トイトブルクの森でゲルマン人について探る旅。最初に向かったのは、エアリンクハウゼンにある考古学野外博物館(Aechäologisches Freilichtmuseum Oerlinghausen)だ。ノルトライン=ヴェストファーレン州最大の自然保護区の縁に位置するこの野外博物館では、考古学調査に基づいて、旧石器時代から中世初期までの人々の暮らしが時代ごとに再現されている。

博物館の全体はこんな感じ。順路に沿って見て歩いて、小一時間といったところ。

最初に目にするのは、旧石器時代の住まい。最終氷期の紀元前1万5500年 〜 1万3100年ごろ、北西ヨーロッパにはトナカイ猟を中心とした古代文化が広がっていた(ハンブルク文化と呼ばれている)。漁師は、トナカイの皮で作ったテントで移動生活をしていた。このテントは、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州アーレンスブルクで発掘された紀元前1万2700年前〜1万2500年頃のトナカイ猟師の集落跡をもとに再現されたもの。トナカイの皮は毛を取り除くと軽く、持ち運びに適していた。テントの周囲には、ヒメカンバ(Zwergbirke)、アルメリア(Grasmelke)、ガンコウラン(Krähenbeere) 、ビャクシン(Wacholder)など、当時の植生が再現されている。

こちらは、中石器時代(紀元前9700年〜紀元前4300年頃)の茅葺き小屋。この時代の生活についてはまだ多くはわかっていないらしい。トイトブルクの森で見つかったいくつかの集落跡を研究した結果、きっと、このような家に住んでいたのではないか?と考えられている。または、樹皮で作った壁の小屋に住んでいたという説もある。最終氷期が終わって暖かい気候となったドイツの森には、シカやイノシシ、クマ、オオカミなどが生息するようになった。植生も氷河期とは大きく変わり、人々はそのような変化に適応してライフスタイルを変化させていったが、この頃はまだ狩猟採集生活だった。

次は新石器時代(紀元前5500〜2200年ごろ)の家。ライン川流域の褐炭採掘場から発見されたレセン文化(Rössener Kultur)遺跡をもとに再現された。木材が使われ、ぐっと現代の家に近づいたように見える。正面から撮った写真なので分かりづらいのだが、ラングハウス(Langhaus)と呼ばれる長屋で、かなりの奥行きがある。旧石器時代にはラングハウスが一般的だったとされる。平面図は長方形ではなく、台形もしくは船型。人々は定住し、家畜を飼い始めた。この頃の主食は、エンマーコムギ(Emmer)、ヒトツブコムギ(Einkorn) 、レンズ豆など。

 

ここまで、考古学的調査に基づいた、旧石器時代から新石器時代までの暮らしを順番に見て来た。「暮らし」に焦点を当てた展示で、民族については触れられていない。ところが、この後、突如として「ゲルマン」というワードが登場する。

展示エリア「ゲルマン人集落(Germanengehöft)」。あれっ?今までのはゲルマン人の集落ではなかったのだろうか。混乱してしまった。説明パネルによると、このエリアは「現在は否定されている過去の研究に基づいてつくられたもの」のだという。

実は、現在のこの野外博物館の敷地には、かつて、「ゲルマン人集落」という、そのまんまの名の博物館が存在した。ナチスがドイツ人の祖先であるゲルマン人を理想化し、ドイツ人の優位性をアピールする目的で建設したものだった。その内容は、「学術研究に基づいている」と謳ってはいたが、イデオロギーにまみれたもので、現在の研究に照らし合わせると間違いだらけだった。「ゲルマン人集落」がオープンした1936年はベルリンでオリンピックが開催された年でもあり、ナチス政権は世界中からの来訪者を「ゲルマン人集落」に迎え、ゲルマン人が古来からいかに優れた民族だったかを示そうとした。まっすぐな柱に白い漆喰の塗られた土壁。当時、家の内部には近代的な家具が置かれていたそうだ。

「ゲルマン人集落」は、第二次世界大戦後しばらくの間は荒廃した状態のまま放置されていたが、1960年代に民間の寄付金によって、以前と同じかたちで再オープンした。そう、ナチスのイデオロギーのままで。

それが大きく変化したのは1979 年のこと。イデオロギーと決別し、学術研究の成果を正確に伝える考古学野外博物館がここにつくられることになった。発掘調査に基づいた、時代ごとの集落が再現されたのだ。その際、「ゲルマン人集落」は取り壊すのではなく、ナチスのゲルマン人史観を明瞭に伝える場所」として残された学術的なこの野外博物館の中に異質なエリアがあるは、このような背景からだ。

「ゲルマン人」という言葉が出てくるのはこのエリアだけ。この先は再び考古学の展示が続く。

これは青銅器時代(紀元前1550〜1200年頃)の茅葺き小屋。

青銅器時代の裕福な人のお墓(Totenhaus)を再現したもの。

鉄器時代のラングハウス

これはGrubenhaus(直訳すると「穴の家」)と呼ばれる半地下の小屋。床を地表より50〜80cmくらい掘り下げ、掘った部分の上に簡単な木の柱を立てて、屋根をかけたもので、先史時代や中世初期のヨーロッパで広く使われていたらしい。

内部はこんな感じ。床を地面より掘り下げることで、火を使わなくても冬暖かく夏涼しい快適な空間が得られた。主に作業場などに使われていたとのこと。

鉄鉱石から鉄を取り出すために使われ塊鉄炉(Rennofen)。炉に木炭と鉄鉱石を交互に詰めて火を入れると、高温で鉄鉱石から酸素が離れ(つまり、還元される)、鉄の塊ができるというしくみ。

ここに書ききれないが、それぞれの建物内部にも各時代の生活についての展示があり、手作業や農作業、家畜についてなど幅広い情報が提供されている。ゲルマン人の「現在のドイツ北西部において旧石器時代から中世初期までを生きた人たちの」生活史をざっくりと学ぶには、とても良い博物館だと思う。

ただ、この博物館が建てられた背景が心に重くのしかかって、残念ながら考古学展示を純粋に楽しむことができなかった。

 

この記事の参考資料:

Schriften des Archäologischen Freilichtmuseums Oerlinghausen: Kompakt (2006)