍?お母さん、大丈夫か?

5/3、すべての卵からヒナが孵った。お母さんがうまく餌を配分したのか、ヒナたちの成長の個体差はほとんどなく、巣箱の中でぎゅうぎゅう詰めになりながらもみんな元気に育っていた。

5/16。巣箱の中で何羽かが羽ばたきの練習をするように。巣立ちが近い。明日かな、それとも明後日かなとワクワクしながら寝た。

そして翌朝。起きて早速カメラを除くと、巣箱には3羽のヒナしかいない。あれっ。他の子達はもう巣立ったのかな?でも、こんなに朝早くに?嫌な予感がする。

確認しようと夜中に自動録画された映像を遡って再生していった、夜中の3時半まで遡ると、嗚呼。そこには恐れていた映像があった。2年前の悪夢再び。アライグマが巣を襲っていたのだ。

12羽のヒナたちは母鳥と一緒に、狭い巣箱の中でくっ付き合って眠っていた。突然、何かの危険を察した母鳥が頭を上げる。そして、大声でギャーギャーと鳴き始めた。でも、ヒナたちはどうすることもできない。アライグマの手が巣箱の中に入って来て、1羽のヒナを掠め取った。緊迫感がカメラ越しに伝わって来る。かわいそうで見ているのが辛い。アライグマは1羽、また1羽とヒナたちをさらっていく。しばらくして、お腹がいっぱいになったのだろうか。それ以上、巣箱の中に手が伸びることはなかった。かろうじて3羽のヒナが難を逃れた。

2年前に同様の映像を見たとき、あまりのショックに映像を二度と見返すことができなかった。ブログに映像をアップする気にも到底なれず、言葉で記録したのみだ。今回も辛いのは同じだけれど、営巣観察も今年で5年目。これまでにもいろいろなことがあり、自然とは過酷なものだと少しは受け入れることができるようになった。これも貴重な記録なので、ごく一部だけに留めるが、ここに載せておこうと思う。(閲覧注意:ショッキングな営巣が含まれます

ヒナを守ることはできないと観念したのか、母鳥は途中で自分から巣を出て行った。残ったヒナは放棄されるのだろうかと思ったが、翌日には戻って来て、残った3羽の世話を健気に続ける姿が見られた。

3日後の5/20、3羽は無事に巣立つことができたので、私もホッとした。

振り返って考えると、多産作戦のおかげで少なくとも全滅は逃れたので、12個の卵を産んだのは正解だったということかもしれない。そして、アライグマ襲撃の最中に残ったヒナを置いて母鳥が逃げたのも、きっと賢い決断だったのだろう。いくらヒナが生き延びても、自分が死んでしまっては世話を続けることができない。そして、たとえ不幸にしてヒナが全滅してしまっても、自分が生きていればまた新たに子どもを産み育てることができる。

いろんなことを考えさせられる営巣観察である。来年はどんな様子が見られるだろうか。

 

ドイツの運河探検はひとまずこれが最終回。今回取り上げるのは1899年に完成したドルトムント・エムス運河。ルール地方のドルトムント港を起点とするこの運河は、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の造船都市パーペンブルクを通過し、エムス川と合流して北海へと流れ込む。ドイツの工業化を支えて来た超重要インフラの一つである。

この運河建設は、ドイツ帝国初の国家による大運河プロジェクトであった。19世紀末、ルール地方の石炭・鉄鋼産業が急拡大し、鉄道輸送だけでは追いつかないほどの物流量になったため、重工業地帯ドルトムントと輸出入拠点である北海の港を水路で直接つなぐ大計画がスタートした。

ドルトムント・エムス運河における見どころは、なんといってもドルトムント郊外のヴァルトロプ(Waltrop)にある船舶昇降機、Schiffshebewerk Henrichenburgだ。1970年まで稼働していたが、現在は産業遺産ミュージアムとなっている。

ヘンリッヒェンブルク船舶昇降機(Schiffshebewerk Henrichenburg)

これまたなんとも美しいクラシカルなデザイン。それもそのはず、この昇降機建設には水位差の効率的な克服という実用的な目的だけでなく、誕生してまだ間もなかったドイツ帝国を世界の工業列国の一員としてアピールする狙いがあった。そのため、昇降機の外観にも力を入れ、記念碑的なデザインが採用された。この昇降機の建設は、水運インフラ整備という国家プロジェクトの一環であると同時に、ドイツの近代化と技術力を世界に見せつける機会でもあり、落成式には皇帝ヴィルヘルム2世が首席し、自ら式典を主宰した。

昇降機は上って見学できる。

高低差はおよそ14.5m。

昇降機の上からドルトムント・エムス運河高水位側を眺める。

今度は昇降機の下に降りてみよう。

Trogと呼ばれる水槽の内部。この中を水で満たし、船を浮かせる。

船舶昇降機にはいくつかのタイプがあり、この昇降機は浮体式昇降機(Schwimmer-Hebewerk)である。どういう仕組みかというと、船を載せる水槽の下についた円筒型の浮き(Schwimmer)を使って船を上下させる。その他、この昇降機には設計者イェーベンスが考案した「スピンドル式水平保持」という、ねじ(スピンドル)で高さを微調整して船を水平に保つ仕組みがある。

昇降機の横にあるかつての機械室の建物は現在、展示室。

昇降機の模型

こちらは、当時、仕組みを説明するために作られた平面模型。各パーツは取り外し可能で、手動で動かせる。

展示によると、船舶昇降機は世界中に100機ほどしかないそうだ。そのうちのほとんどは、この昇降機のような船を垂直に上下させるタイプだが、斜面を引っ張り上げるタイプ(フランスのSaint-Louis Arzvillerの昇降機)や、変わったものだと回転式(スコットランドのFalkrik Wheel)もある。世界のいろんな昇降機を見てみたくなった。

ルール地方では、ドルトムント・エムス運河を皮切りに、リッペ運河、ライン=ヘルネ運河、ヴェーゼル=ダッテルン運河などが次々に建設され、高密度な水路ネットワークが形成された。戦争時には戦略物資の輸送ルートとしても重要視され、特にナチス時代には、これらの運河が国家レベルで整備・拡張され、不足する運河の労働力を補うために強制労働者が投入されたという事実もある。この辺り、調べ出すとまた別のテーマに展開しそうなので、ここでは深掘りしないでおく。

さて、商工機だけでなく、運河沿いにはいろいろなものがあって面白い。特に興味深く思ったのは、曳舟鉄道(Treidelbahn)というもの。ドルトムント・エムス運河が開通した頃には、まだ船にはエンジンが搭載されていなかった。運河では風や潮による流れもないので自走できず、陸からロープで引っ張って移動させる必要があった。運河沿いにレールを敷いて小型のディーゼル機関車で引いていたのだ。

Treidelbahnと呼ばれる小型の曳舟用機関車。

陸にはエンジンがあったのなら船にも搭載すればいいじゃない?と不思議に思ったが、その当時はまだ船に搭載できる小型で信頼性のあるエンジンは実用化されていなかったということのよう。それにしても、陸から船を引っ張るなんて、今では考えられない光景だなあ。それでも、それ以前には人力や馬力で引っ張っていたのだから、機関車を使えるようになっただけでも大進歩だったのだね。

昇開橋(Hubbrücke)もある。可動式の橋はいろんなタイプのものがあって、面白い。

1962年に完成した昇開橋(Hubbrücke)。船が下を通るときに橋桁全体が垂直に持ち上がる。

その他、貨物船船員の日常生活や現在のコンテナ輸送に関する展示もとても充実していていて、ゆっくり見るには2〜3時間必要。

ボートクルーズもあって、「乗って行きませんか?」と声をかけられたけれど、2時間のクルーズだということで残念ながら乗船できず。また今度!

 

ドイツの運河探検、第4段!今回訪れたのは、北海とバルト海を結ぶキール運河(ドイツ語ではNord-Ostsee-Kanal)である。北海沿岸のブルンスビュッテルからバルト海に面したキールまで延びる、全長98.6kmの運河だ。長さはそれほどでもないが、年間3万隻以上の船舶が通航する国際的な航路として超重要である。

キール運河

この運河はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の下で1895年に完成した。それまで、北海からバルト海へ出るにはデンマークのユトランド半島をぐるりと回るしかなく、とても時間がかかっていた。この運河の開通で航行距離は約250kmも短縮された。キール運河は全域にわたって完全に水平で、北海側の出入り口とバルト海側の出入り口に潮の満ち干による水位の変化を調整するためにそれぞれ建設された閘門を除いて、閘門設備を必要としない。

キール運河にあるいくつかの見どころのうち、絶対見たい!と思っていたのがレンズブルク(Rensburg)にある運搬橋(Rensburger Schwebefähre)というもの。鉄道橋の下に吊り下げられたゴンドラが、人や車を乗せてワイヤーで対岸へと渡るというユニークな仕組みらしい。

この運搬橋は、キール運河にかかるレンズブルク高架鉄道橋(Rendsburger Hochbrücke)の一部を成している。

この鉄道橋の存在感がそもそも半端ではなく、ハンブルクから電車でレンズブルクに近づくと、右手の窓からカーブを描く巨大な橋が目に飛び込んで来る。なんだろうと目を見張って窓の外を見ていたら、自分を乗せた電車はその橋に乗り、ループをぐるりと一周してレンズブルクの駅に到着した。遊園地のアトラクション的な体験で、これだけでも価値がある。橋の高さは地上から42m。レンスブルクのランドマークどころではなく、町の景観において大きな空間を占めている。なぜこんなに高い場所に橋を通したのかというと、キール運河は国際航路として大型船が通るため、運河をまたぐ橋は「少なくとも40m以上」のクリアランスが必要とされたとのこと。特異なループ構造は、その高さから徐々に高度を下げて地上の駅に降りるために考案されたもので、その結果、橋の全長は2,486mもある。

駅を出て、運河に向かって歩いた。

運河にかかる鉄道橋

この橋は1913年に完成したが、スチールという建材は当時、まだ新しく、住民は見慣れない巨大な建築物を不気味に感じたらしい。まだ溶接技術が実用化されていなかったので、橋の部品はすべてリベットで固定されている。使われているリベットの数は320万本!近代スチール建築の傑作と言えるのではないだろうか。レンズブルクの高架鉄道橋は今日、「鉄のレディ(Eiserne Lady)」の愛称で親しまれている。

さてさて、目当てはゴンドラである。運河の対岸に目をやると、おお!

あれが噂のゴンドラ(Schwebefähre)!すごい!あれに乗って運河を渡れるのか。

、、、と思ったら、ゴンドラは空。動いていないのか?運河沿いのレストランで聞いたら、なんと故障中だという。えええー、ガッカリ。乗る気満々でここまで来たのに、、、。

自分が乗れないまでも、動いている様子を見たかったのに、叶わず残念である。でも、それにしてもすごい仕組みだ。あんな高いところからワイヤーで吊り下げた構造物に揺られるなんて、乗っている時間はわずか2分ほどとはいえ、怖いと感じる人もいるのではないだろうか。このような運搬橋は世界中に20くらいしか作られていない。その中で現存するのはたったの8つだという。鉄道橋との複合構造になっているのは、たぶん世界でここだけ。超貴重だね。

今度来たら絶対に乗ってやる!

 

 

ドイツの運河探検の第三弾は、ミッテルラント運河。1906年に建設が始まった全長325kmのこの運河は、ドルトムント・エムス運河からベルゲスへーヴェデ(Bergenhövede)で枝分かれし、マクデブルクでエルベ川と接続する。北ドイツにはライン川、エムス川、ヴェーザー川、エルベ川の流域を結ぶWest-Ost-Wasserstraßeと呼ばれる水路システムがあり、ミッテルラント運河はその中心部としてとても重要な役割を果たしている。

ミッテルラント運河の見どころの一つは運河と川の交差点、ミンデンの水路十字(Wasserstraßenkreuz Minden)だ。ミッテルラント運河のルートは北ドイツ低地の南縁を通っており、ミュンスターからハノーファー=アンダーセンまで、211 km にわたって、船は海抜50.3メートルの高さの水面をずっと維持して走ることができ 、閘門を必要としない。しかし、ミンデンでは運河よりも平均水位が約13 m 低いヴェーザー川を横断する。つまり、運河がヴェーザー川の上を通り、なおかつ両者が接続するための設備を建設する必要があった。ミンデンの水路十字とは1911年から1914年にかけて建設された閘門や水路橋、連絡運河などを含む設備全体を総称している。

 

全体像はこんな感じ(図はビジターセンターの展示から借用)。水路橋(Kanalbrücke)を歩いて渡り、閘門まで行くことができる。

 

ミンデン中央駅から水路橋の下までは歩くと30分くらいかかるが、ラッキーなことにちょうどバスが来たので、15分で着いた。

これが水路橋。車が通る道路を大型の船が横切ると思うと、ちょっと怖い。道路の左側にある階段を登って橋の上に上がる。

ちなみにこの鉄筋コンクリートの橋は90年代に拡張された部分で、旧水路橋に続いている。

第二次世界大戦で破壊され、1949年に再建された旧水路橋 (Alte Kanalbrücke)

運河の下をくぐる線路

ポンプ室。蒸発、浸透、閘門の操作などによって失われる運河の水をヴェーザー川から汲み上げた水で補給し、運河の水位を一定に保つ。

ミッテルラント運河が連絡水路に枝分かれする場所

連絡運河がヴェーザー川に接続する場所にある新旧の閘門

外観の美しい旧閘門

旧閘門。全長82m、幅10m。

旧閘門は閘室が縦に深く掘られた立坑型閘門(Schatschleuse)と呼ばれる構造だ。水位調整のための水は左右に4つづつ縦に重ねて設置された節水層に溜めることでリサイクルされる。節水層は建物に内蔵されているので、外部からは見えない。

ビジターセンターにあった模型。下の節水層から順番に水が閘室に出ていくことで水位が上がり、船が持ち上がる仕組みがよくわかる。

旧閘門は100年以上前に建設されたもので、当時の貨物船には対応できたが、現代の大型船舶やプッシュ船団には小さすぎて非効率だったので、2017年、新しい閘門が開通した。

旧閘室から大幅にサイズアップして全長139m、幅12m。

新閘門の節水層は外部設置

ゲートが開いてボートが出ていく。

ミンデンの水路十字はとても見応えがあって、見に行った甲斐があった。ビジターセンターの展示も充実していて、閘門の仕組みもよく理解できた。

新旧の閘門の模型

 

歩いて回ると結構な距離(帰りはバスを逃して、駅まで歩いて戻った)で疲れた。ミンデン駅で自転車を借りられるので、自転車にすれば楽だったかな。