去年の10月にMeyenburgという町の服飾博物館を見に行った。そこでは1900〜1970年代の女性の服装の歴史を知ることができ、面白かった。似たようなものが他でも見られないかなと検索したところ、ベルリン工芸博物館(Kunstgewerbemuseum Berlin)にもヨーロッパ服飾史の展示があるらしい。工芸博物館は去年の暮れに購入したベルリンの年間ミュージアムパスで入れる。これは行くしかない!

場所はベルリンフィルハーモニーの裏手。

1867年にロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館を手本にして建設されたこの博物館では中世から現代に至るまでの工芸品を見ることができるのだが、今回はその中の服飾に的を絞ることにした。

1730年代から1970年代までの女性の衣装及び装飾品が陳列されている。18世紀のヨーロッパではフランスがファッション界を牽引しており、当時の富裕層の女性のドレスといえば優美な「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」。胴部をコルセットで締め付け、スカート部分はパニエで横方向に広げていた。

1770年以降はフランスの啓蒙思想やイギリスの生活様式の影響により、新しいタイプのドレス、ネグリジェドレスが流行した。フランス革命後は簡素なハイウェストのシュミーズドレスに。着やすそう。

 

しかし、1840年代に入ると再びウエスト締め付け、スカートふんわりスタイルに逆戻り。

イギリスの昼間外出用ドレス。スカートを広げるためにはペチコートを重ね着する必要があったが、クリノリンと呼ばれるフレームが発明されたことでスカートはどんどん大きくなって行った。

舞踏用ドレス。踊りにくそう。

夏用ドレス。布地は薄いけれど、ドレープたっぷりで暑苦しそう。(自分が着ることを想像すると文句ばかり言ってしまう。

 

こちらは1880年代のインフォーマルなハウスドレス。インフォーマルなハウスドレスって部屋着のこと?それでこの形とは、当時の女性はさぞかし大変だったこと。自分では何もしなくても良い裕福な女性限定だったのだろうが、これでは家でゴロゴロしているわけにもいかない。

何しろ後ろがこれだから、、、。バッスルスタイルと呼ぶのだそう。

ひ〜。振袖の着付けも窮屈で辛いけど、こういう下着を長時間つけていたくはない。

コルセット。

ストッキングまでこんなに紐がついて、、、、。

ギャー。どうやって履いたの?足首部分が細すぎる。

1900年頃のSライン舞踏会用ドレス。少しシンプルになってほっとした。このデザインになると現代のドレスに通じるものがあるね。

でも、靴は妙に小さい。日本の現代のサイズだと22くらいだろうか。

黄金の1920年代のファッション。開放的で躍動的なギャルソンヌスタイルへ。

この頃の靴のデザインはもう現代のものと変わらない。

1940年代オフィスファッション。

あっ、これ可愛い。と思って見ると、イヴ・サン・ローランのデザインだって。こんなのは今着てもおかしくなさそう。

1950年代はやっぱり明るく楽しいね。

1960年代。母親のタンスの奥に眠ってそうなスタイルの服。もうここまで来るとヨーロッパの服飾史というよりもグローバルだろうか。

1970年代。個人的にはこれが一番気に入った。この未来感がいい。現在から見ると未来ではなく過去なんだけれど、それでも未来感があるよね。

 

展示された衣装や小物は美しかったし、興味深い展示だったけれど、女性とはどうあるべきかという時代の価値観がファッションに反映されていて女性の生き方について考えてしまった。現代でも米国ファーストレディの衣装が云々されたりするが、どうにも複雑である。お洒落は素敵なものではあるけれど、あまり期待されても困るというか、お洒落をするもしないも個人の自由が許される時代と立場でよかったとしみじみ感じた。

 

夫のライプツィヒ日帰り出張に便乗して、またライプツィヒへ行って来た。前回のライプツィヒ訪問では学校博物館でナチスの時代や旧東ドイツの学校教育について知り、とても興味深かった。私がドイツに来たのはベルリンの壁崩壊後だし、旧東ドイツに住むようになったのも10年ちょっと前からなので、旧東ドイツ(DDR)を実際に体験してはいない。しかし、旧西ドイツで生まれた私の夫の両親は西ドイツへ逃げた東出身者で、ときどき会話の中にDDRの話が出ることがある。私自身もごく短期間ではあったが、壁崩壊からまもない頃に東側でホームステイをした経験があり、DDRとはどんなところであったのか、気になってしかたがない。

これまで、ベルリンやその他の町のいろいろなミュージアムでDDR関連の展示を見て少しづつその姿を掴みつつあるのだが、ミュージアムごとにテーマの絞り方が違うので、全体的な戦後の歴史の流れをきちんと把握しているわけではない。そこで、今回はライプツィヒ現代博物館(Zeitgeschichtliches Forum Leipzig)へ行った。

 

町の中心部にあるので、アクセスがとても楽。

この博物館は、かつて西ドイツ首都だったボンに1994年に開館した歴史博物館、Haus der Geschichteの姉妹博物館の一つ。嬉しいことに入場無料だ。

展示フロアは2階が常設展示スペースで、1945年以降の旧東ドイツの歴史について展示している。年代順展示ではなくテーマ別展示でフロアをテーマごとにパーティションで仕切ってあるので広いのか狭いのかよくわからない。展示の仕方としてはややわかりづらい気がしたが、内容はとても興味深かった。

戦後のドイツ人追放により難民となってドイツ本国へ強制移住させられたドイツ人の数。現在、シリアなど紛争地域からの難民の受け入れを巡ってドイツの政策が国内外で激しく議論されているが、ドイツは他民族を難民として受け入れて来ただけでなく、同胞である難民を受け入れ、社会に統合して来た過去がある。戦後、東欧諸国からの民族ドイツ人を受け入れ、冷戦時代には西ドイツは東ドイツからの避難民を受け入れた。同胞を受け入れることと他民族を受け入れることは同じではないが、流入者の社会への統合という課題に常に向き合って来た歴史があるのだなと考え入ってしまった。戦後のドイツ人の強制移住については、ドイツ在住のギュンターりつこさんがその時代を生きた方へのインタビューに基いた素晴らしいブログ「月は登りぬ」を執筆されている。本当に貴重な体験談で、更新を楽しみにしているブログ。

これは連合国軍政下で行われたドイツの非ナチ化において公務員などの要職につく人々とナチ党との関わりを審査するために使用したアンケート用紙。

戦後、東ドイツはソヴィエトを手本に計画経済への道を進むことになる。私はこの「まにあっくドイツ観光」を始めてから旧東ドイツのいろいろな町へ行くようになったが、あちこちの博物館を眺めていて気づいたことの一つは「DDR時代には町や地域ごとに産業を分担していた」ということだ。例えば、ドイツ光学産業の発祥地、ラーテノウの光学博物館で、「旧東ドイツ時代のメガネはすべてラーテノウで作られていた」という文面を目にして「えええ?100%?それでは独占ではないの?」と一瞬びっくりして、その後に「あっ、そうか。社会主義時代は計画経済だったんだった!」と思い出した。

東ドイツ計画経済のマップ。ドイツ再統一後には旧東ドイツの産業が衰退して多くの失業者を生んだが、設備の老朽化や技術の遅れだけが原因ではなく、産業が地域ごとに固定され、いわゆるリスク分散ができない状態だったことも一因だったのかな。

1953年に東ベルリンで起こり、東ドイツドイツ全国に広がった労働者による政府に対する抗議行動、Volksaufstand。多くの死者を出すことになったこの暴動はソ連軍が出動して鎮圧された。

DDR時代の生活の様子。このような家具は現在はレトロな家具として結構人気があったりする。窓の外にはPlattenbauと呼ばれる高層のアパート群が建ち並ぶ景色。こうした光景は東ドイツだけではなく旧社会主義国の都市部ではどこでも見られるもので、どことなく日本の工業団地に似ていないこともない。最初にPlattenbauに住む夫の親戚を訪ねたとき、子供の頃、従兄弟が住んでいた社宅に遊びに行ったときの記憶がフラッシュバックした。西育ちの夫は「典型的な社会主義建築だよ」と言ったが、私はなんとなく懐かしさを感じたものだ。

ドイツ社会主義統一党(SED)の会議室。

政治犯輸送車。

写真は撮らなかったが、70年代にライプツィヒを中心に高まった平和・環境保護運動、そしてベルリンの壁崩壊を導くことになった反体制運動についてにも大きな重点が置かれていた。ライプツィヒは戦後の東ドイツの歴史において大きな役割を果たした町だ。ここにHaus der Geschichteの分館が置かれているのも頷ける。

「オスタルギーグッズ」。オスタルギーというのは郷愁を意味するドイツ語、ノスタルギーと東を意味するオストを組み合わせた造語だ。東ドイツの人々は日本人にはなかなか想像のできないような体制の下で長い年月を過ごし、そして自らの行動によって体制を打ち破って現在があるわけだが、今となってはDDRの時代をちょっと懐かしく思うという人も多い。もちろん、当時の社会体制を肯定しているわけではないはずだが、辛かった時代もDDRに生きた人たちにとっては大切な人生の一部であり、アイデンティティを形作る要素であることには変わりがないのだろう。

3階の特別展示フロアでは東ドイツのコミックに関する展示をやっていて、これも面白かった。

DDRのコミック、Mosaik。東ドイツでは出版物に対し厳しい検閲が行われていたが、このコミックシリーズだけは正真正銘面白い読み物だと子供達は夢中になった。1955年に初登場してから20年の間に223巻まで出版されるという人気ぶりだったという。

3人の小人Dig とDagと Digedagが繰り広げる冒険旅行は東ドイツ市民が行くことができなかった国々への想像をかき立て、夢を広げてくれた。

アメリカシリーズ、アラビアシリーズ、テクノロジーシリーズなど数多くのシリーズがあり、面白いだけではなく、なかなか勉強にもなる内容らしい。このコミックは現在も東西問わず根強いファンがいる。

しかし、子供達が漫画に夢中になることを好ましく思わない大人がいるのはどこでも同じなようで、旧西ドイツでも旧東ドイツでも「子ども達を漫画の悪影響から守ろう」運動が繰り広げられた時期があったとのこと。漫画のような低俗なものを読むとバカになる、不良になるとコミックを燃やしたり、コミックを持って来たら良い本と交換してあげますというキャンペーンをやったりしていたそうだ。

 

展示のごく一部しか紹介できなかったが、ドイツの戦後史、旧東ドイツの歴史の概要を知るのに良い博物館だと思う。個々のテーマについて詳しく知りたい場合には、それぞれのテーマについてもっと掘り下げて展示しているミュージアムがたくさんあるので補うと良いだろう。

この博物館は残念ながら1/29からリニューアルのため休館になるので、ギリギリ間に合って良かった。ボンにある現代史博物館の本家、Haus der Geschiteには20年以上前に一度行ったきりだが、また行きたくなった。

 

 

 

今年初めてニーダーラウジッツ地方へ行って来た。ニーダーラウジッツはブランデンブルク州南東の旧東ドイツ時代には豊富に埋蔵する褐炭でエネルギー産業を支えていた地方だ。ドイツ再統一により褐炭の採掘場や関連の工場、発電所の多くは閉鎖されたが、いくつかは産業遺産として保存され、観光化が進められている。そうした褐炭産業関連のスポットを巡る250kmに及ぶ観光ルートは「ラウジッツ産業文化・エネルギー街道」と名付けられている。ドイツに150以上ある観光街道の1つなのだ。

私はこれまでにそのうちのプレサ(Plessa)の 発電所ミュージアムやコトブス(Cottbus)のディーゼル発電所ミュージアムを訪れた。また、街道沿いではないが、やはり褐炭関連のオープンエアミュージアムFerropolis、褐炭採掘で掘り起こされた迷子石を集めた公園Findlingspark Nochtenにも行ってみたが、どれもとても面白い。ドイツの観光街道は日本ではロマンチック街道やメルヘン街道が有名だが、ラウジッツは褐炭観光というかなりマニアックで興味深い観光ができるのが魅力なのである。

さて、今回訪れたのは産業文化・エネルギー街道の目玉の一つであるオープンエアミュージアム、F60。なんとこのミュージアムでは褐炭の露天掘り場で実際に使われていた高さ74m、長さ502mという巨大なコンベアブリッジを歩いて渡ることができるのだ。周辺に大きな町はないのでアクセスは結構大変。

Lichterfeldという村が最寄りの村で、こんな感じ。

ドイツの村の作りにはいくつか種類があって、これはシュトラーセンドルフ(Straßendorf)というもので、1本の通りの両脇に民家が並び、一番向こうに教会が建っている。ブランデンブルクではこのタイプの村をよく見かける。過去記事で紹介したが、変わった集落タイプとしては広場を中心に丸く家が並ぶルンドリンクというのもある。

 

さて、集落のすぐ向こうはもうミュージアムである。視界に巨大なコンベアブリッジ、がどーんと登場した瞬間、思わず歓声を上げてしまった。しかし、あまりに大きすぎて駐車場からは全体像を撮ることができない。

ビジターセンターでガイドツアーに申し込むとこのコンベアブリッジに登ることができる。ツアーには何種類かあり、私たちは90分間のロングツアーに参加することにした。ロングツアーではコンベアブリッジの先端まで歩いて渡れるのだ。しかし、そもそもコンベアブリッジって何?という人は下の図を見て欲しい。

 

ちょっと見にくいかもしれないが、ビジターセンターに貼ってあった褐炭の露天掘り採掘場の写真だ。地下に埋まっている褐炭を掘り出すためには、まず掘削機で表土を剥ぎ取らなければならない。剥ぎ取った表土はすでに褐炭を掘り出した後の穴に入れて表面を均す。新しく剥ぎ取った表土はそれ以前に掘った穴に入れ、次に剥ぎ取る表土はこれから掘る穴に入れる、という要領で土を掘っては埋め、掘っては埋めしながら採掘用の溝は周辺にどんどん移動して行くのだが、この際に表土をこちらからあちらへと運ぶのがコンベアブリッジである。写真の左側から右に伸びる長い橋のようなものがそれだ。なぜF60という名前がついているかというと、ここで実際に採掘が行われていたときの溝の深さが60mに達していたから。このコンベアブリッジは世界でも最大規模のものなのだが、実際に使われていたのはなんとわずか15ヶ月だったらしい。通常はコンベアの寿命は40年ほどだそうだが、F60が建設が始まったのはベルリンの壁が崩壊する直前の1989年で、このコンベアブリッジが導入された炭田は1992年に閉鎖されたため、ほとんど使われないままお払い箱になってしまったというわけ。しかし、全部で5台建設されたF60のうち残りの4台は現在も稼働中だ。

 

では、登ってみよう。見学は高いところが平気なら子どもでも大丈夫だが、ヘルメットは必ず着用しなければならない。

コンベアブリッジの上まで登ったら、橋を歩いて先端まで行く。足場の網は目が細かく、左右の柵も結構な高さがあるので怖さは感じなかった。ところどころで立ち止まってガイドさんの説明を聞きながら進んで行く。

途中で後ろを振り返ったところ。このコンベアベルトで表土を運んでいたんだね。

渡っているときには歩くのに忙しくて周辺を眺める余裕があまりなく、先端についてようやく景色を眺めた。

ラウジッツ地方の露天掘り褐炭採掘場の多くは現在、人工湖になっている。このあたりは「ラウジッツ湖水地方(Lauziter Seenland)  」と呼ばれ、リゾート地として開発が進められているのだ。観光を新たな産業にすることで褐炭産業の衰退による人口の減少に歯止めをかけ、地域を活性化させることが狙いだ。

左の地面にソーラーパネルが並び、向こうには風車が見える。リゾート開発だけでなく、褐炭による火力エネルギーから再生可能エネルギーへの転換も進められている。

湖周辺にはビーチ、ボートハーバー、キャンプ場などを整備していく計画で、2005年からは湖での遊泳も解禁となった。(でも、湖水は今のところPH3.2と結構な酸性だそう、、、) また、湖面には宿泊施設としてハウスボートを浮かべる計画である。ハウスボートと言われても日本ではあまりピンと来ないかもしれないけれど、ドイツでは水上で宿泊できるハウスボートが人気で、エネルギー自給自足のハウスボートの開発も進んでいるのだ。

こうした再開発プロジェクトは地域に経済的メリットをもたらすと期待されているが、実はもう一つ大きな意義がある。それは環境保護としての側面だ。褐炭の大規模な採掘でこの地方の自然はすっかり破壊されてしまった。しかし、そのような環境にも「絶滅が危惧される動植物の繁殖地」としてのメリットがあるのだという。人がいなくなった場所には野生が戻って来る。実際、渡り鳥やオオカミなどが多く観察されるようになっており、自然保護団体、Naturschutzverbund Deutschland(通称NABU)が中心となって自然保護プロジェクトを次々と立ち上げているようだ。これについてはまた改めで掘り下げてみたいと思った。

さて、再び橋を渡って地上に降りよう。

晴天とはいえ、1月の寒空の下、90分歩いたらすっかり手が冷たくなってしまった。でも、すごく面白かったので大満足。

 

近頃、ベルリン周辺の都市の面白さがじわじわとわかって来た。ストーブ生産で栄えたフェルテン、光学産業の発祥地ラーテノウ、旧東ドイツ(DDR)の計画都市アイゼンヒュッテンシュタットなど、特色ある町が多い。たいして何もなさそうに見える場所でも、行ってみると実は歴史的に重要な町だったことが判明するのである。2018年のまにあっくドイツ観光第一回目はベルリン中心部から南西に35kmほどのところにあるケーニッヒ・ヴスターハウゼン(Königs Wusterhausen)へ行って来た。

 

 

町の中心部にお城がある以外はそれほど見栄えのしない町だが、ケーニッヒ・ヴスターハウゼンはドイツの歴史においてかなり重要な役割を果たしている。なぜかというと、ここは「無線の町」で、ドイツのラジオ放送はケーニッヒ・ヴスターハウゼンから始まったのだ。

ケーニッヒ・ヴスターハウゼンの丘で初めて無線通信実験が行われたのは1911年。デンマークの技術者、ヴォルデマール・ポールセン(Valdemar Poulsen)により開発されたポールセン・アーク送信機を使った送信実験だった。実験がうまく行ったことから1915年に送信所が建てられ、軍事通信が開始される。1919年からは帝国郵便の事業の一つとなり、本格的な設備が建設された。その後、いろいろあって(下で説明します)、現在は事業を行なっていないが、残った送信所の建物が無線技術博物館(Das Sender- und Funktechnikmuseum)として一般公開されている。

博物館入口。

メインの展示室では無線通信技術の発展とケーニッヒ・ヴスターハウゼンの無線事業の歴史に関する展示が見られる。

軍事通信で始まったケーニッヒ・ヴスターハウゼンの無線事業は1920年12月22日に歴史的な瞬間を迎える。ローレンツ社製のポールセン・アーク送信機を使い、ラジオ波に音楽の生演奏を乗せて放送したのである。郵便局の職員数名が集まり、ピアノといくつかの弦楽器、クラリネットを演奏し、歌を歌った。このクリスマスコンサートは英国、オランダ、ルクセンブルクや北欧などでも受信され、好評を得た。しかし、この時はまだドイツ国内では一般人がラジオを聴くことは法律で禁じられていたそうだ。

クリスマスコンサートの演奏が行われたスタジオのセット。

1923年にはラジオ放送が解禁となり、1926年からは毎週日曜日に音楽を放送するようになる。これはSonntagskonzerte(サンデーコンサート)として親しまれた。

当時、歌手は音響を良くするため、バスタブの前にマイクを置いて歌った。楽器奏者や歌手にとって、観客のいない状態で本番生演奏をするというのは慣れないことで、最初はなかなか難しかったらしい。

初期のラジオ受信機。

いくらか改良されたもの。

ケーニッヒ・ヴスターハウゼン送信局の設備は急速に拡張され、1926年には近隣のZessenにも新たな送信所が建設された。1929年にはドイツ発の短波放送が開始される。しかし、ナチスが政権を握ると、ラジオ放送は政治的プロパガンダの道具として利用された。

ナチス時代のラジオ受信機、Volksempfänger。「Volks(フォルクス)」というのは「国民の」という意味。

このようにドイツのラジオ放送の発祥地となったケーニッヒ・ヴスターハウゼンであるが、東ドイツのあらゆる産業と同じように、第二次世界大戦敗戦後、ロシア軍によって一旦解体され、旧東ドイツ時代に復活し、そしてドイツ再統一により廃業という運命を辿る。ああ、いつもいつもこのパターン、、、。

 

展示室は他にもいくつかあり、無線通信の様々な設備が見られる。

 

 

 

機械室にも入ってみよう。

機械室は現在はコンサートホールとして使われている。後ろや横の棚には古いラジオがずらり。

 

 

ケーニッヒ・ヴスターハウゼンの送信所のモデル。

全盛期には全部で22本あった鉄塔のほとんどは、すでに解体されてしまっている。

でも、一番高い243メートルの鉄塔、Mast 17は残されている。真下まで行ってみよう。

近くには古い給水塔も建っている。なかなかいい感じだ。

現在は給水塔としては使われておらず、記念物に指定されている。中はカフェ・ビアガーデンになっているようだ。では、コーヒーでも飲んで帰ろうかと思ったのだけれど、残念ながら現在、修理中でカフェはお休みだった。残念!

こちらのサイトで給水塔の内部の動画が見られる。

こんなわけで、ケーニッヒ・ヴスターハウゼンも興味深い町だということがわかり、とても満足。

 

2017年度もあとわずか。師走で慌ただしいのと日が短いのとで探索活動が停滞気味なのだが、先週、ベルリン在住のライター、久保田由希(@kubomaga)さんにお誘い頂き、素敵な場所へ行って来た。久保田さんはベルリンを中心にドイツのライフスタイルや都市文化、社会文化について幅広く発信されている。私は久保田さんの豊富な情報からよくヒントを頂いているのであるが、久保田さんによると、ベルリンの郊外には「ストーブの町」なる場所があるらしい。ストーブの町って?

ベルリン中心部から北西に約40kmに位置するフェルテン(Velten)は、19世紀から20世紀の初めにかけカッヘルオーフェン(Kachelofen)と呼ばれる陶製ストーブの生産で栄えた町だという。現在、そこにはドイツ国内でも類を見ない様々なカッヘルオーフェンを集めた博物館、Ofen- und Keramikmuseum Veltenがあるとのこと。カッヘルオーフェンというのは日本人には馴染みが薄いかもしれないが、ヨーロッパのお城などでよく目にする外側にタイルを貼った陶製放熱器(クローズ式のタイル張りストーブ)のことだ。面白そうなので、すでにフェルテンに行かれたことのある久保田さんの案内で博物館を見に行くことにした。

 

 

久保田さんとはフェルテンの駅で待ち合わせ。フェルテンは小さな町だが、駅前にはこのような、なかなか立派なベーカリーがあって、中で食事もできる。腹が減っては戦はできぬということで、まずは軽く腹ごしらえをすることに。(このときカメラを車の中に忘れたので、写真は久保田さんが撮影したものをお借りしてます)

©Yuki Kubota

意外にも、と言うのもなんだけれど、このベーカリーのパンはかなりレベルが高かった。他のパン屋では見かけないようなパンもあって、どれも美味しそう。店内の雰囲気も良い。

 

©Yuki Kubota

キョロキョロ見回すと、店の奥にカッヘルオーフェンがあった!

©Yuki Kubota

グレーの壁の前にあるのがカッヘルオーフェンである。ストーブ生産の全盛期にはフェル店には少なくとも37のストーブ工場があった。このカッヘルオーフェンもその一つで作られたものかもしれない。(未確認情報です)

 

食事を済ませたら、遅くならないうちに博物館へ行かなくては。なにしろ、今の時期はあっという間に暗くなってしまう。

フェルテン・ストーブ・陶器博物館(Ofen- und Keramikmuseum Velten)は、フェルテンの最後のストーブ工場、Ofenfabrik Schmidt, Lehmann & Co.の建物の中にある。1899年に建設されたこの建物は2012年に記念物に指定されている。

 

最上階が展示スペースで、そこには様々なスタイルのカッフェルオーフェン75台が展示されている。カッフェルオーフェンは暖房器具であると同時に調度品でもあり、ぱっと眺めただけでも形状や装飾にはその時々の流行があったことが伺える。

そもそもフェルテンでカッフェルオーフェンの生産が盛んになったのは、このあたりの土壌が石灰質を多く含む上質の粘土でレンガやタイル作りに適していたためだ。19世紀後半にドイツが建築ブームに湧くとストーブの需要も増大し、フェルテンに次々とストーブ工場が建てられた。フェルテンの上質な白いホーロータイルを使ったストーブはとても人気で、ベルリンだけでなくドイツ全国、そしてロシアまで運ばれた。

19世紀半ばからドイツでは様々な産業分野で技術革新が起こったが、陶器生産分野も例外ではなかった。1858年に技術士フリードリッヒ・ホフマンが考案し、特許を取得したホフマン窯(Ringofen)という技術は画期的で、釜を環状に配置し順番に利用することでエネルギー効率が大幅に改善した。これによって大量生産が可能となった。

上の写真からわかる通り、カッヘルオーフェンの陶製の放熱面には凝った装飾が施されているが、そもそもなぜこのような形になったのだろうか。このような発達図が貼ってあった。

最初はむき出しだった火床を半球状のフードで覆うことで熱をストーブ内部に蓄えることができるようになった。蓄熱力を高めるようフードが次第に大きくなり、デザイン的・装飾的要素が加味されていったということだろうか。

順不同だが(ミュージアム内では年代順に展示されているのだが、よくわからなくなってしまった)、いろいろなデザインがあって、見ていて楽しい。

 

 

 

 

Damenzimmerofen(婦人の間のストーブ)。

これは子ども部屋用ストーブ。

子供部屋らしい模様?子ども部屋にこんな立派な暖房器具が置かれたことに現代の庶民の私は唖然としてしまうが、このストーブは表面がそれほど熱くならず、熱風が吹き出して来ることもないので、火傷の危険がなくて子ども部屋に適しているのかもしれない。カッヘルオーフェンは溜めた熱をゆっくりと放射して広い室内も満遍なく暖める。ミュージアム内の煙突部分にはベンチ型の座れるカッヘルオーフェンもあったので、試しに腰掛けてみた。座面と背面のタイルはじんわりと暖かく快適で、ゆっくりと本でも読んでいられそうだ。

 

これはマイセン産のカッフェルオーフェン。食器であまりに有名なマイセンだが、カッヘルオーフェンも生産していた。短期間のうちにベルリンのタイル市場で大きなシェアを占めるようになり、フェルテンのメーカーにとって強力なライバルとなったが、マイセンの粘土はフェルテンのものよりも耐火性により優れていたが、タイル表面に細かいヒビが入りやすいという特徴があった。

ところで、フェルテンのタイルはストーブに使われていただけではない。ベルリンを訪れた人なら、ベルリンの地下鉄の駅の壁には駅ごとにそれぞれ色の違うタイルが貼られているのを知っているだろう。地下鉄の駅にもフェルテンで製造されたタイルが使われているのだ。

 

ベルリンの周辺には、第二次世界大戦敗戦とそれに続く旧東ドイツ時代の社会主義体制の中ですっかりと産業が廃れてしまったが、戦前には重要な産業都市だったところが少なくない。小さな町のミュージアムだからたいしたことがないだろうと決めつけずに入ってみると、ベルリンの興隆とともに発展したそれらの町の過去を想像することができて面白い。

実はこのストーブ博物館の隣にはもう一つHedwig Bollhagen Museumというミュージアムがある。20世紀を代表するドイツの陶芸家の一人、ヘートヴィヒ・ボルハーゲンの作品が見られる。せっかくなので、こちらにも寄ってみた。

私はどちらかというと陶器は日本のものが好きで、洋食器にはそれほど魅力を感じないのだけれど、ボルハーゲンの陶器はとても気に入った。このミュージアムではオーディオガイドでボルハーゲンの一生についての説明を聞きながら、彼女の作品の多様なデザインを楽しむことができる。

 

 

私は幾何学的な模様が好きなので、写真のような作品が特に気に入ったが、花柄や動物柄など、いろいろなものがある。興味のある方は、こちらのサイトのギャラリーをどうぞ。

ボルハーゲンはその人物像も興味深い。ストーブとは別テーマなのでこの記事では詳しく紹介しないけれど、久保田さんがご自身のブログやNHKドイツ語テキストなどで書いておられるので、例えば、フェルテン近郊マルヴィッツにあるボルハーゲンの工房取材後に書かれたこちらの記事などをお読み頂ければ。

 

二つのミュージアムを見て外に出たらもう薄暗かったので、町歩きはできなかったが、再びお腹が空いて来たので、町の中心部に見つけたイタリアンレストランでパスタを食べながら久保田さんといろいろお喋りして楽しかった。そんなわけで久保田さんのお誘いで良い観光ができたというのに、記念のツーショットを撮ることをすっかり忘れていた私である。どうも多方面に気が回らないんだよね、、、。

久保田さん、どうもありがとうございました。

さて、いつもは一人寂しく(?)、または夫を付き合わせて実行している「まにあっくドイツ観光」ですが、アイディア提供、コラボのお誘いなど歓迎です。「うちの近くにこんな場所あるよ!」とか「こういうところへ行くけれど、一緒にいかが?」などありましたら、お気軽にツイッター(@chikacaputh)を通してメッセージください。ドイツ国内に限らず、番外編として周辺諸国へも喜んで行きますよ。

 

 

 

先日、シュヴェービッシェ・アルプの洞窟群を訪れるため、南ドイツのハイデンハイムという町に1週間ほど滞在した。ハイデンハイムを拠点としてブラウボイレンやローネ渓谷など、考古学的見所を回っていたのだが、地図を眺めていたらハイデンハイムはオーバーコッヘン(Oberkochen)が近いことがわかった。オーバーコッヘンは小さな町だが、光学に関心のある人ならきっと知っているだろう。世界的光学機器メーカー、カール・ツァイス社(Calr Zeiss)の本社のある町だ。

ツァイス社は1846年、旧東ドイツのイェーナに設立されたが、第二次世界大戦でドイツが敗戦すると東の「カール・ツァイス・イェーナ」と西の「カール・ツァイス・オプトン」(オーバーコッヘン)に分断され、それぞれ独自の発展を遂げた。ドイツ再統一後、両社はツァイス・イェーナがツァイス・オプトンに吸収される形で統合された。現在、イェーナとオーバーコッヘンのそれぞれに光学博物館がある。これまでにイェーナのツァイス光学博物館とドイツ光学産業の発祥地であるラーテナウの光学博物館を訪れ、どちらもとても面白かったので、オーバーコッヘンのツァイス博物館、ZEISS Museum der Optikへも行ってみることにした。

 

 

光学博物館は独立した建物ではなく、ツァイス社のビルの中にある。1階部分がミュージアムスペース。

見学は無料で、フロアに入ってすぐの場所にツァイス社のプラネタリウム投影機がどーんと置かれている。

 

イェーナの光学博物館とは異なり、博物館というよりもどちらかというとショールーム的な空間だ。フロア中央部にはツァイス社製の医療機器など、最新のプロダクトも展示されている。

 

光学や天文学の歴史、技術史のコーナーもあり、中高生の学習にちょうど良さそうだ。

 

天文学史の展示でザクセン=アンハルト州ネブラで発掘された世界最古の天文盤、ネブラ・ディスクが紹介されていたので嬉しくなった。ネブラ・ディスクについては過去記事で紹介した。

 

館内にはツァイス製のプラネタリウムもある。

 

ツァイス製レンズを使用したカメラのディスプレイ。プロター、プラナー、テッサーなどツァイスの名レンズも見られる。

 

展示を見ていたら、突然「東郷平八郎」の名前が出て来たのでおやっと思った。「東洋のネルソン」と呼ばれた明治時代の海軍指揮官、東郷が日露戦争において日本を勝利に導くことに成功したのには、ツァイス製レンズが一役買っているという。東郷はツァイスの双眼鏡を使っていたそうだ。へえー。

 

他にも様々なものが展示されていたが、あまり写真を撮らなかったので今回はこれだけで。

 

ドイツ光学産業の歴史やツァイス社の歴史を詳しく知るにはイェーナのツァイス博物館の方が展示が充実していると感じたが、ツァイス社の歴代プロダクトや最新技術に興味がある場合はこちらが良いのかもしれない。私は光学の知識がほとんどないので技術的内容は消化できないが、これまでラーテノウ、イェーナ、オーバーコッヘンと回って来てドイツの産業史に興味を持つようになった。光学以外の分野の歴史も今後、探ってみたい。