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資料に見るドイツ 6 〜 ナチ時代の魚料理レシピ集
前回に引き続き、今回もナチ時代に発行された主婦向け冊子を眺めてみる。タイトルは “Fische – nahrhaft und gesund. Was jeder von Fischen wissen sollte.(魚 〜 栄養があって健康的。誰もが知っておくべき魚のこと)” 。(注: 原題のハイフン及びピリオドは読みやすいように私が入れました)
ライヒ国民経済啓蒙委員会(Reichsausschuß für Volkswirtschaftliche Aufklärung )が発行したもので、発行年が見当たらないが、調べたところ初版は1935年であることがわかった。その後第二次世界大戦中も引き続き発行されていたようだ。
日本人と比べてドイツ人は一般に魚をそれほど好まないので、80年も前の魚のレシピ集なんて珍しいなと思い、手に取った。今でこそ、発泡スチロールのトレーに乗った魚の切り身の買えるスーパーはドイツでもそれほど珍しくなくなったが、約30年前はどこで鮮魚を買ったらいいのかわからなかった。魚はほとんど食べたことがない、または好きではないから食べないという人も周囲に多かった。そんなドイツの戦前、もしくは戦時中の魚料理レシピ集とはどんなものだろうか。
全32ページのこの冊子、基本的にはレシピ集だが、最初に漁業についてのかなり詳しい説明が載っている。ナチ党は食糧政策の一環として”Eßt mehr Fische(もっと魚を食べよう)”というスローガンを掲げ、肉よりも魚を食べるように国民を誘導していたようだ。畜産は大量の穀物飼料を要するので食糧自給率を下げるには肉食を減らす必要があったのだろう。といっても、一般主婦は魚にそれほど馴染みがなく、どこでどの魚を買ってどう調理したら良いかわからない。そこで、魚は自然の恵みであり、水揚げ量は季節や天候に左右されることや、それぞれの種類の魚がどのように捕獲されるのかなどを説明している。細かい字でびっしり6ページも!
ドイツ人は伝統的にそれほど鮮魚を食べず、特に夏場には鮮度に不安があってか、売れ行きが落ちた。この冊子には「現代の品質管理・輸送技術により鮮度の問題は過去のことになった。魚屋の衛生管理も問題ないので、どこで魚を購入しても大丈夫」だと書かれている。右ページには魚は栄養たっぷりだよというコラム。
さて、それではレシピをざっと見ていこう。
他にも魚介スープ、魚サラダ、トマトをくり抜いてみじん切りの魚を詰めたもの、ムール貝のサラダなどが載っているが、どれもとても凝っていて驚く。食糧難の時代に本当にこんなに手の込んだ料理をしていたのだろうかと不思議に感じる。現代でもこれだけ凝った魚料理にはあまり遭遇しないなあ。
この冊子に載っている料理の中では魚ロールキャベツが気になる。どんな味だろう?今度、レシピ通りに作ってみようかな。
資料に見るドイツ 5 〜 1940年発行の家事読本
今回は1940年にライヒ食糧団(Reichsnährstand)から発行された農家の女性向けの家事読本、Die 4 W`s. Eine lustige Hausarbeits-Fibel (「4つのW。愉快な家事読本」)を見てみよう。
B5版、全32ページの小冊子でタイトル文字はジュッターリーン体。「4つのW」とは、家事におけるWの頭文字で始まる4つの要素、Wege(動線)、Wasser(水)、Wärme(暖房)そしてWaschen (洗濯)のことらしい。1940年といえば、国家社会主義ドイツ労働者党が支配していた時代だ。第二次世界大戦の最中にナチスの農業統制機関が発行した読本で、紙質は良くないものの、なかなか可愛い表紙デザインである。ナチスと聞いて思い浮かべるイメージからは程遠い。
内容は農家の女性のための家事合理化の手引きで、家事を動線、水、暖房、洗濯という4つの分野に分け、効率良く楽に家事をする方法を指南している。
まずは動線。農場は無駄な動きをして時間やエネルギーを浪費しないように設計せよ。台所も然り。よく考えず用具を配置すると、あっちへ行ったりこっちへ行ったりすることになる。作業が最小の動きで済むように配置せよ。農具の置き場所や並べる順番などもよく考えて決めることで作業が楽になるというアドバイスが満載である。
水について。この時代の農村では、生活用水は井戸から汲んで運ぶのが一般的だった。家事にかかる時間のうちのおよそ1割が水の運搬に費やされていたようだ。重いバケツを運ぶのは骨が折れる作業だ。水道管を引き、それぞれの作業場に蛇口を設置することで作業が大幅に効率化できる。ホースなどを利用すればさらに快適に。
暖房について。冬が長く寒いドイツでは暖房の効率化は重要だ。戦時中は特に燃料が貴重だった。この読本では左ページの図のような調理用タイルストーブは同時に暖房にもなり、燃料を節約できるとして推奨している。しかし、夏場は台所が無駄に暑くなるというデメリットがある。それに対して右ページのような電気コンロは台所全体を温めるのには適していないが、夏場は短時間で調理ができて便利だと書かれている。
最後の章は家事の中で特に労力を要する洗濯について。「健康はお金よりも大切」、だからこそ少しでも洗濯を楽にしよう。腰をかがめなくても良いように洗濯だらいは台の上に置き、洗濯室の床には排水溝を設けよう。洗濯物はあらかじめ水に浸けておくと汚れが落ちやすい。この際、溜めておいた雨水を有効利用しよう、等々、いろいろなヒントが提示されている。これを読んで思い出したが、うちの村の郷土博物館には戦前まで使われていた洗濯室があり、いろいろな洗濯道具を見ることができる。
戦前の暮らしを知る 〜 カプート村の郷土博物館
この読本、挿絵の可愛さと合理的な内容のミスマッチが興味深い。一つ目のW、動線に関する部分はいかにもドイツ的な印象だ。日本の戦時中の家事読本を見たことがないので、比較してどうかということはわからないが、、、。
壮絶な最期を遂げた反ナチスのイラストレーター プラウエンのエーリッヒ・オーザー・ハウス
前回の記事に書いたように、ザクセン州南西の町、プラウエンへ行ったのはレース博物館を見るのが目的だったが、せっかく来たので他の博物館もいくつか見て来た。その中で特に印象に残った資料館、エーリッヒ・オーザー・ハウス(Erich Ohser Haus)について書き留めておこう。
エーリッヒ・オーザーのイラストには馴染みがあったが、実はこの時までオーザーの名前を知らなかった。プラウエン旧市街にあるフォークトラント博物館(Vogtlandmuseum)へ行ったところ、入り口がエーリッヒ・オーザー・ハウスの入り口も兼ねていて、有名なコミック「Vater und Sohn(父と息子)」やグッズが並べられていたので、「あ、これはよく見かけるあのコミック、、」と、そこで初めてエーリッヒ・オーザーが誰なのかに気がついたのだ。
1903年生まれのイラストレーター、エーリッヒ・オーザーは9歳からプラウエンで過ごした。この資料館はオーザーの息子さんのクリスティアン・オーザー氏が2001年に亡くなった際、米国在住のお孫さん達が祖父の遺品をプラウエン市に寄付し、設立されたものだそう。
エーリッヒ・オーザーについてはmariko_kitai (@zaichik49)さんがブログにわかりやすくまとめていらっしゃるので、記事を紹介したい。
Vater und Sohn / 「父と息子」ドイツのイラストレーター
3階建ての資料館にはコミック「Vater und Sohn」(日本では「おとうさんとぼく」のタイトルで岩波少年文庫から出版されている)を中心に、オーザーのイラストや関連資料などが展示されている。半年ごとに展示物を入れ替え、これまで公表されていなかった遺品も目にすることができるそうだ。
「Vater und Sohn」はナチスが政権を掌握した翌年の1934年に誕生した。風刺画でナチスを批判したために職業停止処分を受けていたオーザーがe.o.plauenのペンネームで描くことを許され、Berliner Illustrierte Zeitungに連載されていたコミックである。当時、模範とされた権威的な父親像からは程遠い、遊び心のある父親と素直なお利口さんではなく、ちょっとやんちゃな息子が織りなすユーモラスで温かい日常は、ナチス政権下の重く息苦しい時代に人々の心を明るくした。
ほのぼのとした絵の中でも特に上の6コマ漫画にはほろりとさせられた。わかるなあ、この父親の気持ち。
筋金入りの反ナチスだったオーザーだったが、「Vater und Sohn」の爆発的人気をナチスは見逃さなかった。「父と息子」のキャラクターはナチスが慈善募金活動として展開した冬季救済運動のイメージキャラクターに起用される。さらに、宣伝相ゲッペルスは戦争プロパガンダ紙”Das Reich”に敵国の風刺画を描くようオーザーに要求した。大人気イラストレーターとしての栄光の裏でオーザーは苦悩し、精神の安定を失っていく。作家ハンス・ファラダによると、意に添わぬ仕事を余儀なくされながらも、オーザーは反ユダヤのイラストだけは決して描かなかったという。
オーザーはライプツィヒの大学生時代に知り合った反ナチス作家のエーリッヒ・ケストナーやジャーナリストのエーリッヒ・クナウフと親交があり、気のおけない彼らといるときには本音で政権を批判した。そして、それが命取りになる。1944年、クナウフを相手にヒトラーやゲッペルスに対する辛辣なジョークを交わしていたのを密告され、オーザーはベルリン、モアビット地区の刑務所に投獄されてしまう。判決の前日に独房で首を吊り、自ら命を絶った。
壮絶な最期とともに短い人生を終えたオーザー。しかし、彼のイラストは国境を越え、時代を超えて愛され続けている。「Vater und Sohn」の連載当時はキャラクターのおもちゃや雑貨が作られるなどの大旋風が巻き起こった。Vater und Sohnのぬいぐるみと共にホロコーストを生き延びたユダヤ人の子どももいたという。
とても心に残る展示だった。余韻の中、資料館を出たが、資料館の中だけでなく、プラウエン の町は「Vater und Sohn」でいっぱいだった。メインストリートのBahnhofsstraßeからオーザーの資料館までのルートのあちこちに「Vater und Sohn」の等身大フィギュアが設置されているのだ。
木製の人形にペイントしたフィギュアは全部で15ペアあり、それぞれ設置場所にマッチしたデザインになっていて見て歩くのが楽しい。複数のアーチストが色付けをしているので顔付きが少しづつ違うのも面白い。オリジナルのイラストのほのぼの感とは異なる雰囲気だけれど、プラウエンを訪れる人にオーザーについて知ってもらおうという意欲が感じられて、いいなと思った。
レースと刺繍の町、プラウエンの2つのミュージアム
ザクセン州の南西の外れに位置するプラウエン(Plauen)へ行って来た。頻繁に聞く地名ではない。主要都市のどこからも遠く、アクセスがあまり良くないせいだろうか。どんな町なのか、イメージがあまり沸かなかった。
そのような町になぜ、行こうと思ったのか。実は、去年のクリスマスに義理の父から切手コレクションの一部を譲り受けた。旧東ドイツの切手コレクションだ。今はなきドイツ民主共和国は切手の発行に力を入れていたため、美しい切手が多い。眺めていたら、こんなモチーフの切手に目が留まった。
Plauener Spitze(プラウエンのレース)とある。調べてみたら、プラウエンでは古くからレースの生産が盛んだったことがわかった。
綺麗なレースのモチーフの切手を眺めているうちに、プラウエンへ行ってみたくなったというわけだ。プラウエンにはレース博物館(Plauener Spitzenmuseum)があるとのことなので、そこを目指すことにしよう。
プラウエンの位置するフォークトラントでは、15世紀から木綿の加工業が発達していた。特に女性たちの手作業による刺繍は地域の内外で高く評価され、19世紀に入ると刺繍はプラウエンの主要な産業となった。1858年にスイス製の刺繍機械が初めてプラウエンの工場に導入され、チュールレースが作られるようになると産業規模は大幅に拡大した。さらに、1900年にパリで開催された万国博覧会でプラウエン製のレースがグランプリを受賞したことが起爆剤となり、世界中から注文が舞い込むようになる。町の人口は10年間で倍増し、プラウエンは高級ホテルやレストランの立ち並ぶラグジュアリーな大都市へと発展した。
円形のテーブルクロスはWickeldeckeと呼ばれる。個別に編んだレースのパーツをミシンで縫い合わせて1つにするが、その繋ぎ合わせる作業をwickelnということから来ているそうだ。機械化されていても細かい微調整や仕上げは手作業で行わなければならず、1枚のクロスを編み上げるにはとても手間がかかる。
最盛期にはプラウエン・レースはパリのオートクチュールにおいても欠かせないものだった。レース博物館にはプラウエンのレースの歴史やニードルレースやボビンレースの作業工程だけでなく、レースを使った各時代のドレスや小物が展示されていて、ファッションの移り変わりにも触れることができる。
一世を風靡したプラウエンのレースだが、第一次世界大戦が勃発すると贅沢品のレースを大量生産している場合ではなくなり、その後に続く世界恐慌、第二次世界大戦によってレース産業は急激に衰退した。レース産業にほぼ依存していたプラウエンでは失業者が急増し、市民は厳しい生活状況を強いられることになった。旧東ドイツ時代には個々のレース工場は1つにまとめられて国有化され、プラウエン ・レース人民公社としてカーテンなどを生産したが、もはや全盛期の勢いを取り戻すことはなかった。それでもプラウエン市民にとってレースは町のシンボルで、1955年に始まった年に一度のレース祭り(Plauener Spitzenfest)は現在も続いている。
プラウエンにはレース博物館の他、作業工程を見学できる刺繍工房Schaustickerei Plauener Spitzeがあって、町の中心部からは少し離れているが、そちらもとても良い。
この工房では手作業による刺繍から各種機械を使った刺繍作業まで、職人さんが実演しながら説明してくれる。
レースのパーツを縫い合わせているところ。細かく、正確さを求められる作業ですごいなあと感心してしまう。私には絶対できないや。
この工房はショップが充実しているので、気をつけないと散財してしまう。
プラウエンの町にはレースのお店がたくさんある。
プラウエンは旧市街がよく整備されていて綺麗な町だ。レース以外でも面白いもの、可愛いものが多いので、泊まりがけで訪れる価値は大いにあった。プラウエン観光の続きは次の記事で。
1920年代にタイムスリップ!アルテンブルクの美容室ミュージアム、Historischer Friseursalon
私はアルテンブルク(Altenburg)という町の旧市街を歩いていた。アルテンブルクはライプツィヒとツヴィッカウの間にある小さな町。そこへ行ったのはアレクサンダー・フォン・フンボルト関連の展覧会を見に行くためで、町自体には実はそれほど興味を持っていなかった。というよりも、急に計画したので準備不足で何があるのかよくわかっていなかったのだ。観光資源がたくさんあると思わなかったので日帰りの予定にしてしまったが、現地についてすぐに気がついた。アルテンブルクは17世紀にはザクセン=アルテンブルク公国の首都だった町で、見どころが多そうである。
1泊する予定で来ればよかったと思いつつ、ぶらぶらと通りを歩いていると、なにやら気になる建物がある。
歴史的美容室(Historischer Friseursalon)と書かれている。ショーウィンドーを覗き込んでいると、中から男性が出て来た。「ハロー。中を見て行かないかい?」「ここはミュージアムなんですか?」「そうですよ。さあ、どうぞ入って、入って!」招き入れられ、中に足を踏み入れた。
うわぁ!ここは!?
「ここは1926年にアルテンブルクの美容師、故Arthur Grosseが開いた美容室です。備品もほぼ当時のままです。1966年に店じまいして以来、外側から窓に板を打ち付けたままだったから外からは内部の様子がわからず、ここが美容室だったことはすっかり忘れられていたんですよ。2002年に最後の所有者が亡くなったことで再発見されました。貴重な文化財だということで、こうしてミュージアムとして一般公開することになったんです」
大理石の洗面台に並べられた古い散髪道具の数々。これはワクワクする空間だ。
「これ、何ですか?紙が巻いてありますが?」
「ここに頭を乗せるのに前の客の髪の脂が付いていたら汚いでしょ?当時の人は毎日髪の毛を洗っていたわけじゃなかったですからね。新しい客が来るたびにこのハンドルを回して新しいきれいな紙の上に頭を乗せられるようにしていたんです」とガイドさんが説明してくれた。へえー!
回るのはロールペーパーだけではない。こちらの椅子は後部のレバーを回すとシートが回転する。「前の客の体温が残った椅子に座るのは気持ち悪いですからね」。なんときめ細かいサービス。
Grosse氏のは美容師の養成も行なっていた。これは弟子の終了試験合格証明書。現在発行されているのものと違い、凝った美しいデザインだ。
「何コレェ?」「鼻の矯正具です。これを使うとどんな形の鼻でもまっすぐになるという触れ込みで、すごく売れたそうですよ。夜寝る前に軟骨を柔らかくするクリームをまず鼻に塗って、その上からこの器具を装着してネジで留めるんです」「えええ?まるで鼻のコルセットじゃないですか」「ほら、説明書には医学的にも効果が認められているって書いてありますよ」「ははは。トンデモ商品はいつの時代にもあったんですね」
「硫黄入りヘアトニックって?」「昔はこういうのを平気で頭にふりかけていたんですね。それどころかガソリンで髪を洗ったりしてましたからね」「えーっ。臭いじゃないですか」「すごく臭かったでしょうね。でも、シラミ対策にはなったかもね。臭いといえば、当時の人は髪の毛が脂っぽかったから、コテで巻いたりするとかなり臭ったんじゃないかな」
「ところで、この部屋は男性用のサロンです。奥に女性用サロンもあるんですよ」
アルテンブルクのような小さな町では女性用サロンを備えた美容室というのは、当時はかなり画期的だったそうだ。
これはパーマをかける際にカーラーで巻いた髪を上から留める金属製のクリップ。あらかじめ熱して使う。「ちょっと1個持ってみてください」「わ、結構ずっしり!」「こんなのを何十個も頭につけていたと想像したらすごいですよね。相当、重かったはず」「ですよねえ?」美しくなるのは大変だね。
このミュージアム、展示品の1つ1つが面白すぎる。
「すごいですね。でも、この美容室、60年代まで営業していたということですが、ずっと20年代後半のスタイルでやっていたんでしょうか」「Grosse氏はイノベーティブな人で最初は新しいものを積極的に取り入れていたようですが、やっぱり後半はそうでもなくなったようです。固定客がいて、変わらないスタイルで営業を続けていたのではないかと思います」
私がブロガーだと話したら、ガイドツアーに申し込まなければ見られない部屋も特別に見せてくださった。
サロンの2階にあるこの部屋はGrosse氏一家が特別な日にだけ使っていた部屋、いわゆるdie gute Stubeだ。非常に珍しいことに、壁に木製の厚板が貼ってある。Grosse氏の美容室が再発見されたとき、この壁は上から漆喰が塗られた状態になっていて、このような立派な木板があるとは誰も想像しなかったそうだ。専門家に木材の年代を測定してもらったところ、1500年代のものであることが判明した。写真に全体像を収めることができなかったが、この部屋は調度品も中央のテーブルと椅子以外はGrosse氏一家が使っていたオリジナルで、当時の市民の暮らしぶりが伝わって来る。
ガイドツアーに申し込まなくても1階のサロン部分は無料で見学できる。このミュージアムは掘り出し物だ。アルテンブルクはライプツィヒから電車で1時間くらいなので、アクセスも良く、おすすめ。動画があったので貼っておこう。
【2021年12月30日追記】
このときにミュージアムを案内してくださったClaus Oscheさんが2021年にこの美容室を経営していた故Artur Grosseに関する素敵な冊子を出版され、私のところへも1冊送ってくださった。
この冊子を拝読して、Grosse氏は当時は珍しかった女性用美容サロンをオープンするなど先見の明を持ってビジネスを展開していただけでなく、野鳥の観察や保護活動にもとても熱心な人だったということをあらたに知った。私がアルテンブルクを訪れたとき、市内の自然史博物館 Mauritianumにも立ち寄った。ドイツ全国のいろんな自然史博物館を見て来た中で、気に入った博物館の一つで、特に野鳥コーナーが印象に残ったのだが、この博物館の初代館長、Horst GrosseはArtur Grosse氏の息子なのであった。
このときには私はまだ野鳥観察を始めていなくて、野鳥のことは何も知らなかったけれど、なんとなく気になってこの写真を撮ったのだった。きっとそれがきっかけの一つとなったのだろう、今ではすっかり野鳥ファン。もう一度このコーナーを見に行きたい。
さらに、Oscheさんの本にはアルテンブルクを中心とする自然保護活動の歴史が詳しくまとめられていて、2年前から自然保護活動に参加するようになった私にとってとても興味深い内容である。なんだか奇遇だなあ。
資料に見るドイツ 4 〜 DDRの建築
十数年前からベルリン近郊、つまりドイツ東部に住んでいるが、東部には東ドイツ人民共和国(DDR)時代に建てられた建物が多くある。社会主義の理想に基づいて設計された建物、とりわけプラッテンバウ (Plattenbau ) と呼ばれる高層の集合住宅は旧西ドイツ側に住む人たちの間ではすこぶる評判が悪い。でも、私にとってはプラッテンバウには昭和の団地風景を思い出させるものがあり、独特の魅力を感じないでもないのである。
“Architektur in der Deutschen Demokratischen Republik (ドイツ民主共和国における建築) ” という資料を見つけたので、手に取ってみた。
Volk und Wissen Verlag(人民と知識出版社)という学校用教材の出版社が1972年に発行した40ページの資料で、美術の副読本として使われていたようである。
この資料では、DDR時代に建てられた建築物だけでなく、それ以前の歴史的建築物の例として中世の街並みを色濃く残すクヴェドリンブルク(Quedlinburg)の教会や木組みの民家、旧東ドイツ各地の都市の市庁舎やマルクト広場、ドレスデンやポツダムの宮殿やベルリンの歴史的地区についてもかなりのページが割かれ、詳しく図解されている。
でも、そこの部分は別の機会にじっくり読むとして、今回集中したいのは27ページからの「ドイツ人民共和国における社会主義的な住宅建築および都市計画」の部分だ。この資料は現在の視点による客観的な資料ではなく、DDR時代の学校教材なので、当時の理想に基づいた記述がなされているという前提で読むことにしよう。
第二次世界大戦で瓦礫の山となった都市を復興するに当たり、社会主義国家となった東ドイツは社会主義的なコンセプトに基づいた都市開発に着手した。資本主義社会の産物である階級格差をなくし、労働者に人間らしい住環境を提供することが社会主義の理想の実現に不可欠であるとのモットーのもと、住宅の建設が特に重視された。この資料によると、「1949年から1975年までの間に190万戸のアパートが新築または改築され、500万人以上の国民の住環境が改善された」そうだ。西ドイツが引き合いに出され、「西ドイツでも低所得者向けの社会福祉住宅が建設されてはいるものの、家賃は最大で収入の50%にも及ぶのだから問題の解決にはなっていない。その点、東ドイツでは光熱費など含めても家賃が収入の8%を超えることはあり得ない」と誇らしげだ。
住宅の建設は当然、都市開発全体の中で行われたわけだが、既存の都市が社会主義の理想に基づいて再設計されただけでなく、産業都市としてアイゼンヒュッテンシュタット(Eisenhüttenstadt)やホイエルスヴェルダ(Hoyerswerda)の社会主義的ニュータウンなどが新設された。以下の過去記事でレポートした通り、アイゼンヒュッテンシュタットは「ザ・社会主義の町」という感じでとても興味深い。私のお気に入り東ドイツ都市ベスト3の一つ。
トム・ハンクスが絶賛する旧東ドイツの社会主義計画都市、アイゼンヒュッテンシュタット
資料に戻ろう。左上の写真はノイブランデンブルク市の中心部。ノイブランデンブルグは中世の市壁が残る古い小さな町だったが、DDR時代に大掛かりな開発によって拡大されたため、レンガ造りや木組みの古い建造物と社会主義的な建物がほどよくミックスされていてなかなかおもしろい町だ。下の写真はコットブス(Cottbus)中心部に作られたプラッテンバウ団地。
政治的・経済的・文化的中心地となった首都ベルリンの開発には当然のことながら、特別に力が入れられた。ソ連をモデルにして作られた大通りカール・マルクス・アレー(Karl Marx Allee)沿道のスターリン様式建築物を始め、東ベルリンには社会主義建築が密集している。ドイツ再統一から30年近く経った今は東ベルリンの街並みも随分変化したけれど、DDRの面影が完全に消えることはないだろう。
東ドイツではベルリンだけでなく小規模の都市でも中心部の空間づくりが広々としているのが特徴的だと感じる。ちなみに、社会主義の本家ロシアの首都モスクワはもちろんのこと、他の旧社会主義諸国へ行くと首都のデザインがよく似ていて、お揃いの建物も見つかる。
これも社会主義的な建築エレメント
今回紹介した資料はドイツ社会主義統一党(SED) による自画自賛的な出版物なので、基本的に良いことしか書いていないのだけれど、それでもモダンな高層住宅やその他の公共施設が建設された当時の東ドイツ社会の空気感をいくらか想像することができた。高層住宅のデザインやそこでの国民の暮らしについてもっと詳しく知りたいところだけれど、それにはまた別の資料を探すことにしよう。