かねてから行きたいと思っていたドイツ南東の町、バウツェン(Bautzen)へ行って来た。そこにあるソルブ博物館(Sorbisches Museum Bautzen)を訪れるためだ。ドイツで今もなお独自の文化を保つスラブ系の少数民族、ソルブ人に関する博物館である。

ソルブ人の存在は以前住んでいたドイツ西部から現在の住まいブランデンブルク州に引っ越して来てから初めて知った。ベルリンから電車に乗って南東方面へ移動すると、いつからか駅名がドイツ語と見慣れない別の言語の二言語表示になるのに気づいた。ポーランドとの国境に近い地域なのでポーランド語を併記しているのだろうか?と思ったら、その見慣れない言語はソルブ語だという。ブランデンブルク州とその南のザクセン州にまたがってラウジッツと呼ばれる地域があり、その地域にはドイツ人とは言語や文化を異にする少数民族、ソルブ人が生活しているそうだ

ベルリンから南東100kmほどのところにシュプレーヴァルト(Spreewald)という湿地帯があるが、景観がとても美しく、首都から気軽に行ける観光地としてとても人気である。シュプレーヴァルトにはソルブ人の集落があり、Lehdeの野外博物館Freilandmuseum Lehdeをはじめとする民族学博物館でソルブ人の伝統文化を知ることができる。Lehdeの博物館へは10年ほど前に初めて訪れ、特徴的な民族衣装やカラフルで繊細な模様付けをしたイースターエッグなどの手工芸品が素晴らしく魅力的で気に入った。シュプレーヴァルトのソルブ文化については紹介記事や動画がたくさんあるので、今回はバウツェンのソルブ博物館について書きたい。

ざっくりと説明すると、ソルブ人というのは6世紀から10世紀にかけてカルパチア山脈の北方から現在のドイツ東部へ移動して来て定住したスラブ系民族の末裔である。当時、20ほどの異なる部族が入って来たとされ、現在使われている「ソルブ人(Sorben)」という呼称はそのうちの一つのSurbi族に由来すると考えられている。スラブ系民族は40,000km2ほどの領域に定住して農耕や牧畜、貿易を営んでいたが、12世紀以降の東方植民により西部から大量のドイツ人が移住して来て以来、少数派となった彼らは次第にドイツ文化の中に吸収されて行った。スラブ系民族の居住範囲がどんどん狭まり人口が減っていく中、ラウジッツ地方では彼らの独自文化が比較的良く維持された。長い歴史の中で差別や断続的な弾圧を経験しながらも「ソルブ人」としてのアイデンティティを保ち続けている人々がいる。ラウジッツ地方はブランデンブルク州に属する下ラウジッツ(Niederlausitz)とザクセン州に属する上ラウジッツ(Oberlausitz)に分かれ、同じソルブ人でも言語が異なるそうだ。下ラウジッツで話されるソルブ語(下ソルブ語)はポーランド語に近く、上ラウジッツのソルブ語である上ソルブ語はチェコ語に近い。上で紹介したシュプレーヴァルトでは下ラウジッツのソルブ文化に触れることができるが、それとはまた異なるという上ラウジッツのソルブ文化にも興味があった。今回訪れたザクセン州南部のバウツェンは上ラウジッツのソルブ文化の中心地である。

バウツェンは「塔の町」というキャッチフレーズを持ち、中世の市壁が残る美しい町。観光地としても魅力的だけれど、ここでは町の紹介は飛ばしてソルブ博物館へ直行しよう。

またしても外観の写真を撮るのを忘れてしまった(博物館へ行くときには常に前のめり、、、)。

受付の女性はご本人が言うには「純粋なソルブ人」だそうで、母語はソルブ語、ドイツ語は第二言語として話しているとのこと。ソルブ人の民族代表機関であるラウジッツ・ソルブ人同盟(Domowina)の発表によると、現在、ソルブ語を話す人はドイツに約6万人いるとされる。もちろん「話す」の程度は人により様々だろうけれど、受付の方のように「母語はソルブ語で、家では毎日ソルブ語を話しています」というほどのレベルでソルブ語を運用している人もいると初めて知り、少し驚いた。

ソルブ博物館は3階建てのなかなか大きな博物館である。全体として、民族学的な内容よりもドイツにおけるソルブ人の歴史に重点を置いた展示だった。ドイツ人の東方入植以来、支配者が移り変わる中、ソルブ人がどのようにして民族のアイデンティを形成しそれを守って来たか、その流れがわかるようになっている。

 

ソルブ人の文化として最も目につきやすいのは特徴的な民族衣装だ。現在は日常着ではなくお祭りなど特別な場で着用されるソルブの民族衣装は東欧を感じさせる色合いやデザインで、繊細な魅力に富んでいる。そして、同じソルブ人の民族衣装でも地域によってかなりの違いがあるようだ。

これはSchleife村のあたりで着られていた民族衣装

こちらもSchleifeのもの。右側は花嫁衣装

左側のカラフルなビーズを使った衣装はHoyerswerdaのソルブ人集落の衣装。右はコットブス周辺の集落のもの。地域によってデザインや色使いがかなり異なるけれど、基本色が象徴するものは共通で、赤は若さや力を表、緑は成熟を表す。花嫁衣装には緑色が使われる。黒は祝い事の色、白はかつては喪の色だった。

左からBautzen、Nochten、Muskauの衣装

顔をレースで覆った女性の衣装はクリストキント(Christkind)の衣装。クリストキントというのはドイツでは一般的にはクリスマスの天使を意味する。クリスマス市などでよくお目にかかる背中に羽のある白と金の衣装を着た若い女性がそれ。しかし、ソルブの風習はそれとは異なり、ベールで顔を隠した女性が付添人とともに集落の家から家へ人々を祝福して回る。クリストキントにレースの手袋をはめた手の甲で3回顔や頭を撫でてもらうと神の恵みが得られるそうだ。クリストキントはベシェールキント(Bescherkind)とも呼ばれ、衣装は地域によって違う。上の写真はHoyerswerdaのもの。

こちらは下ソルブのクリストキント(ベシェールキント)の衣装で、Lehdeのソルブ・クリスマス市で遭遇した。クリストキント役には翌年結婚予定の未婚女性が選ばれるが、誰がクリストキントなのかは秘密で、そのため本人は口をきいてはならないらしい。このクリスマス市では私も手の甲で顔を撫でてもらったので良いことがあるかな。

さて、衣装を紹介しているとキリがないのでこれくらいに。

ソルブ人は6世紀以降、現在のドイツの国土にずっと住み続けて来たが、ソルブ人の国家が存在していたわけではない。ドイツ人に混じってスラブ系民族の集落が点在し、それぞれの集落には少しづつ異なる文化や風習があったようだ。ドイツ人は自分たちとは異なる言葉を話す彼らをヴェンド人(Wenden)と呼んだ。差別的なニュアンスを含む呼称なので、現在はソルブ人という言葉が使われているが、ヴェンドという言葉は現在も残っていて、ニーダーザクセン州にはヴェントランド(ヴェンド人の住む土地)という意味の地方がある。このヴェントラントがまた興味深いのだ。住居が円形に並ぶルンドリンクという特徴的な形態の村々が残っている。それらの集落を作ったヴェント人はすでに死滅したポラーブ語を話すスラブ系民族で、現在のソルブ人とどのくらい言語や文化が似ていたのかわからないが、このバウツェンのソルブ博物館の展示にもドイツ人が流入する以前のソルブ人の集落はルントリンクが多かったと書いてあった。(ルントリンクを訪れたときの記事はこちら

自然宗教や祖先信仰を持ち、農耕や牧畜を営んでいたソルブ人はドイツ人の入植後、キリスト教を信仰するようになり、ドイツ人に同化していったが、ソルブ人の人口密度が高かったラウジッツ地方では比較的独自文化を保ちやすかった。特に宗教改革後もカトリックの上ラウジッツは周辺のスラブ系の国との結びつきが強く、民族的要素をより強く残しているようだ。

支配者が移り変わる中でソルブ語の使用は度々禁じられたが、19世紀のパン=スラヴ主義運動の高まりの中でソルブ人の市民文化が開花する。ソルブ語の文法が整備され、それを基盤としてソルブ文学が発展した。1871年からのドイツ帝国期には再び強い抑圧を受けることになるが、ソルブ人の青年運動が活発化し、ラウジッツ各地にソルブ文化サークルが発足、1912年にそれらの上部組織としてドモヴィナ(Domowina)が設立された。

ソルブ語の新聞

しかし、ナチスが政権を取るとソルブ人組織は解体させられ、ソルブ語由来の多くの地名が「ドイツ語らしい」地名に書き換えられ、社会生活のあらゆる場面においてソルブ語の使用が禁じられた。

第二次世界大戦後、東ドイツを占領したソ連はソルブ人に対し、社会的・文化的な保護措置を取った。ソルブ語の新聞の創刊やソルブ語によるラジオ放送の開始、ソルブ語教師の要請及びソルブ語で授業をする学校の設立などが行われ、そうした保護政策はドイツ民主共和国(DDR)政権に引き継がれた。

DDR時代に設置されたソルブ語授業実施校。●印はソルブ語の授業実施校、■はソルブ語で授業を行う学校、▲はソルブ人ギムナジウム

しかし、手厚い少数民族保護政策のように見えた措置は必ずしもソルブ人自身が求める言語と文化の保護を主眼に置いたものではなく、ソルブ人を社会主義の理想と目標の担い手として取り込んでいこうとするものだった。1950年代にラウジッツ地方で褐炭の採掘が始まると、多くのソルブ人は強制移住させられ、46のソルブ人の村及び27の集落が消滅した。

東西統一後のドイツではブランデンブルク州、ザクセン州それぞれのソルブ人保護法のもと、ソルブの民族文化が保護されている。現在、ソルブ人居住区として定義されている地域は上ラウジッツに42箇所、下ラウジッツに27箇所ある。それらの居住区ではお祭りなどの文化的催しが定期的に行われているだけでなく、幼稚園もソルブ語のみ、もしくはドイツ語とソルブ語のバイリンガルのクラスが設けられている。ミサをソルブ語で行う教会もあるそうだ。

以上、大いに端折った紹介になってしまったが、これまで存在は知っていたもののどのような文化と歴史を持つのかは全く知らなかったソルブ人について知ることができ、とても興味深かった。ソルブ人の歴史についてもうちょっと詳しく知りたい方にはドモヴィナ出版から出ているこちらの本がお薦めだ。

Kurze Geschichte der Sorben

ドモヴィナ出版

ソルブ語で書かれた書籍やソルブ関連の書籍がぎっしりと並べられた店内

1冊2ユーロと気軽に購入できるソルブ文化の本。これらも読みやすく、お薦め。

ソルブ関連スポットマップを作ったので、ご興味のある方はどうぞご利用ください。

 

まにあっく観光マップの第8段が完成した。今回作ったのは「ドイツ観光鉱山・鉱業マップ」だ。古くから鉱山業の盛んなドイツには鉱山業に関する博物館がたくさんある。また、現在は採掘が行われていない旧鉱山の多くが観光鉱山として整備されている。観光鉱山では坑道を歩き、内側から観察することができる。炭鉱から銀・銅鉱山、貴石鉱山など、種類もとても豊富だ。全国に一体どのくらいの数があるのだろうか?とふと思い、マッピングすることにしたが、その多さは想像を超えていた。

観光鉱山と鉱山業博物館を登録したけれど、両者を厳密に分けるのは難しかった。観光鉱山が博物館を併設しているところ、博物館の一部として鉱山を見学できるところ、鉱山とは独立した博物館、技術博物館の一部に鉱山業の展示があるところなど様々だ。観光鉱山を併設しない博物館と展示がメインのスポットは博物館アイコン、それ以外は炭鉱アイコンで表示。例によって、赤色は私がこれまでに訪れたスポットだ。

カテゴリーは採掘される資源の種類別に「石炭・褐炭・石油・天然ガス」「金・銀・銅」「塩」「粘板岩」「石灰石・チョーク・砂岩」「鉄」「その他の鉱石(スズ、亜鉛、鉛、コバルト、ニッケル、黄鉄鉱、ウラン、石英、石膏、蛍石、マンガン、黒鉛、アメジストなど)」「鉱業全般」の8つ。

カテゴリーごとに表示すると、ドイツにおける特定資源の分布がわかる。たとえば炭鉱があるのは、ルール地方やハルツ地方(主に石炭)、ラウジッツ地方(褐炭)、南バイエルン(ピッチ炭)。

アイコンを押すと、そのスポットの画像が出るので、観光鉱山ってどんな感じ?と気になる方はいろいろ押してみてね。この画像は南バイエルンの風光明媚な避暑地、ベルヒテスガーデンの岩塩坑のもの。ここは私が一番最初に見学した観光鉱山で、トロッコにまたがって坑道を滑り台のように滑り降りるという体験がとてもエキサイティングで気に入った。そもそも私はこれがきっかけで観光鉱山が好きになったのだ。

こちらはベルリン近郊の石灰石採掘場がオープンエアミュージアムになったMuseumpark Rüdersdorf。ここではパーク内で石灰窯などの設備や展示がみられる他、隣接する石切場をジープで回るツアーもある。さらには化石採集もできるという充実ぶりだ(見学記録はこちら)。

そしてこちらは、最近行って来た宝石の町、イーダー・オーバーシュタイン近郊にある貴石鉱山 Edelsteinminen Steinkaulenberg(記事はこちら)。

 

この通り、ドイツの観光鉱山はよりどりみどり。地下道や洞窟を歩く鉱山見学は冒険っぽくてそれ自体が楽しいのだけれど、実は鉱山はいろいろなものの要となる分野でもある。人類の歴史は資源獲得・活用の歴史でもあったわけで、鉱山は技術史や政治史、社会文化史に繋がっている。そして、地下を掘れば化石が出て来たり、遺跡が出て来ることもあるので古生物学や考古学とも大いに関係があるのだ。

と、こう書いても鉱山の魅力は伝わりにくいかもしれない。少しでも楽しさを知ってもらえたらいいなあと思い、ポッドキャスト「まにあっくドイツ観光裏話」で鉱山の何がどういう風に面白いかを語ってみたので、よかったら聴いてください。

まにあっく観光裏話 7 鉱山は面白い

 

 

Googleマイマップで作るまにあっく観光マップの7つ目ができた。今回は在独日本人向けに実際的で超有用な情報サイト「ドイツ情報生活百科」を運営されているノラさん(@g_item)がドイツ国内の航空関連の博物館リストを提供してくださったので、それをベースにドイツ航空関連スポットマップを作ってみた。

カテゴリーは「博物館」「飛行クラブ」「レストラン」の3つ。

まず、博物館を見ていこう。

確認できたのは全国で44箇所。思ったよりたくさんあった。純粋な航空博物館の他に技術博物館の中に航空関連の展示コーナーがあるものや乗り物博物館も含めている。航空分野は私にとってほとんど未知の世界で、これまでに4箇所しか訪れていない。

そのうちの一つ、アンクラムのオットー・リリエンタール博物館はとてもオススメ!以下の記事で紹介している。

過去記事: 「ライト兄弟にインスピレーションを与えたドイツの航空パイオニア 〜 アンクラムのオットー・リリエンタール博物館

そして、ベルリンのガトー地区の空港にある軍事博物館の分館(Militärhistorisches Museum Flugplatz Berlin-Gatow)では、様々な戦闘機を見ることができる。

過去記事: 「ベルリン軍事史博物館

他にも気球博物館ヘリコプター博物館ツェッペリン博物館グライダー博物館など特定分野に特化した博物館もたくさんあり、充実している。

博物館をマッピングしたついでにドイツ全国の飛行クラブもマッピングしようと思ったが、検索してそのあまりの数の多さに仰天してしまった。ノラさんからドイツはスカイスポーツがとても盛んで、アマチュアの同好会もたくさんあると聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。一体全国にいくつのクラブがあるのかわからないが、グライダーだけでも相当な数だ。(グライダーの同好会をマッピングしたものがあったので、ご興味のある方はこちらをどうぞ)

いくらなんでも多すぎるので飛行クラブをドイツ航空関連スポットマップに登録するのは諦めたが、ウェブサイト上に「試乗可能」と明記されているクラブをいくつか登録した。ドイツでではないけれど、私は休暇の際にセスナ機に二度、ヘリコプターに一度乗ったことがあり、どちらもすごく感動的だったので機会があればまた乗ってみたいと思っていたところ。

さて、マップの3つ目のカテゴリー「レストラン」だが、スカイスポーツのできる飛行場にはレストランやカフェを併設しているところがある。先日、イーダー・オーバーシュタインへ旅行に行ったとき、地元の人が「飛行場のレストランが人気ですよ。料理も美味しい」と薦めてくれたので行ってみた。それがとても気に入ったのだ(ウェブサイトはこちら

飛行場に面したレストランのテラスで飛行機が離着陸するのを眺めながら食事ができる。ちょうど夕暮れの時刻だったので素晴らしかった。クラブの会員になってスカイスポーツをしなくても、食事をしながら見学するだけでもかなり楽しいと思う。

そしてこちらは飛行場のレストランではないが、バルト海沿岸の町、ロストックにあるパイロットバー、Schallmauer。経営者は夫と私の古い友人で、退官した空軍パイロットである。店内パイロットグッズだらけのかなりマニアックな飲み屋で面白いと思う。

 

以前、ニーダーザクセン州のニーンブルクで警察博物館に立ち寄った。それがなかなか面白かった(記事はこちら)ので、他の州の警察博物館も見てみたいなと思ったのだが、そのまますっかり忘れていた。先日、仕事でベルリン市の少年犯罪について専門家から興味深い話を聞く機会があり、ベルリン警察史博物館(Polizeihistorische Sammlung)の存在を思い出したので今週、行って来た。

警察史博物館はベルリン、テンペルホーフ地区の警察署本部の建物内にある。

入り口で身分証明書を見せて警察署の建物の中に入り、地下の展示室へ。

地下の博物館入り口

なんと入場料は1ユーロ。

展示室は2つあり、手前の部屋ではプロイセン時代から第二次世界大戦終戦までの警察史をパネルで展示している。奥の部屋に戦後のベルリン警察史が続く。開館時間は15:00までで、入館したのは13:00ちょっと過ぎだった。2時間あれば十分だろうと思ったのだが、説明文の量がとんでもなく多くて、ゆっくり読んでいたら時間が全然足りなかった!

ベルリンの警察史は19世紀初頭のプロイセン王国陸軍親衛憲兵隊(Königliche Landgendarmerie)に始まる。Gendarmerieはフランス語(gens d´armes)からの借用語で、ドイツ語に直訳するとWaffenleute(武器を持った人たち)の意。当初、憲兵隊は刑事警察と保安警察の両方の役割を担っていた。しかし、プロイセンはナポレオンとの戦いに敗れ国家滅亡の危機に陥ったことで、諸制度の大々的な改革の必要に迫られる(プロイセン改革)。その流れの中、1848年、王立国家警察(Königliche Schutzmannschaft)が結成された。

1848年結成当時の王立国家警察(シュッツマンシャフト)の制服。

さらに、1854年に警察改革が行われ、王立国家警察に水上警察(ベルリン市内や周辺には川や湖が多い)や騎馬隊、福祉警察など7つの部門が置かれ、警察機能が分化していく。それぞれの役割に応じた制服が導入され、警察官の養成が行われるようになった。1904年には初の警察犬も導入される。

プロイセン警察の制服いろいろ

治安秩序の維持という警察の機能は社会の変化の中で少しづつ形を変え、活動の幅を広げていった。19世紀半ばには産業革命によって社会構造や民衆の生活が大きく変容する。ベルリンの人口は急増し、多くの人が劣悪な労働・生活環境に置かれた。状況の改善を求め労働者らが社会運動を起こすようになると、集会や禁じられた発行物を取り締まることも警察の重要な任務となっていった。

やがて第一次世界大戦が勃発すると、警察は「非常時」であるとして市民生活の監視に乗り出す。娯楽を制限し、売春行為を取り締まり、代替食品の流通や売買を監視した。混乱の中で蔓延する少年犯罪を取り締まる必要性も生じた。そして、1918年のドイツ革命の後、王立国家警察が解除されると、混乱期における紆余曲折を経て1919年、治安秩序警察は治安警察(Sichertheitspolizei、略称SiPo)と秩序警察(Ordnungspolizei、略称OrPo)に二分された。しかし、1920年のさらなる改革で秩序警察は廃止され、新たに治安秩序警察(Schutzpolizei、略称SchuPo)が創設される。ここまでのベルリン警察史、かなり複雑で近代史が頭に入っていないと把握するのが大変である。治安秩序警察とは別に、1872年に導入された刑事警察(Kriminalpolizei、略称KriPo)はそのまま機能を保持し続けた。

時系列で展示を読み進んで行くと、やがてドイツ史において避け流ことのできない時代、ナチス時代に突入した。ナチス政権下では秘密国家警察(Geheime Staatspolizei、通称ゲシュタポ)が発足し、刑事警察と統合されて保安警察(Sicherheitspolizei)となる。似たような用語が多くて大変ややこしいのだが、このときドイツ警察長官に任命されたハインリヒ・ヒムラーはこの保安警察と秩序警察を合わせたドイツの警察機構全体を掌握することとなる。そして警察内の人員整理により要職はナチスの親衛隊や突撃隊のトップで固められていく。

いつものことだけれど、この時代についての資料は読むのがとても辛い。

ナチス政権下の警察による青少年への洗脳の様子

1つ目の展示室での展示は第二次世界大戦終戦時までで、続きは奥の展示室にまとめられている。戦後、ベルリン市は連合国により分割統治されたが、その際に警察機構も再編成されることになった。新しい警察署はソ連の占領区域に置かれ、ソ連はベルリンの警察機構に対し大きな影響力を持つことになったが、ベルリン市の支配を巡って英米仏とソ連の間の対立が深まり冷戦が始まるとベルリンは東西に分断され、警察機構も二つに分かれてそれぞれの路線を歩むことになる。

英米仏占領区域で使われた警察グッズ

ベルリンが東西に分かれ、ドイツ統一により再び一つになるまでの間の警察史もあまりに濃い。東ベルリンでは秘密警察・諜報機関、シュタージが創設されて市民を監視し、西ベルリンでは学生運動やテロ、住居の不法占拠など警察が大々的に出動する事態が次々と起こった(と、一言でまとめるのは乱暴すぎるけれど、この時代についての資料を紹介するとそれだけで1つの記事になってしまうので)。晴れてドイツが再統一されると、今度は混乱の中でベルリンの治安が急激に悪化した時期もあった。プロイセン時代に初めて警察機構が誕生して以来、ベルリンは激しい社会の動乱と体制の変化を繰り返し乗り越えて現在に至るわけで、その中で警察が果たして来た役割(良いことも悪いことも含め)の重みを考えると、同じ警察でも他の州の警察とは事情が異なるとしか言いようがない。

 

展示室では警察史のパネルの他、警察の道具やベルリンで起こった事件に関する展示物も見られる。

ベルリン警察帽コレクション

警察官のパーティ用ユニフォーム

1937〜1945頃に使われていた法科学鑑定の道具

不法侵入の道具

様々な事件の犯行に使われた凶器

1995年ベルリン、ツェーレンドルフ地区で起こった銀行強盗事件に関するコーナー

ベルリンの歴史に触れるには多くの切り口があるが、警察史から考えるベルリンも面白い。以前行ったベルリン・スパイ博物館の展示に通じるところもあるので、そのときに書いた記事を貼っておこう。

ベルリンスパイ博物館

 

久しぶりに観光マップを作った。

今回は「オスタルギー関連スポットマップ」。オスタルギーとはなんぞや。ドイツはご存知の通り、1989年まで西ドイツと東ドイツに分かれていた。ベルリンの壁が崩壊し、ドイツが再統一されてからもう30年近くになる。旧東ドイツ(DDR)に生まれ育った人たちの中にはDDR時代の生活文化を懐かしく思い出す人が少なくないようだ。「オスタルギー(Ostalgie)」とは東を表すOstとノスタルジー(nostalgy)とを合わせた造語である。

チープなDDR製品には素朴さや独特の味わいがあり、旧東ドイツ育ちでない人たちの中にもファンがいる。また、DDRの生活文化に触れることが冷戦の時代について知るきっかけになることもある。そこで、オスタルジーを感じられるスポットをまとめてみた。

東ドイツにはDDR時代の生活文化や社会文化について展示をしている博物館が数多くある。

観光客にとって最もメジャーなのはベルリンにある「DDR Museum」や「Museum in der Kulturbrauerei」でどちらも興味深いが、個人的オススメはアイゼンヒュッテンシュタット(Eisenhüttenstadt)の「Dokumentationszentrum Alltagskultur der DDR」。

DDR製の乗り物博物館もたくさんある。国民車トラバントの博物館はもちろん、DDR製の二輪車や電車、作業用車両もレトロなデザインで、眺めるだけでも楽しい。

 

関連動画を見つけたので貼っておこう。

DDR時代を彷彿とさせるカフェやレストラン、ホテル、映画館もいくつかある。(全ては網羅していないと思うので、登録したスポット以外のものをご存知の方は「こんな場所あるよ」と教えて頂けたら嬉しいです。追加します。

このブログではショッピング情報は敢えてシェアしていないけれど、今回は例外的にDDRグッズの買えるショップも登録した。その他、東ドイツには街並みにDDRの雰囲気が今なお濃厚に残っている場所がある。

上でも紹介したアイゼンヒュッテンシュタットの他、

マクデブルク(Magdeburg)の中心部や

ホイエルスヴェルダ(Hoyerswerda)の駅前、東ベルリンのカール・マルクス通りなど。

今回登録したものの他に、東ドイツにはDDR時代の政治犯の取り調べ所の建物を資料館にした場所や東西ドイツの国境検問所ミュージアムなど、DDR時代の政治状況や冷戦について深く学ぶことのできるスポットも非常に多くある。とても興味深いがそれらはオスタルギーとは切り口が違うので、今回のマップは生活文化を軸に関連スポットを集めた。

結構見てきたつもりだけれど、マップを作ることでまだまだ見たい場所がたくさんあることがわかった。これから少しづつ訪れたい。

 

イーダー・オーバーシュタインでの休暇の最終日。旅の目的だった鉱石観光は無事終了し、中途半端に時間が余ったので近郊のブンデンバッハ(Bundenbach)にあるケルトの集落、アルトブルク(Altburg)へ行ってみることにした。1971 年から 1974 年にかけブンデンバッハの丘の上に紀元前170年頃に建設され、ローマ軍に占領されるまでケルト人が生活を営んでいだ集落の遺跡が見つかった。その集落の一部が再建され、オープンエアミュージアムになっている。

ケルト集落は観光鉱山Herrenbergから5分ほど歩いたところにある。鉱山入り口でチケットを買うと、受付の女性に「主人がミュージアムを案内します。バイクですぐに行くので先に行っていてください」と言われたので、山道を歩き出す。

斜面を少し登ると台地に出た。柵に囲まれた藁葺きの建物がいくつか並んでいる。それがミュージアムだ。

ガイドさんがバイクに乗ってやって来た。アルトブルクのケルト集落はおよそ1.5ヘクタールの台地に建設され、周囲は厚い壁と溝に囲まれていたことが明らかになっている。最も高い場所には有力者が住んでいた。その一角に5棟の住居と5棟の倉庫の建物が再建されている。

この台地で発見されたのは地面に開いた掘立柱を立てるための穴と柵溝だ。全部で3500ほどもあった穴の位置から当時の住居の配置を計算し、建物を再建した。この集落はカエサル率いるローマ軍に占領され、ローマ帝国の領土に組み込まれることになったが、その際に破壊行為が行われた形跡はなく、徐々に衰退し消滅したと考えられている。

左側が倉庫の建物。右が住居

メインの建物が展示室

オリジナルの地下室が残っている。右側に3段ほどの階段が見える。この地下室の用途は明らかでないが、宗教儀式が行われたのではないかと考えられている

亜麻から繊維を取り出す道具(Flachsbrecher)

このミュージアムでは毎年夏にケルト祭りが催される。またその他のイベントなども通じ、ケルト文化を伝えている。

ケルト文化に典型的とされる安全ピン

別の建物の内部。えっ、普通に住めそうじゃない、ここ?と思ったら、イベント時などに運営者が寝泊まりすることがあるそうだ。テーブルや椅子はケルトの資料に基づいて作製されたものだけれど、奥のベッドはIKEAのものだとか。

パンを焼く竃

ミュージアムの閉館時間が近づいていたのでガイドさんはさっさと案内を終了したかったようで、早口のさらっとした説明で終わってしまった。ギリギリに行った私たちが悪いが、もうちょっと詳しく聞きたかったなあ。

というわけであまり多くはわからなかったけれど、ドローン動画を撮影したのでケルト人が生活していたのはどんな場所なのか、雰囲気を感じてもらえれば。

ケルト関連の観光スポットはマンヒンクのケルト・ローマ博物館に続いてこれがまだ2つ目。これからもっといろいろなケルト関連スポットを訪れたい。

ケルト集落から西方向を眺めると、中世の城、Schmidtburgの廃墟が見える。以下はおまけの写真とドローン動画。

上から見たところ