かねてから行きたいと思っていたドイツ南東の町、バウツェン(Bautzen)へ行って来た。そこにあるソルブ博物館(Sorbisches Museum Bautzen)を訪れるためだ。ドイツで今もなお独自の文化を保つスラブ系の少数民族、ソルブ人に関する博物館である。
ソルブ人の存在は以前住んでいたドイツ西部から現在の住まいブランデンブルク州に引っ越して来てから初めて知った。ベルリンから電車に乗って南東方面へ移動すると、いつからか駅名がドイツ語と見慣れない別の言語の二言語表示になるのに気づいた。ポーランドとの国境に近い地域なのでポーランド語を併記しているのだろうか?と思ったら、その見慣れない言語はソルブ語だという。ブランデンブルク州とその南のザクセン州にまたがってラウジッツと呼ばれる地域があり、その地域にはドイツ人とは言語や文化を異にする少数民族、ソルブ人が生活しているそうだ。
ベルリンから南東100kmほどのところにシュプレーヴァルト(Spreewald)という湿地帯があるが、景観がとても美しく、首都から気軽に行ける観光地としてとても人気である。シュプレーヴァルトにはソルブ人の集落があり、Lehdeの野外博物館Freilandmuseum Lehdeをはじめとする民族学博物館でソルブ人の伝統文化を知ることができる。Lehdeの博物館へは10年ほど前に初めて訪れ、特徴的な民族衣装やカラフルで繊細な模様付けをしたイースターエッグなどの手工芸品が素晴らしく魅力的で気に入った。シュプレーヴァルトのソルブ文化については紹介記事や動画がたくさんあるので、今回はバウツェンのソルブ博物館について書きたい。
ざっくりと説明すると、ソルブ人というのは6世紀から10世紀にかけてカルパチア山脈の北方から現在のドイツ東部へ移動して来て定住したスラブ系民族の末裔である。当時、20ほどの異なる部族が入って来たとされ、現在使われている「ソルブ人(Sorben)」という呼称はそのうちの一つのSurbi族に由来すると考えられている。スラブ系民族は40,000km2ほどの領域に定住して農耕や牧畜、貿易を営んでいたが、12世紀以降の東方植民により西部から大量のドイツ人が移住して来て以来、少数派となった彼らは次第にドイツ文化の中に吸収されて行った。スラブ系民族の居住範囲がどんどん狭まり人口が減っていく中、ラウジッツ地方では彼らの独自文化が比較的良く維持された。長い歴史の中で差別や断続的な弾圧を経験しながらも「ソルブ人」としてのアイデンティティを保ち続けている人々がいる。ラウジッツ地方はブランデンブルク州に属する下ラウジッツ(Niederlausitz)とザクセン州に属する上ラウジッツ(Oberlausitz)に分かれ、同じソルブ人でも言語が異なるそうだ。下ラウジッツで話されるソルブ語(下ソルブ語)はポーランド語に近く、上ラウジッツのソルブ語である上ソルブ語はチェコ語に近い。上で紹介したシュプレーヴァルトでは下ラウジッツのソルブ文化に触れることができるが、それとはまた異なるという上ラウジッツのソルブ文化にも興味があった。今回訪れたザクセン州南部のバウツェンは上ラウジッツのソルブ文化の中心地である。
バウツェンは「塔の町」というキャッチフレーズを持ち、中世の市壁が残る美しい町。観光地としても魅力的だけれど、ここでは町の紹介は飛ばしてソルブ博物館へ直行しよう。
またしても外観の写真を撮るのを忘れてしまった(博物館へ行くときには常に前のめり、、、)。
受付の女性はご本人が言うには「純粋なソルブ人」だそうで、母語はソルブ語、ドイツ語は第二言語として話しているとのこと。ソルブ人の民族代表機関であるラウジッツ・ソルブ人同盟(Domowina)の発表によると、現在、ソルブ語を話す人はドイツに約6万人いるとされる。もちろん「話す」の程度は人により様々だろうけれど、受付の方のように「母語はソルブ語で、家では毎日ソルブ語を話しています」というほどのレベルでソルブ語を運用している人もいると初めて知り、少し驚いた。
ソルブ博物館は3階建てのなかなか大きな博物館である。全体として、民族学的な内容よりもドイツにおけるソルブ人の歴史に重点を置いた展示だった。ドイツ人の東方入植以来、支配者が移り変わる中、ソルブ人がどのようにして民族のアイデンティを形成しそれを守って来たか、その流れがわかるようになっている。
ソルブ人の文化として最も目につきやすいのは特徴的な民族衣装だ。現在は日常着ではなくお祭りなど特別な場で着用されるソルブの民族衣装は東欧を感じさせる色合いやデザインで、繊細な魅力に富んでいる。そして、同じソルブ人の民族衣装でも地域によってかなりの違いがあるようだ。


これはSchleife村のあたりで着られていた民族衣装

こちらもSchleifeのもの。右側は花嫁衣装

左側のカラフルなビーズを使った衣装はHoyerswerdaのソルブ人集落の衣装。右はコットブス周辺の集落のもの。地域によってデザインや色使いがかなり異なるけれど、基本色が象徴するものは共通で、赤は若さや力を表、緑は成熟を表す。花嫁衣装には緑色が使われる。黒は祝い事の色、白はかつては喪の色だった。

左からBautzen、Nochten、Muskauの衣装

顔をレースで覆った女性の衣装はクリストキント(Christkind)の衣装。クリストキントというのはドイツでは一般的にはクリスマスの天使を意味する。クリスマス市などでよくお目にかかる背中に羽のある白と金の衣装を着た若い女性がそれ。しかし、ソルブの風習はそれとは異なり、ベールで顔を隠した女性が付添人とともに集落の家から家へ人々を祝福して回る。クリストキントにレースの手袋をはめた手の甲で3回顔や頭を撫でてもらうと神の恵みが得られるそうだ。クリストキントはベシェールキント(Bescherkind)とも呼ばれ、衣装は地域によって違う。上の写真はHoyerswerdaのもの。

こちらは下ソルブのクリストキント(ベシェールキント)の衣装で、Lehdeのソルブ・クリスマス市で遭遇した。クリストキント役には翌年結婚予定の未婚女性が選ばれるが、誰がクリストキントなのかは秘密で、そのため本人は口をきいてはならないらしい。このクリスマス市では私も手の甲で顔を撫でてもらったので良いことがあるかな。
さて、衣装を紹介しているとキリがないのでこれくらいに。
ソルブ人は6世紀以降、現在のドイツの国土にずっと住み続けて来たが、ソルブ人の国家が存在していたわけではない。ドイツ人に混じってスラブ系民族の集落が点在し、それぞれの集落には少しづつ異なる文化や風習があったようだ。ドイツ人は自分たちとは異なる言葉を話す彼らをヴェンド人(Wenden)と呼んだ。差別的なニュアンスを含む呼称なので、現在はソルブ人という言葉が使われているが、ヴェンドという言葉は現在も残っていて、ニーダーザクセン州にはヴェントランド(ヴェンド人の住む土地)という意味の地方がある。このヴェントラントがまた興味深いのだ。住居が円形に並ぶルンドリンクという特徴的な形態の村々が残っている。それらの集落を作ったヴェント人はすでに死滅したポラーブ語を話すスラブ系民族で、現在のソルブ人とどのくらい言語や文化が似ていたのかわからないが、このバウツェンのソルブ博物館の展示にもドイツ人が流入する以前のソルブ人の集落はルントリンクが多かったと書いてあった。(ルントリンクを訪れたときの記事はこちら)
自然宗教や祖先信仰を持ち、農耕や牧畜を営んでいたソルブ人はドイツ人の入植後、キリスト教を信仰するようになり、ドイツ人に同化していったが、ソルブ人の人口密度が高かったラウジッツ地方では比較的独自文化を保ちやすかった。特に宗教改革後もカトリックの上ラウジッツは周辺のスラブ系の国との結びつきが強く、民族的要素をより強く残しているようだ。
支配者が移り変わる中でソルブ語の使用は度々禁じられたが、19世紀のパン=スラヴ主義運動の高まりの中でソルブ人の市民文化が開花する。ソルブ語の文法が整備され、それを基盤としてソルブ文学が発展した。1871年からのドイツ帝国期には再び強い抑圧を受けることになるが、ソルブ人の青年運動が活発化し、ラウジッツ各地にソルブ文化サークルが発足、1912年にそれらの上部組織としてドモヴィナ(Domowina)が設立された。


ソルブ語の新聞
しかし、ナチスが政権を取るとソルブ人組織は解体させられ、ソルブ語由来の多くの地名が「ドイツ語らしい」地名に書き換えられ、社会生活のあらゆる場面においてソルブ語の使用が禁じられた。

第二次世界大戦後、東ドイツを占領したソ連はソルブ人に対し、社会的・文化的な保護措置を取った。ソルブ語の新聞の創刊やソルブ語によるラジオ放送の開始、ソルブ語教師の要請及びソルブ語で授業をする学校の設立などが行われ、そうした保護政策はドイツ民主共和国(DDR)政権に引き継がれた。

DDR時代に設置されたソルブ語授業実施校。●印はソルブ語の授業実施校、■はソルブ語で授業を行う学校、▲はソルブ人ギムナジウム

しかし、手厚い少数民族保護政策のように見えた措置は必ずしもソルブ人自身が求める言語と文化の保護を主眼に置いたものではなく、ソルブ人を社会主義の理想と目標の担い手として取り込んでいこうとするものだった。1950年代にラウジッツ地方で褐炭の採掘が始まると、多くのソルブ人は強制移住させられ、46のソルブ人の村及び27の集落が消滅した。
東西統一後のドイツではブランデンブルク州、ザクセン州それぞれのソルブ人保護法のもと、ソルブの民族文化が保護されている。現在、ソルブ人居住区として定義されている地域は上ラウジッツに42箇所、下ラウジッツに27箇所ある。それらの居住区ではお祭りなどの文化的催しが定期的に行われているだけでなく、幼稚園もソルブ語のみ、もしくはドイツ語とソルブ語のバイリンガルのクラスが設けられている。ミサをソルブ語で行う教会もあるそうだ。
以上、大いに端折った紹介になってしまったが、これまで存在は知っていたもののどのような文化と歴史を持つのかは全く知らなかったソルブ人について知ることができ、とても興味深かった。ソルブ人の歴史についてもうちょっと詳しく知りたい方にはドモヴィナ出版から出ているこちらの本がお薦めだ。
Kurze Geschichte der Sorben

ドモヴィナ出版

ソルブ語で書かれた書籍やソルブ関連の書籍がぎっしりと並べられた店内

1冊2ユーロと気軽に購入できるソルブ文化の本。これらも読みやすく、お薦め。
ソルブ関連スポットマップを作ったので、ご興味のある方はどうぞご利用ください。
ドイツ中の岩石を集めたベルリンの「地質学の壁」は優れもの
先日、こんな本を読んだ。
Berlin Story Verlagという出版社から出ている”Berlin Geologie(ベルリン地質学)”というもの 。ベルリン関連の書籍は数え切れないほどあるが、地質学という切り口は珍しい。最近、ドイツ地質学が楽しくてしょうがない私。この本を見つけて、「わざわざ遠出しなくても、首都ベルリンでも地質学を楽しめるかも!」と心踊った。
紐解いてみると、地質学を切り口としたベルリン本というよりも、ベルリンを切り口とした地質学の入門書という感じ。想像していたのとはちょっと違ったが、それはそれで興味深かった。日本でいえば新書レベルで読みやすい。地球の誕生から現在に到るまでの大陸移動と地層堆積の歴史を、地球全体からヨーロッパへ、ヨーロッパから北ヨーロッパへ、北ヨーロッパから現在のドイツへ、そしてドイツから首都ベルリンへとズームインしながら説明していく。ベルリンは平坦な土地で、地質学的に特別注目される場所ではないけれど、ベルリン周辺の地層がどのようにして形成されたのか、ベルリンのどこにどんな石が使われているのかなど、わかると面白い。
この本にベルリン、パンコウ地区の植物公園Botanischer Volksparkにはドイツ各地の様々な石を集めて積み上げた「地質の壁(die geologische Wand)」なるものがあると書いてあった。面白そうなので、早速見に行って来た。
かなり郊外なので電車やバスを何度も乗り換えて、ようやく到着。我ながら物好き、、、。
これが「地質の壁」
この長さ約30メートル、高さ約2.5メートルの壁は、地質学を専門とするベルリンのギムナジウム教師、エドゥアルト・ツェッヒェ(Eduard Zeche) の発案で1891年から1995年にかけて作られた教育用の岩石見本だそうだ。壁にはドイツ全国から集めた123種類の異なる石が使われている。
近くで見るとこんな感じ
石はテキトウに積み上げてあるのではなく、壁の右端から左方向へ、古生代石炭紀から新生代完新世までの地質年代をAからUまでのエポックに分け、それぞれのエポックの地質構造がわかるような形で下から上へと積んであるのだ。
それぞれの種類の石には番号が振ってある。番号を見れば、それがどこで採れたどういう石なのかがわかるのだが、紙の説明図だけでなく、スマホやPC上で閲覧できる「デジタル版」があって、これがとても便利なことがわかった。モバイルデバイスがあれば、実際の壁で石を観察し手触りを感じながら、それぞれの石について確認できるのだ。
ほらっ。画像上で番号を押すとその石の情報が出て来る
持参したiPad mini上でデジタル版地質の壁を開き、片っ端から番号を押してみた。石の用途や実際にどこで使われているかなどが書いてある。
まずはわかりやすい玄武岩(116番)から見てみよう。ノルトライン=ヴェストファーレン州ライン川沿いのUnkelという場所で採れたもの。今から約700万年前の火山噴火によって形成され、古代ローマの時代から建材などに使われていた。ドイツはあまり火山のイメージがないが、これらの石が採れたアイフェル地方は火山地帯なのだよね。火山噴火によってできたマールと呼ばれる丸い美しい湖が点在し、カンラン石の入った火山弾やガラス化した美しい砂岩など、珍しい石がよく見つかる地質学的にとても面白い地方である。(アイフェル地方のレポートはこちらにまとめています)
こちらはベルリン郊外、リューダースドルフ(Rüdersdorf)産の石灰岩。ムッシェルカルクと呼ばれる三畳紀の地層から採れるもので、ムッシェル(貝)という名の通り、貝殻などの化石がたくさん含まれるのが特徴だ。この石に見られるのはMyophoria vulgarisという貝の化石らしい。この石は主にセメントの原料となる。リューダースドルフの採石場は現在では野外ミュージアムになっていて、シャフトキルンという石灰窯が見学できる他、採石場をジープで廻ったり、併設の地質学博物館で化石を見たりなど、一日かけて遊べる楽しい公園だ。
10番の赤い石は10億年前以上も前に形成されたスカンジナビア半島の花崗岩。なぜスカンジナビアの石がドイツの岩石見本に含まれるのかというと、氷河とともに運ばれて来たからだ。ベルリンを含む北ドイツにはこのような花崗岩の塊が至る所にある。山もないのに大きな岩が突拍子もなくゴロンゴロンと転がっている様子を最初に見たときにはわけが分からずなんとも不思議だったが、迷子石(Findling)と呼ばれると知ってなんだか気に入った。小さく割られたものが田舎の教会の壁などによく使われているのを見かける。色は上の写真のような赤だけでなくいろいろあって、配色を考えて並べるとカラフルなモザイクになり、可愛い。
たとえばこんな具合に
迷子石はあまりにもたくさんあるので、観光スポットとしてこんな迷子石パークが作られているほどだ。
、、、という具合に、壁とiPadを見比べながら「これは〇〇地方で見たあの石と同じだ!」と一人で喜んでしまった。たかが石じゃないか、そんな地味なものと思われるかもしれないけれど、石って結構重要だ。建物や敷石などに使われるから、その土地でどんな石が採れるかで街並みが変わって来る。また、石からは産業が生まれ、その産業を基盤に生活文化が生まれ、その土地ごとの歴史を作っていく。ある地域について語るなら、まず石からと言っても大袈裟ではないかもしれない。
それに、カラフルな石は見ているだけで楽しいな。
今後は旅行に出たらその土地の石をよく観察してみるつもり。
学術と芸術が溶け合うドレスデン、ツヴィンガー宮殿の数学物理学サロン
久しぶりにドレスデンへ行って来た。ドレスデンは観光資源が豊富で、見たいものがなかなか見終わらない。今回のターゲットはツィンガー宮殿の数学物理学サロン(Mathematisch-physikalischer Salon)。
数学と物理と言われて、何やら難しそうと尻込みする人もいるかもしれないけれど、心配は無用である。ここは博物館というよりも、むしろ美術館である。ここにはザクセン選帝侯(在位:1553 – 1586年)アウグストが収集した様々な科学の道具が展示されている。しかし、実用性のみを追求した道具ではなく、超一流の腕を持った職人らが作り上げた芸術的な計器のコレクションが見られるという。どんなものがあるのだろう。ワクワク、、、。
入り口を入って左手の細長いギャラリーには13〜19世紀の測量機器、地球儀、天球儀、時計などが並んでいる。
選帝侯アウグストの 測量機器。アウグストはこれらの機器を使い、自ら領土の測量をおこなっていた。右側にある金色の装置はオドメーター(走行距離計)。測量の際にはこのような計器を馬車に取り付け、車輪の周長×回転数で割り出した走行距離を記録していた。
これは塔の高さなど、直に測ることのできないものを測るための正方形の定規(象限儀)。
これは1586年に作られたゼンマイ仕掛けの天球儀。上下の二つの球のうち、天体を表す上の球は24時間かけて一回転する。下の小さい球は地球を示している。この当時はまだ天動説が信じられていたんだものね。
星座は天体に固定されていると考えられていた
1563-1568年にエバーハルト・バルデヴァインによって選帝侯アウグストのために作られた天文時計。この天文時計は非常に複雑な作りをしていて、ここまで精巧なものは世界でも数少ないそうだ。コペルニクス以前の世界観に基づいて設計されているので、現在の天文学においてはもちろん意味をなさないが、当時の人達にとっては崇高の極みであったろう。
ギャラリーと反対側の棟の「時計の間」ではヨーロッパの時計の歴史をなぞることができる。
時計の間
これは時計ではなく、ブレーズ・パスカルの設計した現存する最古の歯車式計算機、パスカリーヌ。手間に並んだ歯車は桁を表し、それぞれをダイヤルのように回して計算する。(でも、足し算と引き算しかできないよね?)
ドレスデンのゼンパー歌劇場に設置された5分計のモデル
高級時計ブランド、A.ランゲ&ゾーネ(A. Lange & Söhne)が1905年に発売した当時最も複雑とされたモデル、Grand Complication No. 42500。この時計、2013年に再び製造されたらしい。価格は約2億円だとか、、、。
さて、三つめの展示室は私好みの「グローブの間」。ここには様々な種類の地球儀や天球儀が展示されている。
いい感じ〜
1288年頃に作られたアラビアの天球儀。プトレマイオスの48星座が描かれている
1872年にドレスデンで作られた天球儀
1875年に月面地図をもとに作られた月球儀
コペルニクス型アーミラリ天球儀
折りたたみ地球儀(1825)
ポケット地球儀
あ〜、楽しい。
最後の展示室は「啓蒙の間」。科学が急激に発展した18世紀から19世紀にかけての数学・天文学の機器が展示されている。
1742年製造のグレゴリー式望遠鏡
1690年製造の太陽光集光レンズ
美術品を見ながら科学の発展の歴史をなぞるというのはとても素敵な体験だと感じた。展示品のうちのわずかしか写真で紹介できなかったが、他にどんなものがあるのか知りたい方は以下の動画をどうぞ。(ドイツ語です)
Googleマイマップでドイツ手工業関連博物館マップを作った
Googleマイマップを使ったドイツまにあっく観光マップもついに10個目。今回は手工業関連の博物館をマッピングしてみた。
カテゴリーは「手工業全般」「織物」「皮革」「陶器・磁器」「楽器」「おもちゃ・人形」「木工芸・紙」「時計・彫金」「ガラス」「その他」。
簡単にできるかと思ったら、かなり手こずった。難しかったのは「どこまでを手工業関連博物館に含めるか」ということ。陶器の博物館はその土地の伝統的な焼き物をメインに展示していることが多く、私の頭の中にあった手工業のイメージ通りなのだが、磁器になると地方の伝統産業の枠を超え、美術品の取り扱いになっていく。展示される場所も手工業に特化した博物館よりも、総合的な美術館やお城のコレクションに含まれることが多く、その場合、ドイツだけでなく世界の美術品と一緒に展示される。迷ったが、ドイツの磁器をメインに展示しているところに絞って登録した。
さらに悩ましいのは彫金関連で、展示される場所が秘宝コレクションの域に入ってしまい、お城や聖堂の多いドイツでは全国に分散していていてお手上げ。これも私のイメージの手工業の枠を超えているので、ごくいくつかの彫金関連博物館のみを登録。
また、時代の流れにより、かつては手工業だったが産業革命後、機械化されていったものが多く、手工業という括りのマッピングはちょっと苦しいものがあったかな。
でも、このマップ作りを通してまたいろいろ面白い博物館を見つけたので、とりあえずは満足。
本当はカテゴリーごとにアイコンを変えたかったのだが、Googleマイマップに用意されているアイコンに適切なものがなかったので、全て博物館マークになってしまった。以下のようにカテゴリーごとの表示で見ていただければと思う。
ラボが楽しいLWLヴェストファーレン考古学博物館
ノルトライン=ヴェストファーレン州のヘルネ(Herne)という町にある考古学博物館、LWL Museum für Archaeologie へ行って来た。ヘルネはルール地方のゲルゼンキルヒェンの隣町である。特に目当ての博物館というわけではなかったけれど、たまたまゲルゼンキルヒェンに用があったので、ついでに寄って来た。
ヘルネは大変庶民的な町だ。考古学博物館は駅から伸びる長〜い歩行者天国を歩ききったところにある。(10分くらいかな)

入口がかなりわかりづらく、建物の周りをぐるぐる歩き回ってしまった。写真の縦長のガラス窓の下部ドアから建物内部に入り、地下への階段を降りると博物館の入口がある。
ドアを開けると、そこは太古の森。森を出発してフロアを歩きながら人類の歴史を辿って行くというコンセプト。比較的新しい博物館で、展示室はすっきりと美的でモダンだ。約3000平米の常設展示室にヴェストファーレン地方で出土したものが年代順に展示されている。これがここの目玉展示物!というようなものは特にないので、ややインパクトに欠けるが、見やすい良い博物館だと思う。最近、美的な展示をする考古学博物館が増えているように思う。(美しさという観点での私のイチオシはケムニッツの考古学博物館、SMAC)
カラフル石器
展示物は他の考古学博物館でも見たことのあるようなものが多いのだけど、気になったのはこれ。
ギャラリー墓(Galeriegrab)と呼ばれる巨石墓のモデル。古墳っぽい!新石器時代のドイツ北西部で栄えたヴァルトベルク文化において作られていたそうだ。このモデルはパダボーン(Paderborn)とカッセル(Kassel)の中間くらいのところにあるヴァルブルク(Warburg)で発見された巨石墓跡を元にしたもので、実際の遺跡はこんな感じらしい。ギャラリー墓という言葉を初めて聞いた。あまり詳しい説明がなかったので、日本語でググってみた。コトバンクによると、
そういえば、学校の社会科で古墳のいろいろな形状について習ったなあ。ヨーロッパにはどんな種類のものがあるのだろうか。今まで気にしたことがなかったので、今後はアンテナを貼ってみることにしよう。
最古のユーロ硬貨?左はカール大帝の銀貨(792〜821年)、右は西フランク王シャルル3世の銀貨(911年以降)。両方ともケルンで見つかったもの。
展示フロアを見るのも楽しいけれど、この博物館でもっと気に入ったのは研究者ラボ(Forscherlabo)だ。
このラボでは考古学者らが実際にどのような方法で研究しているのかを学ぶことができる。
引き出しの中にも展示物がたくさん。こういうハンズオンの展示、大好き。以前訪れた考古学博物館、パレオンにもビジター用ラボがあり、顕微鏡やPCモニターを使っていろいろなものを観察することができた。
古代に生きた人たちがどんな病気にかかっていたのかを示す骨標本。
骨粗鬆症にかかっていた人の背骨
前述のヴァルブルクのギャラリー墓からは200人ほどの人骨が見つかったそうだが、そのうちの何人かの頭蓋骨には通常は見られない変わった骨が見られた。写真の3つの頭蓋骨のうち、左と真ん中の頭蓋骨の中央部に三角形の骨が見える。これはInkabein(interparietal bone、間後頭骨)と呼ばれる余分な骨で、稀にこのような頭骨を持つ人がいる。遺伝性の性質とされている。ギャラリー墓から見つかった三角の頭骨のある骨をDNA分析してみたところ、彼らが実際に親族だったあることがわかったそうだ。面白い。
考古学というと一般的には文系の学問のイメージがある(社会科学に分類されているよね?)けれど、DNA分析など様々な分析技術が発達した現在は自然科学の手法も考古学研究に大いに使われている。考古学に限ったことではなく、他のいろいろな学問分野についても言えることだろう。文系、理系という考え方は今の時代、あまり意味をなさないよね。
シュトゥットガルト自然史博物館で知る恐竜から鳥への進化
南西ドイツ弾丸旅行の二日目はシュトゥットガルトへ行った。シュトゥットガルトは大都市で見どころがたくさんありそうだけれど、時間がないので今回は目当てのシュトゥットガルトの州立自然史博物館(Staatliches Museum für Naturkunde Stuttgart)に的を絞ることに。この博物館はMuseum am LöwentorとMuseum im Schloss Rosensteinという二つの建物に分かれている。そのうちのMuseum am Löwentorは古生物と地質学の展示がメインなのでそちらへ。
1階展示フロア。地質時代順に化石が展示されている。でも、順路が一直線でないので、ちょっとわかりづらかった。ここでは三畳紀の化石を展示している。三畳紀(約2億5100万年前〜1億9960万年前)はペルム紀の次でジュラ紀の前、中生代の最初の紀である。私のこれまでのドイツ国内化石ハンティングではペルム紀、ジュラ紀、白亜紀などの化石に触れて来たが、三畳紀は未知の世界だ。どんな時代だったのだろうか。
三畳紀はドイツ語ではTrias(トリアス)という。というよりも、Triasを日本語に訳したのが「三畳紀」だと言う方が正確かな。前々回の記事に、ジュラ紀は前期、中期、後期の3つの区分があり、ドイツではそれぞれの区分の地層の色にちなんで黒ジュラ紀、茶ジュラ紀、白ジュラ紀とも呼ばれていると書いたけれど、三畳紀も同じように前期、中期、後期の3つに区分される。区分ごとに地層の色が異なり、それが重なっていることから三畳紀とされた。命名者は南ドイツ、ハイルブロン出身の地質学者フリードリッヒ・フォン・アルベルティ。そしてこの3つの層は上から順にコイパー砂岩(Keuper)、ムシェルカルク(Muschelkalk)、ブンテル砂岩(Bundsandstein)と呼ばれる。地層はもちろん下から上に堆積するから、一番上のコイパー砂岩が最も新しい。一番古いBundsandsteinは、日本語に直訳すると「カラフルな砂岩」という意味だ。カラフルというけど、実際に見ると赤っぽい。
ブンテル砂岩に残ったラウスキア類の足跡。三畳紀前期、この化石が発掘されたあたりではしばしば川が氾濫し、湿った周辺の土の上にいろいろな生き物が足跡を残した。水が引き、土壌が乾燥すると足跡も乾いて固まった。再び洪水が起きると足跡の凹みに堆積物が溜まっていったらしい。
こちらはブンテル砂岩の上のムシェルカルク層。ドイツ語でムシェルとは貝、カルクは石灰岩なので、要するに貝などがどっさり埋まっている石灰岩ということね。
アンモナイトなどがギッシリ
ムシェルカルクからよく見つかる海棲爬虫類、ノトサウルス
コイパー砂岩層の展示はなぜか写真を撮り忘れてしまった。この博物館にはジュラ紀の化石も多数展示されている。そのうちの黒ジュラ紀化石の多くは前日に訪れたホルツマーデンで発掘されたものだ。素晴らしい標本ばかりでどれも一見の価値があるが、今回の記事ではこの博物館で個人的に面白く感じた「鳥から恐竜への進化」展示をクローズアップする。(黒ジュラ紀の化石が気になる方は、是非こちらを見てね)
最近、恐竜関連の本で”恐竜は厳密には絶滅しておらず、恐竜の一部である獣脚類が鳥類に進化して今現在も生きている“と読んだ。知識としてはそうインプットしたのだけれど、恐竜が、それも「鳥」の字がつく鳥盤類ではなく獣脚類が鳥へ進化したというのがなんともややこしく、イメージ的に今ひとつピンと来ていなかった。一体どうやったらあんな怪獣っぽいやつらがインコやジュウシマツへ進化できたのだろうか?
それを知るには、獣脚類の指と首と尾に注目すると良いらしい。写真はドイツの三畳紀の地層から発掘された最大の獣脚類恐竜、リリエンステルヌス(Liliensternus)の復元骨格。この肉食恐竜の首は前にまっすぐに伸び、尾は長く、指は4本ある。最も古い時代の恐竜は指が5本だったそうだが、1 本少ない4本になっている。
4本
上のリリエンステルヌとジュラ紀後期の獣脚類、アロサウルス(Allosaurus)を比較してみよう。アロサウルスは首がS字型に曲がり、指は前足が3本、後ろ足が4本である。
3本
次にコンプソグナトゥス(Compsognathus)の図を見ると、骨がかなり軽量化しているのがわかる。首の下にV字型をした骨がある。これはGabelbein (Furcula)といって鎖骨が中央で癒合したもので、鳥類に見られる特徴だそうだ。鳥が翼を上げ下ろしして飛ぶ際に重要な役割を果たす。足の指もぐっと華奢になっているね。
コンプソグナトゥスのモデル。羽毛に覆われ、小さいせいもあり、確かに鳥っぽい。
これは白亜紀前期のカウディプテリクス(Caudipteryx)。カウディプテリクスとは「尾に羽毛を持つもの」という意味だそうで、前足と尾の羽毛が長い。歯が描かれていないことにも注目。
カウディプテリクスの化石
カウディプテリクスと近縁のオヴィラプトルのメス
次は白亜紀の前期から後期にかけて繁栄したドロマエオサウルス。尾が固り、腕が長くなっている。後ろ足の指は鳥と同じように鉤爪になっている、木に登る際に枝を掴むのに適していたと考えられるそうだ。
ドロマエサウルス科ミクロラプトルのモデル
このように獣脚類の恐竜は長い年月をかけて次第に鳥的な特徴を獲得していった。
そして1860年、南ドイツのゾルンホーフェンで初めて始祖鳥(アーケオプテリクス、Archaeopteryx)の化石が発見される。
始祖鳥のモデル
始祖鳥という名前からには史上最古の鳥なのかと思えば、羽毛や翼を持ち相当に鳥っぽいものの、現在の鳥の直接の祖先ではないらしい(紛らわしい〜)。この辺りのことは展示には詳しく説明されていなかった、身近にある恐竜関連資料を読んでも説明が微妙にまちまちで今ひとつクリアにならないので、とりあえずここでは保留にしておこう。近々、恐竜の専門家に質問することにする。
現在の鳥
鳥は鳥でさらに進化して、現在は姿かたちの様々な鳥が約1万種もいるとされているのだから進化というのは不思議で面白いね。
以上、自分の関心によりかなり偏った紹介になってしまったので、シュトゥットガルト自然史博物館(Museum am Löwentor)の全体的な様子が知りたい方は、以下の動画をどうぞ。
Googleマイマップでドイツ食文化関連博物館マップを作った
一人でハマっているドイツまにあっく観光マップ作りもすでに9個目。今回はドイツ食文化関連博物館マップを作ってみた。
カテゴリーは「ビール博物館」「ワイン博物館」「パン・お菓子博物館」「果物関連博物館」「コーヒー・紅茶博物館」「肉・魚関連博物館」「その他の食べ物・飲み物関連博物館」、そして「食文化関連博物館」の8つ。
ビール博物館やワイン博物館は小さいものも含めると無数にあるので、全ては網羅していない。私はビールが飲めないのだけれど、以前行ったこのビール博物館はとても面白かった。
100種類以上のビールが飲めるレストランを併設したバイロイトのマイゼル醸造所ビール博物館
ドイツの食べ物というとすぐにソーセージを思い浮かべると思うけれど、意外に漁業関連の博物館もある。「その他の食べ物・飲み物関連博物館」カテゴリーにはキャベツ博物館やスープ博物館など、マニアック度の高いものも登録した。
食文化関連はとっつきやすいテーマなので、誰でも楽しめるのではないかな。よかったらマップを使ってみてください。そして、このマップに登録していない面白い食のミュージアムを知っていたら、ぜひ教えてください。
ドイツ最大のプライベート化石博物館、ホルツマーデンのUrwelt-Museum Hauff
先週、南ドイツのシュトゥットガルト方面へ行く用事があった。シュトゥットガルトといえば、その近郊にかねてから行きたいと思っていた場所があったのでついでに立ち寄ることにした。それは、ドイツ国内で最大のプライベート化石博物館とされる、ホルツマーデン(Holzmaden)のUrwelt-Museum Hauff。ジュラ紀の大型化石標本が多数展示されているというこの博物館を1年ほど前にテレビで見て以来、ずっと気になっていたのである。ホルツマーデンは小さな村なのでアクセスはあまり良くない。宿泊予定だったエスリンゲンからは車で30分くらい。
到着
ガーデンスペースに恐竜のモデルが立っているので、見落とす心配はない
とうとう来たか〜とワクワクしながら館内に入り、チケットを購入。オーディオガイドは残念ながらなかった。事前にウェブサイトで確認してこの日はガイドツアーがないと知っていたけれど、ダメもとで聞いてみる。「今日はガイドツアー、ありませんか?」
すると、「今日は設定されてないけど、個人で申し込むことはできますよ。60ユーロかかりますけど」と受付の女性。60ユーロと聞いて一瞬考えたが、夫と一緒だったので一人あたり30ユーロ。せっかくここまではるばる来たのだし、専門家に案内してもらえるチャンスを逃すのもと思い、お願いすることに。ガイドさんは当館で化石のクリーニングを担当している技術者のクラウス・ニールケンさん。
この博物館、Urwelt-Museum Hauffはホルツマーデン生まれの化石収集家、ベルンハルト・ハウフ氏が設立したプライベート博物館である。ハウフ氏の父親は化学産業に従事しており、粘板岩の採石場を所有していた。その採石場から出る化石に幼少期から魅せられていたハウフ氏は化石のクリーニングの技術を習得し、1936年、自らのコレクションを展示する目的でこの博物館を設立した。息子のベルンハルト・ハウフ・Jr.氏はテュービンゲン大学で古生物学博士号を取得し、父の博物館を引き継いだ。そして現在は孫のロルフ・ベルンハルト・ハウフ氏が館長を務める。一家三代に渡るライフワークとしての博物館。そこからしてすごいスケールの話である。
まず、この地域の地層についてざっと見てみよう。ホルツマーデンはシュヴェービッシェ・アルプという丘陵地帯の麓(北西側)に位置する。(小さい村なので以下の地図には記載されていないけど、Kirchheim u. Teck と書いてあるところのそば)
Image: Thomas Römer, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=55865564
シュヴェービッシェ・アルプ地方はジュラ紀にはトロピカルな浅い海に覆われていた。だから、この地方からはジュラ紀の海の化石がたくさん産出されるのだ。ジュラ紀というのは中生代の真ん中、三畳紀と白亜紀に挟まれる地質時代だが、そのジュラ紀はさらに前期(リアス期)、中期(ドッガー期)、後期(マルム期)に分けられる。ドイツではそのそれぞれを黒ジュラ(schwarzer Jura)、茶ジュラ(brauner Jura)、白ジュラ(weißer Jura)と呼ぶことが多い。その地質年代に相当する地層が黒、茶、白という特徴的な色をしているからだ。
以前、当ブログで紹介した化石の名産地、ゾルンホーフェンの地層はジュラ紀の中でも白ジュラ紀の時代に堆積したものだ。実際、ゾルンホーフェンの岩石は白っぽい色をしている。それに対してここ、ホルツマーデンの地層は黒ジュラ紀の地層で、ポシドニア頁岩と呼ばれる粘板岩は歴青を多く含むため、濃っぽいグレーなのだ。ジュラ紀に浅い海に堆積した泥の層が、その上に堆積した地層の重みで1/20の容積に押しつぶされてできたらしい。そのため、このあたりで産出される化石はおせんべいのようにぺしゃんこだ。
入り口を入ってすぐの展示室には地域の地質の説明パネルの他、大きな階段状の地層モデルが展示されている
これはサメの化石。お腹のあたりに何かが密集している?
と思ってよく見ると、、、、エエーッ!!これはベレムナイト!こんなに大量のベレムナイトがサメの胃の中に!?ベレムナイトとは白亜紀に絶滅したイカにソックリな生物である。この短い五寸釘のようなものは、死んで分解されても残りやすい鏃型の殻部分で矢石とも呼ばれる。
「もしかしたら、これがこのサメの死因だったのかもしれませんね」とニールケンさんは笑った。
イカを大量に食べて消化不良で死んだサメなのか、これは?
ふと、その昔、私の母の同僚が映画館で大量のスルメを食べ、ビールを飲みながら映画を見ていたら、胃の中でスルメが膨張して大変なことになり、病院に運ばれたというエピソードを思い出してしまった。イカのドカ食いには気をつけよう。
サメの他にこの博物館ではイクチオサウルス、プレシオサウルス、翼竜やワニなどの大型化石が見られる。
ホルツマーデン周辺の粘板岩から産出する化石の特徴は、生物の軟体部もよく保存されていること。普通は軟体部は分解してなくなってしまい、残るのは骨などの硬い部分だけれど、この辺りの化石は酸素の乏しい地層に閉じ込められたことで軟体部も保存されやすかった。
イクチオサウルスの骨格標本。尾が下向きに折れ曲がっている。
すごく保存状態が良いけれど、なぜ折れ曲がっているのだろう?
その疑問は軟体部分が残っている別のイクチオサウルスの標本を見て解けた。
なるほど、尾びれの下側の部分だったのか〜。
それにしても惚れ惚れとしてしまう立派な標本である。

こんなに隅々まで綺麗に残っていると、ジュラ紀に生きていらしたんですね、と話しかけたくなってしまう。一つ一つの標本がリアルな個体として迫って来る。
これはまた別のイクチオサウルスなのだけど、肋骨の内側に小さなリング状のものがたくさん並んでいるの、見えるかな?
「これはメスで、お腹の中に胎児が5体いますよ」
エエ?胎児?妊婦さんだったの?
「一匹は無事に産まれたみたいですね。ほら、左上を見てください」と言われ、標本の左上に目をやると、
あ、赤ちゃんがーーーっ!!一匹産み落としたところで力尽きたなんて、お母さん、悲しすぎ。
なんだか圧倒される標本の数々。ワニの化石もすごいですね。
ここの化石は軟体部が保存されやすいと先にも書いたけれど、こんなベレムナイト標本、初めて見たわ。
アンモナイトと魚が重なった瞬間が永久スクリーンショットされてる!
驚きの連続。そしてこの博物館の一番の目玉はこのウミユリの群生標本だ。ユリというから植物なのかと思ったら、ウミユリはヒトデやウニなどと同じ棘皮生物だった。標本の真ん中あたりの高さのところに横向きに黒っぽいものが見えるが、これは流木で、5本の腕を持つウミユリの成体がこの流木につかまるように付着してゆらゆらと生きていた。この標本はウミユリ化石の標本としては世界最大で、なんと18×6mもある。クリーニングには18年もかかったという。
細部
感動のガイドツアーが終わった。60ユーロの価値はあると感じたが、一人5ユーロの日曜ツアーも定期的にあるので、興味のある方は日曜を狙って行くのがおすすめ。
博物館のすぐ前(道路を渡った反対側)には化石収集体験のできる小さな石切場もある。でも、子供向けなので本格的にやってみたい場合は博物館から約2.5kmのところにある石切場、Schieferbruch Kromerが良いと教えてもらった。私も絶対行くつもり!
日本のマニアックな観光地 3 三笠市立博物館で日本一のアンモナイトコレクションを見る
前回、前々回と番外編の日本のまにあっく観光地を紹介しているが、その3(今回で最終回)は東京から大きくジャンプして北海道三笠市の三笠市立博物館。道央にあるこの博物館では日本一のアンモナイトのコレクションが見られると知り、行く気満々だった。
しかし、季節は真冬。実家からはまずバスで旭川駅まで行き(30分弱)、そこから電車で岩見沢まで行き(約1時間)、そこからローカルバスに乗り換えてさらに1時間近く移動しなければならない。行こうと思った日の前日、旭川の最低気温はマイナス21度だった。さすがに無謀では。内心諦めかけたところに我が母は言う。「多分三笠の方はそんなに寒くない。大丈夫だ」と。さすが道産子歴70余年。母がそう言うならと決行することにした。
博物館最寄りの幾春別バス停留所に到着
博物館への道。写っているのは我が母と娘
あった!
ドイツからはるばる来たよ、三笠市立博物館。これで閉まってたら泣くところだった。
おーっ。これは見るからに凄そう!
フロアは巨大なアンモナイトの標本のオンパレード。この光景だけでも一見の価値がある。側面にも大小様々なアンモナイトが展示されている。その数、およそ600点。日本一を誇るアンモナイトコレクションだそうだが、そもそもなぜここにそれだけのアンモナイト化石が大集合しているのかというと、三笠市及びその周辺には蝦夷層という白亜紀の地層が分布しているため。蝦夷層からはアンモナイトやイノセラムス(二枚貝)の化石が多く見つかるのだ。
縫合線くっきりのアンモナイト標本。アンモナイトの内部はたくさんの小さな部屋に分かれていて、そのそれぞれを分ける壁を隔壁と呼ぶ。縫合線とはその隔壁と外側の殻の接線で、このような複雑な模様を描くものもあるそうだ。
日本最大級のこの標本の表面にも縫合線が見られる
展示の説明はかなり詳しく、アンモナイトの系統図から見分け方の説明、さらには新種がどのように論文に記載されるのかまで説明されている。小さな町の博物館とは思えない充実ぶり。
ところでアンモナイト標本の中央の窪みのことを「へそ」と呼ぶが、おへその部分は殻が薄くて風化しやすいので大型標本にはおへそがないものが多いらしい。三笠市立博物館の大型標本にはおへそがある。また、アンモナイトには「正常巻き」のものと「異常巻き」のものがある。アンモナイトと言われて普通、頭に思い浮かべるシナモンロールのようにくるりと巻いたものは正常巻きのアンモナイト、それ以外のものは異常巻き。でも、異常巻きのアンモナイトは病気のアンモナイトということではない。巻いていないタイプを総称して正常巻きのものと区別している。
北海道を代表する異常巻きアンモナイト、ニッポニテス
これもアンモナイトなんだ!
2017年に三笠市で発見された新種のアンモナイト、ユーボストリコセラス・ヴァルデラクサム
とにかくいろんな種類のアンモナイトを見ることができて、本当に面白い。北海道産の標本だけでも十分過ぎる見応えがあるが、世界各地で発見された見事な標本もたくさん展示されている。
あれっ。この黄色い板はもしかしてドイツのゾルンホーフェン産では?
実は私もゾルンホーフェンで採集して来たんだよね。(詳しくはこちらの記事)
北海道では首長竜やモササウルスの化石も見つかっている。
1976年に三笠市で発見されたモササウルスの新種、エゾミカサリュウの模型
他にもコンボウガキと呼ばれる細長いカキの化石とか、面白いものがたくさん!もうー、書ききれない。そして、ここまでに紹介したものは三笠市立博物館に全部で6つある展示室のうちの一つでしかないのだ。他の展示室では日本最古の炭鉱である幌内炭鉱における労使を含めた郷土史の展示が見られる。そちらも大変興味深かった。
アクセスが良いとは言い難いものの、行く価値大いにありの素晴らしい博物館で大満足。今回は雪に埋もれていたため見学しなかったが、この博物館周辺はジオパークになっていて(三笠ジオパーク)地層の観察もできる。
北海道にはこんな面白いものがあったのかと故郷を再発見できたのも収穫だった。そして、この三笠市立博物館だけでなく今回の日本里帰り中に立ち寄った古生物関連博物館の全てでゾルンホーフェン産の化石標本を目にして、世界的に有名な化石の産地で化石収集体験できる環境にいるのは恵まれたことなんだなあと実感したのである。
追記:
みかさぐらしさんによる三笠市立博物館館長さんのインタビュー動画がとても面白いです。
日本のマニアックな観光地 2 世界のカバン博物館
引き続き、番外編で日本への里帰り中に訪れたまにあっく観光地の紹介である。前回は高知県の室戸ユネスコ世界ジオパークを紹介した(記事はこちら)が、今回は東京都台東区にある世界のカバン博物館についてレポートしよう。
この博物館は鞄メーカー「エース株式会社」本社ビル7階にある。都営浅草線浅草駅からすぐ。世界中から集めた珍しい鞄が展示されているという。嬉しいことに入館料は無料。そう来たら、行かなきゃ損損!

博物館入口を入ってすぐに目につくのは、円形のフロアパーティションの壁面を使ったカバンの色見本ディスプレー。写真に写っていないけれど、この曲線に沿うようにして左側の壁に「カバンの歴史」を示す展示がある。人類の生活においてカバンというものがどのように生まれ、発展していったかがわかる面白い展示だった。
展示によると、人類が最初にカバンを使ったのは紀元前3000年以上前にも遡る。最初のカバンは動物の皮や植物で作った袋だった。移動生活をしていた人々はそうした袋に食べ物や武器などを入れて運んだ。古代エジプト時代に川を利用して荷物を運搬する技術が発達し、木の幹をくり抜いて作った「トランク」が登場する。カバンには次第に装飾が施されるようになり、時代の推移の中でカバンは富と権威の象徴となって行く。世界の様々な地域で身近な素材や生活習慣に応じたそれぞれのカバンが発達したが、交易が盛んになると互いに影響を与え合い、異民族の要素も取り入れながらカバン文化が発展して行く。日本では平面布で物を包む文化が主に発達し、風呂敷や巾着袋を生み出した。鎖国をしたことで独特のカバン文化が発展し、江戸時代は袋物黄金時代と呼ばれるほど様々な名作を生み出したそうだ。近代になると産業革命によってカバンづくりが工業化し、様々な素材を利用したカバンが売られるようになる。また、交通機関の発達で旅が大衆化すると、ポーターが運んでいたそれまでのトランクも旅行者が自分の手で持ち運びやすいものへと変化していった。ハンドバックも列車の旅の際の手荷物入れとして登場し、次第に日常生活でも使われるようになったそうだ。人類の歴史においてカバンは生活文化の発展と共に発達し、生活が多様化した現在では用途や場面に応じた様々なカバンが使われている。
と、ざっくりとまとめてしまったが、展示では詳細な説明がなされていて読み応えがあった。
「カバンのひみつ」コーナーではカバンづくりの動画やパーツの名称を示すパネルなどがある。日頃、あまり何も考えずに使っているカバンだけど、よく考えられ技術を駆使して作られているのだなあ。
その先はいよいよこの博物館が誇る世界のカバンコレクションのコーナーだ。エース株式会社の創業者である新川柳作氏が収集した世界の珍しいカバン約550点の中からその都度セレクトし、展示しているという。

面白いカバン、希少なカバンのオンパレードで、またカバンを通じて世界のいろいろな民族の生活文化にも触れることができ、楽しい。どれも魅力的で全部紹介したいくらいなので興味のある方は是非、見に行ってみてください。以下は私が特に気に入ったもの。
イタリアのワインボトル入れバッグ
スイスの学童用バッグ
スウェーデンのベリー摘み用の籠
トルコの穀物袋
オセアニアの籠バック
ベトナムのプラ紐バック
セネガルの空き缶で作られたアタッシュケース
ネパールのショルダーバックとウズベキスタンのリュックサック
米国製30年代のワードロープトランク
日本の図嚢
戦時中の日本で作られていた鮭皮のバック
車掌さんのカバン。懐かしい!
この他にも著名人が寄贈したカバンのコーナーや特別企画展もあり、充実している。ウェブサイトによると、エース創業者の新川氏は1958年にドイツのオッフェンバッハにある皮革博物館を訪れ、「皮革製品が無数に展示されているけれどカバンが少ない」と物足りなく感じ、このカバンの博物館を創られたそうだ。(と思ってオッフェンバッハの皮革博物館のウェブサイトを見たら、博物館100周年記念でなんと現在「カバン展」をやっているではないか!行かなくちゃ)
これからカバンを見る目がちょっと変わりそう。
日本のマニアックな観光地 1 室戸ユネスコ世界ジオパーク
年末からしばらく更新していなかった当ブログ、1月もすでに後半に差しかかってしまったが、今年もドイツのまにあっくな観光スポットをどんどん発掘して行くつもり。年末年始は日本へ里帰りしていた。日本でもまにあっく観光を楽しんで来たので、今回から数回、番外編として日本の面白い場所をいくつか紹介することにしよう。
その一つ目は高知県室戸半島の「室戸ユネスコ世界ジオパーク」。私の故郷は北海道だけれど、今回は仕事の関係で弟一家が住んでいる高知も訪れた。弟夫婦にあちこちドライブに連れて行ってもらい、北海道やこれまでに住んだことのある関東地方とは異なる自然環境を楽しんだ。最近、ジオパークが気になっているので、高知県の端っこに位置する室戸ユネスコ世界ジオパークにも行って来た。
まずは高知市から南東へ約80kmのところにある「室戸世界ジオパークセンター」で室戸半島の成り立ちについてざっくりと予習。
このビジターセンターでは室戸半島の地形及び自然環境やそこに住む人々の暮らしについて展示されている。
室戸半島の地形モデル。全体が上下に襞を寄せたように隆起している。室戸半島のこの地形はプレートの運動によって「付加体」というものが繰り返し形成されることでできたそうだ。室戸半島は海洋プレート(フィリピン海プレート)が大陸プレート(ユーラシアプレート)の下に沈み込む海溝(南海トラフ)の北側に位置している。海洋プレートが沈み込む際、その上に堆積した砂や泥などが上方に押し出されて陸地にくっつく。すでにある地層の下部に新しい地層が潜り込むように付加されるのだが、それが繰り返されることで陸地がぐいぐい押されて持ち上がり、段丘となる。室戸半島だけでなく四国全体が南から北に向かって押し上げられてできた地形で、海溝に近い南の地層が最も新しく、北の地層ほど古いそうだ。
海プレートが大陸プレートにぶつかって押し続けるため、室戸半島の大地は平均約2m/千年のスピードで隆起しているそうだ。ジオパークセンターでは南国市にある高知コアセンターの研究や地震・津波観測監視システムDONET 2についても展示している。情報を一般向けにわかりやすく提示している良い情報センターだと思う。
さて、それではジオパークを実際に見てみよう。いくつかある室戸ユネスコ世界ジオパークの見どころのうち、室戸岬の灌頂ケ浜を歩いてみた。
奇妙な黒と灰白色のシマ模様の岩があちこちに横たわっている。このようなシマシマはタービダイト層と呼ぶそうだ。泥が海水中で堆積して固まった黒色の泥岩と灰白色の砂岩が交互に重なってできている。泥が堆積している場所に土砂を多く含んだ混濁流によって砂が運ばれて来て堆積する。それが定期的に繰り返されてシマ模様になるらしい。
泥岩と砂岩は水平に重なるのだけれど、それが激しい地殻変動によって破断したり湾曲してぐにゃぐにゃに折れ曲がる。このような構造を「スランプ構造」と呼ぶんだって。
見て、このスケールを!
サンゴがたくさん。でも、ジオパークに指定されている場所なので拾ってはダメね。
日本の自然はダイナミックだね。
アコウの木(別名、タコノキ)。本当にタコのよう。このすごい根っこは台風の被害を抑えてくれるらしい。アコウの木にはイチジクのような実がなるそうだ。
この後、生痕化石が観察できるという羽根岬へも行ったけれど、残念ながら化石を見つけることはできなかった。またの機会にじっくり探してみたい。
日本国内にはジオパークに認定されている場所が現在、44箇所ある。そのうち9箇所がユネスコ世界ジオパークで室戸ジオパークはその一つだ。これから少しづつ日本のジオパークを回れるといいなあ。
バウツェンのソルブ博物館でドイツにおける少数民族の歴史を知る
かねてから行きたいと思っていたドイツ南東の町、バウツェン(Bautzen)へ行って来た。そこにあるソルブ博物館(Sorbisches Museum Bautzen)を訪れるためだ。ドイツで今もなお独自の文化を保つスラブ系の少数民族、ソルブ人に関する博物館である。
ソルブ人の存在は以前住んでいたドイツ西部から現在の住まいブランデンブルク州に引っ越して来てから初めて知った。ベルリンから電車に乗って南東方面へ移動すると、いつからか駅名がドイツ語と見慣れない別の言語の二言語表示になるのに気づいた。ポーランドとの国境に近い地域なのでポーランド語を併記しているのだろうか?と思ったら、その見慣れない言語はソルブ語だという。ブランデンブルク州とその南のザクセン州にまたがってラウジッツと呼ばれる地域があり、その地域にはドイツ人とは言語や文化を異にする少数民族、ソルブ人が生活しているそうだ。
ベルリンから南東100kmほどのところにシュプレーヴァルト(Spreewald)という湿地帯があるが、景観がとても美しく、首都から気軽に行ける観光地としてとても人気である。シュプレーヴァルトにはソルブ人の集落があり、Lehdeの野外博物館Freilandmuseum Lehdeをはじめとする民族学博物館でソルブ人の伝統文化を知ることができる。Lehdeの博物館へは10年ほど前に初めて訪れ、特徴的な民族衣装やカラフルで繊細な模様付けをしたイースターエッグなどの手工芸品が素晴らしく魅力的で気に入った。シュプレーヴァルトのソルブ文化については紹介記事や動画がたくさんあるので、今回はバウツェンのソルブ博物館について書きたい。
ざっくりと説明すると、ソルブ人というのは6世紀から10世紀にかけてカルパチア山脈の北方から現在のドイツ東部へ移動して来て定住したスラブ系民族の末裔である。当時、20ほどの異なる部族が入って来たとされ、現在使われている「ソルブ人(Sorben)」という呼称はそのうちの一つのSurbi族に由来すると考えられている。スラブ系民族は40,000km2ほどの領域に定住して農耕や牧畜、貿易を営んでいたが、12世紀以降の東方植民により西部から大量のドイツ人が移住して来て以来、少数派となった彼らは次第にドイツ文化の中に吸収されて行った。スラブ系民族の居住範囲がどんどん狭まり人口が減っていく中、ラウジッツ地方では彼らの独自文化が比較的良く維持された。長い歴史の中で差別や断続的な弾圧を経験しながらも「ソルブ人」としてのアイデンティティを保ち続けている人々がいる。ラウジッツ地方はブランデンブルク州に属する下ラウジッツ(Niederlausitz)とザクセン州に属する上ラウジッツ(Oberlausitz)に分かれ、同じソルブ人でも言語が異なるそうだ。下ラウジッツで話されるソルブ語(下ソルブ語)はポーランド語に近く、上ラウジッツのソルブ語である上ソルブ語はチェコ語に近い。上で紹介したシュプレーヴァルトでは下ラウジッツのソルブ文化に触れることができるが、それとはまた異なるという上ラウジッツのソルブ文化にも興味があった。今回訪れたザクセン州南部のバウツェンは上ラウジッツのソルブ文化の中心地である。
バウツェンは「塔の町」というキャッチフレーズを持ち、中世の市壁が残る美しい町。観光地としても魅力的だけれど、ここでは町の紹介は飛ばしてソルブ博物館へ直行しよう。
またしても外観の写真を撮るのを忘れてしまった(博物館へ行くときには常に前のめり、、、)。
受付の女性はご本人が言うには「純粋なソルブ人」だそうで、母語はソルブ語、ドイツ語は第二言語として話しているとのこと。ソルブ人の民族代表機関であるラウジッツ・ソルブ人同盟(Domowina)の発表によると、現在、ソルブ語を話す人はドイツに約6万人いるとされる。もちろん「話す」の程度は人により様々だろうけれど、受付の方のように「母語はソルブ語で、家では毎日ソルブ語を話しています」というほどのレベルでソルブ語を運用している人もいると初めて知り、少し驚いた。
ソルブ博物館は3階建てのなかなか大きな博物館である。全体として、民族学的な内容よりもドイツにおけるソルブ人の歴史に重点を置いた展示だった。ドイツ人の東方入植以来、支配者が移り変わる中、ソルブ人がどのようにして民族のアイデンティを形成しそれを守って来たか、その流れがわかるようになっている。
ソルブ人の文化として最も目につきやすいのは特徴的な民族衣装だ。現在は日常着ではなくお祭りなど特別な場で着用されるソルブの民族衣装は東欧を感じさせる色合いやデザインで、繊細な魅力に富んでいる。そして、同じソルブ人の民族衣装でも地域によってかなりの違いがあるようだ。
これはSchleife村のあたりで着られていた民族衣装
こちらもSchleifeのもの。右側は花嫁衣装
左側のカラフルなビーズを使った衣装はHoyerswerdaのソルブ人集落の衣装。右はコットブス周辺の集落のもの。地域によってデザインや色使いがかなり異なるけれど、基本色が象徴するものは共通で、赤は若さや力を表、緑は成熟を表す。花嫁衣装には緑色が使われる。黒は祝い事の色、白はかつては喪の色だった。
左からBautzen、Nochten、Muskauの衣装
顔をレースで覆った女性の衣装はクリストキント(Christkind)の衣装。クリストキントというのはドイツでは一般的にはクリスマスの天使を意味する。クリスマス市などでよくお目にかかる背中に羽のある白と金の衣装を着た若い女性がそれ。しかし、ソルブの風習はそれとは異なり、ベールで顔を隠した女性が付添人とともに集落の家から家へ人々を祝福して回る。クリストキントにレースの手袋をはめた手の甲で3回顔や頭を撫でてもらうと神の恵みが得られるそうだ。クリストキントはベシェールキント(Bescherkind)とも呼ばれ、衣装は地域によって違う。上の写真はHoyerswerdaのもの。
こちらは下ソルブのクリストキント(ベシェールキント)の衣装で、Lehdeのソルブ・クリスマス市で遭遇した。クリストキント役には翌年結婚予定の未婚女性が選ばれるが、誰がクリストキントなのかは秘密で、そのため本人は口をきいてはならないらしい。このクリスマス市では私も手の甲で顔を撫でてもらったので良いことがあるかな。
さて、衣装を紹介しているとキリがないのでこれくらいに。
ソルブ人は6世紀以降、現在のドイツの国土にずっと住み続けて来たが、ソルブ人の国家が存在していたわけではない。ドイツ人に混じってスラブ系民族の集落が点在し、それぞれの集落には少しづつ異なる文化や風習があったようだ。ドイツ人は自分たちとは異なる言葉を話す彼らをヴェンド人(Wenden)と呼んだ。差別的なニュアンスを含む呼称なので、現在はソルブ人という言葉が使われているが、ヴェンドという言葉は現在も残っていて、ニーダーザクセン州にはヴェントランド(ヴェンド人の住む土地)という意味の地方がある。このヴェントラントがまた興味深いのだ。住居が円形に並ぶルンドリンクという特徴的な形態の村々が残っている。それらの集落を作ったヴェント人はすでに死滅したポラーブ語を話すスラブ系民族で、現在のソルブ人とどのくらい言語や文化が似ていたのかわからないが、このバウツェンのソルブ博物館の展示にもドイツ人が流入する以前のソルブ人の集落はルントリンクが多かったと書いてあった。(ルントリンクを訪れたときの記事はこちら)
自然宗教や祖先信仰を持ち、農耕や牧畜を営んでいたソルブ人はドイツ人の入植後、キリスト教を信仰するようになり、ドイツ人に同化していったが、ソルブ人の人口密度が高かったラウジッツ地方では比較的独自文化を保ちやすかった。特に宗教改革後もカトリックの上ラウジッツは周辺のスラブ系の国との結びつきが強く、民族的要素をより強く残しているようだ。
支配者が移り変わる中でソルブ語の使用は度々禁じられたが、19世紀のパン=スラヴ主義運動の高まりの中でソルブ人の市民文化が開花する。ソルブ語の文法が整備され、それを基盤としてソルブ文学が発展した。1871年からのドイツ帝国期には再び強い抑圧を受けることになるが、ソルブ人の青年運動が活発化し、ラウジッツ各地にソルブ文化サークルが発足、1912年にそれらの上部組織としてドモヴィナ(Domowina)が設立された。
ソルブ語の新聞
しかし、ナチスが政権を取るとソルブ人組織は解体させられ、ソルブ語由来の多くの地名が「ドイツ語らしい」地名に書き換えられ、社会生活のあらゆる場面においてソルブ語の使用が禁じられた。
第二次世界大戦後、東ドイツを占領したソ連はソルブ人に対し、社会的・文化的な保護措置を取った。ソルブ語の新聞の創刊やソルブ語によるラジオ放送の開始、ソルブ語教師の要請及びソルブ語で授業をする学校の設立などが行われ、そうした保護政策はドイツ民主共和国(DDR)政権に引き継がれた。
DDR時代に設置されたソルブ語授業実施校。●印はソルブ語の授業実施校、■はソルブ語で授業を行う学校、▲はソルブ人ギムナジウム
しかし、手厚い少数民族保護政策のように見えた措置は必ずしもソルブ人自身が求める言語と文化の保護を主眼に置いたものではなく、ソルブ人を社会主義の理想と目標の担い手として取り込んでいこうとするものだった。1950年代にラウジッツ地方で褐炭の採掘が始まると、多くのソルブ人は強制移住させられ、46のソルブ人の村及び27の集落が消滅した。
東西統一後のドイツではブランデンブルク州、ザクセン州それぞれのソルブ人保護法のもと、ソルブの民族文化が保護されている。現在、ソルブ人居住区として定義されている地域は上ラウジッツに42箇所、下ラウジッツに27箇所ある。それらの居住区ではお祭りなどの文化的催しが定期的に行われているだけでなく、幼稚園もソルブ語のみ、もしくはドイツ語とソルブ語のバイリンガルのクラスが設けられている。ミサをソルブ語で行う教会もあるそうだ。
以上、大いに端折った紹介になってしまったが、これまで存在は知っていたもののどのような文化と歴史を持つのかは全く知らなかったソルブ人について知ることができ、とても興味深かった。ソルブ人の歴史についてもうちょっと詳しく知りたい方にはドモヴィナ出版から出ているこちらの本がお薦めだ。
Kurze Geschichte der Sorben
ドモヴィナ出版
ソルブ語で書かれた書籍やソルブ関連の書籍がぎっしりと並べられた店内
1冊2ユーロと気軽に購入できるソルブ文化の本。これらも読みやすく、お薦め。
ソルブ関連スポットマップを作ったので、ご興味のある方はどうぞご利用ください。
Googleマイマップでドイツ観光鉱山・鉱山業博物館マップを作った
まにあっく観光マップの第8段が完成した。今回作ったのは「ドイツ観光鉱山・鉱業マップ」だ。古くから鉱山業の盛んなドイツには鉱山業に関する博物館がたくさんある。また、現在は採掘が行われていない旧鉱山の多くが観光鉱山として整備されている。観光鉱山では坑道を歩き、内側から観察することができる。炭鉱から銀・銅鉱山、貴石鉱山など、種類もとても豊富だ。全国に一体どのくらいの数があるのだろうか?とふと思い、マッピングすることにしたが、その多さは想像を超えていた。
観光鉱山と鉱山業博物館を登録したけれど、両者を厳密に分けるのは難しかった。観光鉱山が博物館を併設しているところ、博物館の一部として鉱山を見学できるところ、鉱山とは独立した博物館、技術博物館の一部に鉱山業の展示があるところなど様々だ。観光鉱山を併設しない博物館と展示がメインのスポットは博物館アイコン、それ以外は炭鉱アイコンで表示。例によって、赤色は私がこれまでに訪れたスポットだ。
カテゴリーは採掘される資源の種類別に「石炭・褐炭・石油・天然ガス」「金・銀・銅」「塩」「粘板岩」「石灰石・チョーク・砂岩」「鉄」「その他の鉱石(スズ、亜鉛、鉛、コバルト、ニッケル、黄鉄鉱、ウラン、石英、石膏、蛍石、マンガン、黒鉛、アメジストなど)」「鉱業全般」の8つ。
カテゴリーごとに表示すると、ドイツにおける特定資源の分布がわかる。たとえば炭鉱があるのは、ルール地方やハルツ地方(主に石炭)、ラウジッツ地方(褐炭)、南バイエルン(ピッチ炭)。
アイコンを押すと、そのスポットの画像が出るので、観光鉱山ってどんな感じ?と気になる方はいろいろ押してみてね。この画像は南バイエルンの風光明媚な避暑地、ベルヒテスガーデンの岩塩坑のもの。ここは私が一番最初に見学した観光鉱山で、トロッコにまたがって坑道を滑り台のように滑り降りるという体験がとてもエキサイティングで気に入った。そもそも私はこれがきっかけで観光鉱山が好きになったのだ。
こちらはベルリン近郊の石灰石採掘場がオープンエアミュージアムになったMuseumpark Rüdersdorf。ここではパーク内で石灰窯などの設備や展示がみられる他、隣接する石切場をジープで回るツアーもある。さらには化石採集もできるという充実ぶりだ(見学記録はこちら)。
そしてこちらは、最近行って来た宝石の町、イーダー・オーバーシュタイン近郊にある貴石鉱山 Edelsteinminen Steinkaulenberg(記事はこちら)。
この通り、ドイツの観光鉱山はよりどりみどり。地下道や洞窟を歩く鉱山見学は冒険っぽくてそれ自体が楽しいのだけれど、実は鉱山はいろいろなものの要となる分野でもある。人類の歴史は資源獲得・活用の歴史でもあったわけで、鉱山は技術史や政治史、社会文化史に繋がっている。そして、地下を掘れば化石が出て来たり、遺跡が出て来ることもあるので古生物学や考古学とも大いに関係があるのだ。
と、こう書いても鉱山の魅力は伝わりにくいかもしれない。少しでも楽しさを知ってもらえたらいいなあと思い、ポッドキャスト「まにあっくドイツ観光裏話」で鉱山の何がどういう風に面白いかを語ってみたので、よかったら聴いてください。
まにあっく観光裏話 7 鉱山は面白い
Googleマイマップでドイツ航空関連スポットマップを作った
Googleマイマップで作るまにあっく観光マップの7つ目ができた。今回は在独日本人向けに実際的で超有用な情報サイト「ドイツ情報生活百科」を運営されているノラさん(@g_item)がドイツ国内の航空関連の博物館リストを提供してくださったので、それをベースにドイツ航空関連スポットマップを作ってみた。
カテゴリーは「博物館」「飛行クラブ」「レストラン」の3つ。
まず、博物館を見ていこう。
確認できたのは全国で44箇所。思ったよりたくさんあった。純粋な航空博物館の他に技術博物館の中に航空関連の展示コーナーがあるものや乗り物博物館も含めている。航空分野は私にとってほとんど未知の世界で、これまでに4箇所しか訪れていない。
そのうちの一つ、アンクラムのオットー・リリエンタール博物館はとてもオススメ!以下の記事で紹介している。
過去記事: 「ライト兄弟にインスピレーションを与えたドイツの航空パイオニア 〜 アンクラムのオットー・リリエンタール博物館」
そして、ベルリンのガトー地区の空港にある軍事博物館の分館(Militärhistorisches Museum Flugplatz Berlin-Gatow)では、様々な戦闘機を見ることができる。
過去記事: 「ベルリン軍事史博物館」
他にも気球博物館、ヘリコプター博物館、ツェッペリン博物館、グライダー博物館など特定分野に特化した博物館もたくさんあり、充実している。
博物館をマッピングしたついでにドイツ全国の飛行クラブもマッピングしようと思ったが、検索してそのあまりの数の多さに仰天してしまった。ノラさんからドイツはスカイスポーツがとても盛んで、アマチュアの同好会もたくさんあると聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。一体全国にいくつのクラブがあるのかわからないが、グライダーだけでも相当な数だ。(グライダーの同好会をマッピングしたものがあったので、ご興味のある方はこちらをどうぞ)
いくらなんでも多すぎるので飛行クラブをドイツ航空関連スポットマップに登録するのは諦めたが、ウェブサイト上に「試乗可能」と明記されているクラブをいくつか登録した。ドイツでではないけれど、私は休暇の際にセスナ機に二度、ヘリコプターに一度乗ったことがあり、どちらもすごく感動的だったので機会があればまた乗ってみたいと思っていたところ。
さて、マップの3つ目のカテゴリー「レストラン」だが、スカイスポーツのできる飛行場にはレストランやカフェを併設しているところがある。先日、イーダー・オーバーシュタインへ旅行に行ったとき、地元の人が「飛行場のレストランが人気ですよ。料理も美味しい」と薦めてくれたので行ってみた。それがとても気に入ったのだ(ウェブサイトはこちら)
飛行場に面したレストランのテラスで飛行機が離着陸するのを眺めながら食事ができる。ちょうど夕暮れの時刻だったので素晴らしかった。クラブの会員になってスカイスポーツをしなくても、食事をしながら見学するだけでもかなり楽しいと思う。
そしてこちらは飛行場のレストランではないが、バルト海沿岸の町、ロストックにあるパイロットバー、Schallmauer。経営者は夫と私の古い友人で、退官した空軍パイロットである。店内パイロットグッズだらけのかなりマニアックな飲み屋で面白いと思う。
1ユーロで見られるベルリン警察本部内の警察史博物館(Polizeihistorische Sammlung)の展示があまりに濃い
以前、ニーダーザクセン州のニーンブルクで警察博物館に立ち寄った。それがなかなか面白かった(記事はこちら)ので、他の州の警察博物館も見てみたいなと思ったのだが、そのまますっかり忘れていた。先日、仕事でベルリン市の少年犯罪について専門家から興味深い話を聞く機会があり、ベルリン警察史博物館(Polizeihistorische Sammlung)の存在を思い出したので今週、行って来た。
警察史博物館はベルリン、テンペルホーフ地区の警察署本部の建物内にある。
入り口で身分証明書を見せて警察署の建物の中に入り、地下の展示室へ。
地下の博物館入り口
なんと入場料は1ユーロ。
展示室は2つあり、手前の部屋ではプロイセン時代から第二次世界大戦終戦までの警察史をパネルで展示している。奥の部屋に戦後のベルリン警察史が続く。開館時間は15:00までで、入館したのは13:00ちょっと過ぎだった。2時間あれば十分だろうと思ったのだが、説明文の量がとんでもなく多くて、ゆっくり読んでいたら時間が全然足りなかった!
ベルリンの警察史は19世紀初頭のプロイセン王国陸軍親衛憲兵隊(Königliche Landgendarmerie)に始まる。Gendarmerieはフランス語(gens d´armes)からの借用語で、ドイツ語に直訳するとWaffenleute(武器を持った人たち)の意。当初、憲兵隊は刑事警察と保安警察の両方の役割を担っていた。しかし、プロイセンはナポレオンとの戦いに敗れ国家滅亡の危機に陥ったことで、諸制度の大々的な改革の必要に迫られる(プロイセン改革)。その流れの中、1848年、王立国家警察(Königliche Schutzmannschaft)が結成された。
1848年結成当時の王立国家警察(シュッツマンシャフト)の制服。
さらに、1854年に警察改革が行われ、王立国家警察に水上警察(ベルリン市内や周辺には川や湖が多い)や騎馬隊、福祉警察など7つの部門が置かれ、警察機能が分化していく。それぞれの役割に応じた制服が導入され、警察官の養成が行われるようになった。1904年には初の警察犬も導入される。
プロイセン警察の制服いろいろ
治安秩序の維持という警察の機能は社会の変化の中で少しづつ形を変え、活動の幅を広げていった。19世紀半ばには産業革命によって社会構造や民衆の生活が大きく変容する。ベルリンの人口は急増し、多くの人が劣悪な労働・生活環境に置かれた。状況の改善を求め労働者らが社会運動を起こすようになると、集会や禁じられた発行物を取り締まることも警察の重要な任務となっていった。
やがて第一次世界大戦が勃発すると、警察は「非常時」であるとして市民生活の監視に乗り出す。娯楽を制限し、売春行為を取り締まり、代替食品の流通や売買を監視した。混乱の中で蔓延する少年犯罪を取り締まる必要性も生じた。そして、1918年のドイツ革命の後、王立国家警察が解除されると、混乱期における紆余曲折を経て1919年、治安秩序警察は治安警察(Sichertheitspolizei、略称SiPo)と秩序警察(Ordnungspolizei、略称OrPo)に二分された。しかし、1920年のさらなる改革で秩序警察は廃止され、新たに治安秩序警察(Schutzpolizei、略称SchuPo)が創設される。ここまでのベルリン警察史、かなり複雑で近代史が頭に入っていないと把握するのが大変である。治安秩序警察とは別に、1872年に導入された刑事警察(Kriminalpolizei、略称KriPo)はそのまま機能を保持し続けた。
時系列で展示を読み進んで行くと、やがてドイツ史において避け流ことのできない時代、ナチス時代に突入した。ナチス政権下では秘密国家警察(Geheime Staatspolizei、通称ゲシュタポ)が発足し、刑事警察と統合されて保安警察(Sicherheitspolizei)となる。似たような用語が多くて大変ややこしいのだが、このときドイツ警察長官に任命されたハインリヒ・ヒムラーはこの保安警察と秩序警察を合わせたドイツの警察機構全体を掌握することとなる。そして警察内の人員整理により要職はナチスの親衛隊や突撃隊のトップで固められていく。
いつものことだけれど、この時代についての資料は読むのがとても辛い。
ナチス政権下の警察による青少年への洗脳の様子
1つ目の展示室での展示は第二次世界大戦終戦時までで、続きは奥の展示室にまとめられている。戦後、ベルリン市は連合国により分割統治されたが、その際に警察機構も再編成されることになった。新しい警察署はソ連の占領区域に置かれ、ソ連はベルリンの警察機構に対し大きな影響力を持つことになったが、ベルリン市の支配を巡って英米仏とソ連の間の対立が深まり冷戦が始まるとベルリンは東西に分断され、警察機構も二つに分かれてそれぞれの路線を歩むことになる。
英米仏占領区域で使われた警察グッズ
ベルリンが東西に分かれ、ドイツ統一により再び一つになるまでの間の警察史もあまりに濃い。東ベルリンでは秘密警察・諜報機関、シュタージが創設されて市民を監視し、西ベルリンでは学生運動やテロ、住居の不法占拠など警察が大々的に出動する事態が次々と起こった(と、一言でまとめるのは乱暴すぎるけれど、この時代についての資料を紹介するとそれだけで1つの記事になってしまうので)。晴れてドイツが再統一されると、今度は混乱の中でベルリンの治安が急激に悪化した時期もあった。プロイセン時代に初めて警察機構が誕生して以来、ベルリンは激しい社会の動乱と体制の変化を繰り返し乗り越えて現在に至るわけで、その中で警察が果たして来た役割(良いことも悪いことも含め)の重みを考えると、同じ警察でも他の州の警察とは事情が異なるとしか言いようがない。
展示室では警察史のパネルの他、警察の道具やベルリンで起こった事件に関する展示物も見られる。
ベルリン警察帽コレクション
警察官のパーティ用ユニフォーム
1937〜1945頃に使われていた法科学鑑定の道具
不法侵入の道具
様々な事件の犯行に使われた凶器
1995年ベルリン、ツェーレンドルフ地区で起こった銀行強盗事件に関するコーナー
ベルリンの歴史に触れるには多くの切り口があるが、警察史から考えるベルリンも面白い。以前行ったベルリン・スパイ博物館の展示に通じるところもあるので、そのときに書いた記事を貼っておこう。
ベルリンスパイ博物館
Googleマイマップでオスタルギー関連スポットマップを作った
久しぶりに観光マップを作った。
今回は「オスタルギー関連スポットマップ」。オスタルギーとはなんぞや。ドイツはご存知の通り、1989年まで西ドイツと東ドイツに分かれていた。ベルリンの壁が崩壊し、ドイツが再統一されてからもう30年近くになる。旧東ドイツ(DDR)に生まれ育った人たちの中にはDDR時代の生活文化を懐かしく思い出す人が少なくないようだ。「オスタルギー(Ostalgie)」とは東を表すOstとノスタルジー(nostalgy)とを合わせた造語である。
チープなDDR製品には素朴さや独特の味わいがあり、旧東ドイツ育ちでない人たちの中にもファンがいる。また、DDRの生活文化に触れることが冷戦の時代について知るきっかけになることもある。そこで、オスタルジーを感じられるスポットをまとめてみた。
東ドイツにはDDR時代の生活文化や社会文化について展示をしている博物館が数多くある。
観光客にとって最もメジャーなのはベルリンにある「DDR Museum」や「Museum in der Kulturbrauerei」でどちらも興味深いが、個人的オススメはアイゼンヒュッテンシュタット(Eisenhüttenstadt)の「Dokumentationszentrum Alltagskultur der DDR」。
DDR製の乗り物博物館もたくさんある。国民車トラバントの博物館はもちろん、DDR製の二輪車や電車、作業用車両もレトロなデザインで、眺めるだけでも楽しい。
関連動画を見つけたので貼っておこう。
DDR時代を彷彿とさせるカフェやレストラン、ホテル、映画館もいくつかある。(全ては網羅していないと思うので、登録したスポット以外のものをご存知の方は「こんな場所あるよ」と教えて頂けたら嬉しいです。追加します。)
このブログではショッピング情報は敢えてシェアしていないけれど、今回は例外的にDDRグッズの買えるショップも登録した。その他、東ドイツには街並みにDDRの雰囲気が今なお濃厚に残っている場所がある。
上でも紹介したアイゼンヒュッテンシュタットの他、
マクデブルク(Magdeburg)の中心部や
ホイエルスヴェルダ(Hoyerswerda)の駅前、東ベルリンのカール・マルクス通りなど。
今回登録したものの他に、東ドイツにはDDR時代の政治犯の取り調べ所の建物を資料館にした場所や東西ドイツの国境検問所ミュージアムなど、DDR時代の政治状況や冷戦について深く学ぶことのできるスポットも非常に多くある。とても興味深いがそれらはオスタルギーとは切り口が違うので、今回のマップは生活文化を軸に関連スポットを集めた。
結構見てきたつもりだけれど、マップを作ることでまだまだ見たい場所がたくさんあることがわかった。これから少しづつ訪れたい。
ケルトの集落を再現したオープンエアミュージアム、アルトブルク
イーダー・オーバーシュタインでの休暇の最終日。旅の目的だった鉱石観光は無事終了し、中途半端に時間が余ったので近郊のブンデンバッハ(Bundenbach)にあるケルトの集落、アルトブルク(Altburg)へ行ってみることにした。1971 年から 1974 年にかけブンデンバッハの丘の上に紀元前170年頃に建設され、ローマ軍に占領されるまでケルト人が生活を営んでいだ集落の遺跡が見つかった。その集落の一部が再建され、オープンエアミュージアムになっている。
ケルト集落は観光鉱山Herrenbergから5分ほど歩いたところにある。鉱山入り口でチケットを買うと、受付の女性に「主人がミュージアムを案内します。バイクですぐに行くので先に行っていてください」と言われたので、山道を歩き出す。
斜面を少し登ると台地に出た。柵に囲まれた藁葺きの建物がいくつか並んでいる。それがミュージアムだ。
ガイドさんがバイクに乗ってやって来た。アルトブルクのケルト集落はおよそ1.5ヘクタールの台地に建設され、周囲は厚い壁と溝に囲まれていたことが明らかになっている。最も高い場所には有力者が住んでいた。その一角に5棟の住居と5棟の倉庫の建物が再建されている。
この台地で発見されたのは地面に開いた掘立柱を立てるための穴と柵溝だ。全部で3500ほどもあった穴の位置から当時の住居の配置を計算し、建物を再建した。この集落はカエサル率いるローマ軍に占領され、ローマ帝国の領土に組み込まれることになったが、その際に破壊行為が行われた形跡はなく、徐々に衰退し消滅したと考えられている。
左側が倉庫の建物。右が住居
メインの建物が展示室
オリジナルの地下室が残っている。右側に3段ほどの階段が見える。この地下室の用途は明らかでないが、宗教儀式が行われたのではないかと考えられている
亜麻から繊維を取り出す道具(Flachsbrecher)
このミュージアムでは毎年夏にケルト祭りが催される。またその他のイベントなども通じ、ケルト文化を伝えている。
ケルト文化に典型的とされる安全ピン
別の建物の内部。えっ、普通に住めそうじゃない、ここ?と思ったら、イベント時などに運営者が寝泊まりすることがあるそうだ。テーブルや椅子はケルトの資料に基づいて作製されたものだけれど、奥のベッドはIKEAのものだとか。
パンを焼く竃
ミュージアムの閉館時間が近づいていたのでガイドさんはさっさと案内を終了したかったようで、早口のさらっとした説明で終わってしまった。ギリギリに行った私たちが悪いが、もうちょっと詳しく聞きたかったなあ。
というわけであまり多くはわからなかったけれど、ドローン動画を撮影したのでケルト人が生活していたのはどんな場所なのか、雰囲気を感じてもらえれば。
ケルト関連の観光スポットはマンヒンクのケルト・ローマ博物館に続いてこれがまだ2つ目。これからもっといろいろなケルト関連スポットを訪れたい。
ケルト集落から西方向を眺めると、中世の城、Schmidtburgの廃墟が見える。以下はおまけの写真とドローン動画。
上から見たところ
店主が化石コレクションを見せてくれるワインとアクセサリーの店、HerrsteinのGoldbachs Weine & Steine
過去4回に分けてイーダー・オーバーシュタインでの鉱石観光についてレポートして来た。ここで話はイーダー・オーバーシュタイン滞在1日目の化石エクスカーションに戻る。ガイドさんの案内のもとフンスリュック地方で見つかる様々な年代の化石を探し集めるという大変満足なエクスカーションに参加した。終了時にガイドさんから「これ、知り合いがやってる店なんだけど、よかったら行ってみて」とチラシを手渡された。近郊のヘルシュタイン(Herrstein)という町にあるワインとアクセサリーの店、Goldbachs Weine & Steineのチラシだった。
私はワインは飲めないし、買い物もそれほど好きではないので、店は見なくていいか、、、、と思ったのだけれど、チラシをよく見ると「Geomuseum(地質学博物館)」と書いてある。どうやらこのお店は小さな博物館を併設しているようだ。たいして遠くもなかったので、行ってみることにする。
チラシの住所の建物の中に入ると確かにワインの店である。が、奥の部屋が博物館だという。
なるほど、これが博物館。写真がちょっと暗くなってしまったが、磨き上げられたショーケースに化石が美しく展示され、小さいながらもかなりいい感じの空間だ。さて、では化石をちょっと見せてもらおうかと思ったところに店の主人と思われる男性が入って来た。
「私のコレクションをご覧になりたいのですね。では、ご説明致します」と言うと、店のご主人はここにプライベート博物館を作った経緯を熱く語り始めた。ご夫婦は30年以上に渡って趣味で化石や鉱石を収集しており、それらを展示(一部は販売)するための場所を長らく探していた。ようやく見つけた古い建物を大々的にリフォームし、このショップ兼博物館をオープンするに至ったとのことである。ご主人はとても感じの良い人で説明もわかりやすいが、いわゆる「話が長いタイプ」だ。「ひえ〜、チラッと見るだけのつもりで来たのに、こりゃ時間かかるな」と思ったけれど、まあこちらは休暇中だし、せっかくだからいろいろ見せてもらおうと覚悟を決めた。
店主ゴルトバッハさんの収集した化石は年代ごとに整理されている。写真のケースは最も年代の古いカンブリア代からシルル代の化石。ゴルトバッハさんは一つ一つのケースからお気に入りの化石を取り出して見せてくれた。
目までくっきりの三葉虫化石
気室の一つ一つがはっきり見える頭足類
アンモナイトを含む頭足類は気室と呼ばれる部屋を一つ一つ増やしながら成長し、常に最新の気室野中のみで生活していたそうだ。使わなくなった部屋の中はガスで満たされ、海水の中で浮力を調整していた。
この途中まで巻いている化石は名前を聞いたけれど、このときたまたまメモ用紙を持っていなかったので、残念ながら忘れてしまった。グーグル検索したところ、こちらのリツイテスというものと似ている。年代的にも同じオルドビス紀なので同じものか近縁の古生物ではないだろうか。
年代順に一つ一つのショーケースの中身を説明してくださった。
おおっ、これは先日のアイフェル地方旅行で見たデボン紀のサンゴ化石ではないか!
私と夫がアイフェル地方で見つけたサンゴ化石
アイフェル地方のゲロルシュタイン近郊では耕したばかりの畑に上の写真のような化石がゴロゴロ落ちていて本当にびっくりした。その時の記事はこちら。
こちらのケースにはフンスリュックの粘板岩によく見つかるデボン紀の化石が並んでいる。
ヒトデ
ウミユリ
このような粘板岩の化石は1日目のエクスカーションで自分でも拾ったりクリーニングしたりした。
エクスカーションでの化石クリーニング風景
粘板岩に化石が含まれている部分は硬くふくらんでいるが、そのままではなんだかよくわからないものが多い。周囲を削り取ると化石が浮かび上がって来る。
こちらは石炭紀の植物化石。そういえばこの年代の化石はエッセンのルール博物館(Ruhrmuseum)でたくさん見たな。エッセンのあるルール地方はかつて炭鉱業で栄えた地方だ。石炭というのは植物が炭化したものだものね。
エッセンのルール博物館で見たシダの化石
話が横に反れるが、ルール博物館はユネスコ世界遺産に登録されているかつての炭鉱、ツォルフェアアインの建物の中にある第一級の博物館で、ルール地方で見つかった化石の素晴らしいコレクションの展示コーナーもある。化石ファン必見の博物館だと思う。(過去記事)
バルト海リューゲン島のチョーク化石。これもこの夏、探しに行って来たばかり。
リューゲン島で見つけたベレムナイト
リューゲン島はチョークの地層自体が微化石の集合体だが、目に見える化石もたくさん見つかる(過去記事)。
当ブログ「まにあっくドイツ観光」でこれまでにたくさんの場所を訪れレポートして来たが、見たものがだんだんと繋がって行く感覚がある。気づいたらすっかりブログのメインテーマのようになっている化石だけれど、実は最近急に興味を持つようになった分野で、最初は化石という広く深い分野の中の何を見ているのか自分でもさっぱりわからなかった。けれど、ここでこうしてゴルトバッハさんのドイツ化石コレクションを眺めていると、すでにドイツ国内のいろいろな年代と種類の化石を目にして来たなあと感じた。
これらは1日目のエクスカーションで拾ったのと同じ年代(第三紀)の松かさ化石
メクレンブルク=フォルポンメルン州Sternbergの貝の化石
ゴルトバッハさんのコレクションは自然史博物館の化石コレクションのように大規模ではないけれど、よく整理されていてドイツで見つかる化石の全体像を掴むのにとても良い!頭を整理するのにとても役立った。それに、マンダーシャイトの鉱物博物館、Steinkisteでも感じたことだけれど、個人の収集家は自分のコレクションを愛していて、とても熱心に説明してくれるので、大きな博物館とはまた違った面白さがある。
Weine & Steineには化石だけでなく鉱石の展示室もあって、ここでも素晴らしいメノウの数々を見ることができた。
ところでこのお店兼博物館のあるヘルシュタインは中世の街並みが残る、なかなか素敵な場所だ。
ノスタルジックなCafé Zehntscheuneは料理も美味しい
イーダー・オーバーシュタインに来たら足を伸ばしてみる価値あり。
イーダー・オーバーシュタインのドイツ鉱物博物館で見られる素晴らしいメノウコレクション
前回の記事で紹介したドイツ貴石美術館を見た後は、続けてドイツ鉱石博物館(Deutschas Mineralienmuseum)へ行った。こちらでは貴石に限定せず幅広い鉱石のコレクションが見られる。貴石博物館がイーダーにあるのに対し、鉱石博物館はオーバーシュタインにある。似たようなミュージアムといえば似たようなのだが、私は敢えて装飾品としての観点を前面に出している前者を美術館、より学術的な後者を博物館と訳してみた。美術館も博物館もドイツ語ではMuseumなのだけれど。
建物は貴石美術館よりは地味
特に説明することもないので今回もほぼ画像のみで紹介することにする。
巨大な結晶が並べられた展示室。多くはブラジル産のもの。
このスモーキークオーツはなんと2トンもある
古い鉱石研磨作業用の作業台。首を研磨機の方へ向け、窪みにお腹をつけてうつ伏せの姿勢で腕を前に伸ばし、研磨機の回転部分に鉱石を当てて磨いていたらしい。かなり不自然な体勢での作業だよね。
宝石の様々なカット
アクセサリー用にカットされた石よりも鉱物の結晶構造を眺めている方がワクワクする私なので、いろんな結晶が見られてとても楽しかった。
板状結晶のバライト
これは何だったか、メモ取るのを忘れてしまった
藍銅鉱
松茸水晶
亀甲石(セプタリア)
展示は全体的に見応えがあるが、なんといってもメノウコレクションが凄い。
メノウの部屋
展示の仕方はかなり地味。でも、一つ一つの石が素晴らしくて感動!全部写真を撮りたいと思ってしまうほど。気に入ったものの画像を並べていたらキリがないので、ほんのいくつかだけ。
まるで真珠のようなブラジル産のメノウ
メノウ化した珊瑚
デンドライトメノウ
パイライト入りのメノウ
美しい模様の涙型マンデル
シマウマ模様のジャスパー
一つのメノウから作った銘々皿(?)
パエジナストーンもある
蛍光鉱物のコーナー
鉱石を使った美術品の展示コーナーもとても良かった。
素敵なクリスタルのチェス盤。私はチェスはしないけれど、チェス盤にはとても惹かれる
鉱石を使って様々な人種を表したもの。これは現代の感覚では、、、、。
鉱物結晶コレクションの充実度では以前見たフライベルクのTerra Mineralia(記事はこちら)には敵わないものの、かなり満足できる博物館だ。そして、メノウコレクションは私が今までに見た中では最も素晴らしかった。
これでイーダー・オーバーシュタイン観光の鉱石編は終了。でも、イーダー・オーバーシュタイン観光自体はもう少し続く。
世界の希少な貴石が見られるイーダー・オーバーシュタインのドイツ貴石美術館
鉱石観光の第三弾。(第一弾と第二弾もよろしければどうぞ)
イーダー・オーバーシュタインに来たからには「ドイツ貴石博物館(Deutsches Edelsteinmuseum)」は外せない観光スポットだ。イーダー・オーバーシュタインのオーバーシュタイン側には「ドイツ鉱石博物館(Deutsches Mineralienmuseum) 」もあり、どちらを先に見るか迷ったが、イーダー側にある貴石博物館を先に見ることにした。
この立派なヴィラがドイツ宝石博物館の建物
3階建ての建物内部にはおよそ1万点の展示物が展示されている。イーダー・オーバーシュタイン周辺で採れた貴石はもちろんのこと、世界中の希少な貴石や貴石を加工した美術品を見ることができる。
入り口を入ってすぐの展示室に展示されているのはこの地方で採れた石英やメノウ。イーダー・オーバーシュタインがドイツの宝石産業の中心地となったのはメノウが豊富に採れるからだ。イーダー・オーバーシュタインにおけるメノウの埋蔵に関する最古の記録は1375年に遡る。

展示室の中央には研磨工場のモデルが置かれている。イーダー・オーバーシュタイン周辺では貴石やダイヤモンドの研磨業がドイツ国内では他に類を見ない発展を遂げ、1924年にはなんと2400 もの研磨業者が存在したという。
私はどちらかというとアクセサリー用にカットされ磨かれた石よりも原石の結晶構造を眺めるのが好きで、また、単色の石よりもメノウやジャスパーのように様々な模様を作り出す石が好み。メノウの断面の模様は抽象画のようで、いろいろな色の組み合わせや模様のものがあって魅力的である。山田英春氏の「奇妙で美しい石の世界」を読んでとても興味を持つようになった。だから、イーダー・オーバーシュタインでメノウを見るのをとても楽しみにしていた。
見事なメノウの数々
写真の陳列棚の上に一つの石スライスしたものが一列に並べられているが、一枚ごとに模様が少しづつ変化して行くのが面白い。
クローバーの葉のような模様のメノウ(ピンボケ失礼)
これはフィレンツェ産のパエジナストーン
ついメノウばっかり撮ってしまうが、その他の様々な宝石や人工石、鉱石を加工した美術品も数多く展示されている。
今まで意識したことがなかったトルマリンもステンドグラスのような模様が良いなと思った。
どうも私は同じ博物館でも美術館系だと言葉でうまく説明できない。美しいものがたくさんだからとにかく見に行ってとしか、、、。
次回はドイツ鉱石博物館を紹介します。
坑道内で貴石を間近に見られる観光貴石鉱山、Edelsteinminen Steinkaulenberg
イーダー・オーバーシュタイン鉱石観光の続き。
鉱石探しエクスカーションで水晶を収集するというアクティビティを楽しんだ翌日はイーダー・オーバーシュタイン近郊の観光貴石鉱山、Edelsteinminen Steinkaulenbergを見学した。この鉱山では遅くとも14世紀には鉱石採集が行われていたことがわかっている。19世紀後半に採算が取れなくなり閉鎖されたが、現在は観光鉱山として一般解放されている。ドイツには観光鉱山はいくつもあるが、岩肌で貴石を直接見ることのできる観光貴石鉱山は欧州全体でもここだけだということで(真偽のほどは定かでないが、テレビでそう紹介されていた)、とても楽しみだった。
こちらがEdelsteinminen Steinkaulenbergの受付け
内部の坑道の長さは約400メートル。ガイドさんに案内してもらって中を歩く。
入り口
内部は薄暗いが、ところどころライトアップされている
前の記事にも書いたように、このあたりの地層は溶岩流が流れて形成されたもので、岩石には溶岩内の気泡が冷えて固まった晶洞(ジオード)という空洞がたくさんできている。その空洞の内部に周辺の岩石中のミネラルが溶け出して結晶を作る。大きく成長した美しい結晶は装飾品や芸術品に加工された。この鉱山で採れるのは主に水晶、アメジスト、スモーキークオーツ、メノウ、ジャスパーだ。
岩肌のあちこちに結晶ができていて、それをこんな風に間近で見られるよ
アメジストや水晶の大きな結晶があちらこちらに
綺麗・・・・・
鉱脈が斜めに走っている。晶洞の涙型から溶岩の流れた方向がわかる。丸い側が頭で細くなっている方がお尻。
これはカーネリアン(Carnelian)という半貴石。カーネリアンのカーネは「肉」を意味するCarneに由来する(チリ・コン・カルネのカルネね)。確かに生肉っぽい色をしている。肉といえば、イーダー・オーバーシュタインの名物料理はシュピースブラーテン(Spießbraten)という肉料理である。シュピースというのは串のことで、肉の塊を串に刺して火で炙ったもの。全国で食べられる普通のドイツ料理だと思っていたのだが、イーダー・オーバーシュタインが発祥地だそうだ。19世紀に入りイーダー・オーバーシュタインの貴石採掘業の採算が取れなくなると、多くの人が南米へ移住した。ブラジルで大きな鉱脈を掘り当て、石を持ってイーダー・オーバーシュタインへ戻って来たが、ブラジルで知った炭火焼の肉の美味しさが忘れられず、故郷に戻ってもブラジル式串焼きが定番料理となった。余談だが、イーダー・オーバーシュタイン市は西のイーダーと東のオーバーシュタインが合併してできた町で、シュピースブラーテンの作り方はイーダーとオーバーシュタインで少し違うらしい。また、串焼きと言いつつ串に刺していないこともある。
採石が行われていた当時の鉱夫が使っていたハンマーとランプ。コツコツと岩を叩いて坑道を掘って行った。ライトアップされているとこの程度には明るいのだけど、、、
ランプの灯だけだとこんな感じ。ほとんど何も見えないに等しい。手探りでどこにあるかわからない石を求めてハンマーを打つとは、あまりに骨の折れる作業だ。鉱山の中は湿気が酷く、粉塵を吸い込んだりして健康を害する鉱夫が多買った。当時の鉱夫の平均寿命は35歳くらいだったという。
ところで、内部が結晶で完全に満たされている晶洞はドイツ語でMandelと呼ばれる。
メノウのMandel
それに対し、結晶が内部を完全に満たしておらず、中心に空洞があるものをドルーズ(Druse)と呼ぶそうだ。
これはジャスパー(碧玉)。メノウと同様に微細な石英の結晶が集まったものだが、不純物を多く含むため不透明となる。
鉱山出口に置かれた石アート
イーダー・オーバーシュタイン鉱石観光はまだ続く、、、、。
(おまけ。以下はドイツ語の関連テレビ番組です。)