前の記事に書いたように、エアリンクハウゼンの野外考古学博物館は考古学的にとても興味深かったが、ゲルマン人についての私のイメージは、相変わらずもやっとしている。何か別の手がかりはないものか。
デトモルト(Detmolt)にあるヘルマン記念碑(Hermannsdenkmal)を見に行くことにした。ヘルマン記念碑とは、紀元9年に「トイトブルクの戦い」でローマ軍を打ち破ったとされるゲルマンの英雄ヘルマン(本名のラテン名アルミニウスをドイツ化した名前)を讃えてつくられた記念碑である。こちらの過去記事に書いた通り、「トイトブルクの戦い」の現場は実はトイトブルクの森ではなく、オスナブリュック近郊だったことが明らかになっているが、かつてはヘルマンが勝利したのはデトモルトらへんだと思われていたのである。
記念碑はデトモルトの南西にあるグローテンブルクの丘の上に立つ。
デトモルトに宿泊し、あさイチでグローテンブルクへ。駐車場から森の中を歩いて丘を上ると、すぐに記念碑が見えて来る。

19世紀初頭、フランス革命によってヨーロッパ中に広まった「国民国家」「人民主権」という概念がドイツでも芽生え始めていた。それまでのドイツは、神聖ローマ帝国という括りはあっても、実情は小国の集まりで、共通意識は薄かった。しかし、ナポレオンが支配域を広げ、ドイツの小国を次々に制圧すると、屈辱を味わった民衆の間で「ドイツ人として団結すべきだ」という気持ちがメラメラと燃え上がり、ドイツ統一の気運が高まった。そうしたナショナリズムの勃興の中で、かつてローマ軍を打ち破ったとされるケルスキ族(Cherusker)のリーダー、ヘルマンが、ゲルマン民族の解放と統一のシンボルとして崇められていた。
ヘルマンの記念碑を建てようぜ!と言い出したのは、ドイツ民族の統一と自由の象徴を作りたいという強い理想に燃えていた彫刻家、エルンスト・フォン・バンデル(Ernst von Bandel)である。志を共にする市民から寄付金を集め、1838年に着工したが、なかなか思い通りにはいかなかった。1846年に土台部分は完成したものの、資金不足で中断。その直後の1848/1849年にヨーロッパで革命が同時多発する。ドイツでも市民や労働者が自由主義や憲法制定を求めて蜂起したが、プロイセン王国に弾圧され、失敗してしまう。民衆の自由で民主的な国家建設の夢は、打ち砕かれてしまった。
工事が再開されたのは1862年。このときには、ドイツ統一はもはや市民だけの運動ではなくなっていた。1971年、プロイセンが普仏戦争に勝利し、統一ドイツ帝国(第二帝国)が誕生する。皇帝に即位したヴィルヘルム1世は、トイトブルクの戦いとフランスに対する勝利を重ね合わせ、ヘルマン記念碑の建造を積極的に支援した。こうして記念碑は国家プロジェクトとなったのだった。1875年8月16日の除幕式にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が臨席し、盛大に祝われたらしい。
ところで、上の写真はヘルマンの後ろ姿。正面からじっくり見ようと反対側に回ったら、、、、

逆光でよく見えない〜。午前中に見に行ったのは失敗だった。美しい写真が撮りたければ、夕方に行くべし。
トイトブルクの森を見下ろすヘルマン記念碑の高さは、台座を含めて53メートル。掲げている剣の長さは7メートル。地元の砂岩でできた台座のデザインは当時の流行の古典主義で、ギリシアの神殿を思わせる。円柱で支えられた円形の屋根を持つこのような建物は、建築用語でモノプテロス(Monopteros)と呼ばれるそうだ。ゲルマン民族の象徴なのにギリシアなんかい!とツッコミたくなるが、バンデルも本当はゴシック様式で作りたかったらしい。でも、残念ながら、ゴシック建築の設計は経験がなくて無理、ということでこうなったとのこと。

右手に剣、左手に盾を持つブロンズ製のヘルマン像。まったく見えないけど、剣には「Deutsche Einigkeit, meine Stärke. Meine Stärke, Deutschlands Macht.(ドイツ統一は我が力、我が力はドイツの力)」と刻まれているらしい。

頭には翼のついたヘルメット。古代ゲルマン人がこんなヘルメットを被っていたわけではなく、バンデルの創作。

左足で鳥を踏んづけてる。ローマの象徴の鷲だそう。
ヘルマン記念碑の周りには、他にも記念碑がたくさんある。

エルンスト・フォン・バンデルのレリーフ付き記念碑

皇帝ヴィルヘルム1世がヘルマン記念碑除幕式に臨席したことを後世に残すための石碑

ドイツ帝国統一の立役者にして初代宰相、オットー・フォン・ビスマルクの功績を讃えるビスマルク石(Bismarckstein)

後にビスマルクの80歳の誕生日を記念して設置されたらしい。
つまり、この地は、古代の英雄ヘルマン、統一ドイツに君臨した皇帝ヴィルヘルム1世、そして外交と戦争によって現実に統一国家を完成させた政治家ビスマルクの三者を讃える、まさにドイツのナショナリズム高揚の場だったのだなあ。
「だった」と書いたのは、現在ではまったく違う評価を受けているからだ。詳しくは、この後に訪れるリッペ州立博物館で知ることになる。
この記事の参考文献: Das Hermannsdenkmal: Daten, Fakten, Hintergründe (Historisch-Archäologische Publikationen und Dienstleistungen, 2008)


















































