ベルリンやその周辺のブランデンブルク州は大部分が平地で石切場がほとんどない。こちらの記事に書いたように、古い建物は氷河によって北欧から運搬されて来た野石を積んでものか、レンガ造りが多い。レンガの建物は古くは中世から建てられていたが、教会や修道院などに限られていた。一般的な建物にもレンガが普及したのは、技士フリードリヒ・エドゥアルト・ホフマン(Friedrich Eduard Hoffmann)が考案し、1859年に特許を取得したホフマン窯(Hoffmannscher Ringofen)によってレンガの大量生産が可能になってからである。(ホフマン窯については、過去にウェルダー市グリンドウで窯を見学した際にまとめたので、興味のある方は以下の記事をお読みください。)
カルクリーゼでは17世紀から、しばしばローマの金貨が見つかっていた。1885年に歴史家 Theodor Mommsenの依頼を受けた鑑定家 Julius Menadierが、それらの金貨はウァルスの戦いの際に兵士らが失ったものであると結論づけたが、そのときには兵器は発見されず、決定的な証拠にはならなかった。1987年にTony Clunnが大量の銀貨を発見したことで、ここがウァルスの戦いの現場であった可能性が急激に高まったのである。
これから3回に分けてニーダーザクセン州オスナブリュック近郊の自然公園、TERRA.vitaの見どころを紹介しようと思う。正確にはTERRA.vita Natur- und Geopark(テラヴィタ自然・地質学公園)という名称で、オスナブリュック市を中心に北西から南東に斜めに広がる約1550㎢の大きな自然公園だ。6つのエリアを包括し、見どころがたくさんあるが、特に地質学的に面白い場所が多いようでUNESCOグローバルジオパークに登録されている。
広大で見応えたっぷりなZehdenickのレンガパーク、Ziegeleipark Mildenbeg
その地方に特徴的な建材に興味がある。古い建物の多くにはその土地で採れる木や石が使われている。建材が町並みや村の風景を作り、地方ごとに異なる味わいを生み出しているのが魅力的だ。
ベルリンやその周辺のブランデンブルク州は大部分が平地で石切場がほとんどない。こちらの記事に書いたように、古い建物は氷河によって北欧から運搬されて来た野石を積んでものか、レンガ造りが多い。レンガの建物は古くは中世から建てられていたが、教会や修道院などに限られていた。一般的な建物にもレンガが普及したのは、技士フリードリヒ・エドゥアルト・ホフマン(Friedrich Eduard Hoffmann)が考案し、1859年に特許を取得したホフマン窯(Hoffmannscher Ringofen)によってレンガの大量生産が可能になってからである。(ホフマン窯については、過去にウェルダー市グリンドウで窯を見学した際にまとめたので、興味のある方は以下の記事をお読みください。)
【関連記事】 300年の伝統を守るレンガ工場、NEUE ZIEGELMANUFAKTUR GLINDOWでホフマン窯の中を見学
レンガは粘土から作られる。ベルリン周辺(つまり現在のブランデンブルク州)には粘土の産地がたくさんある。その中で最も規模が大きかったのはベルリンの北にあるツェーデニク(Zehdenick)を中心とする地域だ。19世紀後半にベルリンに多くの労働者が流れ込み市内の人口が急増したとき、大急ぎで住宅を建設する必要があった。その際に建材として使われたレンガの多くがツェーデニク産だった。ドイツ再統一後、ツェーデニクではもうレンガの生産は行われていないが、かつての工場跡地がレンガのテーマパークになっている。そのパーク、Ziegeleipark Mildenbergにブランデンブルク探検仲間のローゼンさん(@PotsdamGermany)と一緒に見学に行って来た。
うちから車で行ったのだけど、道を間違ったり、ナビに変な道に誘導されたりして、えらい時間がかかってしまった。辛抱強いローゼンさんは道中、文句の一つも言わない。延々3時間の移動後、ようやく現地に到着。で、結果から言うと、レンガパークははるばる行った甲斐のある、大変見応えあるミュージアムだった。
入り口のすぐ横にいきなり立派なホフマン窯が立っている。このテーマパークはヨーロッパ産業遺産の道(European Route of Industrial Heritage, ERIH)のアンカーポイントの一つ。その広大な敷地には4基のホフマン窯の他、粘土の処理施設や粘土の運搬に使われたレール、東ドイツ時代の設備などが残っていて、近郊で採掘された粘土が搬入され、レンガとなって隣接する港から搬出されるまでの行程や近代化の歴史を知ることができるのだ。(敷地の地図はこちら)
パーク内に見どころが点在していて、どこから見始めたらいいのかわからない。入場チケット料金に列車でパークを一周するガイドツアーが含まれているので、先に全体像を捉えてから個々の展示を見るとわかりやすいと思う。
グリンドウのレンガ工場で見たホフマン窯は円形だったが、このパーク内のホフマン窯は全て楕円形である。窯の仕組みについては上記の過去記事に書いたのでここでは割愛しよう。
ツェーデニクを中心とするハーフェル川沿いの土壌に粘土が豊富に含まれるのは、ブランデンブルクの地形が氷河地形であることと関係がある。最終氷期(ヴァイクセル氷期)が終わったとき、溶けた氷は川となって一帯を流れた。その際に堆積した細かい粒子が深さ12mにも及ぶ粘土の層を作った。1885年から1887年にかけてこの地方に鉄道が敷かれた際、豊富に埋蔵する粘土が偶然見つかった。折しもベルリンは建設ブームの最中で、大量の建材を必要としていた。1890年にツェーデニクのミルデンベルク地区に最初のレンガ工場が建てられ、それから周辺に雨後の筍のように次々とレンガ工場ができていった。最盛期にはこの地域は63基ものホフマン窯が稼働する欧州最大のレンガ生産拠点の一つに発展した。それから東ドイツ時代を経て1990年にドイツが再統一されるまでの間、ここではノンストップでレンガが焼かれ続けたのだ。
焼きあがったレンガは隣接する港から水運でベルリンへと運ばれた。最盛期には1日に30槽もの船がレンガを載せてベルリンに向け出港した。帰りは工場稼働のための燃料となる石炭がツェーデニクへ運ばれて来た。
レンガというと、赤レンガを真っ先に思い浮かべるよね?でも、ツェーデニクのレンガはあまり赤くない。黄色から肌色、もしくはピンクがかった淡い色合いのものが多いのだ。そして、土壌の性質上、ツェーデニク産の粘土はあまり上質とはいえず、建物の外壁に使うのには適していなかった。そのため、首都ベルリンでは市庁舎など見栄えが大切な建物にはより上質な他の産地のレンガがよく使われ、ツェーデニク産のものは主に労働者用のアパートなどに利用された。上から漆喰を塗って隠してしまえば質はさほど問題にならなかったから。
水分をたっぷり含んだ粘土は重く、掘り出すのも運ぶのも形成するのも大変だ。初期のレンガ生産は大部分が手作業で、ものすごい重労働だったが、次第に上記の画像のエキスカベーターなどを含むいろいろな機械が発明され、近代化されていく。
現在は草ボウボウでやや廃墟化しているけど、1839年に建設されたStackbrandtレンガ工場は当時、欧州で最も近代的な設備を備えていた。それまでは春から秋までの季節労働だったレンガ生産を通年で行うことが可能となり、生産性が飛躍的に向上した。
第二次世界大戦後はツェーデニク周辺のレンガ工場が一つにまとめられ、人民公社となってレンガ生産が継続された。このエポックに関する展示も面白かった。
パーク内の建物それぞれに展示があって、情報量が多い!5時間ほど滞在したけれど、半分くらいしか見ることができなかった。ツェーデニクのレンガ生産が多くの季節労働者によって支えられ、彼らがこの地域の社会文化の形成に重要な役割を担っていたことや、強制労働が行われていた時代もあったことなど、社会史もとても興味深い。ツェーデニクという地名は普段ほとんど耳にしないが、首都ベルリンはツェーデニクのレンガによって作られたと言っても言い過ぎではないだろう。今は過疎地が多いブランデンブルク州は「田舎」「何もない」などと小馬鹿にされることが多いんだけど、ブランデンブルクのかつての産業地を巡っていると、ベルリンの発展がいかにブランデンブルクに支えられていたかを感じるのだ。そのような視点で見るとブランデンブルクは実に面白い。
レンガパークでは展示を見るだけでなく、レンガ作り体験もでき、広ーい敷地には子どもの遊び場や小さな動物園もある。パークのすぐ外側にキャンプ場も整備されているので家族連れで訪れるのにも良さそう。でも、この日は平日だったからか、訪問者はほとんどいなくて、ほぼローゼンさんと私の貸切状態だった。入園料わずか8ユーロでなんと贅沢なんでしょう。
UNESCOグローバルジオパークTERRA.vita特集 3 カルクリーゼの「ウァルスの戦い」の現場を歩く
TERRA.vitaには自然や地質学的な見どころが多いが、それだけではなく、歴史や考古学の重要スポットもある。TERRA.vita特集の最終回の今回は考古学スポット、カルクリーゼ(Kalkrise)のVarusschlachtミュージアムを紹介したい。
前回の記事で紹介したバークハウゼンの恐竜の足跡を見に行くために車を走らせていたとき、”Varusschlacht”と書かれた看板を見かけた。私はそれが何を意味するか知らず、そのままスルーしかけたが、夫が「へー、Varusschlachtの現場ってこの辺か〜」と呟いた。「何それ?」「ほら、ゲルマン部族が一致団結してローマ軍を倒した戦いの場だよ」「ん?それって、もしかしてトイトブルク森の戦いってやつ?」「そうそう、それ!」「あれっ?でも、トイトブルクの森って、ここよりももうちょっと南じゃなかったっけ?」「それがね、戦いの現場がどこだったのか長いことわかってなくて、トイトブルクの森のデトモルトのあたりとされていたけど、わりと最近、その現場らしい場所が見つかって、トイトブルクの森とはちょっと離れていたらしいよ」
へー、そうなんだ。なんかよくわかんないけど、せっかく通りかかったから行ってみる?
Varusschlacht(日本語では「ウァールスの戦い」や「ウァルスの戦い」と表記されるようだ)の現場とされる場所は、オスナブリュックの北17kmほどに位置するブラームシェ(Bramsche)という町の一部、カルクリーゼ(Kalkrise)にある。看板を見ながら行くと、ミュージアムがあった。
「ウァルスの戦い」の背景を先にざっくりまとめておこう。
「ゲルマン人」という概念は2世紀にケルト人による記述によって初めて歴史に登場し、その後、古代ローマ人が使うようになり定着した。しかし実際には、ゲルマン諸部族は部族ごとに分かれて生活し、それぞれの部族名のみで自らを認識していた。当の本人達は「オレたちゲルマン人!」というような統一的なアイデンティティは持っていなかったのだ。それどころか、部族同士でたびたび衝突していたほどで、一致団結して非ゲルマン系の民族と戦うという発想は希薄であった。古代ローマ帝国はそんなゲルマン諸部族の住む地域、つまり彼らが勝手に「ゲルマニア」と呼ぶ地域を支配下に置こうと、紀元7年、プブリウス・クィンクティリウス・ウァルスをゲルマニア総督として派遣する。ゲルマニアにやって来たこのウァルス総督はわりあいと穏健派で、力づくでゲルマン諸部族を征服しようとはせず、かれらをうまく手懐けているかのようだった。特にケルスキ族の長とは親交が深く、共に食事をし酒を酌み交わすことすらあった。というのも、ケルスキ族の長の息子アルミニウスは、幼少期にローマに人質に取られ、ローマ式の教育を受けて帰って来た青年だった。帰国子女(?)なのでラテン語もペラペラで役に立つ。しかし、そんな一見、平和的な空気の裏で自由を愛するゲルマン諸部族は「ローマ人にコントロールされたくない!」「貢ぎ物ばかりさせられて、たまったもんじゃない」と不満を募らせていた。
ウァルス総督に信頼を寄せられていたアルミニウスだったが、頭はローマ人でも心はやっぱりゲルマン人であった。密かにゲルマン諸部族をまとめ、ローマ軍打倒計画を企ていたのだ。そして、紀元9年、アルミニウス率いるゲルマン軍は森の中でローマ軍を待ち伏せ攻撃し、ほぼ全滅させるという大勝利を収める。裏切られて敗北し、ショックを受けたウァルス総督は自害した。これが「ウァルスの戦い(Varusschlacht)」だ。ローマの歴史家タキトゥスはかの有名な著作「ゲルマニア」の中でこの戦いについて記述した。でも、その具体的な場所は書かなかったので、戦いの場所がどこだったのか、はっきりしたことは長いことわからなかった。きっとここだろうという候補地がなんと700箇所くらい上がっていたらしい。1987年、英国人のアマチュア考古学者がカルクリーゼで古代ローマの銀貨と武器を発見。それをきっかけにカルクリーゼにおける考古学発掘プロジェクトが開始した。
それでは博物館を見ていこう。
博物館の展示はローマ人とゲルマン人の社会や文化の違いの説明から始まっている。ローマ社会は周知の通り、ヒエラルキーが明確である。それに対し、
ゲルマン人は部族ごとに暮らし、統一的な王や皇帝はいない。部族によっては貴族階級的な集団がいたり、明確なリーダーがいる場合もあったが、多くの部族については詳しいことはわかっていないらしい。タキトゥスによると、ゲルマン部族にはお役人は存在せず、何かあれば新月の夜にディング(Thing)と呼ばれる会議を開いてみんなでどうするかを決めていたそうだ。でも、ゲルマン人に関して残っている当時の記述はほぼすべてローマ人目線のものなので、本当に書かれている通りだったのかはわからない。
ゲルマン人はローマ人のように整備された都市を作らず、小さな集落を作って暮らしていた。画像のような長屋を人間と家畜のスペースに区切って、一つ屋根の下で生活するのが一般的だった。
このように立派なローマ兵士の武装具と比べ、
ゲルマン戦士の装具はミニマル。ゲルマン人は組織化された軍隊を持たず、戦いへの参加は各自の自由意志に委ねていた。
カルクリーゼでは17世紀から、しばしばローマの金貨が見つかっていた。1885年に歴史家 Theodor Mommsenの依頼を受けた鑑定家 Julius Menadierが、それらの金貨はウァルスの戦いの際に兵士らが失ったものであると結論づけたが、そのときには兵器は発見されず、決定的な証拠にはならなかった。1987年にTony Clunnが大量の銀貨を発見したことで、ここがウァルスの戦いの現場であった可能性が急激に高まったのである。
また、その翌年にはローマの鉛弾とみられる小さな楕円形の物体が発見される。
そして、1990年、カルクリーゼの森に幅およそ15m、高さおよそ40cmの土塁の跡が見つかった。
その後の発掘調査で出てきたものの中で特に注目を浴びたのが、このローマ騎兵の鉄のマスクである。また、動物の骨も多く見つかり、その中にラバの骨も混じっていた。ラバは雄のロバと雌の馬を交雑種である。ゲルマン人はロバを飼っていなかったので、ラバが生まれたはずはなく、ローマ人が連れて来たと考えられる。
このように、カルクリーゼでローマ軍とゲルマン軍が衝突した証拠がいろいろ出て来たことはわかったけど、組織化された軍隊の優れた装具と武器を身につけたローマ兵士達がそれとは比べ物にならないほど原始的なゲルマン軍にあっさりと破れたのはどうしてだろう?
それは、カルクリーゼの地形にあった。カルクリーゼの周辺一帯は沼地で、地盤が柔らかく歩くのがめっちゃ大変。しかも、アルミニウスがローマ軍をおびき寄せた日は嵐で視界も悪かった。ゲルマン軍は小高い砂地の丘の縁に土塁を築き、その後ろに隠れて上から一斉に槍を投げてローマの兵士らを次々と倒したのだった。戦いは3日間続き、2万人もの犠牲者を出した。
一通り展示を見た後、ガイドさんについてフィールドを歩く。背後に見える森はゲルマン軍が隠れていたとされる場所。手前の四角い石はローマ軍が行進した道を示している。
ところで、アルミニウスという名前はゲルマン系の名前ではない。彼はローマに人質に取られていたためアルミニウスというローマ名を与えられたが、もともとはなんという名前だったのか、誰も知らない。ドイツの歴史において、アルミニウスに対する評価は時代とともに変化した。ドイツ民族の誇りとして英雄視された時期もある。その際に、ドイツ人の英雄の名前がローマ名ってどうなのよ、ということで、ヘルマン(Hermann「戦士」の意味)と呼ばれるようになった(現在はまたアルミニウスという呼び方が一般的)。普仏戦争後のドイツのナショナリズムの高まりの中では不屈のシンボルとして特に崇められ、1875年には当時、ウァルスの戦いの現場と推測されていたデトモルト(Detmold)に高さ54mに及ぶヘルマン像が建てられている。
カルクリーゼの発掘調査は今も続行中だ。この日は休日だったので、考古学者らもお休みで、現場は防水シートで覆われていた。ガイドさんが「最近、またすごいものが見つかったんですよ。9月25日にプレスリリースがあるので期待してくださいね」と言っていたので楽しみにしていた。
昨日発表されたプレスリリースによると、2018年に出土された大きな金属の物体を分析したところ、ローマ兵の鎧であることが判明したそうだ。ほぼ完全に保存されており、しかも、それを身につけていた兵士は手錠で両手を首のあたりに固定されていたこともわかった。これについてもまとめると長くなり過ぎるので、またの機会にしよう。興味のある方はこちら(英語ページもあり)を参照してください。前述のようにこのあたりの土壌は水分が多いので発掘調査はかなり大変らしい。まだまだ多くのものが埋まっていると推測されるそうで、今後の進展が楽しみだ。
これにてUNESCOグローバルジオパークTERRA.vitaの3つのスポット紹介を終わります。ジオパークには他にもたくさんの見どころがあるので、また行きたいな。
UNESCOグローバルジオパーク TERRA.vita特集 2 バークハウゼンの恐竜の足跡
前回に引き続き、オスナブリュックを中心に広がるUNESCOグローバルジオパーク、TERRA.vita内の見どころを紹介しよう。今回のスポットはバークハウゼン(Barkhausen)というところにある恐竜の足跡が残る岩壁だ。
恐竜の足跡を見るのは実は初めてではない。これまでにフランクフルトのゼンケンベルク自然博物館やゲッティンゲン大学地学研究所博物館で恐竜の足跡のついた石板を目にして感動した。でも、今回訪れるバークハウゼンでは博物館の中ではなく、それが発見された場所で直に見ることができるというのだから、さらにエキサイティング。
バークハウゼンという地名の場所は複数あるので、間違わないよう注意が必要だ。目当ての場所はバート・エッセン(Bad Essen)という保養地の近郊にある。手入れの行き届いた木組みの家がたくさん残る、とても可愛い町だった。
泊まったのは古い薬局を改装したホテル。このホテルがとてもよかったな。中はセンス良く改装され快適で、客室の洗面台に置かれた歯磨き用コップがビーカーだったりとディテールも楽しめた。かなりおすすめ。
ここに1泊して、翌朝、バークハウゼンに向かった。
森沿いの道路脇に小さな看板が出ていて、森の小道を入って数分歩くだけ。
恐竜のモデルがお出迎えしてくれる。
看板の説明によると、これはカマラサウルスという草食の竜脚類である。長い首で木の高いところにある葉を食べ、その際に長い尾で体を支えていた。竜脚類の中では小柄な種だそうだ。体はずいぶんカラフルな色と模様に塗られているけれど、実際にどんな色をしていたのかはわかっていないはずだから、想像によるものだろう。
その先に進むとまもなく恐竜の足跡の残る岩肌が見えて来る。
うわあ〜、迫力!巨大な足跡がはっきりくっきりとついている。そして、よく見ると2種類の違う生き物の足跡であることがわかる。
1種類は丸くて、ゾウの足跡に似ている。
もう1種類は三つ指。かなり地面にめり込んでいる。
天井が設置されている部分だけでなく、その横の岩にもたくさん足跡があった。研究者らの分析の結果、この岩の上を少なくとも11匹の恐竜が歩いたことが判明しているそうだ。そのうちの9匹は「バークハウゼンで発見されたゾウのような足をもつ恐竜」ということで、Elephantopoides barkhausenensisと名付けられた。竜脚類に属する草食の恐竜で、この岩面の上から下に向かって群れで移動したとみられる。足跡のいくつかは小さいく、子どもの恐竜も混じっていたことを示唆している。残る2匹は二本足歩行の肉食恐竜、Megalosauropus teutonicus(「ドイツのメガロサウルス」の意味)で、そのうち1匹は下から上へ、もう1匹は左から右に向かって移動した。
といっても、恐竜たちが斜面をダダダと走り降りたり、駆け登ったり、カニのように横歩きをしたわけではない。現在、ここはWihengebirgeという名の山だけれど、約1億5300万年前は平らな砂浜だったのだ。恐竜たちが砂浜につけた足跡は高温な気候のもとで乾き切り、その上に堆積物が積もって幾層もの地層となった。そして彼らの足跡は地中深くに埋もれ見えなくなった。
それがなぜ今、こうして岩の壁となって私の目の前にはだかっているのか?それは、かつて海岸だったこの地が後の白亜紀に隆起して山になったからである。そのとき、恐竜たちの足跡が保存された地層も一緒に押し上げられた。20世紀になって、このあたりでは石が切り出されるようになった。そして、1921年、ある一人の地質学者がむき出しになった地層に恐竜の足跡を発見したのだった。学術的に記述されたのは1974年になってからで、1982年からは天然記念物として保護されている。
これはかなり見応えがある。わざわざ見に来てよかった!でも、実はドイツの結構あちこちで大型古生物の足跡が発見されているんだよね。たとえば、過去記事に書いたように、フランケン地方でもいろいろな足跡化石が見られる。
上記以外の足跡化石の見られる場所は自作の「ドイツ恐竜関連スポットマップ」に登録してあるので、近くへ行く用があったらついでに見に行きたい。
UNESCOグローバルジオパークTerraVita特集 1 ピースベルクとオスナブリュック産業文化博物館
これから3回に分けてニーダーザクセン州オスナブリュック近郊の自然公園、TERRA.vitaの見どころを紹介しようと思う。正確にはTERRA.vita Natur- und Geopark(テラヴィタ自然・地質学公園)という名称で、オスナブリュック市を中心に北西から南東に斜めに広がる約1550㎢の大きな自然公園だ。6つのエリアを包括し、見どころがたくさんあるが、特に地質学的に面白い場所が多いようでUNESCOグローバルジオパークに登録されている。
公園内の3つのスポットを訪れた。今回紹介するのはオスナブリュック市郊外にあるピースベルク(Piesberg)という山とオスナブリュック産業博物館だ。なぜピースベルクへ行こうと思ったのかというと、石炭紀の化石が拾いたかったから。当ブログで何度も書いているように、私と夫は最近、化石収集にハマっていて、ドイツ国内のあちこちの地層から出る化石を集めている。これまでにデボン紀から古第三紀までの地質時代の化石を拾ったが、石炭紀のものはまだ持っていなかった。オスナブリュックのあたりは約3億年前、つまり石炭紀には海岸沿いの湿地帯だった。やがてその一帯の植物は枯れて地中に堆積し、石炭となった。だから、ピースベルクからは石炭紀の植物化石が出る。以前、訪れたエッセン市のルール博物館であまりに見事な石炭紀の植物化石の標本を目にして以来、石炭紀の化石は私にとって憧れである。
ピースベルクへの山道を車で登るとオスナブリュック産業文化博物館というのがあったので、入ってみた。
博物館の建物はかつての炭鉱の建物で、パッと見たところ建材は私の住むブランデンブルク州では見かけないものだ。色や質感から推測するに、砂岩のようだ。後で知ったところによると、ピースベルクでは石炭だけでなくピースベルク砂岩という砂岩も採掘されて来たらしい。
博物館の中には過去150年ほどのオスナブリュックとその周辺地域の産業に関連する展示品が並べられている。蒸気機関のような大型機械から家電、工具、工場の設計図などいろいろなものがあって楽しめる。
建物の内壁には漆喰が塗ってあるのだけど、展示の一要素としてなのか、中の建材がむき出しになっている壁があった。立派な外観の建物なので、中のブロックは整然と積まれているのだろうとなんとなく想像していたけど、いろんな種類と大きさの石材が結構無造作に積んであって意外だ。こういうものなんだろうか?
炭鉱に関する展示にはかなりのスペースが割かれていて、炭鉱で見つかった植物化石の標本もあった。そうそう、こういうのが好きなんだよね。
博物館の展示スペースはかなりの広さだが、この博物館の目玉はかつての坑道内を歩けること。
こういう地下道、大好き!
この坑道はよく整備されてそれほど暗くもなく、今までに入ったことのある坑道と比べて特にスリリングというわけではないかなあ。でも、長さは30メートルもあって、その点では歩きがいがある。
興味深く思ったのは坑道内にあったこの図で、石炭の層は山の斜面に沿って何層もあり、ところどころ断層ができていることがわかった。私が歩いている坑道は一番上の石炭の層から採掘した石炭を地上に運び出すための水平のトンネルというわけね。
博物館の敷地はかなり広く、他にもいろいろ見どころがある。でも、ここでは省略して、いよいよ炭鉱跡へ行ってみよう。
道路を渡って山を登り出すと、石炭を運ぶトロッコ列車のレールが延びている。レール沿いに山を登って行く。
うわ、面白い風景!
石炭の層が見えるー!さっきの図で見た通り、層が斜めになってるね。
しばらく登っていくと傾斜が急になり、長い階段があった。「地質時代の階段にようこそ」と書かれていて、それぞれの地質時代に典型的な生き物が描かれている。階段はそれぞれの地質時代の長さに応じた段数で色分けされていて、階段を上がりながら地球の歴史を体感できるというコンセプトのようだ。でも、急な階段なので普通に登るだけで結構疲れて、「おっ、今は石炭紀を進んでいるな」とか感慨に浸ってもいられなかったけど、、、、。
階段を登り切ると、そこには大きな風車が立っていて、そのふもとには「化石集め場」が設けられていた。児童公園の砂場のような感じで、一瞬がっかり。ここじゃたいした化石は見つけられないなあ〜。
山の裏側を見下ろすと、大きな石切場が見えた。現在も砂岩の採掘が行われている石切場で、一般人は許可なく入ることはできない。夫は「ああ〜、あそこに絶対いい化石があるはずなのに!」と悔しがっている。実を言うと、この石切場での化石エクスカーションに参加する予定があったのだ。コロナを理由にエクスカーションがキャンセルになってしまったので、せめてその周辺で化石が拾えないかと考えてここまで来たのであった。
まあ、悔しがったところでしかたがないと気を取り直して、地面に撒かれた石の中を見てみる。すると、子どもだましの体験コーナーだとバカにした石捨て場は植物化石だらけ。侮れないのである。石切場から定期的に新しい石を運んで来るんだろうね。そこそこ大きいものもあるし、悪くない。でも、小さい子どもが熱心に化石集めをしている中で大の大人が大量に持って帰るわけにはいかないから、小さいものを少しだけにしておこう。
石炭の地層を見て触れて、化石も拾えるジオパーク。この日は動いていなかったが、通常はレールを走るトロッコ列車に乗ることもできるそうだ。オスナブリュックの市内からも遠くなく、家族連れにもぴったりの観光スポットだ。
野鳥の宝庫、UNESCO世界遺産ワッデン海
夏もそろそろ終わり。寒くなる前にと、遅めの夏休暇に出かけて来た。行き先はかねてから行きたかったワッデン海(Wattenmeer) 。
ワッデン海はデンマークのスカリンゲン(Skallingen) からオランダのデン・ヘルダー(Den Herder)まで続く北海沿岸地域で、世界最大の干潟が広がっている。そのほぼ全域が自然保護区で、UNESCO世界自然遺産に登録されている。大部分の地域がドイツに属しており、3つの国立公園(ニーダーザクセン・ワッデン海国立公園、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン・ワッデン海国立公園、ハンブルク・ワッデン海国立公園)から成る。今回はそのうちのニーダーザクセン・ワッデン海国立公園)を訪れることにした。
といっても、ニーダーザクセン・ワッデン海国立公園も広い。どこへ行けば干潟をもっともよく味わえるのだろうか。国立公園のウェブサイトやガイドブックを見てもいまひとつ摑みどころがなく、わからない。それに、北ドイツは天気が変わりやすく、せっかく海辺に宿を予約して行っても、天候次第ではあまり楽しめないかもしれない。そんな懸念から、とりあえずオランダとの国境に近いレーア(Leer)という町へ行き、そこからルートを考えることにした。
レーアはオストフリースラント(Ostfiresland)と呼ばれる地方の玄関口となる町で、人口は約3万4000人とこじんまりしているが、旧市街の美しい魅力的な町ですぐに気に入った。オストフリースラント地方は固有の言語と独自の文化を持ち、日常的に紅茶を飲む習慣があることで知られている。オストフリースラント紅茶の3大ブランドの一つ、Bünting社の本社はこのレーアにある。
オストフリースラント地方の人々はドイツの他の地域の人たちの10倍以上の量の紅茶を飲むそうだ。「オストフリーゼンテー」と呼ばれるこの地方オリジナルの紅茶はアッサム茶のブレンドで香り高く、普段は紅茶をあまり飲まない私もとりこになってガブ飲みしてしまった。紅茶文化が伝統として根付いているこの地方には特有の紅茶の作法がある。クルンチェ(Kluntje)と呼ばれる大きめの氷砂糖をカップに入れて熱い濃いめの紅茶を注ぎ、少量の生クリームをスプーンでそっとカップの縁に沿って入れ、かき混ぜずに頂くのがオストフリースラント式だそうだ。レーアには紅茶博物館、Bünting Teemuseumもある。オストフリースラントの紅茶文化やその他の生活文化についてじっくりと知りたいものだが、今回は文化にほとんど興味のない夫と一緒。滞在日数が限られているので、文化探索は別の機会に譲ることにしよう。
さて、このレーアを起点にDollart湾に出て、海沿いを北に向かってゆるゆるとドライブしながら観光した。赤レンガの建物の並ぶ小さな町や村、歴史的な粉挽き風車と発電のための近代的な風力パーク、大小の灯台、どこまでも広がる湿地帯と草を食む羊達。広々とした風景を見ながら移動するのは楽しい。そのままNordenという町まで行ってオストフリースラント諸島の島のどれかへ渡ろうと考えたのだけれど、天気が怪しくなって来た。また、コロナ禍がまだ収束していないため、島内のガイドツアーなどにも制限があるようだ。せっかく行くならツアーにも参加できて目一杯楽しめるときの方がいいかなと思い、今回は島は断念することにした。西へ移動し、ヴィルヘルムスハーフェン郊外のダンガスト(Dangast)という保養地に宿を取った。
Jadebusen湾に面したこのダンガストは古くからある保養地で、なかなか素敵な場所だった。Jadebusen湾の真ん中にはアンガスト灯台が立っていて、天気が良ければ海岸からその姿を眺めることができる。
うーん、曇り空で300mmの望遠レンズだとこれが精一杯、、、。
すっかり前置きが長くなった。この記事で書きたいのは野鳥についてだった。最近、バードウォッチングが新たな趣味となった私なので、ワッデン海で野鳥を見るのを楽しみにしていたのだ。ワッデン海の生物多様性は極めて高い。アザラシがたくさん棲息することでもよく知られているが、世界的な渡り鳥の拠点としても有名である。9月の初めなのでまだ渡り鳥のハイシーズンではない。だからあまり見られないかなと思ったけれど、鳥はいたるところにいた。
どこもかしこも群鳥だらけ。普段からこれだったら、ハイシーズンは一体どんだけすごいんだろ。
干潟はどこでも同じような感じかと思ったら、砂の干潟(Sandwatt)と泥の干潟(Schlickwatt)があることがわかった。Dollart湾やJadebusen湾には泥がたくさん堆積している。干潮時にダンガストの海岸を歩いてみた。
ズブズブと埋まってしまうので、転ばないように歩くのはちょっと大変だ。干潟を歩くのは当然ながら干潮時にしかできない。天気がころころと変わり、いざ歩こうと思ったタイミングで空が曇ってしまって残念だった。
こちらはその翌日に行った北東部のKooksielの海岸。砂の干潟で、足が泥に埋まることなく、わりと普通に遠くまで歩くことができる。このときは晴れていた!
天気が良いと美しい様々な砂紋が楽しめる。
ワッデン海の干潟はどのようにしてでき、どう変化していったのか。Marschlandと呼ばれる海沿いの湿地にはどんな特徴があるのか。ワッデン海にはどんな生き物が生息し、人々はどんんな暮らしをして来たのか。オストフリースラントとワッデン海の自然について、もっと知りたくなった。4泊5日の滞在では短かすぎる。オストフリースラント諸島も一つ一つ違う特徴があるようだ。
次回はたっぷりと時間を取って島にも滞在したい。北海は夏でも泳ぐには水が冷たいけれど、南欧の海辺の休暇とはまた違った感動があるね。近々また来られるといいなあ。
「ベルリン・ブランデンブルク探検隊 給水塔」の電子版ができました
7月に友人のライター、久保田由希さんとの共著で「ベルリン・ブランデンブルク探検隊 給水塔」を出版しましたが、幸いにも多くの方が興味を持ってくださり、久保田さんが日本へ持ち帰った分は数日で売り切れ、ドイツ国内の在庫も残りごくわずかとなりました。ご購入くださった皆様、ありがとうございます。心よりお礼を申し上げます。
極めてマイナーな内容ということで限定部数しか印刷していませんでしたが、電子版が完成しましたのでお知らせいたします。紙の本同様に電子版もベルリン在住のデザイナー、守屋亜衣(@ai_moliya)さんが担当してくださいました。
紙の本に収録した内容(全48ページ)に、電子版ボーナスページ4ページを加筆しました。価格は980円。私のオンラインショップ「まにあっくドイツショップ」からご購入頂けます。1回のご購入でpdfとePubの両方をダウンロード頂けます。
そして、これまでに「給水塔」をご購入くださった方、これからご購入くださる方全員にプレゼントがあります!!
プレゼント1
紙版・電子版をご購入のみなさまに、私がGoogle My Mapsで作成した「ドイツ全国の主な給水塔マップ」をシェア致します。ベルリンやブランデンブルク州以外の州にも給水塔がたくさんありますので、ドイツの他の地域にご旅行される方、または滞在中の方にご利用頂けると嬉しいです。
プレゼント2
すでに紙版をご購入くださったみなさまに、電子版ボーナスページのpdfを差し上げます。ご注文頂いた際にお知らせくださったメールアドレスまたはSNSのメッセンジャー経由でこちらからご連絡致しますのでお待ちください。
そもそもこの本を作ることになったきっかけは、2018年に私のポッドキャスト「まにあっくドイツ観光裏話」の中の「まにあっくカフェ」に久保田由希さんをゲストとしてお招きし、久保田さんが好きな塔の魅力についてたっぷりと語ってもらったことでした。
まにあっくカフェ 3 塔について語ろう
まにあっくカフェは、いろんな人からその人の好きなことについてお聞きすることで視野を広げたいという趣旨でやって来たものですが、久保田さんからこのときお話をじっくり伺うまでは私は塔にそれほど大きな関心を持っていませんでした。その一年半後に久保田さんと一緒に給水塔の本を作ることになるとは、思いもしませんでした。なんだか不思議ですが、まにあっくカフェという企画をやってよかったなとしみじみ思います。
そこで、今回、電子版を発売するにあたり、久保田さんとのまにあっくカフェの第二弾を収録しました。
まにあっくカフェ 9 「ベルリン・ブランデンブルク探検隊 給水塔」電子版発売記念トーク
よろしければ3と9、合わせてお聞きください。
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