ヘルマン記念碑を見に行って、「ゲルマン人」という概念が、かつて民族アイデンティティとして祭り上げられたことはよくわかった。しかし、私が知りたいのは「他民族の支配に屈しない、強靭なゲルマン人」などという概念ではなく、実際にゲルマン民族がどのような文化的特徴を持っていたかということ。それがさっぱりわからない。そこで、デトモルト中心部にあるリッぺ州立博物館へ行ってみることにした。トイトブルクの森を含むリッぺ地方に関する総合博物館で、郷土博物館と考古学博物館の要素を併せ持っている。

リッぺ州立博物館(Lippisches Landesmuseum)
リッぺ地方の先史時代から中世初期まで幅広く扱っている。展示されている出土品のうち、「ゲルマン人」のものとされるものはわずかだが、文章によるパネルがたくさんあって、「ゲルマン人の大移動」や「ゲルマン人と古代ローマとの衝突」「考古学調査からわかったゲルマン人の生活文化」などについて説明されている。

エアリンクハウゼン近郊の先ローマ鉄器時代の集落モデル。集落は柵に囲まれている。
ゲルマン人の集落は、通常、数軒の散在する農家から成り、敷地には住居の他に倉庫や掘立て小屋などがあった。人々は原始的な農耕(エンマーコムギ、ライ麦、オート麦、キビ、アマなどの栽培)を営んでいたが、肥料が乏しかったため、土地がすぐに痩せてしまい、定期的に移住する必要があった。

長屋(ランクハウス)の造りや、農耕の様子がわかるジオラマ
収穫した作物は、貯蔵穴に空気を通して保管したり、陶器の容器に入れて倉庫に保管していた。主食は穀物のお粥で、パンを焼くのは特別なときだけ。家畜は飼っていたが、主に乳や毛を取るためで、食生活における動物性食品の割合は低かったとのこと。ゲルマン人には焚き火で肉を焼いて食べているイメージがあったけれど、どうやら勝手な想像だったようだ。
人々の服装には時代ごとに流行があり、多様で色鮮やかな服を身につけていた、とある。ほとんどの衣類は羊毛と亜麻から作られた。

意外とモダン!女性の服装は現代でも通用しそう。
埋葬についても記述があった。リッぺ地方ではすでに紀元前1200〜700年の青銅器時代には遺体は火葬されていた。居住地の近くに集団墓地が作られた。埋葬法には壷に入れて土に埋める、皮袋に入れて埋める、灰を墓穴に直接入れるなど、時代によっていろいろな形式があったようだ。
伝説「トイトブルクの森の戦い」が語るように、紀元1〜4世紀、この地方では古代ローマとゲルマン人が衝突を繰り返していた。使っていた陶器のかたちから、ドイツのゲルマン人は大きく「エルベ・ゲルマン集団」、「北海・ヴェーザー・ゲルマン集団」「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に分けられる。トイトブルクの森の戦いでローマ軍を打ち破ったアルミニウス(ヘルマン)はケルスカ族の族長だったが、ケルスカ族は「ライン・ヴェーザー・ゲルマン集団」に属していた。
ローマとの接触によって、政治的、軍事的、経済的にさまざまな影響を受けたものの、リッペ地方のゲルマン人は生活様式や伝統は概ね保持し続けたとのこと。

エアリンクハウゼンの野外博物館で見た製鉄用の窯(Rennofen)のモデルが展示されている。
ゲルマン人が生活に使っていた陶器はシンプルで、大部分はろくろを使わず手で形成したものだったので、表面は粗く、指の跡がついているものも多い。ローマ人との接触が多くなるにつれ、ローマの陶器の影響が見られるようになった。

上段はローマのもの、下段はゲルマンのもの
展示室にはゲルマン人のものよりもローマの出土品の方が多い。ゲルマン人の生活はシンプルで、豪華な埋葬品などは少なく、布や木などの有機物は残っていないから、ローマのものほど展示するものがないらしい。また、文字を持たない口頭文化だったので、文書による記録はローマ側からの記述に限られる。ローマはライン川以東に住む全ての部族を一括りにゲルマン人と呼んでいたけれど、実際には地域ごとに文化は異なっていた。さらに、北西ドイツにはゲルマン系だけでなくケルト系の民族も住んでいて、両者はモザイク状に分布していた。なので、「これがゲルマン文化です」とはっきり言い切るのは難しいようだ。
リッぺ博物館には、トイトブルクの森の戦いに関する展示もある。
ローマ帝国の歴史家タキトゥスは著作『ゲルマニア』や『年代記』でこの戦いについて記述していたが、中世にはこの英雄の物語はほとんど忘れ去られていた。ルネサンス期に再発見されて、ドイツ人の「自分たちはゲルマン人の末裔である」というアイデンティティを形成することになる。
さらに時が経ち、フランス宮廷文化が模範とされ、小国の乱立するドイツは文化的に遅れているとみなされていた17〜18世紀。オレたちドイツ人の国を作ろう!というナショナリズムが高まる中で、ヘルマン(アルミニウス)は統一国家の希望の象徴とみなされるようになった。そうして、トイトブルクの森の戦いを題材とする芸術作品が次々と生まれた。

歴史画家ペーター・ヤンセン(Peter Janssen)の大作、Siegreich vordringender Hermann 「勝利に向かって進むヘルマン」

アルミニウス(ヘルマン)の妻、トゥスネルダ(Thusnelda)像。彼女の生涯はほとんど知られていないにもかかわらず、「夫に尽くし支える理想の妻」として描かれた。

Johannes Gehrs作” Hermann verabschied sich von Tusnelda 「トゥスネルダに別れを告げるヘルマン」”
デトモルトのヘルマン記念碑は、このような盛り上がりの中で作られた。この「ドイツの偉大なる父ヘルマン」信仰はドイツ国内にとどまらなかった。米国に移住したドイツ人の間でも温め続けられ、結成された市民団体「Sons of Hermann(ヘルマンの息子)」のイニシアチブにより、1897年、ミネソタ州ニューウルム市にデトモルトのヘルマン記念碑を模倣した記念碑が建設されている。
小国の寄せ集めだったドイツを一つにまとめ上げ、「我らがドイツ人」という共通認識を形成する基盤となったトイトブルクの森神話だったが、時代が進むにつれ、政治的に都合よく利用されるようになった。第一次世界大戦でも、そして第二次世界大戦においても、他国・他民族との対立を煽り、殺戮を正当化する手段となってしまった。つまりは、行き過ぎてしまったのだ。

第一次世界大戦中の絵葉書
今回の旅で、エアリンクハウゼン考古学野外博物館、ヘルマン記念碑、そしてこのリッぺ州立博物館を訪れて知りえたのは、「ゲルマン人とは多様な文化を持つ多くの部族を総称する呼び名で、共通する文化的特徴はあるのかもしれないが、まだ多くはわかっていない」ということ、「よくわからないからこそイメージがどんどん肥大し、悪利用されて暴走を引き起こしてしまった」こと。悲しいことだが、こうした行き過ぎは、どこの国でも起こり得ることだと思う。
ゲルマン民族とその文化には別に罪はないし、興味を持つのは悪いことでもないだろう。ただし、学術的に明らかになっていることにフォーカスして、勝手に妄想を膨らませないことが重要だ。
さて、過去の産物となったヘルマンだが、リッぺ地方では全否定されているというわけではなさそうだ。今では政治色のないご当地キャラとして、親しまれているように見えた。

いろいろなヘルマングッズ
さて、「トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅」のシメには、ゲルマン人の聖地と噂される奇岩群、エクスターンシュタイネに向かうことにしよう。

